(増補版)353E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年6月〜1878年8月)

題:(増補版)353E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年6月〜1878年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1878年6月10日、陸奥宗光らが、挙兵陰謀で逮捕された。
  紀州派の大立者である元老院幹事の陸奥宗光は、
 明治10年西南戦争の勃発の時、西郷軍に通謀(つうぼ
 う、相手方とあらかじめ示し合わせて事をたくらむこと。
 共謀)したという疑いと、
  土佐の立志社の林有造、大江卓、岩神昂らと共謀して、
 政府顛覆クーデターを計画した・・として、1878年(明
 治11年)8月21日、禁固5年の刑に処せられた。
  1877年(明治10年)2月、鹿児島の私学校党が決起した
 という報道が東京に届いた時、
  西郷隆盛の去就がまだはっきりせず、廟議は区々に分
 かれて定まるところがなかった。
  この時、最初から堂々と討薩論を主張したのが、内閣
 顧問の木戸孝允と、元老院幹事の陸奥宗光の二人だけだ
 った。
  「今日の急務は、速やかに廟議を一定して、征討の帥
 を出すことである。
  すでに、私学校党が、武器をとって起った以上、政府
 たるものは、これが討伐に躊躇してはならない。
  佐賀の乱萩の乱の前例もあることである。
  よろしく英断果決全力をつくしてこれを討伐しなけれ
 ばならない」・・と、
  右大臣・岩倉具視や参議・大久保利通に、その説を鼓
 吹した。
  また、この機会を利用して内閣改造をはかり、木戸を
 説いて京都行在所の廟議を動かし、
  板垣退助後藤象二郎の二人を入閣させて、
  この際、薩長独裁の風を改め、内政を革新し、挙国一
 致で西郷にあたるべきだと主張した。
  やがて、西郷出兵の知らせが京都に入り、1877年2月19
 日、政府はついに西郷征討の詔勅を発した。
  西南戦争の戦局は、はじめ必ずしも政府側に有利では
 なく、
  政府は、徴兵だけでは足りないので、北海道の屯田兵
 まで動員したが、それでも足りず、
  各県の士族を募集して、出征させることになった。
  陸奥は、紀州に赴いて壮丁を募集し、自らこれを率い
 て征討軍に参加しようと決意し、
  岩倉を説き、伊藤博文大久保利通に会見してその応
 諾を受けようと東京から海路神戸に向かった。
  しかし、陸奥の建議は、伊藤にも大久保にも取り上げ
 られなかった。
  「行在所軍人取扱」(官軍の参謀長兼兵站総督)の鳥
 尾小弥太は、はじめ一切募兵には反対で、常備兵だけで
 征討すべきであるという意見だった。
  維新の頃、鳥尾は、木戸の内意を受けて大阪の陸奥
 邸に寄宿していた。
  陸奥は、鳥尾にすすめて紀州藩に仕官させ、戊兵副都
 督として兵制の改革にあたらせた。
  今は、中将となったその鳥尾が、陸奥の建議に大反対
 したのである。
  鳥尾は、「陸奥に旧紀州藩兵の募集を任せるのは危険
 千万である」。
  「陸奥は、一世に傑出する手腕を有する人物である」。
  「もし彼に、紀州の兵力を任せたならば何をするかわ
 からない」と、密かに、伊藤と大久保を説き、
  当時、陸奥の反対派だった紀州藩士・三浦安を起用し、
 旧藩主・徳川茂承を説き、
  機先を制して、紀州の壮兵募集に着手させた。
  この藩閥政府の陰険なやり方には、さすがに、ものに
 動じない陸奥も激昂した。
  かくして、陸奥の計画した諸策はことごとく敗れ去り、
 陸奥は不平満々としてその日を送っていた。
  陸奥が、大江卓にすすめられて、土佐派の政府顛覆(
 てんぷく)の陰謀に関係するに至ったのはこの時だった。
  土佐の立志社の一派、林有造や大江卓の一派は、西南
 戦争に乗じて、武力をもって大久保専制政府の顛覆をは
 かり、
  国会開設の目的を達成しようとクーデターを計画した。
  この機に乗じて、新内閣を組織し、立憲政治を実現し
 ようというのである。
  大江らは、陸奥が、紀州藩の戊兵都督(総司令官)で
 あったことに着目し、
  なんとかして、陸奥をこの企てに加担させようと、陸
 奥を訪問して、土佐挙兵の秘密を打ち明けた。
  陸奥は、大江と黙契して、大阪鎮台襲撃の策を決した。
  また、土佐の挙兵の準備と同時に、紀州においてもこ
 れに応じる計画を定め、
  密かに、募兵の計画を進めた。
  更に、挙兵の準備と同時に、大江および岩神昂とはか
 り、重臣暗殺の準備を始めた。
  そのリストに、大久保利通伊藤博文に次いで、征討
 軍総参謀長・鳥尾小弥太の名を加えた。
  一方、林有造は、上海から買い込むスナイドル銃の代
 金を作る為の金策に奔走していたが、
  うまくいかず、
  1877年4月14日、官軍の援軍が、熊本城に達して、西郷
 軍の形勢が怪しくなってきた。
  戦局の推移と共に、高知の立志社では、戦機すでに去
 るとみて挙兵中止を唱えるものも出てきた。
  6月1日、高知に戻った挙兵派の林有造は、ありあわせ
 の銃と同志で決起しようと、いまさらのように拙速主義
 を唱えたが、
  1877年6月4日、政府は、高知の小池県令と相談の上、
 中岡商店に貯えられていた小銃1500挺と、火薬を陸軍省
 買上げの名義で押さえ、神戸に持ち去った。
  これより前、薩軍が熊本進撃の最中、桐野利秋は、中
 央の形勢を探らせるため鹿児島属、土佐人の三浦介雄を
 高知に向かわせた。
  三浦は、古勤王党の桑原兵八、左田家親などに面会し
 て桐野の内意を伝え、彼らは薩軍に内応することを約し
 た。
  この時、三浦は、立志社には何ら相談も働きかけもし
 なかったので、立志社のほうで、藤好静、村松政克を密
 使として薩軍に遣わした。
  二人は、1877年5月16日、江代の本営で、桐野利秋に面
 会して立志社の意向を伝え、
  1877年5月26日に高知に帰って来た。
  この事がやがて政府の密偵によって洩れ、捕縛の第一
 着手となった。
  1877年6月14日、藤好静、村松政克を捕縛。
  1877年6月25日、岩神昂、川村矯一郎を大阪で拘引(こ
 ういん、人を捕らえて、無理に連れて行くこと)。
  1877年8月8日、林有造は、竹内綱吉田茂の実父)の
 屋敷で、外商・ローザと会見しようとして門を出たとこ
 ろを拘引された。
  1877年8月17日より、片岡健吉など8名が捕縛される。
  翌年の1878年明治11年)4月24日に竹内綱
  1878年5月1日に、中村貫一、
  1878年5月15日に、大江卓、岡本健三郎が拘引された。
  陸奥は、すでに拘引を免れない事を知ると、鳥尾小弥
 太を訪ねて、真相を打ち明け、前後の処置を謀った。
  鳥尾は自首をすすめたが、
  1878年6月10日、陸奥が、自首しないうちに拘引された。
  この日、陸奥は、羽織袴の出で立ちで、
  途中、親友の中島信行の宅に立ち寄り、後事を託して
 から入獄した。
  1878年明治11年)8月21日、東京臨時裁判所で、大審
 院の判決が下る。
  林、大江、岩神は禁獄10年、陸奥は禁獄5年だった。
  禁獄(きんごく):牢獄に拘禁すること。
  紀州人で陸奥と行動を共にしていた者は、陸奥が口を
 閉ざして名前を出さなかったので、皆、罪を免れた。
  (参考:竹橋事件100周年記念出版編集委員会『竹
 橋事件の兵士たち』1979年、現代史出版会発行)
  この後、1882年に、陸奥は、特赦されて欧米に渡り、
  1888年、外務省特命全権公使としてメキシコとの日墨
 修好通商条約に調印し、我が国最初の対等条約を結んだ。
1878年7月12日、政治結社・集会に警官の立ち会いや禁止す
 る権限を定めた。
  1878年7月、政府は、愛国社の再興を目ざす自由民権運
 動の高まりに対抗して、
  政治結社、集会に対する警察官の視察と、民心扇動、
 国安妨害と認めるものの禁止を命じた。
  しかし、自由民権運動は、国会開設請願運動として全
 国的に高揚を見せ、
  1880年3月には、国会期成同盟が結成された。
  こうした状況に対し、政府は、同年・1880年4月5日、
 集会条例を制定し、
  政談演説会、政治結社は、事前に警察署に届け出て許
 可をうけること、
  警察署は、国家の安全に害ありと認めたときは許可し
 ないこと、
  会場監視の警察官に集会解散権を与えること、
  軍人・教員・生徒の政治活動を禁止すること、
  集会の広告、政治結社相互の連絡、屋外集会を禁止す
 ること・・などを定め、弾圧体制を強化した。
1878年7月15日、東京の工部大学開校式式場に初めて万国旗
 を掲げた。
1878年7月15日、日本初の本格リゾートホテル、富士屋ホテ
 ルが開業した。
1878年7月19日、大阪株式取引所が開業した。
1878年7月22日、地方三新法公布(郡区町村編成法制定され
 る)
  太政官布告で郡区町村編制法制定。
  大区小区制を廃して、郡区町村を置くことを定めた。
  郡町村の名称と区域は、江戸時代のものを継承した。
  この日に、 「府縣會規則」 「地方税規則」
1878年7月27日、高島炭鉱暴動
  高嶋炭坑坑夫虐待事件が起こった。
  長崎の高島炭鉱で、苛酷な労働条件と納屋制度に反対
 し、賃上げ要求とともに坑夫が暴動化した。
  100余人が逮捕された。
  さらに、体験者が、1888年に、雑誌《日本人》にその
 実態を発表した。
  1870年3月、同年6月、1872年11月、1873年2月と、この
 騒動以前に、4回の騒動が発生していた。
  1888年の雑誌「日本人」への発表が発端になって、社
 会問題化した。
  政府が乗り出し、調査し、待遇改善を勧告した。
1878年7月、東京・両国区若松町の西洋菓子舗風月堂が、ア
 イスクリームを「アイスキリム」として売り出した。
1878年8月20日、「立志社の獄」の大審院判決が出た。
  林有造ら土佐立志社武力行使派に禁獄10年など
  林有造・大江卓:禁獄10年、
  元元老院幹事の陸奥宗光:禁獄5年、
  片岡健吉:禁獄100日
  板垣退助:取り調べをされず。
1878年8月23日、竹橋事件(近衛砲兵大隊の反乱起こる)
  西南戦争の恩賞や俸給(給料の減額)に不満をもつ近
 衛砲兵隊の二百数十人が、この日の夜、
  東京・竹橋の営舎(現=千代田区北の丸公園に建つ国
 立近代美術館と国立公文書館の裏のあたり)で蜂起し、
 制止する大隊長・宇都宮茂敏(うつのみやしげとし)少佐
 と、週番の深沢巳吉(ふかざわみのきち)大尉を殺害して、
 厩に放火した。
  砲兵大隊兵営と向かい合っていた近衛歩兵第二連隊に
 協同を呼びかけた。
  同隊から30余名が呼応し、
  兵士90人余は、山砲一門を引いて営外に出て、麹町区
 飯田町(現=千代田区九段南1丁目、区役所のあたり)
 の参議・大隈重信邸に砲弾を打ち込み、
  さらに、赤坂の仮皇居(現=迎賓館)に押しかけ、天
 皇陛下に直訴しようとしたが、
  東京鎮台の軍により、翌・24日午前2時ごろには、全員
 が逮捕され、鎮圧された。
  10月15日、陸軍裁判所で、死刑53人などの判決。
  深川越中島の刑場で、53人は銃殺刑に処された。
  陸軍卿・山県有朋は、この事件を契機に、軍人訓戒・
 軍人勅諭を発し、軍の規律強化をはかった。
  最近の研究では、自由民権思想とのかかわりが指摘さ
 れている。
  真相は、闇(やみ)に包まれているが、関係者遺族など
 の掘り起こし研究が進んでいる、それによると、地租改
 正反対一揆(いっき)や、自由民権運動の影響がみられる
 史実が明らかにされつつある。
  (氷川清話)明治11年には、竹橋騒動と呼ばれる近衛
 兵の反乱、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive