(増補版)659E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年11月~1896年12月)

 題:(増補版)659E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年11月~1896年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・あくまでも、正しいことを教えてあげねばな
  らない!
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
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1896年11月21日、九州鉄道の松橋駅八代駅間が開通し、
 門司駅八代駅間が全通した。
  九州鉄道は・・
  1888年に、設立された私鉄。
  1887年、松田和七郎、藤金作、伊丹文右エ門、渋谷清
   六、白木為直、嘉悦氏房の6名が、会社設立発起者
   総代となって、福岡・熊本・佐賀の県令へ呼びかけ
   て創立された。
  1888年、翌年、政府から設立が認可された。
   初代社長:高橋新吉が就任した。
  1889年に、初めての路線が開通する。
   これは、博多駅千歳川仮停車場間で、後に、鹿児
   島本線の一部となる。
  1907年7月1日、国有化される。
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1896年11月23日、樋口一葉が、肺結核で亡くなった(24歳)
  非常に惜しい才能だった。
  樋口一葉は、一瞬の素晴らしい輝きを発した女性であ
 った・・しかし、惜しくも24歳という若さで亡くなった。
  日本には、世界で最初に長編小説を書いた偉人の紫式
 部(生誕は970年頃)も居るが、この人も女性である。
  古い昔から男女平等だった日本で、高度な教育を受け、
 高貴な教養を身に付けていた女性だった。
  日本は昔から女性に優しい国だった。
  この樋口一葉も小説家で、東京に生まれ・・中島歌子
 に歌や古典を学び、また、半井桃水に小説を学んだ。
  生活に苦しみながらも、秀作の「たけくらべ」「にご
 りえ」「十三夜」などといった作品を瞬く間に発表し、
 秀でた才能を輝かせた・・文壇からは絶賛された。
  しかし、わずか1年半の間にこれらの作品を世に出した
 が、24歳6ヶ月の若さで没した。
  没後に発表された「一葉日記」も高い評価を受けた。
  西洋では卑劣な女性差別がなされていたこの時代だっ
 た・・一例を挙げれば、イギリスでは「女性画家の絵は
 美術館で展示しない、拒否することをしていた」。
  今でも、国連でSDGsで「男女平等」が叫ばれてい
 るが、今でもこの様な運動をしなければならない男女差
 別が残る世界である。
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1896年11月25日、神戸で、日本初の映画の一般公開が開始
 された。
  相生町の鉄砲火薬商の高橋信治が、神戸花隈の神港倶
 楽部で上映した。
  「米国大博士エジソン氏新発明電気作用写真活動機械
 キネトスコープ」を輸入し、上映した。
  スクリーンに映写されるタイプではなく、1人ずつ覗
 き込んで見るタイプだった。
  1896年11月25日から12月1日まで開催した。
  日本の映画の日が、12月28日から12月1日に変更された
 のは、この日付に因むためと言われる。
  ちなみに、フランスのリュミエール兄弟が発明したス
 クリーン式の「シネマトグラフ」は、1897年、大阪の南
 地演舞場や、京都で披露されている。
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1896年11月28日、朝鮮の旧臣らが、李氏朝鮮の第26代王の
 高宗に還宮請願計画(未遂)(11月21日説あり)
  高宗が、策略の言葉にだまされて、ロシア公使館に軟
 禁されてしまったが(露館播遷、1896年2月11日、親露派
 のクーデターと言える・・この時、開化派は暗殺され一
 掃されてしまった)・・
  そして、この様な状況となり、朝鮮は国としての自主
 性を持てない状態となった(ロシアは、この機会に種々
 の利権を獲得する行為をして行く・・また、欧米も尻馬
 に乗って利権獲得に走る)
  この様に朝鮮国王がロシア公使館に居るという不正常
 な状態を終わらせようとする試みが、朝鮮の旧臣らから
 なされた。
  李範晋・李学均・李允用・李完用らは、高宗を奪い
 金弘集総理らを殺害しようとした反クーデターを計画し
 た(露館播遷のクーデターに対するクーデター)
  しかし、親衛隊大隊長の李軫鎬の内通によって、失敗
 に終わった。
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1896年11月、東海道本線の旧線上にあった深谷駅~長浜間
 の運転が休止され、深谷駅が閉鎖された。
  経緯・・
  1883年5月1日、関ケ原駅深谷駅長浜駅間が開業し
   た。
    この時の東海道線は、関が原から長浜に向かって
   運行していた・・深谷駅はその路線上にあった。
  1889年7月1日、この旧東海道線が途中から分岐して、
   長岡(現:近江長岡)から米原を経由して馬場(現:
   膳所)に至る延長線が開業した。
  1891年1月12日、分岐点に貨物駅として深谷駅が開業し
   た。
    そして、深谷駅長浜駅間が貨物線として運行が
   再開された。
    しかし、関が原駅~深谷駅間は急勾配が連続し、
   かつ、冬季の積雪も多いという難所だった・・
   そのため深谷駅は、1896年11月に閉鎖された・・
  1899年10月15日、関が原駅~柏原駅長岡駅間の勾配
   を緩和した新線が建設され、本線が変更された・・
   その関ヶ原駅柏原駅長岡駅間の新線が開業した。
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1896年11月、函館商業会議所の会頭・平出喜三郎が、北海
 道庁長官を通じて函館駅小樽駅間の鉄道を至急に建設
 してもらいたいと建議した。
  今、政府は、この逆の、北海道の路線を、採算が合わ
 ないと「どんどん廃止している」が、これでは、北海道
 がどんどんじり貧となり寂(さび)れるばかりになると
 いう政策である。
  経済的収支よりも、この時の様に、国土建設の視点を
 持たなければならない・・明治政府より劣った政策を進
 めているという状況にある・・
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1896年11月、鉄道の広軌道論争
  鉄道の線路幅を広げるべきだという「広軌改築論」が
 盛んに論議された。
  東京商業会議所が、逓信大臣に対し・・
  「政府ハ此際軌道調査会議ナルモノヲ設置シ朝野ノ学
 識経験ニ富ム者ヲ選抜シテ委員ヲ組織シ此等委員ヲシテ
 充分軌道ノ得失ヲ調査セシメ我国今日ノ鉄道ニ対シ広軌
 道ノ制ヲ施行スルノ方法確立スルニ於テハ速ニ之ヲ決行
 セフレンコトヲ望ム」と建議した。
  輸送力の拡張には、車輛の増加、停車場の増置、複線
 の敷設なども考えられるが・・
  これらの方法では、「充分運搬力ヲ強大ナラシムルノ
 効果」をもたらすことができるかどうかという懸念があ
 る。
  鉄道機関の「一大改良」をはかるためには、「現行狭
 軌道ノ制ヲ廃シテ広軌道ノ制ヲ採用スルノ得失如何」を
 検討しなければならない。
  なぜならば、「広軌道ハ狭軌道ニ比シテ列車ノ容量ト
 速度」において優れており・・
  「貨物ノ運輸上大ニ時間ト費用トヲ節シ得ルノ利益」
 がある。
  この頃、イギリスは平均速度100㎞/時間だったが、日
 本は、1906年に登場した「最急行」でさえ、平均速度は
 40㎞/時間だった。
  日本にとって100㎞/時間という速度は、出したことの
 ない世界だった。
  因みに、現在の東海道新幹線の営業最高速度は285㎞/
 時間であり、実際の営業速度は217㎞/時間で、今は、鉄
 道王国の日本となっているが・・
  1910年、鉄道院は、東海道本線山陽本線などの主要
 路線を標準軌狭軌からの広軌化)に改築する方針を決
 定した・・しかし・・
  原敬(政友会)が、鉄道員総裁に就任して、政友会の
 主張である「地方の鉄道整備を優先すべきだ」になって
 しまった・・話は潰(つぶ)れ、改軌計画は中止となっ
 た。
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1896年12月3日、貨車運用報告手続を制定した。
  (鉄運乙第13600号、12月5日施行)
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  (今日の言葉)
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  題:韓国の常識ある知識人が、当然の行為である「嘘の韓国の反日論理」を批判し始めた。
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1896年2月10日、ロシア軍が朝鮮王宮に突入した。
  ロシア兵150名、107名の水兵、20名の食料担当兵。
  大砲一門を漢城に搬入して据えた。
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1896年2月11日、露館播遷
  洗脳された宮女の金明載より「各大臣等日本兵が密か
 に国王を廃位しようとしているので甚だ危険なり。
  速かに露館(ロシア公使館)に播遷し回避されたし」
 の旨の策略の書状が高宗に届けられた。
  慌(あわ)てて高宗と世子(純宗)は宮女用のかごに
 乗って、ロシア公使館へと連れ込まれた。
  親露的な政治を取らざるを得ない状況に追い込まれた。
  その結果、不平等条約を結ばされて、治外法権となり、
 また、様々な権益、鉱山の採掘権と森林伐採権、鉄道の
 施設権などを奪われた・・ロシアの影響下の半植民地状
 態となった。
  この機に乗じて、ロシア以外にも、欧米へも売却され
 て、李氏朝鮮は、欧米の草刈り場ともなった。
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1896年3月27日、アメリカが朝鮮の利権を獲得する。
  アメリカが、雲山の金鉱採掘権、 京仁線敷設権、 漢
 城の電灯・電話・電車の敷設権を取得した。
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1896年4月22日、ロシアが朝鮮の利権を獲得する。
  ロシアが、慶源・鍾城両処の鉱山採掘権を取得した。
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1896年5月14日、小村・ウェーバー覚書
  朝鮮の状況を見かねた日本は、ロシアと話し合いを開
 始して、覚書を交わした。
  ソウルにおいて、日本側は小村寿太郎、ロシア側 はK.
 I.ウェーバーの両公使によって話し合われ調印された・・
 朝鮮問題に関する日露間の覚え書だった。
  ロシア公使館にいる朝鮮国王の還宮を実現するよう・・
 また、両国軍隊の駐屯定員なども決められた。
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1896年6月12日、ロシアが朝鮮の利権を獲得した。
  ロシアが、月尾島西南地段(44,316m2 年銀貨361元)
 租借契約を取得した。
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1896年7月、フランスが朝鮮の利権を獲得した。
  フランスは、京義線敷設権を取得した。
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1896年9月、ロシアが朝鮮の利権を獲得した。
  ロシアが、豆満江上流地域・鴨緑江上流地域・鬱陵島
 茂山の森林伐採権を取得した。
     ・
     ・
1946年、RAA(特殊慰安施設協会アメリカの要請で作
 られた慰安所)がある時は、強姦・婦女暴行が、1日平均
 40件であった・・が・・
  RAAが無くなった1946年前半の強姦・婦女暴行数は、
 1日平均330件と『8倍以上に急増した』・・元の状態に
 戻った・・
  あまりに多い事件数に、占領軍は、『新聞報道をする
 な』と報道管制の口封じの命令を出した。
  例えば、病院が、銃を持ったアメリカ兵の集団に襲わ
 れ、看護婦の方々や妊婦の方々が強姦された・・等々が
 多数あり、このような事例が続いた。
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1950年2月14日、ソ連中華人民共和国と同盟条約を締結し、
 条文で日本を仮想敵国と名指しした。
  これは、「中ソ友好同盟相互援助条約」で・・
  中華人民共和国ソ連邦の間で締結された軍事同盟。
  建国間もない中華人民共和国は、台湾の国民党政権が、
 アメリカの支援を受けて、「大陸反攻」をうかがうとい
 う情勢下で、中華人民共和国ソ連との提携を強めた。
  1949年12月、毛沢東が、モスクワを訪問してスターリ
 ンと会談していた。
  中ソ同盟は、「日本軍国主義とその同盟者」を仮想敵
 国とし、アメリカが日本の軍事基地から中国を攻撃する
 ことを想定して、共同防衛にあたること・・
  3億ドルの借款協定などが内容であった。
  (卑劣にも、国連憲章の『敵国条項』が影響している)
  これによって、ソ連が蔣介石の国民政府と締結(1945
 年8月15日)していた「中ソ友好同盟条約」は破棄された。
  東西冷戦が深刻化するなかで、社会主義国である二国
 の軍事同盟として機能した。
  この条約下で、中国は、1950年6月に勃発した朝鮮戦争
 に参戦し、アメリカ軍と対決することとなった。
  しかし、1950年代後半から、中ソ対立が始まったため、
 次第に関係は悪化し・・
  1959年には、ソ連が、「中ソ技術協定」の破棄を中国
 に通告し、同盟関係は事実上なくなった。
  さらに、1979年の中越戦争で、ソ連ベトナムを支援
 したことから、定められた30年間の期間が終了した1980
 年に、延長されず、破棄された。
     ・
     ・
2019年9月26日、韓国の常識ある知識人が、当然の行為であ
 る「嘘の韓国の反日論理」を批判し始めた。
  題名:韓国人が暴く反日韓国の嘘・・「李承晩TV]
 より・・(41分13秒より)
  https://www.youtube.com/watch?v=WCxIQCBdj34
  李栄薫氏(李承晩学堂の校長)の話
          (参考・・日本語翻訳:林寿泉氏)
  「事実」と「自由」を追求する李承晩TVの視聴者の
 皆さま、こんにちは。
  今日のタイトルは「日本軍慰安婦」であります。
  「日本軍慰安婦問題の真実」という、このシリーズの
 講義の核心的部分だと言えます。
  前回までの8回の講義は、実は、この講義のための予備
 の講義であったと言えます。
  1937年、日中戦争が始まりましたが、この年、日本軍
 首脳部は、全日本軍兵士の150人当たりに慰安婦1人を充
 当する慰安所を設置する事にした。
  (アメリカ軍の様に管理もせず、また、責任も取らず、
 非常に乱れた状況にアメリカ兵を置いて、そのあまりに
 乱れた状況にフランス市長が泣き付いたようになること
 を避けるため、そして、アメリカ兵がむやみやたらと地
 元女性に乱暴するようなことを防ぐため)
  軍の士気、将兵の性的欲求の解消、性病を防ぐ目的、
 また、軍事機密の漏洩防止のためもあった。
  日本軍慰安所は、280万人に近い日本軍のすべての駐屯
 地で、北はソ満国境の黒竜江地域から、南は南太平洋諸
 島まで、西はインド前線のビルマ前線にまで、日本軍が
 駐屯するすべての地域で慰安所が設置された。
  慰安所が最も多かったのは、華中地域の中国内陸地域
 と思われる。
  この写真は、上海にあった日本軍慰安所ですが、慰安
 所を監督する憲兵慰安所の従業員たち、日本語では「
 仲居」と言う、慰安婦ではないが、その人たちが一緒に
 撮った写真です。
  玄関には、「聖戦大勝の勇士達を大歓迎」という看板
 がありますが、この様な慰安所に所属し、性的慰安をす
 る女性たち、すなわち慰安婦がいた。
  慰安所は、1937年以前にも、部隊によって、一線指揮
 官の裁量で設置されることもあったが、そこの女性たち
 は慰安婦と呼ばなかった。
  慰安婦という言葉は、1937年、日本軍の付属施設とし
 て慰安所が公式的に創設されてから生まれた言葉だった。
  この様にして生まれた慰安婦という言葉が、戦後の韓
 国でも、1960年代まで使われたことは、私が以前の講義
 説明した通りです。
  韓国政府も、民間の私娼街で働く、売春業に従事する
 女性たちを指して慰安婦と公式的に呼んだ。
  この日本軍の慰安婦制度が韓国人に大きな憤怒を起こ
 し、外交的紛争として浮かび上がったのは、1991年、金
 学順(キム・ハクスン)という慰安婦出身の女性が、自
 分の元職業を公開してからだった。
  それから28年間、長い歳月が過ぎたにもかかわらず、
 この問題が、なかなか解決できないことには、色々な原
 因があります。
  日本側だけに原因があるのではなく、韓国側にも原因
 があります。
  その韓国側の原因は、最初から、今までの28年間、こ
 の慰安婦制度に対して、少なくない誤解があったからだ
 と思います。
  その代表的な誤解の中で一つを挙げますと・・
  「慰安婦」と「女子勤労挺身隊」を間違って、混同し
 たという事です。
  女子勤労挺身体は、戦時期に、女性達が軍需工場に動
 員されて、一定期間、「労働をすることです」。
  日本と違って、朝鮮では女性を動員することが簡単で
 はなかったため、日本でのように、大量に動員されては
 いませんでした。
  この写真は、日本の名古屋にある航空機製作所に到着
 した朝鮮女子勤労挺身隊の行列です。
  主に、「高女生」など、日本語を話す事も、読むこと
 もできる女性たちが、日本へ行って、2ヶ月ほど働いて帰
 って来たのが、戦時期の女子の動員形態としてあった女
 子勤労挺身隊です。
  しかし、韓国人たちの誤解(間違い洗脳)で、女子勤
 労挺身隊への記憶・印象があまり良くない。
  その様な中で、慰安婦問題が発生すると、韓国人の人々
 は、慰安婦と挺身隊を混同し、間違って、憤怒しました。
  日帝が女性を動員して戦争に送り、慰安婦にしたとい
 う誤解・間違いであります。
  しかし、今まで、その様な(慰安婦にしたという)事
 例は、たったの一件も報告されていません。
  この写真のように、軍需工場に行った高女生達の中で、
 慰安婦として充当されたという事例は、今まで発見され
 ていません。
  (慰安婦にされたという)それは事実ではありません。
  しかし、少し前までも、挺身隊は、慰安婦と混同され
 ていました。
  例えば、2007年に、ネット上のNAVER百科事典で、
 挺身隊を検索語として入れると、「植民地女性を強制的
 に徴用」、日本軍人の性的欲求を解消するために作った、
 性的奴隷集団である従軍慰安婦のことをいう」のように、
 挺身隊は慰安婦であると、まったく間違った内容が書い
 てありました。
  (参考)NAVER百科事典:インターネット検索サ
     ービス 「NAVERを運営する会社が、無料
     オンラインで提供する百科事典サービス。
  最近、調べてみたら、内容が正しく訂正されていまし
 た。
  今はそういう誤解は、ある程度、払拭された状態です
 が、なお、まだ、色々なところでその誤解が横行してい
 る状態を見ることができます。
  慰安婦問題の解決を難しくする、これ以外の原因は、
 慰安婦の人数がとんでもなく誇張されているということ
 です。
  一時期は、朝鮮人慰安婦が、20万人もいたという荒
 唐無稽なとんでもなく誇張された説が、中学校や高校の
 教科書にまでも載っていました。
  今も教科書によって、少しずつ違ったりしてますが、
 3万人ということも、数万人ということもあります。
  少なくとも、3万人はあっただろうというのが普通とな
 っています。
  日本軍慰安婦の総人数がどれ程で、その中で朝鮮人
 安婦の総人数がどれ程であったのかは、合理的に推定で
 きる、いくつかの根拠があります。
  先ほど、指摘しましたように、1937年、日帝慰安所
 を公式的に設置するとき、兵士150人当たり1人の慰安婦
 を置くという方針でした。
  このことに基づくと、全日本軍280万人を相手とする慰
 安婦の総人数は、「約1万8千人程度と考えられる」。
  1942年に、日本軍は将兵たちに支給したコンドームの
 総数は、その年の1年間、3210万個です。
  これから一日のコンドーム使用量を求め、また一人の
 慰安婦が一日に相手した将兵たちの人数を5人程度にして
 みると、「やはり同様の1万7千人ほど」の慰安婦の総人
 数が推算できます。
  この慰安婦の民族別構成は、日本人が40%、現地人が
 30%、朝鮮人が20%、その他を10%とみるのが一般的で
 す。
  日本の大衆的な売春が、日本軍の戦線が拡張するにつ
 れて、売春業者たちの大勢が、その後をついて行って、
 進出したのが、この慰安婦達の基本的流れです。
  日本人女性が最も多く、その次に、中国では中国人、
 ビルマではビルマ人、インドネシアではインドネシア
 のような現地人が30%で、その次に朝鮮人が20%、その
 他は多様に構成されています。
  この事から推算される朝鮮人慰安婦は、大体「3500
 人程度です」。
  この数値が合理的数値であるということができます。
  私が前回の講義で、中国の華北地域で軍慰安所を運営
 した朝鮮人売春業者が11人いて、11軒の慰安所があった
 と言いましたが・・
  1か所の慰安所当たり、多くて15人が働いたとすると、
 華北地域の慰安所に所属する女性たちの人数は165人程度
 になる。
  他の中国人や日本人が経営する慰安所にも朝鮮人の女
 性たちがいるとして、その人数を2倍、3倍にしても300人
 ~400人程度となる。
  これが、華北地域に存在した朝鮮人慰安婦の全人数で
 す。
  この様に、地域別に色々な情報を集めて推算すること
 が可能です。
  いずれにしても、大体、私は、「3500人程度が合理的
 である」と思ってます。
  しかし、この程度の数値を、いくら多く考えても5千人
 を超えない筈の人数を・・
  今まで3万人、あるいは、「20万人と主張して来たのは、
 あまりにも甚だしい誇張であった」と言えます。
  しかも、その様な数値が、教科書で使われています。
  今は、20万人という説は、教科書からは消えたものの、
 なお、その様な誇張した数値が未だに主張されています。
  私は、これは非常に大きい問題だと思います。
  また、私は、1960年代以後の50余年間、「総督府が、
 全国の土地の40%を、国有地として収奪した」と韓国の
 国史教科書の中に記述されて来ている事に対して、この
 ことが如何に荒唐無稽な話であるかを前の講義で指摘し
 ました。
  私は、1992年からこのことを主張し、ひどい罵倒を浴
 びせられて来ました。
  しかし、誰も私の主張に対して反論はしませんでした。
  結局、その数値は教科書から消えました。
  この慰安婦の実人数と関しても、似た様な現象が起き
 ています。
  3万人、あるいは、数万人という、教科書の記述は、な
 かなか訂正されません。
  何の根拠もないのに、教科書を作る人が、何らかの数
 値が必要なため、その様な、『でたらめな数値』を作っ
 て、使用していて、また、多くの人々がそれを信じてい
 ます。
  私は、ある時、韓国女性運動の指導者の一人と、個人
 的に討論をしたことがありますが、その人が、慰安婦
 20万人説だと言ったので、私は「悪いけど、その様な話
 は根拠がないから、話さない方が良いと思います」と、
 丁寧に説明をしました。
  しかし、その人は、聞こうともしないし、結局は、怒
 りだして席を蹴って出て行ってしまいました。
  その、どうしようもない頑固な先入観が、今まで日本
 軍慰安婦問題の解決を難しくして来たと思います。
  慰安婦問題の解決を難しくした、また他の原因は、「
 奴隷狩り説」、または、「強制連行説」です。
  日本軍の憲兵が道端で女学生を連れて行った、畑で働
 いていた女性を連れて行った、鉄道駅前で通りすがりの
 女性を逮捕した、ある村にトラックで行き小川で洗濯し
 ていた女性たちをトラックに積み込んで連れて行った、
 などの様な話が多いです。
  実際に、この画面でご覧になれる吉田清治という人が
 その様な話をデッチ上げて作った有名な人たちの中の一
 人であります。
  この吉田清治氏は、自分がその様なことを1940年代に
 済州島でやったという話を本にした。
  「私の戦争犯罪」という本を書き、一時期、ベストセ
 ラーにもなりました。
  彼によりますと、済州島で、主に、今日の大静面(テ
 ジョンミョン、済州島大静面)ですが、そこで、なんと
 200人の女性たちを拉致したと主張した。
  日本の朝日新聞が、日本で三大日刊紙である朝日新聞
 が、その人とインタビューをして報道した。
  しかし、歳月が20年ほど過ぎて、真実が明らかになり
 ますが・・
  吉田氏は、虚名とお金が欲しくて、その様な嘘話を捏造
 したのでした。
  結局、朝日新聞も、その報道が誤報だったということ
 を認めた。
  それでも、なお、多くの韓国の人たちは、その話を事
 実として信じています。
  韓国の有名日刊紙である朝鮮日報でさえも、わずか2
 年前~3年前、「済州島の洗濯場で、日本人達が女性達
 を拉致した」という嘘の記事を、すでに、虚偽と判明さ
 れていたその話を、公然と新聞の社説に書いた。
  吉田氏とは別途で、韓国では、この慰安婦問題が浮か
 び上がって以来、似た様な話を素材にして、これでもか
 というくらい数多くの小説や映画が作られた。
  少し前にも、皆さまもご存じだと思いますが、慰安婦
 に関する「帰郷」という題名の映画が作られました。
  この可愛い少女たちが、この様に日本軍に連れて行か
 れる場面を映画で演出した。
  その場面を見た多くの韓国の人々が涙を流しました。
  趙廷来(チョ・ジョンネ)の大河小説「アリラン」で
 も、似た様な、類似した場面があります。
  ある地域の区長(面長)が自分の区(面)に割り当て
 られた慰安婦の人数を満たすために、ある農民を呼んで、
 「仕方ない、君の娘を慰安婦として挑発するよ」と通達
 する(嘘の行為の、作り話の)場面があります。
  私は、以前の講義でも説明しましたが、「荒唐無稽な
 アリラン」という講義の中で、作家の趙廷来(チョ・ジ
 ョンネ)の堕落した精神を最大に(無限に)軽蔑します。
  汚い種族主義の標本であります。
  相手を乱暴な野蛮な種族と蔑め、それと同時に自らを、
 自分の娘を徴発するにも関わらず、何の抵抗もしない、
 無限に卑怯で無気力な種族と卑下する、その様な賤しい
 精神文化が他ならぬ趙廷来(チョ・ジョンネ)の文学精
 神です。
  問題は、趙廷来(チョ・ジョンネ)だけではありませ
 ん。
  その様な映画や小説に憤怒し、涙を流す今日の韓国人
 が共有する種族主義的精神文化、それが問題の本質です。
  その様な「奴隷拉致説」や「強制連行説」を裏付ける
 別の根拠として、生存している元慰安婦達の証言があり
 ます。
  歴史と関連して、個人の証言を資料として採択すると
 きは、非常に慎重でなければなりません。
  例えば、20世紀に入り、アメリカの歴史学者たちは、
 南北戦争以前の元奴隷たちを対象に、彼らの奴隷時代に
 関する記憶を採集しました。
  いわゆる口述史学がその時から始まったと言われます
 が、その時に歴史学者たちは、元奴隷たちとインタービ
 ューをする度に、個人の記憶が変わり、一貫性が維持で
 きないことに気付きました。
  昔のことであるため、記憶が薄いこともあって、前後
 が錯乱を起こすこともあり、また、その間に、新たな記
 憶が作られることもあります。
  何より、インタービューというのは、多くの場合、当
 事者と聞き手との対話です。
  しかし、その対話の過程で、その記憶が政治化するこ
 とがあります。
  相手が聞きたがる話が何かを口述者は気付いて、その
 聞き手に合わせて、自分の記憶を再生産するのです。
  元慰安婦の証言もその様なことが多いです。
  ある女性は、鉄道駅前で日本軍に連行され、中国に行
 ったが、その汽車の中には、自分以外にも多くの女性た
 ちと軍人たちが乗っていたと言いました。
  ところが、この女性が、1999年に話した、最初の証言
 は、その様な話と違います。
  継父が自分を売ったと、自分は日本軍よりも継父をも
 っと恨んでいると言った。
  継父が自分を売ったというのが元の記憶です。
  しかし、インタービューをしたら、聞き手が何か他の
 内容を聞きたがることに気付き、その様な話をすると歓
 迎されるし、国民の同情も受けられ、さらには、政府の
 補助金まで受けられることが分かったので、また、証言
 を間違えると、その補助金が取り消される可能性もある
 ことが分かるから証言を変えるのです。
  それで、鉄道駅前で日本軍に拉致されたという話をす
 る。
  この様な事例は、他にもいくつかあります。
  ここでは、そのことに対しては、これ以上時間を使わ
 ない事にします。
  それでは、その可哀想な女性たちはどの様にして慰安
 所に行き着いたのでしょうか?
  それに対する私の理解は、主張は、実は今までの三回
 の講義で既に十分ご説明をしてきたと思います。
  視聴者の皆様は、私がどうして、日政期に施行された
 公娼制に関しての話をそんなに長くして来たのか、今、
 ご理解いただけると思います。
  慰安婦制度は、日本軍首脳部が1937年のある日に突然
 作り出したものではありません。
  それは、以前から、公娼制の形態として存在してきた
 ものであります。
  『軍周辺で、民間業者が、軍の後を着いて来て、女性
 達を連れて、各種の料理屋やカフェの形態としての慰安
 施設を作っていた』・・
  それを、1937年に、日本軍が軍の慰安施設として公式
 化し、軍の慰安施設として軍がその時から監督・統制を
 始めた。
  それが正に慰安所制度であり、慰安婦制度です。
  その様な変化に対し、関連研究者たちが「公娼制から
 慰安婦制」という命題として、その変化を説明していま
 す。
  これは私の主張ではありません。
  私が読んだ慰安婦制に関する重要な研究は、昔から、
 慰安婦問題の発生時から主張して来ています。
  「公娼制から慰安婦制」の学説を最も早く説いたのは、
 日本の青山学院大学の宋連玉という(韓国人)教授です。
  もう一人の日本で重要な研究者を挙げると、藤永壮と
 いう日本人教授がいます。
  宋連玉教授は在日同胞です。
  在日同胞の研究者としては、また、金富子氏や金栄氏
 のような重要な研究者たちがいます。
  彼ら、日本で活動している研究者たちは、慰安婦問題
 が提起されて以来、早くから日本軍慰安婦制度は、「公
 娼制という後方部隊を前提にして編成した前方部隊であ
 る」と、主張して来ました。
  韓国国内でも彼らと交流をしながら、同様の立場にい
 る研究者たちがいます。
  尹明叔(ユン・ミョンスク)氏やパク・ジョンエ氏の
 ような方々がそうです。
  私の以前の講義の相当部分は、彼らの研究成果に頼っ
 ていて、紹介するようなものでした。
  ここで、以前の講義の内容を思い出して戴きたいので
 す。
  近代国家が公娼制を施行したのは、前近代的で身分的
 な人身売買を禁止し、国民健康のため、性病を統制する
 ためでありましたが、より直接的な動機は、軍隊組織の
 士気を高揚させるための慰安施設が必要であった。
  1910年、「朝鮮で施行された公娼制度」も同様です。
  その設立により開かれた貸座敷遊郭地域の相当部分は、
 日本軍駐屯地と近接した地域で、一種の軍事慰安施設と
 して作られたものでした。
  初期には、朝鮮に渡った日本軍人を始め、少数の日本
 人男性のための特権的売春産業でした。
  女性達も、主に日本から渡った日本人娼妓でした。
  (関連)朝鮮半島には、冊封されている中国の官吏た
     ちを、朝鮮半島の女性達が夜の接待をする制度
     と施設が、古い時代から長く存続していた。
  それが、植民地的開発と共に、朝鮮人の大衆が参加す
 る大衆的売春産業として発達するようになる。
  朝鮮人の娼妓、酌婦、芸妓も増加し、彼女たちのとこ
 ろを訪れる朝鮮人遊客人数も増加した。
  貸座敷遊郭や料理屋などの飲食店に娼妓、酌婦、芸妓
 を引き込むのは、あるいは供給するのは、他ならぬ人身
 売買に携わる業者の経路からでした。
  大衆的売春業は、さらに国境を越えて満州、台湾、中
 国関内、日本にまで拡散していきましたが、それと共に、
 前回ご説明しました通り、人身売買がもっと盛んになり、
 貧しい家の娘たちをその地域に出したのです。
  また、以前の講義で行った事でありますが、この市場
 では、古くから各種の店に女性達を供給する周旋業(뚜장이、
 女衒)が、最近の言い方としては、一種の職業仲介所の
 ようなものが発達していました。
  女性達は、「日本軍に強制的に連れて行かされたので
 はありません」・・
  彼ら、「周旋業者によって連れて行かされたのです」。
  貧しい家の非情な父親たちは、この周旋業者・뚜장이か
 ら前貸金をもらい、娘たちを売り出したのです。
  娘たちは、泣きながら、または、殴られながら、周旋
 業者たちに連れて行かされたのです。
  「それが隠す事のできない事実」、この時代の実態で
 す。
  先ほど紹介しました、ある女性が、ある元慰安婦が、
 継父が自分を売ったと言ったのが、その例です。
  最初に慰安婦だったことを告白した金学順という女性
 も、継父から売られて遊郭に渡され、以降、転々と流さ
 れる数奇な人生を送ったのです。
  この様な状況の中で、時代的状況の中で、1937年、日
 本軍が慰安婦制度を創設したのは、何もない所に建物を
 作り、女性たちを拉致して来た、というものではありま
 せん。
  日本軍慰安所は、「軍の後を付いて来た民間」の貸座
 敷や料理屋を、軍専用の敷設に指定したものと相違あり
 ません。
  軍が直接設置し、運営した慰安所もありましたが、そ
 の様なものは少なく、ほとんどは部隊周辺の民間の店を
 慰安所として指定して、その運営を委託ないし監督する
 ような形態でした。
  前回の講義で紹介したが、1937年、日中戦争が勃発す
 ると、平安道の義州出身の38歳のパク・イルソックとい
 う男性が上海で「カフェ亜細亜」を開業した。
  この彼の店は、2年後に慰安所として指定された。
  当初、2千ウォンで始めた彼の商売は、1940年には7万
 ウォンにまで大きく繁盛した。
  カフェが慰安所と指定されると、どのような結果が発
 生するのでしょうか?
  カフェの女給たちは、慰安婦という身分に変わるので
 す。
  正にそれが、慰安所にほとんどの女性たちが供給され
 る基本的な経路であったと言う事が出来ます。
  似た様な事例を以前にもご紹介したことがあります。
  国内の威鏡北道会寧の徳川楼の場合です。
  私がこの写真を見て、朝鮮時代の妓生歴史の伝統を継
 ぐ、会寧の妓生たちを見て、感じた感情を以前の講義で
 お話ししたことがありますが、その時の徳川楼という日
 本人料理屋です。
  1912年に開業したこの料理屋は、1937年、戦争が勃発
 した以降、民間の出入りが禁止された軍専用慰安所施設
 に変わります。
  その様な環境で成長したこの子供が後で回顧し、次の
 様に述べます。
  「1938年以降、遊興業に規制が掛かった。民間の利用
 はほとんどなくなった。徳川楼は規模を縮小した。しか
 し、戦争以降、会寧には軍人の数が多くなり、日曜日や
 休日だと、以前よりもずっと込み合って景気が非常に良
 かった。母は非常に忙しくなった。我が家は接待時間を
 減らし、価格を下げる戦略で対応した」。
  民間が開業した部隊周辺の料理屋が、その料理屋が戦
 時期になり、軍慰安施設に転換したのであります。
  すると、写真での、この緒戦の酌婦たちが、軍慰安婦
 として身分を変えたのであります。
  これが満州と中国そして朝鮮、日本にいた慰安婦が充
 当される基本経路であったと、つまり、公用売春市場が
 成立すると、人身売買という基本経路を通じ、貧しい家
 の娘たちが非情な父親によって、売り出されたのである
 と、それが、慰安婦が生まれる基本経路であったという
 ことであります。
  要するに、日本軍慰安婦制度の歴史的意義を要約する
 と、日本軍慰安婦制度は、既存の公娼制を軍事的に再編
 成したのであります。
  その様な変化は、公娼制そのものが元々その様な属性
 を持っていたので、つまり、軍事慰安施設としての公娼
 制であったので、その変化は断絶的変化というよりは連
 続的変化でありました。
  そのため、朝鮮、満州、台湾、日本など、公娼制が早
 くから発達したところでは、単純な名称変更に過ぎない
 ケースも多かったのであります。
  もう一回強調しますと、1930年代に大衆的売春産業が
 発展し、その売春産業が戦時期になるにつれ、軍事的に
 動員され、再編成されたのが、他ならぬ日本軍慰安所
 び日本軍慰安制度であったという事であります。
  中国で、慰安所という別の大衆的売春市場が開かれる
 と、民間の人身売買は、もっと活発になりました。
  1939年から1941年、朝鮮には「毎日新聞」がありまし
 たが、この「毎日新聞」に載った人身売買に関する記事
 は、なんと120余件に達します。
  最も盛んに人身売買を行なった人としては、ハ・ユン
 ミョンという朝鮮人の夫婦が有名でした。
  なんと150人の少女を満州などに売り渡したそうです。
  40人余りを売り渡した某業者もいました。
  彼らは、娘を良い所に就職させると騙して、父母の承
 諾書または白紙の委任状をもらったり、または、家庭問
 題、例えば貧困か暴力、その他は、友人の誘いなどの色々
 な理由で家出をした少女たちを自分の子供として入籍し
 たり、また、様々な方法で少女を単独戸主にしたり、様々
 な方式で書類を操作しました。
  国境を越え、現地の警察の就業承諾書をもらうために
 は、しかるべき書類が必要でした。
  娼妓周旋業、すなわち人身売買業は、女性を連ねて行
 くため、腕力を行使するだけでなく、この書類を具備、
 操作するのに相当なノウハウが必要な職種でもありまし
 た。
  慰安所の運営が具体的にどのようなものであったのか
 は、事例は多くはありませんが、いくつかは具体的な事
 例を紹介することが出来ます。
  中国の、華中地域の、ここが上海ですが、内陸の方に
 行くと武漢があり、その中に当陽という、その様な地区
 があります。
  日本軍はそこまで進出し、もう少しいけば、大韓民国
 の臨時政府があった重慶ですが、この白い地域が当陽地
 域であります。
  (参考)大韓民国臨時政府:国際的に承認されてない
     存在で、また、貢献活動のない存在。
  そこに高森という名の部隊がありました。
  その部隊の慰安所に関する情報が残っています。
  ご覧の画面がそれに関するものですが、この画面は、
 同部隊が地方商人の営業区域を指定した図であります。
  ここが部隊本部兵舎のあるところです。
  また炊事場があります。
  そして、炊事場の横に、このように区域を設定し、こ
 こが部隊が管理する地方商人営業区域であり、この中に
 慰安所が、第1、第2、第3慰安所があり、その隣に飲食店
 があり、写真店があって、商店街があります。
  点線内の範囲内で、女性たちは散歩などをすることは
 できますが、出て行くときには部隊長の許可を得なけれ
 ばなりませんでした。
  これは民間の公娼制でも、遊郭地域でも同様なことで
 あります。
  この慰安所を経営した人は、中国人でした。
  弘原栄という中国人で、おそらく女性達は、ほとんど
 現地の中国人の女性達で充当されていたと思われます。
  ここで飲食店を経営した人は、名字が崔であります。
  崔金石という人ですが、名前から朝鮮人と思われます。
  日本軍の後ろをついて、中国内陸までも進出した一例
 となります。
  その隣に写真店や時計店がありますが、そこは日本人
 が経営しました。
  藤川という人です。
  この部隊の慰安所の運営規則があります。
  時間のある方は、画面を停止して詳しく見て下さい。
  すべてを説明するには時間が足りません。
  この慰安所を利用するためには、兵士であれ、将校で
 あれ、連隊長が発行した許可証が必要で、連隊長発行の
 許可証とともに現金を支出し、花券(チケット)を買わ
 なければなりませんでした。
  慰安所の帳場という会計窓口のところで、現金で買わ
 なければならず、ツケ払いや営業者と貸借関係を作るこ
 とは禁じられるし、慰安所内で飲食する事や歌を歌うこ
 とも禁じられるし、乱暴な事は憲兵の取り締まる対象に
 なり、兵士たちの利用時間、下士官たちの利用時間、準
 士官以上の将校たちの利用時間、そして、時間当たり、
 30分当たり、1時間当たりの費用はいくら、兵士たちが30
 分利用する時は1ウォン、1時間利用する時は2ウォンのよ
 うになっており、その次にこの高森部隊の中隊別に、第
 1慰安所、第2慰安所、第3慰安所を利用できる日にちと曜
 日が指定されていました。
  必ずサック、即ちコンドームの着用が義務付けられて
 いて、民間の利用は禁じられていました。
  そして、営業者は、この慰安婦達の営業状況を詳細に
 記した、一定の様式に従って記した報告書を1ヶ月に1度、
 部隊長に提出しなければなりませんでした。
  この様に、慰安所は、徹底的に営業が軍の統制下で行
 われていた公営でした。
  その意味では公娼業が軍隊に引き込まれ、再編成され
 たものであるということができます。
  慰安婦達は定期的に検診を受けなけらばなりませんし、
 営業主たちは毎月1回、慰安婦別に営業現況を報告しなけ
 ればなりませんでした。
  この様な運営規則が分かる慰安所は、そんなに多くあ
 りませんが、いくつかの事例がまだありますが、ほとん
 ど大同小異でありました。
  私は、昔、この運営規則を呼んだことがあり、それが、
 朝鮮総督府が全国の30余ヶ所の貸座敷の地域を設置する
 ときに発表した貸座敷の取締規則とあまり変わらないも
 のであると、考えたことがあります。
  その内に、先ほど言いましたように、研究者たちの研
 究を読んで、正に、「公娼制から慰安所制」との研究
 成果があるのをみて、自信をもってこの講義を、視聴者
 の皆様の中では、初めて耳にする話であるため、少し抵
 抗感を感じる方々もいらっしゃると思いますが、研究者
 の立場で自分なりの所信の下で話すことが出来たのであ
 ります。
  最後に、もう一つの事例をご紹介します。
  中国の南方の広東、ここが深圳(しんせん)であり、
 もっと南だとベトナムとの国境であります。
  その辺りに広東自治区域に南寧という所があり、その
 南に欽州というところであります。
  この欽州の最南方にあった日本軍の慰安所の話であり
 ます。
  今、御覧の資料は非常に珍しいものですが、1ヶ月に1
 度、部隊長に報告しなければならなかったのですが、そ
 の書類中の一つであります。
  この欽州日本軍慰安所は、全部で、その地域内に10軒
 がありました。
  「朝日」などの所名が見えますが、全部で10軒の所名
 を見ると、ほとんど日本式であります。
  そのため、日本の業者が日本人女性を連れて行ったの
 であろうという推測ができます。
  勿論、遠くから頻繁にリクルートすることは難しく、
 時間が経つにつれ、現地の女性も増えて行ったと思いま
 す。
  1か所当たりの慰安婦の人数は、大体5人~6人で、問題
 は、ここに転出と転入がありますが、1940年の1ヶ月の間
 に転出した女性が16人、転入したのが5人です。
  この事実は、非常に重要であります。
  契約期間が満了するか、然るべき理由が発生すると、
 女性たちは慰安所の外へと転出し、故郷に帰るか、また
 は他の慰安所に行ったのであります。
  この事実を、私は次の講義の時、より詳しくご説明を
 しながら、既存の研究者たちが主張する「性奴隷説」を
 批判しようと思っております(性奴隷ではない)
  その下をみると、慰安所別の1ヶ月の総収入があり、そ
 の次に慰安婦1人当たりの1日平均収入が示されています。
  1日の平均収入は、18ウォン程度であります。
  先ほど、階級別利用料金がありましたが、大体、計算
 してみると、女性達は、兵士、下士官、将校を一日に5人
 程と接したと思われます。
  大衆的売春産業が軍事的に再編成されるとき、その労
 働の強度は非常に厳しかったと言えます。
  前回、紹介しました、満州で発達した韓国人の売春業
 でのある女性は、一晩で30人とも接したそうですが、そ
 れは例外的なケースであります。
  とにかく、軍事的に編成された大衆的売春業の労働強
 度は非常に強烈なものであると言えますが、その分、高
 所得でもありました。
  1日の平均18ウォンというのは、当時、小学校を卒業し
 て工場に就業した女工たちの2ヶ月の給料であります。
  1日に2ヶ月の給料を稼ぐのであります。
  勿論、ここから、食費、生活費などを引きます。
  また業主(抱え主)からの前借金は大体200ウォン程度
 でしたが、この程度の収益だと前借金は女性たちを束縛
 するものにはなれないと思います。
  軍の保護下では営業は安定的でありました。
  この報告書を詳しく読むと、1940年の6月の1ヶ月間、
 慰安所で乱暴な行動をした下士官と兵士1人が憲兵たちに、
 どの様に抑えられたのかまでも報告書には記されていま
 した。
  はるか遠くの欽州まで朝鮮の女性たちは行ったとは思
 えません。
  ほとんどが日本人か現地の人であったと、広東自治区
 の現地の人であったと想像しますが、しかし、1942年に
 なると、日本軍が東南アジアに進撃する様になると、話
 が変わってきます。
  このはるか遠くまで朝鮮の女性たちの行列が続くよう
 になります。
  その事については、次の時間にお話しします。
  今日はここまでに致します。
  ありがとうございました。(1:16:34まで)
  (関連事項)
  その1:この詳しい講義で分かる様に、韓国が嘘を言
   う「日本軍が強制連行した」という事は一切なかっ
   たと明言して、説明した。
  その2:あらゆる方法で、朝鮮の貧しい家庭の女性を
   集めて連れて行った朝鮮の仲介業者(뚜장이、女衒)
   は莫大な金を稼いだと説明している。
  その3:朝鮮戦争の時のアメリカ兵士の慰安婦となっ
   た朝鮮女性が、畑で働いていた時に無理やり連れて
   行かれたということがあった・・この話が日本軍の
   しわざとされた(記憶の混同)
  その4:第二次世界大戦の直後、新宿の駅近く(今の
   フルーツ・パーラー辺り)で、進駐軍アメリカ軍)
   のジープが来て、道を歩いている日本女性を腕力で
   車に引きずり込んで、女性が助けを求めていたが、
   戦地から帰還した元日本兵が一人であり、また、ジ
   ープで走り去ったので助けることが出来なくて、悔
   しい思いをしたと語る・・
    朝鮮戦争の時も、この様なやり方で、朝鮮の女性
   がアメリカ軍の車に引きずり込まれ、連れ去られ、
   1ヶ月くらいして帰って来たという話がある・・
  その5:今、韓国で、20万人が連れ去られたと言う運
   動家(とてつもない嘘を言う運動家)が、「史実を
   示されず、何も反論が出来ず、そして、怒って、席
   を立って出て行った」・・韓国は、この様な運動家
   の嘘で扇動され、焚きつけられている。
    しかし、韓国の人たちは、この嘘の数字の20万人
   と思い込まされているのが現状となっている。
    韓国は、小学生の教科書までもが、「間違ったで
   たらめな数字」が書かれている。
    この様な検証されない数字で、韓国の小学校や中
   学校、そして、高校生まで、28年間も教えられ続け
   ている。
  その6:朝日新聞が嘘報道した「吉田清治の嘘」は、
   韓国の済州島の人まで、「その様な事はない」と否
   定している。
    朝日新聞はこの様な事を報道しないこと!
    また、韓国も、嘘の話で出来た大河ドラマを放送
   して何も知らない韓国の人々はそれを信じ込まされ
   ている。
    1日に150人の日本兵の相手をしたなどという「す
   ぐに嘘と分かる話で埋め尽くされたドラマ」が韓国
   で放送された。
    そして、最後は、日本兵に殺されるという悲惨な
   筋書きの悪意に満ちたドラマで、韓国の方々を洗脳
   している。(1:32:45まで)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

(増補版)658E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年10月~1896年11月)

題:(増補版)658E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年10月~1896年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・あくまでも、正しいことを教えてあげねばな
  らない!
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
.
1896年10月、篠ノ井線篠ノ井駅松本駅間が着工された。
  篠ノ井線(しののいせん)は、長野県長野市篠ノ井
 駅から長野県塩尻市塩尻駅までを結ぶ路線。
  当時、日本は、防衛のことをよく検討していた。
  関東と近畿を連絡する鉄道は、平時は海岸を走る海路
 の便があり・・
  戦時には、敵の攻撃を受けやすい海岸を走る東海道
 線ではなく、内陸部の中山道を経由する路線が検討され
 た。
  しかし、実際に、路線建設が行なわれると建設費がか
 さみ、また、山岳部などにより輸送力が制約された・・
  そのため、工事はほとんど進まず中止となった。
  しかし、資材輸送線として始まった直江津から長野を
 経由して上田へ至る路線は、そのまま建設が続行された。
  そして、さらに、延長されて、碓氷峠を越えて高崎ま
 でが、1893年4月に完工した。
  また、1892年6月に、鉄道敷設法が制定されていて、後
 に、中央本線と言われる路線の建設が始まっていた。
  これを受けて、長野県会は、1892年12月に、中央本線
 と信越本線を連絡する「長野若シクハ篠ノ井ヨリ松本ヲ
 経テ塩尻又ハ洗馬ニ至ル路線」を、第一期線に追加する
 ように帝国議会へ要請する決議を採択していた・・これ
 を中央連絡線と称した。
  1893年3月から鉄道庁の技師が派遣され、調査が行われ
 た。
  この結果、6つの路線が候補となった。
  しかし、そのどのルートを選んでも、険しい峠を長大
 トンネルで結び、そして、地質の悪い区間を通過しなけ
 ればならないという悪条件の重なる状況だった。
  その結果、距離が最も短い篠ノ井線が、建設費や運営
 の点で有利と判断された。
  この報告を受け、1894年6月23日、帝国議会で「長野県
 下長野若ハ篠ノ井ヨリ松本ヲ経テ前項ノ路線ニ接続スル
 鉄道」が第一期路線に格上げされ、起点は、篠ノ井と確
 定した。
  1896年予算で、建設費が決まり、明治28年度(1895年)
 から明治31年度(1898年)までの予定で施行されること
 となった。
  全線を11の工区に分けて、1896年10月に着工された。
  1900年から篠ノ井方より順次延伸され・・
  1902年に塩尻まで全通した。
.
1896年11月1日、全国の504の税務署が開署した。
.
1896年11月3日、米大統領選挙でウィリアム・マッキンリー
 が勝利し、第25代アメリカ大統領となった・・
  共和党ウィリアム・マッキンリーは、民主党のウィ
 リアム・ジェニングス・ブライアンを破った。
  この選挙を、歴史家たちは、アメリカ史の中でも最も
 劇的な選挙戦の一つとした・・が、ひどい金権選挙だっ
 た・・
  ブライアンより「10倍もの金を遣った」マッキンリー
 が、金の威力で勝利した選挙だった。
  マッキンリーの共和党選挙対策本部長のマーク・ハ
 ンナは、350万ドルの贅沢な予算に裏付けられ・・その金
 の威力を使った多くの近代的選挙技術を発明し、実行し
 た。
  対立候補のブライアンは、36歳・・
  ブライアンの演説は、非常に劇的だった・・
  主要政党で、大統領候補に指名された者として、最も
 若かった。
  多くの実業家や銀行家たちは恐れた・・それは、ブラ
 イアンが、人民主義的言葉遣いで人気を取って当選し、
 政権を取って、金本位制を終わらせるという政策を支持
 し、実行することに恐れていた・・
  ブライアンは、資金集めに苦労していた。
  マッキンリーは、南北戦争の退役軍人だった。
  マッキンリーと共和党は、金本位制アメリカ経済に
 は必要だ・・必須だと言っていた。
  共和党は、卑劣なことに、ブライアンの顔を書いた偽
 1ドル札を印刷してまでして、ブライアンを揶揄した、そ
 して、誹謗した。
  ブライアンの資金力は、マッキンリーの10分の1だった。
  ブライアンの魅力は、背が高く、人を魅了する雄弁な
 演説だった・・
  ブライアンは、信念と情熱を表現した・・
  彼を見るために、大勢の「莫大な群衆」が集まった・・
  南部や西部では、支持者がパレードをして、示威行動
 までして出迎えた・・
  これに対し、マッキンリーは、オハイオ州の自宅前で、
 しょぼくれた「玄関前」選挙運動を行なった。
  しかし、金の勢いで、有権者を自宅前に列車で連れて
 来るということをした。
  有権者集団は、そして、大歓待された・・
  その集団へ向かって演説がなされた。
  そして、マッキンリーの代わりの『国内遊説者』を、
 金に飽かせて、国中に回らせ、巡らせ、旅をさせた・・
  そして、ブライアンを危険な急進者と貶(おとし)め
 た。
  ブライアンが、もし選挙に勝てば、工場は閉鎖され、
 労働者は職を失うことになる・・という張り紙を張り巡
 らせた。
.
1896年11月8日、「古事類苑」の刊行が始められた。
  古事類苑(こじるいえん)は、政府が編纂した一種の
 百科事典。
  本文1000巻の官撰(かんせん)の百科事典として、我
 が国唯一のもの・・
  文化・社会など諸般の事項を採録
  1879年、西村茂樹が建議し、小中村清矩(きよのり)ら
   が編集に着手したのに始まった。
   文部省に編纂係が設けられ、企画され、編集が開始
   された。
  1890年、皇典講究所に委託される
  1895年、神宮司庁が編集を継続し、この部署で完成さ
   れた。
  1896年、刊行を開始する
  1913年、完結(1914年説あり)35年間が費やされた。
  内容は、古代から近世までの歴代の制度、文物、社会
 全般にわたり、天部、歳時部、地部、神祇部、帝王部、
 動物部、植物部、金石部など30部門に分類され・・
  さらに、編・条・項と分類している。
  また、付・併入を必要の時に加えた。
  中国や日本の先行の類書の体裁にならって部門分類し、
 古今の書籍・文書・六国史以下、1867年までの文献から
 原文のまま引用し、例証を収載して理解させようとして
 いる。
  江戸時代以前の日本文化の研究に大きな便益を供して
 いる。
.
1896年11月14日、雑誌『二十六世紀』が発行禁止となる。
  土方宮内大臣の行状を痛烈に批判し、伊藤首相へも攻
 撃したため発行禁止となった。
  論文転載の新聞『日本』、批判を支持した『万朝報』
 『国民新聞』なども発禁になった。
  この事件を契機に、新聞紙条例から発行禁止や停止を
 廃止する改正が実現した(1897年)
.
1896年11月17日、神戸でキネトスコープ(のぞき眼鏡式活
 動写真)の上映が始まった。
  (11月25日から12月1月までの説がある・・日本映画の
 日が12月1日であるのは、これから来ている)
  日本初の活動写真が、神戸神港倶楽部で上映された。
  高橋新治が輸入した「キネトスコープ」(ニーテスコ
 ップ・・電氣作用寫眞活動機械)の映像を滞在中の小松
 宮彰仁親王に見せた。
  因みに、キネトスコープはエジソンが発明した。
  1893年、シカゴ万国博覧会に出展され・・
  1894年4月14日、ニューヨークのブロードウェイ1155番
   地に世界初の映画館(キネトスコープ・パーラー)
   が設置された。
   この箱をのぞき見する型は「ピープショー」と呼ば
   れ世界で大ヒットした。
   スクリーンに投影されて皆が見られる型は、1895年
   にリュミエール兄弟が発明する「シネマトグラフ」
   を待たねばならない。
.
1896年11月21日、客車等級別塗装の最初がなされた。
  関西鉄道が、客車の外側を帯で塗り分け塗装をして、
 等級を判別させた。
  上等が白、中等が青、下等が赤・・
  これは、誤乗車を防ぐというためだった。
  1872年の鉄道開業の時にも、客車は3等級とされ、上等・
 中等・下等に区分していた。
  また、下等の名称が乗客の感情を害するため、1897年
 11月、一等・二等・三等へ変えられた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本の対馬が、韓国に乗っ取られようとしている。
   有志の議員団が、この日、緊急要望書を出した。
   また、中国が、その韓国にとって代わろうとする意思がうかがえる。
.
紀元前5世紀頃、生姜(ショウガ)が、インドや中国で栽培さ
 れ始めた。
  生姜は、ショウガ科の多年草で、食材や生薬として広
 く利用されている。
  原産地は、熱帯アジア。
  日本には、2世紀〜3世紀、中国から伝わった。
  奈良時代になり栽培が始まる。
  薬効は、発汗、健胃、鎮吐作用など。
     ・
     ・
15世紀半ば~17世紀半ば、大航海時代
  中世において、キリスト教は、ヘブライ語聖書なども
 動員して「年代決定を検討し、そして、その齟齬(そご)
 を決定し、直して来た」。
  そして、時代が、大航海時代に入ると、「新しい知見」
 が知られ・・新しい知識が入って来て・・それまでのキ
 リスト教が行なって来た「決定し直して来た年代」まで
 もが、また、齟齬(そご、食い違い、合わないこと)が
 生じた。
  このことにキリスト教は焦(あせ)った。
  加えて、科学的知見も、この時代、新たに人々は知る
 様になると、それとの齟齬も生じていた。
  あらゆる面からキリスト教普遍史の年代決定は崩れて
 行った。
  この様な事は・・当然の事だった。
  何も知らない古代・・空想で作り上げて来た「キリス
 ト教のストーリーだった」・・
  その様なものが、正しい結果を示す事こそ「奇跡だっ
 た」。
  当然、その様にはならなかった・・事実を示された大
 航海時代だった。
.
1609年、ケプラーが「惑星の法則」を発見し、また、ガリ
 レオが、この年、天体望遠鏡を発明した。
  この近代科学の知見は、それまでのキリスト教によっ
 て築かれて来た迷信的社会へ衝撃を与えた。
  有名なガリレオの宗教裁判が開かれた。
  キリスト教は焦(あせ)った。
  しかし、人々は、これを契機に次々と科学的知見を得
 て行く・・その様な智識を知った人々となった。
  キリスト教の矛盾に目覚めて行った。
  大航海時代の知見とともに「地球規模の理解を得よう
 とする思考」・・そして、キリスト教の迷信から脱却し
 て行った。
  17世紀は「科学革命」に開かれた時代だった。
  同時に、市民たちは、「自分たちの思想」を主張し始
 めた。
  キリスト教聖職者が演じた「虚飾の世界」の終焉が始
 まった。
  理性が民衆の手に戻って行った。
  人間の能力が主導権を握り出す17世紀は、「科学革命
 の世紀」だった。
  人間や社会を「理性に照らして吟味する人々」になっ
 た。
  「(キリスト教の)神の似姿の人間」の話は、作った
 話だと「皆が、誰もが思う時代」へなって行った。
.
1618年、北海道の金山で働く人を訪問するキリスト教聖職
 者・・
  キリスト教イエズス会士のアンジェリスは、1618年と
 1621年の二度、北海道の松前の金山に働くキリスト教
 を訪問した。
  また、カルバーリョも、1620年、やはり、松前の金山
 のキリスト教信徒を訪問している。
.
1743年、コンドルセが生まれた。
  コンドルセ(1743年〜1794年)は、フランス革命期の
 代表的な啓蒙思想家・・そして、革命家であるが・・
  彼は、はっきり言った「自然が我々を生んだ・・そし
 て、その地球」と・・
  キリスト教の神による「創造の神秘」を否定した。
  また、「キリスト教の神によるアダムの創造」も彼は
 否定した。
  根本的出発点に「人間には独自の『人間能力』がある」
 とした。
  人間の精神活動を行なう能力、理性を持つ独自性を言
 い、キリスト教の神の呪縛から解き放った。
  理性の存在する人間を謳った。
  自然体系の中の存在、その一員としての人間という、
 至極、当然な考え方に至った。
  しかし、今・現在でも、その呪縛に捉われ続けている
 人たちが居る。
     ・
     ・
1939年3月28日、スペイン内乱が終結する。
  この終結した1939年以来、33年間も、同じ独りのファ
 シストに支配されてしまった国=スペイン。
   労働者革命の挫折した国、インターナショナリズム
 の墓場となった国、国際義勇兵が絶望した国、そして、
 勝利した独裁者が、なお生きて、コインに刻印され、暴
 力装置を握っていた国だった・・
  「スペインは、眼の国だ」と言う・・
  「猜疑的な眼」がどこにもみられた。
  バレンシアの郵便局の玄関には、二人ずつ、兵隊の様
 な緑色の服を着た男が、横柄に立っていた・・監視兵だ
 った・・
  注意してみると銀行のドアの影、駅、広場、市庁舎、
 ホテル、大学、バザール市場、そういう人の集まりそう
 な場所に、監視専門の「眼」の居ることが分かった。
  外国人旅行者へも眼が光り、どんな辺鄙(へんぴ)な
 海辺のキャンプ場に行っても、ものの10分としない内に、
 どこからともなく「眼」が現れた。
  ライフルを肩から下げている眼もあった。
  カルタヘナの海では、軽機関銃を持つ陰気な男の「眼」
 に晒(さら)され、近づいて来て、人品を胡散(うさん)
 臭そうに確かめられた。
  ちなみに、1939年1月、バルセロナは陥落した。
  1939年3月27日、フランコ軍は、マドリードに入城し、
 スペイン共和国は崩壊した。
  150万人もの方々の難民も出た。
  ぼろをまとい、子供の手を引いた方々が、長い行列を
 作って、凍った道を逃れて行った。
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2017年6月、タカタ株式会社が潰れた。
  タカタ株式会社は、エアバッグ・シートベルト・チャ
 イルドシートなど、自動車用安全部品を製造していた日
 本の企業である・・
  2017年6月に、負債総額1兆円を超えて製造業としては
 戦後最大の経営破綻をした。
  タカタ株式会社は、シートベルト・チャイルドシート
 エアバッグなどを製造していた企業であり、自動車メー
 カーからの出資を受けていない完全独立の部品メーカー
 だった。
  創業の地である彦根市と、その周辺の長浜市愛荘町
 に、日本国内の製造拠点があった。
  エアバッグでは、世界市場でシェア 20%を占めていた
 (2011年3月期)
  1933年、高田武三が、彦根で高田工場として創業した。
  織物製造を開始し、織物の技術を活かした救命索も製
 造した。
  2006年11月、東京証券取引所に上場した。
  2017年6月26日、同社の主力商品のエアバッグの欠陥
   リコールにより、最終的な負債が1兆円を超える見通
   しとなり、東京地方裁判所民事再生法の適用を申
   請した。
  国内の製造業では、戦後最大の経営破綻だった。
  なお、タカタ本体には、欠陥リコールの原因となった
 硝酸アンモニウムを使ったインフレーターの製造・販売
 事業を残し、他の事業を米国のキー・セイフティー・シ
 ステムズ(中国の寧波均勝電子の100%子会社)に譲渡せ
 ざるを得なくなり、譲渡した。
  2017年7月27日、上場廃止となった。
  経緯・・
  エアバッグの草創期より製造を進めてきた経緯から、
 トヨタ自動車本田技研工業日産自動車をはじめとす
 る日本の自動車各社のほか、フォルクスワーゲン、BM
 W、メルセデス・ベンツフォード・モーター、GM、
 フェラーリ、テスラ、マクラーレンなど各国の自動車メ
 ーカーにも納品し、世界シェアは2位に上った。
  1セット数千円の単価ながら、2014年3月期決算では、
 社の売上高の約4割がエアバッグによるものとなった。
  2004年、Honda Accordでエアバッグが爆発し、金属
 片で運転手を傷つけると、タカタはそれを異常と呼んだ。
  2008年頃より重要部品である、膨張ガスを発生させる
 インフレーター関連の不具合が相次いで判明、米国とマ
 レーシアでは破裂したインフレーターの金属片により死
 亡事故も起きた。
  2008年11月より断続的にリコールが行われている。
  2014年11月時点で対象車の累計は1,700万台に達した。
  2015年11月、アメリカ合衆国運輸省の国家道路交通安
   全局(NHTSA)は、タカタのエアバッグの欠陥を企業の
   不祥事と位置づけ、同社が適切なリコールや情報開
   示を行わなかったため、アメリカ国内で被害を拡大
   したとして最大2億ドル(約240億円)の民事制裁金
   を科すと発表した。
  NHTSAが一社に科す制裁金としては過去最高額だった。
  タカタと自動車メーカーに対して、2019年末までに、
 エアバッグの修理を完了するように命じた。
  制裁金に加えてリコール費用、訴訟費用が巨額に膨ら
 む可能性があり、会社存続の危機と指摘された。
  日本経済新聞によると、2016年4月時点でエアバッグ
 のリコール対象となる搭載車は世界で1億台以上、費用は、
 総額1兆円に上るものとみられる。
  街の声・・
  自動車が衝突するとき、その衝突が激しい時、運転し
 ていた人は、その衝突の対象物がその運転者に達しない
 時でも、運転者を衝突対象物が運転者に直接ぶつからな
 くても、運転者は死ぬ時がある。
  それは、運転者が慣性の法則によって前方へ投げ出さ
 れるからである。
  前方へ投げ出された運転者は、衝突対象物に達しない
 で、衝突対象物との衝突が避けられたとしても、運転者
 はそれで死ぬ。
  それは、運転者の非常に近い位置に「ハンドルがある」
 かあらでもある。
  当然、運転者は、運転の必要性からハンドルは運転者
 の非常に近い位置に置かれている。
  だから故に、このハンドルに衝突して死んでいる。
  まったく多くの人々が、これで亡くなった・・
  この状態から大勢の運転者の方々の命を救えないかと
 考え・・考えだされたのが「運転者がハンドルに衝突す
 る直前に、その運転者の命を救う衝突衝撃吸収材を存在
 させる」という考え方だった。
  この衝撃吸収材を作り出すことが「多くの亡くなる方々
 を救うヒントだった」。
  その解決策は、衝突衝撃で亡くなろうとしている運転
 者の前に、その衝突直前に、バルーンの柔らかい衝突衝
 撃吸収材を膨らませようという考え方だった。
  苦労の研究開発が始まった。
  「多くの方々の命を救え」と研究者たちは、一生懸命
 に研究し、努力した・・色々な試作品が出来た。
  それでも、より多くの命を救うという大きな使命の下
 に、色々な技術や知恵が取り入れられ、改良も加えられ
 た。
  多くの人々を救うため、早く世の中に出したいという
 研究者や関係者の使命感もあった。
  実際のテストも繰り返され、何度も繰り返され、製品
 の品質向上もさせ、多くの方々を救うものが、やっと世
 に出せることが出来た・・やはり多くの人々を救くった。
  偉大な功績だった。
  この製品で、器機で、自動車衝突という不幸中の中に
 も、自動車運転者の命を、多くの自動車運転者の命を救
 った・・その様な製品だった。
  正に研究開発者の優しさが、製品に、商品になったよ
 うだった。
  しかし、あらゆるものに完全は無い・・あらゆるもの
 に100パーセントは無い。
  そのわずかな部分で、その商品目的が達せられなくて、
 多くの方々を、本当に多くの方々を救っているにもかか
 わらず、そのわずかな部分において、製品目的が達せら
 れなくて、亡くなる方が出てしまった。
  人の命という事で、大切な人の命という事で大問題と
 なった。
  そして、その多くの人々を救って来たその会社は潰(
 つぶ)れてしまった。
  巨大な賠償金を課して、会社を潰したたアメリカは正
 義だったのか?
  問題は確かにあった・・確かにそれは大きな問題では
 あるが、この会社が救ったそれ以上の多くの命に目が行
 っていない。
  また、この後、これから救われるだろう方々の存在に
 も目が行っていない。
  また、この会社が、中国の会社になってしまったとい
 うことが気になる・・
.
2019年9月5日、中国は、チベット族やウィグル族などの
 土地を「同化政策」の名の下に、奪う行為の圧力を強め
 た。
  この日の読売新聞によると・・抜粋・・
  習近平政権は、「中華民族」だという名目を掲げてい
 る。
  その名の下に「同化圧力」を強める政策をとっている。
  国有企業の進出には「反対が許されない」。
  中国北部・内モンゴル自治区、中部バインノール市の
 草原の中で、羊飼いのムチの音が聞こえた。
  50頭余りの群れを追うモンゴル族の郭貴月さん(70歳)
 の姿を見つけた。
  郭さんの放牧地の北には国有企業の金精錬工場の敷地
 が広がる。
  工場建設に伴う土地の接収で、多くのモンゴル族が去
 ることになり、辺りで放牧を続けるのは郭さんだけにな
 った。
  草原には、寂れた家畜小屋や民家がただずみ、半野生
 化した馬が草をはむ。
  「国有企業に、我々の場所に作らないでほしいと言え
 なかった」。
  郭さんの顔のしわがひときわ深くなった。
  自治区は、金やレアアース(希土類)、石炭など鉱物
 資源が豊富だ。
  中国の経済発展に伴い2000年以降、自治区外からの国
 有企業の進出が本格化した。
  生態環境省によると、鉱山開発による草原損失面積は、
 2015年までに、香川県に匹敵する1835平方キロメートル
 に上る。
  郭さんの放牧地近くの工場を巡っては2014年、漏れ出
 した毒物が原因とみられる羊の大量死が起こった。
  昨年1月以降、一部のモンゴル族が環境汚染の改善と不
 当な土地収用への補償を求め政府に陳情をしようとした
 が、米政府系のラジオ自由アジア(RFA)によると、
 当局に拘束された。
  モンゴルの人々は、13世紀に広大な帝国を築いた。
  中国の清朝崩壊後、最終的に旧ソ連の影響が強かった
 地域が「モンゴル人民共和国」として独立した。
  南隣の地域も一緒に独立を模索したが、結局、内モン
 ゴル自治区として中国に残った。
  自治区に民族の名を関しているものの、モンゴル族
 清朝の頃から人口で漢族に圧倒されてきた(漢族の流入
  (日本の北海道にも漢族が流入するだろう)
  現在、漢族は約8割、モンゴル族は2割弱という割合だ。
  両者の摩擦は絶えない。
  今年4月にも、バインノール市で、100人超のモンゴル
 族が生活改善を求めて地方政府庁舎に詰めかけた。
  公安当局ともみ合いになって怪我人も出た。
  「抗議が収まらないのは、生きるために最低限必要な
 草原を奪われ、文化をないがしろにされて居るからだ」。
  自治区出身で米ニューヨークを拠点に自治区の状況を
 発信するとトゴチョグ・エンフバトさん(46歳)はモン
 ゴル族の思いを語る。
  包頭市政府は、昨年6月、草原の中にモンゴル伝統の移
 動式住居「パオ」を建て始めた。
  今や30か所に上る。
  その一つに4月、地元の共産党幹部が100キロメートル
 四方の草原に暮らすモンゴル族10人を招いた。
  特別に習近平総書記(国家主席)のパネルを飾ったパ
 オの中で、幹部は「党は経済発展と民族団結を促し、辺
 境地域の安定を図る。党の指導を聞き、協力してほしい」
 と呼び掛けた(中国化政策)
  パオは、当局が中国共産党の指導を広めるための拠点
 だ。
  だから、外面は乳白色でも「紅色蒙古包(赤いモンゴ
 ルのパオ)」と名付けられている。
  草原に指導の網を張り巡らす背景には、「モンゴル族
 は容易の扇動され、政府に対抗しかねない」(漢族の地 
 方政府幹部)との不信感が垣間見える。
  緊張は続く。
  (関連事項)
  モンゴル人民共和国と共に独立の行動をすればよかっ
 た。
  その後の、漢民族流入と共に漢民族が多数となって
 しまった。
  他の自治区と同様、この地も、モンゴル族は、強制的
 に他へ移住させられたりもしたのだろう・・
  他と同様・・その様なことで漢民族が圧倒的多数とな
 ったのだろう・・この様な方法で国が奪われていく・・
  (参考)モンゴル族は、13世紀に巨大な版図を誇った
     モンゴル帝国の末裔だ。
      チベット仏教を信仰する人が多く、主に牧畜
     業に従事する。
      かつては家畜の群れとともに移動生活を送っ
     ていたが、現在は定住生活を営む。
      固有の言語を有し、民族楽器である「馬頭琴
     は日本でも親しまれている。
      中国国内に約598万人おり、内モンゴル自治区
     内には約420万人が暮らす。
      ただ、自治区の総人口(約2470万人)の約17
     %に過ぎず、漢族が約79%を占める。
  (参考)モンゴル族の主な抵抗の歴史・・
     1995年12月、フフホト、モンゴル族の活動家の
      8人が拘束された。
      反発した学生らが2度のデモをした。
     2011年5月、シリンホト、炭鉱開発に抗議する
      モンゴル族が漢族にひき殺される。
      自治区各地で抗議のデモが起きた。
     2013年5月、赤峰、放牧地の不法占拠に抗議した
      放牧民6人が拘束された。
     2018年7月、興安盟、江蘇省の企業と開発に抗議
      する遊牧民が衝突した。
      怪我人が多数出た。
     2019年4月、バインノール、100人超のモンゴル
      族が生活改善を求め地方政府庁舎に詰めかけ、
      公安当局ともみ合いになる。
.
2019年9月15日、脱中国が世界の流れになって来ている。
  東南アジアが、その「脱中国」の受け皿になる積極的
 姿勢の状態にある。
  その様子を伝えたのが、この日の読売新聞・・抜粋
  東南アジア諸国が、中国からの生産移転の受け皿を目
 指す動きを強めている。
  米中が制裁・報復関税の報酬で対立を深めていること
 を受け、中国から生産拠点を移す事を計画する企業が増
 えているためだ。
  各国は、税制優遇策などをアピールし、投資を呼び込
 もうとしている。
  タイのソムキット副首相は10日の閣議後、記者団に対
 して強調した。
  「米中摩擦をチャンスとして、海外企業の誘致を拡大
 する」と・・
  タイ政府は、この日、中国から工場などを移転する企
 業への優遇措置をまとめた政策「タイランドプラス」を
 決めた。
  最大50パーセントの法人税減税などが柱だ。
  プラユット首相が、トップを務める投資運営委員会を
 儲け、規制緩和にも取り組む。
  投資運営委員会には、タイに移転する企業を手続き面
 で支援する特別チームを置く。
  スリヤ工業相は今月中に日本を訪れ、日本企業にも優
 遇策をアピールする計画だ。
  フィリピンでは、ロペス貿易産業相が11日、「今が中
 国から製造業を呼び込む良い機会だ」とする声明を発表
 した。
  国家経済開発庁と連携し、外資の参入規制緩和などに
 取り組むことを明らかにした。
  人件費の安いカンボジアは、縫製品などで、中国に代
 わる生産拠点として存在感を増している。
  米国向け輸出の増加もつながっており、1月~6月の対
 米輸出額は22億ドル超と前年同期から3割近く伸びた。
  後発開発途上国として、米国や日本に輸出する際、関
 税が低くて済むという強みもある。
  米ファッション産業協会の調査では、約半数の加盟企
 業が今後2年以内にカンボジアでの調達拡大を検討してい
 る。
  カンボジア縫製業協会のカイン副事務局長は、「生産
 移転の流れは鮮明だ。
  設備投資と人材育成を進め、需要を取り込みたい」と
 話す。
  ミャンマーでは、日本が支援する経済特区への在中企
 業の視察が増えている。
  アウン・サン・スー・チー国家顧問は8月、日米共催の
 投資フォーラムで、「規制の緩和をさらに進め、経済発
 展のパートナーとなる企業を呼び込みたい」と意気込ん
 だ。
  実際に、中国から東南アジアへの生産移転に向けた動
 きは広がりつつある。
  タイ地元紙によると、すでに台湾の電源大手、デルタ
 や音響機器のメリーエレクトロニクス、日本のリコーや
 シャープなど10社ほどがタイへの工場移転を計画。
  米タイヤメーカー大手など30社以上が東南アジアへの
 移転を検討している。
  各国は、こうした移転の動きを一段と加速させ、陰り
 の見える経済の成長につなげたい考えだ。
  東南アジア諸国連合ASEAN)主要6カ国の今年4
 月~6月期の国内総生産(GDP)は、米中対立を受けた
 中国景気減速の影響で、内需が堅調だったマレーシアを
 除き、いずれも減速した。
  各国は、生産拠点の増加で先進国向け輸出が増えれば、
 低迷する対中輸出を補えると見込んでいる。
.
2019年9月18日、日本の対馬が、韓国に乗っ取られようとし
 ている。
  有志の議員団が、この日、緊急要望書を出した。
  以下・・その抜粋・・
  『対馬振興強化に関する緊急要望』
                            日本の尊厳と国益を護る会
  去る16日、私たちは、長崎県対馬の現状を視察しま
 した。
  対馬は、わが国にとって古来より大陸や朝鮮半島との
 交易の窓口として、また、わが国防衛の要として大きな
 役割を担ってきました。
  しかし、止まらぬ過疎化や高齢化の中で、対馬に韓国
 の資本と人が入り込み、漁場が荒らされたり、自衛隊
 地の周辺など安全保障上重要な土地も韓国資本に買収さ
 れているなど、わが国にとって極めて重要な要衝の地の
 将来が危ぶまれる状況になっています。
  また、中国も、韓国にとって代わろうとする意思がう
 かがえます。
  そして、昨今の揺らぐ朝鮮半島情勢を鑑みると、今後、
 対馬のわが国の安全保障上の重要性はかつてなく高まる
 ものと予想されます。
  そこで護る会は、対馬をわが国にとって戦略上の重要
 拠点と位置づけた上、下記の対策を早急に講じ、対馬
 興に力強い新たな一歩を踏み出すよう、速やかな実施を
 要望します。
                 記
 1.「対馬振興法(仮称)」を制定し、国境の要衝としての
  対馬の位置づけを明確にするとともに国土の保全を図
  り、島民の目線に立った総合的な対馬振興計画を策定
  し、これらを両輪で実施すること。
 2.国民が対馬の歴史と文化に一層容易に触れられるよう、
  現在、有人国境離島法の対象とはなっていない対馬
  の旅行者の航空運賃等の引き下げを、大胆に躊躇なく
  実施すること。
 3.対馬への修学旅行等を増やすための助成を行うこと。
 4.海上自衛隊防備隊周辺の土地を国有化するとともに、
  朝鮮半島有事を想定し港湾の整備を行うこと。
 5.国境防衛の要となってきた対馬の歴史も含め、福岡に
  元寇に関する公的な歴史館を設置すること。
  (参考)
  中国と韓国は、最近、大変緊密になって来ている。
  この対馬の工作は、韓国にさせて、煮詰まって来たら
 中国が乗り出すという手を取っていると見られる。
.
2019年、対馬海峡を見て思う事
  (参考:長尾たかし議員のホームページ)
  日露戦争で日本帝国海軍がバルチック艦隊と戦った日
 本海海戦の主戦場、対馬海峡を見て思った事。
  朝鮮半島有事が起きた際、或いは南北統一が現実のも
 のになった時、この海(対馬海峡)が「38度線」となっ
 て、朝鮮半島と日本との軍事境界線になるのだろうと。
  そして、台湾、尖閣諸島有事と連動するのだろうと。
  その過程において軍事的な対応は米国が何とかしてく
 れると思うことは、完全に誤りであり、米国の事情、北
 朝鮮、中国、ロシアの本音を理解していない浅はかな考
 えです。
  確かに朝鮮半島有事が起きれば主として対応するのは
 米国です。
  しかし、米軍の軍事的キャパはこれで一杯です。
  その時は、台湾を含む尖閣諸島など他の地域の防衛が
 手薄になることを覚悟しなければなりません。
  日本も北朝鮮からのミサイル攻撃に対応するため、イ
 ージス艦などは日本海に展開せざるを得ず、海上保安庁
 も在韓邦人の救出の対応を迫られることになれば、尖閣
 諸島や沖縄、南西諸島、台湾はガラ空き、防御は不可能
 となります。
  そして、我が国にとって生命線である台湾、台湾海峡
 が、中国に抑えられる。
  朝鮮半島有事が起きてほくそ笑むのは中国なのです。
  我が国の防衛体制も予算も、深刻なまでに足りないの
 です。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

(増補版)657E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年9月~1896年10月)

題:(増補版)657E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年9月~1896年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・あくまでも、正しいことを教えてあげねばな
  らない!
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民の選択を受けない指導者たち・・民主化が達
  成できない国=中国・・
.
1896年9月28日、蜂須賀茂韶(はちすかもちあき)が、文相
 (第 2次松方内閣)となる。
  1846年9月28日、生誕~1918年2月10日、死没
   阿波国徳島藩の第14代(最後)の藩主。
  1872年(26歳)明治維新の時、オックスフォード大学
   に留学。
   侯爵、
  1896年(50歳)3月14日、勲一等瑞宝章
  1903年(57歳)12月26日、旭日大綬章
  1918年(72歳)2月10日、旭日桐花大綬章
.
1896年9月 ロシアが、豆満江上流地域・鴨緑江上流地域・
 鬱陵島・茂山の森林伐採権を取得した。
  ロシアが、朝鮮半島の利権をじわじわと奪って行く。
  また、1903年には、ロシアは、この権利(森林伐採権)
 を悪用して、ロシア軍を鴨緑江河口の龍岩浦に駐屯させ
 た・・そして、軍事基地を作ろうとした。
  朝鮮半島地域を軍事力をもって牛耳り、そして、ロシ
 ア領土化しようとした・・
  日露戦争の原因の一つとなった。
  (参考)豆満江:とうまんこう、中国と朝鮮の国境の
     白頭山(中国名:長白山)に源を発する。
      中華人民共和国(中国)、朝鮮民主主義人民
     共和国(北朝鮮)、ロシアの国境地帯を東へ流
     れ日本海に注ぐ、全長約500kmの河川。
  (参考)鴨緑江:おうりょっこう、中国東北部北朝
     鮮との国境となっている川。
      白頭山に源を発し黄海に注ぐ。
      水の色が鴨の頭の色に似ていると言われたこ
     とからこの名がある。
  (参考)鬱陵島:うつりょうとう、朝鮮半島の東、日
     本海に浮かぶ直径10キロメートルの島。
  (参考)茂山:むさん、もさん、朝鮮半島北部に位置
     する。
      北東アジアで最大規模の埋蔵量を持つという
     鉄鉱山・茂山鉱山がある。
      満州族女真族)など中国東北地方の諸族が
     朝鮮半島へ侵入する通路の一つにあたり、朝鮮
     の李王朝は、ここに兵営を置き北辺防備をした。
.
1896年10月1日、川崎造船所(後の川崎重工業)が設立され
 た。
  兵庫県神戸市に設立された川崎造船神戸工場の前身で、
 後の、川崎重工業株式会社(10月15日説あり)
  1869年、加賀藩士の3人が、加賀藩の七尾造船所が閉鎖
   されたため、その設備を譲り受け、兵庫川崎の浜に
   設立したことに始まる・・
   この事と・・
  1878年、川崎正蔵は、近代的な造船所の必要性を感じ
   ていた・・そこで・・
   東京の築地に川崎築地造船所を設立した。
  1881年、川崎正蔵は、また、神戸に川崎兵庫造船所を
   設立した。
   まだ、日本は、和船が重んじられていた時代で、経
   営は苦しかった・・
   官糖の取り扱いで利益を得て、事業を支えていた。
  1880年、国が、官営工場を民間に払い下げる方針を示
   した。
  1886年、官営・兵庫造船所が、川崎正蔵に払い下げら
   れた、設備は優れていた・・この機能を取り入れた・・
   そして、名称も、川崎造船所と改称された。
   東京は閉鎖され、神戸に集約する・・
  1994年、日清戦争が事業を拡大させた・・新造、修繕
   の需要が増大した・・
  1896年10月15日、株式会社川崎造船所が設立された。
   松方正義の3男の松方幸次郎が初代の社長となった。
   川崎正蔵の息子たち3人は運悪く亡くなっていた。
   川崎には、養子の4男が居たが、まだ10歳であるため、
   松方が後継者とされた。
   社長は、積極的に設備投資をし、拡大して行く・・
.
1896年10月16日、東武鉄道が設立された。
  伸び盛りの日本である・・次々と会社が設立された。
  また、富国強兵の下、盛んに国力の充実に努められた。
  新千円札の顔となる渋沢栄一も盛んに貢献する。
  この日、東武鉄道東武グループの中核となる企業)
 が設立された。
  1895年(明治28年)4月6日:創立願いが出された。
  1896年6月22日、仮免状が下付された。
  1896年10月16日、創立総会が開催された。
   役員の選任(専務取締役:末延道成、取締役:今村
   清之助、南條新六郎、原六郎、渡辺洪基
  1899年8月27日、初の路線である現在の伊勢崎線の北千
   住駅~久喜駅間が開業した。
  1945年3月10日、東京大空襲により東京の下町地区が大
   被害を受けた・・東武鉄道も、浅草地区を中心とし
   た伊勢崎線沿線が被災した。
  1945年4月13日、国際法違反となるアメリカ軍による民
   間人殺戮、及び、民間施設を攻撃対象とする攻撃が
   盛んに行われた。
   東武鉄道も、この空襲により池袋地区を中心とした
   東上本線沿線が被災する。
  2012年5月22日、東京スカイツリーをはじめとした、東
   京スカイツリータウンを開業させた。
.
1896年10月21日、税務管理局官制公布されて、全国に税務
 署が設置された(11月説あり)
  47府県の収税部は、全国23の税務管理局に再編・統合
 されて、府県収税部のもとに置かれていた収税署は、税
 務署と改称された。
  これによって、これまで、府県が取り扱ってきた国税
 事務は、大蔵省主税局のもとに一元化されて、税務行政
 の統一的な執行体制が成立した。
  設立当初の税務署は、税務管理局の出張所のような機
 関だったが・・
  1902年、税務監督局官制と税務署官制の施行によって、
 税務管理局は、税務監督局へと改組され、税務署の監督
 機関、税務署は、国税の執行機関となり、役割が明確に
 区別されるようになった。
  創設された当初の税務署の機構は、直税・間税・庶務
 に分かれていた。
  1896年の租税収入の割合は・・
  ①地租46%、②酒税23.8%、③所得税2.2%、④その他
 28%・・
  その他には・・営業(収益)税、個別消費税、関税、
 印紙収入など・・
  直税課は、地租、営業税、所得税などを担当したが、
 この時代は、地租が高い税収入を占めていて、職員は、
 土地の分合筆、地目の変換、災害などの際には、税務署
 に備え付けの土地台帳などの帳簿類を修正するほか、管
 轄内の土地の実地検査を定期的に行っていた(豊臣秀吉
 の検地を思い出される)
  土地の測量には、器具を用いた・・「測板(平板)測
 量法」が採用されていた。
  この測量技術の修得のため、税務職員を対象にして、
 各税務監督局内では講習会が開かれた。
  また、税務署が主催する町村職員に対する測量講習会
 も開かれた。
  間税課は、間接税を担当した・・その中心は酒税。
  1899年から、酒税が、国税収入の首位を占めるように
 なり、重要性が高まった。
  1899年、自家用酒の醸造が全面禁止された。
  密造酒の取り締まりも、間税職員の重要な任務となっ
 た。
.
1896年10月25日、南和鉄道が、葛駅~五条駅間を開通させ、
 また、五条駅~二見駅間を開通させて、高田駅~二見駅
 間を全通させた。
  南和鉄道は、奈良県にあった私鉄。
  後に、1904年12月9日、関西鉄道に買収され・・さらに、
 国有化へ・・
  奈良県吉野川流域には、大阪鉄道が、当初の広大な
 計画の一部として路線を建設するものとされていた。
  しかし、その実現性は、少なくなって行く推移をした・・
  そのため、地元資本で路線敷設をしようということに
 なった。
  大阪鉄道の高田駅から分岐し、五条駅に至る鉄道敷設
 を申請する。
  1891年、仮免許が下り、
  1893年、免許が下付され・・
  1896年、全線が開通した・・
  五条駅~二見駅間は、吉野川水運、主に、木材運搬の
 ために建設された路線だった。
.
1896年10月、日本郵船が、豪州航路を開設した。
  日本郵船の始まりは、岩崎弥太郎に始まる。
  同郷・土佐の坂本龍馬が率いる海援隊・・その商法に
 思想面で影響を受けた岩崎弥太郎だった・・
  生まれ育った土佐で、海運業を興す決意をした。
  岩崎彌太郎は、藩の汽船を購入し、その資金調達の仕
 事を通して経営方法を学んだ。
  1870年(明治3年)東京・大阪・高知間で、海上物資輸
   送を行う九十九商会(後の三菱商会)が大阪市西区
   で設立された。
    そして、三菱財閥三菱グループ)の源流企業と
   なって行く・・
  1875年(明治8年)国有会社である日本国郵便蒸気船会
   社の経営が、岩崎弥太郎に任された。
   (三菱商会が郵便汽船三菱会社へ改称される)
  1875年、郵便汽船三菱会社は、en:Pacific Mail Steamship
    Company と契約をし・・
    政府の援助や吉岡銅山の利益を元に、洋銀78万ド
   ルを支払って部分的な事業譲渡を受けた。
  1885年(明治18年)政府の仲介で、郵便汽船三菱会社
   と三井系国策会社である共同運輸会社は合併し、日
   本郵船会社が設立された。
  1896年、驚愕的な航路の開設をする・・
   欧州・米国、豪州に一挙に定期航路を開設した・・
   世界の海運界を驚愕させた。
    それまで、日本の定期航路は、遠洋といえどもイ
   ンド洋までだったが、それが、太平洋を制覇して、
   インド洋、地中海を経て、大西洋に至るという大事
   件だった。
  そして、今・現在、国内・海外を合わせて350以上の都
 市の港へ、755隻の船を運行させ乗り入れている・・世界
 最大手の海運会社のひとつとなっている。
  因みに、ユダヤの方々を、ナチスから救ったのは日本
 郵船だった。
  日本経由で、パレスチナや北米へ向かう難民たちの救
 出に協力した。
  ユダヤ人難民のリーダー、ゾフラ・バルハフティック
 は、その著書『REFUGEE AND SURVIVOR』の一章、NYK PROJECT
 に、当時の模様を克明に記している。
.
  (今日の言葉)
.
  題:韓国の方々が、自国の文在寅ムン・ジェイン)政権の行動を批判し始めた。
    自国の政権がしていることを「おかしい」「嘘だ」と言い出した・・「虚飾されている」と言い出した。
    李氏朝鮮の時代も「嘘をついて、国が滅びて行った」が、今もその様なことをしている・・と言い出した。
    今、韓国・朝鮮の良識ある知識層が声を上げ始めた・・
.
1523年、「モルッカ諸島記」という世界一周記が発刊され
 た。
  1521年、マゼランは、世界一周を果たせず、フィリピ
 ンで戦死していた。
  (マゼランが、世界一周をしたというのは間違い)
  世界一周を目指した船は5隻だったが、スペインに帰着
 できたのは「たったの1隻だった」。
  そして、この本は、やっと帰り着いた船員から聞き書
 きしたものだった。
  船員たちは言う・・
  「世界を一周して来たが、全地域にわたって、その様
 な怪物、また、怪物然とした人間には一度も出会ったり、
 見たりしたことは無かった」・・と・・
  また、「その様な怪物が存在していることも、また、
 かつて存在していたという事も、聞いたことは無かった」・・
 と・・
  「それらの怪物についてのことは、偽りと言わざるを
 得ない」・・と・・
  キリスト教に洗脳されて作られた「怪物妄想」は、こ
 の様に強く人々を洗脳し、人々をマインド・コントロー
 ルしていた。
  怪物が居るのではと怯(おび)え、好戦的になりやす
 いマインド・コントロールが、キリスト教ヨーロッパ人
 を防御的にし、また、好戦的にしていた。
  この様な航海者が実見した証言があっても、このキリ
 スト教が洗脳したマインド・コントロールは、人々から
 なかなか抜けなかった。
  「どこかに怪物は居るはずだ」と思い続けさせた。
  このキリスト教の洗脳のマインド・コントロールから
 抜け出すことが出来るのは、18世紀にならなければなら
 なかった。
  ヨーロッパの図鑑などの書籍類から、怪物が消えたの
 は18世紀だった。
  アメリカ大陸で、インディオに出合ったスペイン人と
 キリスト教聖職者たちは、バチカンローマ法王教皇
 に問い合わせると、「人間ではない」という返事に、こ
 の返事を契機にして大虐殺が長期間に渡って行われた。
.
1614年、徳川幕府が、キリスト教宣教師の追放令を出した。
  キリスト教は、ひたすらこのことを言いたてる・・そ
 して、弾圧されたと言う。
  これは、キリスト教が良くする言い方で、すでに、キ
 リスト教宣教師の追放令は、豊臣秀吉が、遠い以前に、
 既に、出していて・・
  その時、その令に従ったキリスト教宣教師は、長崎か
 ら船で出国していて・・何も問題は起こらなかった。
  秀吉は、弾圧も何もしていない。
  令に従えば、何も問題は無かった。
  しかし、キリスト教宣教師で、この令に従わない「法
 律違反者」がいた。
  その為、徳川幕府が、また、キリスト教宣教師の追放
 令を出さざるを得なかった。
  当初、キリスト教という異教に対し、日本の文化は、
 柔軟で、優しかった。
  日本人の優しさから来ていた。
  穏便に温厚に他宗教を受け入れていた。
  これは、キリスト教の様に、民族が混在する風土で育
 った宗教とはちがう・・「他民族や、異教徒は殺せ」の
 キリストの教えるところとは、まったく違う日本の風土
 だった。
  織田信長は、優遇さえした。
  そして、豊臣秀吉も、最初は、信長と同様に、倣(な
 ら)っていた。
  しかし、キリスト教宣教師の「陰の使命」が分かって
 来た。
  「日本を植民地にする」という密命を帯びたキリスト
 教宣教師の「その密命」を豊臣秀吉は知った。
  長崎などが要塞化されつつあった。
  また、キリスト教は、日本の若い女性をヨーロッパな
 どへ売る人身売買を行なっていた。
  キリスト教会がその拠点となってその南蛮貿易を実施
 していた。
  豊臣秀吉は、臣下にそのことを調べさせた。
  その結果、「間違いない事実」と判明した。
  キリスト教教会は、その元締めさえしていて、キリス
 ト教が、この様な背景を持つ組織であった・・
  このことを、まったくキリスト教は説明もしない。
  ただただ「弾圧された」「弾圧された」と、この事だ
 けを、日本だけでなく世界へ言いつのった。
  キリスト教に偏するNHKも、学校放送で、感受性の
 鋭い世代を狙って(高校講座で)キリスト教に同調した
 言い方で、日本を貶(おとし)める教育放送をし続けて
 いる。
  そして、今・現代・・新たな宗教弾圧を「キリスト教
 がやっている。
  まったく別の宗教となってしまった「隠れキリシタン
 と言われた方々が、今・現代、まったくキリスト教とは
 違った宗教形態となっている・・
  日本の宗教の神道や仏教の宗教形態になっているが・・
  これを無理に元に戻そうという「強引な宗教弾圧的な
 行為」をキリスト教はやっている。
  「自分たちのやっている」キリスト教の様に戻したい
 と、強引に介入して行っている。
  「潜伏キリシタン」という新たな言葉も使ってマイン
 ド・コントロールしている。
  「隠れキリシタン」とはキリスト教会に復帰しない者
 たちの事だとレッテルを貼っている。
  また、一人のおばあさんが、新たに出来たキリスト教
 会に来て、「マリア様の像が見たい」と言ったことを、
 「隠れキリシタンの発見だ」と言った。
  裏付けもあると大袈裟に宣伝した。
  江戸時代の事を、昭和15年になってその裏付けを取っ
 たと言う。
  裏付けを取った・・確かめた・・と言ったって、100年
 近くも後になって確かめたということ・・
  キリスト教を信仰する者を研究者として、「この事が
 (裏付けが)調べられた」と言っている。
  キリスト教の人たちの働きかけで、半分の人がキリス
 ト教になったという。
  宗教の勧誘は自由だが、隠れキリシタンが居たという
 この地域に、特に、だから、重点的に執拗な勧誘が行な
 われている。
  まったく違って、変わってしまった宗教になった方々
 へ・・キリスト教とまったく違った儀式をしている人た
 ちへ、神道の社・やしろを建てて神道的な儀式をしてい
 る方々の所へ、キリスト教は介入している。
  キリスト教聖職者が、キリスト教の原色の派手な聖職
 者服を着て、参列し、自分たちのキリスト教の儀式を行
 なって、介入している。
  隠れキリシタンの方々が、長い年月の中で培(つちか)
 ったキリスト教とまったく違った形となった宗教儀式を
 元に戻したいとしてやっている・・介入している。
  この方々の宗教を尊重していない・・新たな弾圧行為
 となっている。
  この様な行為をしてまでして「作り上げた状況」を、
 現状を・・「隠れキリシタンの現状は世界でもまれな例
 である」「世界史上、特異である」と作り上げられた現
 状が世界遺産として評価されてしまって、世界遺産とな
 った。
  今までの歴史の中で、神道や仏教に戻った方々の宗教
 形態が、その信仰が、まったく無視された。
  仏教が大切にしている先祖からの伝承や信仰形態を大
 切にしている方々の行為を無視した・・立場がまったく
 無い状態にされている。
  半分の方々は、「キリスト教に戻らず」に、その自分
 たちの信仰を保っている・・そして、これまで変えたい
 とキリスト教は強引に介入している。
     ・
     ・
1913年、ガンビアアフリカゾウが、絶滅した。
  気象変動などによる干ばつ、そして、民族紛争、象牙
 目的の乱獲などによって生息数は減少した。
  象牙価格が高騰していることや、内乱や民族紛争によ
 って、より殺傷力のある自動小銃や機関銃などの火器が、
 密猟者に渡ったことによって・・
  幼獣も含めて「群れ単位の虐殺」が行われることなど、
 密猟者の手口が悪質化している問題がある。
  ガンビアでは、1913年に絶滅し・・
  また、ブルンジでは、1970年代に絶滅し・・
  モーリタニアでは、1980年代に絶滅し・・
  スワジランドでは、1920年代に絶滅した。
  しかし、スワジランドの場合は、1980年代から1990年
 代に再導入された。
  一部の地域では、減少傾向にあるが、地域によるもの
 の1960年~1980年代に底を打ち、生息数は漸増傾向にあ
 ると推定された・・
  2000年代には、大半を占めるアフリカ大陸東部個体群
 や南部個体群では、生息数は年あたり4%の上昇率で増加
 しているという報告例もある。
  今までの生息数の経緯は・・
  1970年代における生息数は、270万頭、
  1980年の生息数は、100万頭、
  1988年の生息数は、62万頭と推定されている。
  1995年における生息数は、約28万頭が確認されている。
  最近の過去は、10年で11万1000頭が減少し・・
  今、約41万5000頭となっている。
  地面に着くほどの大きな牙を持つ巨象は、世界で25頭
 前後に減ってしまった。
  象牙の密漁で殺されている。
  ケニアの国立公園の「サタオ2世」が殺されていたこと
 が、最近、確認された。
  毒矢で殺されていた。
  重さ50㎏~52㎏の2本の巨大な牙は、切り取られずに残
 されていた。
  密猟者2人が逮捕された。
  サタオ2世は、2014年に密猟者に殺された巨像「サタオ」
 にちなんで名づけられていた。
.
1945年、若泉敬京都産業大学教授(佐藤栄作首相の政治を
 助けた業績がある方)は・・
  中学生の頃、アメリカ軍による空襲によって、大量無
 差別虐殺された日本の婦女子の焼けただれた死体が、ご
 ろごろ転がる道を歩きながら、背筋がぞくぞくするよう
 な恐怖感、嘔吐感、虚脱感、絶望感を感じたと言われた。
  その少年時代の体験から、佐藤栄作首相の政治を助け
 ていた時・・
  「原爆を落とされるような、あんなひどいことをされ
 たから、二度とアメリカに逆らってはいけない」と思っ
 たという。
  昭和5年生まれの先生と同じ年齢の方は言う・・
  「焼夷弾は非常に酷(むご)い。
  火の中を逃げ回って、結局、焼かれて死ぬのだから・・」
 ・・と・・
  国際法違反の一般人・民間人の殺戮を狙ったアメリ
 の都市への無差別爆撃・・じゅうたん爆撃・・
.
2008年11月、エジプトのサッカラでシェシェティ女王のピ
 ラミッドが発見された。
  これは、エジプト国内での118基目のピラミッド。
  (参考)サッカラ:古代エジプトの首都だったメンフ
     ィスのネクロポリス(巨大な墓地、または、埋
     葬場所)で、多数のピラミッドがある。
  古代エジプトのピラミッドは、巨石を四角錐状に積み
 上げて、中に通路や部屋を配置した。
  建造物として、王が、天に昇る階段としての役割・・
  そして、ピラミッドの斜めの外形は、太陽光を模した
 ものとも言われている。
  ピラミッドは、単体で完成したものではなく、付随す
 る葬祭殿などとの複合体として捉えるべきもの。
  大ピラミッドなど、本体には基本的に北面に入り口が
 ある・・
  そして、玄室(げんしつ、棺を納める室)に至る道や、
 「重力分散の間」と呼ばれる未解明の機構がある。
  ヘロドトスが、「歴史」に記述した「奴隷が強制労働
 で築いた王墓」は間違いである。
  古代ギリシャの歴史家のヘロドトスが、自分の国家の
 状況からその様に想像したのだろうが・・
  1990年代に入ってから、ギザの大ピラミッド付近でピ
 ラミッド建造に関わったとされる人々の住居跡や墓が見
 つかった・・そして・・
  ピラミッド建設に関わった道具や手術跡など、高度な
 外科治療が施された人骨が発見された。
  更に、女性や子供達の骨も数多く発見され、家族で暮
 らして、ピラミッド建設に従事していたと推測された。
  このような事実から、定住して、ピラミッド建設に携
 わっていて・・
  虐げられていた奴隷ではなく、専属の労働者が居たと
 考えられた。
  また、ピラミッド建設に必要な高い建築技術は、専門
 の技術者でなければ従事できない。
  建設に関する労働者のチーム編成や作業記録が、文字
 で残っていることから、専門的な知識を持った技術者が
 居たことも推測された。
  また、住居跡があることから、技術者は、年間を通し
 てピラミッド建設現場に居住していたと考えられた。
  ナイル川が、上流のサバナ気候の影響で氾濫し、農業
 ができない間、農民が労働力として使われていた救済土
 木事業という説もある(一般労働者)
  ナイル川の洪水に立ち向かい、その洪水のサイクル性
 から暦を発達させ、洪水の時は、ピラミッド建設をした。
  そして、近年の研究で、このピラミッド建設が、失業
 対策と分かった。
  洪水期の畑仕事が出来ない民のために、ピラミッド建
 設をさせていた(奴隷による建設ではない)
  メソポタミア文明の場合、チグリス・ユーフラテス川
 の洪水で、キリスト教の祖先アブラハムは、この洪水の
 地・ウルを逃げ出した。
  そして、蜜と乳の流れるカナンの地を目指した。
  一方(エジプト)は、留まって洪水に立ち向かい、一
 方(メソポタミア)は理想の地を探し求めて、その地を
 捨てる・・この違いは何から来るのか・・
.
2018年11月、韓国の方々が、自国の文在寅(ムン・ジェイ
 ン)政権などの行動を批判し始めた。
  自国の政権がしていることを「おかしい」「嘘だ」と
 言い出した・・「虚飾されている」と言い出した。
  李氏朝鮮の時代も「嘘をついて国が滅びて行った」が、
 今もその様なことをしている・・と言い出した。
  今、韓国・朝鮮の良識ある知識層が声を上げ始めた・・
  韓国のロビー活動で「間違ったことを信じている国連、
 誤解をしている国連の担当者の人たち」にも、この話を
 聞いて貰いたい・・
  (関連事項)アメリカ軍が、第二次世界大戦後、日本
     に進駐して来た時、横須賀地区だけで、また、
     進駐の4か月の短期間だけで、アメリカ軍人にレ
     イプされた日本女性への性犯罪が数百件にもな
     った・・アメリカの謝罪は無い・・
  https://www.youtube.com/watch?v=WCxIQCBdj34
   李栄薫氏(李承晩学堂の校長)の話
          (参考・・日本語翻訳:林寿泉氏)
  李承晩TVの視聴者の皆さま、こんにちは・・
  「日本軍慰安婦問題の真実」の第4回目です。
  李承晩TVは、「事実」と「自由」という価値と精神
 に基づいて我が国(韓国・朝鮮)の歴史を省察する番組
 です。
  毎日、展開される現実のニュースを報道するとか、そ
 れについて論評することには、距離をおくことにしてい
 ます。
  今までの8ヶ月間、その原則を守って来ました。
  しかし、今日は、多少、時事的な問題を扱わざるを得
 なくなりました。
  何日か前に、正に、このシリーズの主題である日本軍
 慰安婦問題に関して、見過ごす事の出来ない二つの事件
 が言論報道されたからです。
  一つは、文喜相(ムン・ヒサン)国会議長が、アメリ
 カを訪問する途中、あるメディアにインタービューをさ
 れたときに話したことです。
  「日本の昭和天皇は戦犯である。その戦犯の子供であ
 る現在の天皇か総理大臣が、慰安婦の手を握り、心から
 謝れば慰安婦問題は簡単に解決する。しかし、そうしな
 いから遺憾である」という趣旨の発言でした。
  この発言に対して、日本の政界と国民が激怒していま
 す。
  日本の外務大臣は、異例的に、非常に無礼な発言だと
 憤慨し、謝罪を要求しています。
  私も、文喜相(ムン・ヒサン)国会議長の発言は、誤
 ったものだと思います。
  国会議長と言えば、一国を代表する、序列2位の公人で
 あります。
  この様な公人が、無頼漢レベルの軽薄で浅薄な発言を
 したと思います。
  韓国のマスコミは、沈黙する事で、文喜相氏を擁護し
 ているようですが・・
  私は、彼の大韓民国の国家品格を顕著に損なった責任
 は、逃れる事のできないものだと思います。
  文喜相氏は、国会議長を辞退し、政界を引退すべきで
 す。
  もしそれが出来なくて、そして、いやならば、自分の
 主張が正しいという主張の下で、日本を相手に論争をし
 て下さい。
  論争をするのであれば、次のいくつかの事項を念頭に
 おいて頂きたい。
  まず、第二次世界大戦で、日本と戦争をしたアメリカ、
 イギリス、オーストラリアを始め連合国44ヶ国は、戦争
 後、日本天皇を戦犯としたことはありません。
  その44ヶ国に、韓国は、参加できませんでした。
  参加することを希望しましたが、拒絶されました。
  1951年のサンフランシスコ平和条約は、韓国を、旧日
 本帝国と(一体だった状態)から分離、解放された地域
 と規定しました。
  旧日本帝国に併合されていた歴史的事実があり、その
 根源、権利の源泉については、事実が、確認されました。
  つまり、客観的に韓国人は、日本に対して戦争の責任
 を追求する立場にいません(日本と一体になって行動し
 ていた状況にあった国)
  文喜相氏は、何を根拠に日本天皇を戦犯として規定す
 るのか、その根拠を示してほしいです。
  日本の肩をもつために言っているのではありません。
  私は、韓国人であると同時に、世界人です。
  そういう観点から、歴史的事実を冷静、かつ、客観的
 に話しているだけです。
  周知の様に、日本の天皇は、日本国家の象徴的な存在
 であります。
  政治には介入しません。
  謝罪をするとか、しないとか的な立場にいません。
  そうでありながら、日本人からは尊敬され、愛される
 日本の象徴であります。
  日本は、我が国の友邦です。軍事的にもそうです。
  また、韓国の経済は、日本の経済と深く繋がっていま
 す。
  韓国の10大輸出産業において、100ドル分を輸出するた
 めには、20ドル分の日本の高級部品、素材、装置を輸入
 しなければなりません。
  そうしなければ、韓国の輸出産業は、韓国経済の再生
 産は、麻痺します。
  そのため、日本は、我が国にとって非常に大切な友邦
 であります。
  隣家や同じ町内の目上の人を誹謗しないのと同じよう
 に、隣国のそういう歴史と文化は、尊重しなければなら
 ないものです。
  このようなことを分からない筈のない、政界の重鎮が
 軍事的に、経済的に非常に大切な隣国を冒涜しました。
  そのため、私は、彼は謝罪し、それから、犯した誤り
 が大きいため、もうお歳でもありますし、政界を引退す
 るのが当然だと思います。
  また、もうひとつ、彼が念頭に置かなければならない
 ことは、日本を代表する内閣総理や関係大臣が慰安婦
 題に対して謝罪をしたのは、一、二回ではないというこ
 とです(大局的見地から謝罪した行為)
  彼(文喜相氏)が知らないかも知れないという老婆心
 から一つの事例だけご紹介します。
  ご覧になっている画面は、2001年、当時の小泉総理が
 生存していた元韓国人慰安婦、一人一人に送った謝罪の
 手紙です。
  単に、送っただけではありません。
  日本の官吏が、直接一人一人を訪ね、深くお辞儀をし、
 手紙を朗読してから渡す、丁重な格式ばったものでした。
  ただの謝罪ではなく、品格のある贖罪または陳謝でし
 た。
  英語でapologize(謝罪)ではなく、atone(償い)で
 あると言いました。
  非常に品格のある、贖罪と陳謝の儀礼に従ったもので
 ありました。
  内容を読んでみてもそうです。
  長くないので、翻訳文をお読みします。
  政府と国民が協力して進めている「女性のためのアジ
 ア平和国民基金」を通じ、元従軍慰安婦の方々への我が
 国の国民的な償いが行なわれるに際し、私の気持ちを表
 明させていただきます。
  いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、
 多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題でございま
 した。
  私は、日本国の内閣総理大臣として改めて、いわゆる
 従軍慰安婦として数多くの苦痛を経験され、心身にわた
 り癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心から
 おわびと反省の気持ちを申し上げます。
  我々は、過去の重みからも未来への責任からも逃げる
 わけにはまいりません。
  我が国としては、道義的な責任を痛感しつつ、おわび
 と反省の気持ちを踏まえ、過去の歴史を直視し、正しく
 これを後世に伝えるとともに、いわれなき暴力など女性
 の名誉と尊厳に関わる諸問題にも積極的に取り組んでい
 かなければならないと考えております。
  末筆ながら、皆様方のこれからの人生が安らかなもの
 となりますよう、こころからお祈りしております。
  日本国内閣総理大臣 小泉純一郎
  私は、この手紙を読んで、日本国の立場で、できる限
 りの最善の謝罪を、品格のある陳謝をしたと思います。
  単純に政府だけでなく、手紙の中で表現されている様
 に、国民的、国家的な陳謝をしたのであります。
  陳謝の手紙が朗読されたとき、少なくない慰安婦達が
 泣きました。
  そして、その謝罪を受け入れました。
  私が会った、ある慰安婦は、その手紙を大切に保管し
 ていました。
  しかし、謝罪を受け入れない慰安婦がいました。
  慰安婦運動団体は、返って日本の謝罪を非難しました。
  私は、それを大きい間違いだと思います。
  そのことにより、それから18年間、韓日両国の関係が
 大きくねじられました。
  その経済的損失は、図りしれないものです。
  何人もの運動家達が、アマチュア的な運動家達が、歴
 史家達が、国家の大計を台無しにしたと私は思います。
  私は、その点を申し上げるためにこの講義をやってい
 ます・・これから徐々に、順番になれば詳しくご説明し
 ます。
  私が、今、文喜相氏に思い出してもらいたい点は、小
 泉総理の陳謝の手紙を含めて、日本政府の国民的謝罪が、
 それ以降にも、何回もあったということです。
  総理が、韓国に来て、手を握ってこそ謝罪になります
 か?
  お辞儀をすれば、その品格のある陳謝では謝罪になり
 ませんか?
  あなた方の行動は、何の論理かわかりません。
  ここで、文喜相氏を含めて慰安婦運動団体、ひいては、
 全ての韓国人に投げたい質問があります。
  彼ら、いや、我ら皆は、はたして謝罪を受け入れる心
 の態勢ができているのでしょうか?
  日本の総理が、韓国に来て慰安婦の手を握り、謝罪し
 たとしましょう。
  それで終わるのでしょうか?
  慰安婦問題が起きてからの28年間の歴史を見ると、そ
 うでないと、私は、断言できます。
  我々の皆、(韓国は)もっと正直になりましょう。
  解決を拒否するために、紛争を持続させるために、問
 題を続けて提起しているのではないでしょうか?
  私は、文喜相氏が紛争を増幅させる意図で、その様な
 発言をしたと思っても過言ではない程、この問題を巡っ
 て、今までの28年間に渡り、韓国の政府、運動団体、国
 民の皆が見せた態度は「正直ではなかったと思います」。
  別の最近のニュースに関して言及すべき問題は、御覧
 の写真に関するものです。
  この写真は、日本軍慰安婦と関連して、今までの20余
 年間、最も広く知られている写真であります。
  各級の歴史書に、教科書に、必ずと言って良いほど載
 せられてきたものです。
  最近、ソウル大学校のジョン・ジンソン教授のチーム
 が、写真の所有者を探して、写真の原本を購入したそう
 です。
  そのことを、多くの新聞と放送が大きく報道しながら、
 韓国人の涙と激怒を誘う記事を書きました。
  例えば、世界日報は、「目を閉じた臨月の被害者、彼
 女たちの勇気を記憶しながら」と書きました。
  私は、その勇気がいったい何なのか、理解できません。
  写真の中での妊娠している女性は、平壌ピョンヤン
 の南浦(ナンポ)出身ですが、中国の南京と、ビルマ
 慰安婦生活をした後、1944年9月、中国の祟山(すうざん)
 で捕虜となった後で撮った写真だそうです(捕虜として
 の写真)
  とにかく、私は、今までスキャンしてきた史料写真の
 代わりに原本を手に入れたのが、どうしてそんなに大き
 いニュースになるのか、よく理解できません。
  その問題はおいておくにしても、私は、それに対する
 言論(マスコミ)の報道姿勢について言いたいことがあ
 ります。
  私が、ジョン・ジンソン教授のチームと言論(マスコ
 ミ)に聞きたいことは、次の様なものです。
  このような妊娠と臨月と流産の被害を被った女性が、
 全日本軍慰安婦の中で、どの程度いたのかという問題で
 す。
  私は、この問題と関連して、まず、以前の講義で紹介
 しました1950年代~1960年代の韓国人相手の慰安婦と、
 米軍相手の慰安婦の妊娠、出産、流産について申し上げ
 たいと思います。
  そうすることにより、私の質問の意図が自ずと鮮明に
 浮き彫りになるからであります。
  以前ご紹介しました、1964年に、パク・デグン氏が、
 郡山(クンサン)市の保健所に登録された慰安婦達の実
 態を調査したその論文は、慰安婦達の妊娠、出産、流産
 の回数まで調べました。
  そのことについては、以前の講義では、敢(あ)えて
 紹介しませんでしたが、今、紹介する必要性が生じまし
 た。
  韓国人相手の慰安婦の188人の中では、33人が出産をし
 ました。
  米軍慰安婦の132人の中では、69人が出産を経験しまし
 た。
  米軍慰安婦の半分近くが出産を経験したのです。
  その出産経験というのは、間違いなく米軍兵との関係
 による出産なのか、あるいは、慰安婦になる前の婚姻関
 係による出産なのかが、明らかなものではありません。
  とにかく相当数の女性たちが、米軍と関係を持って子
 供を出産したのは事実です。
  出産問題については、ここまでにしておきます。
  次は、流産問題について申し上げます。
  先の写真での女性が流産したという事からです。
  ご覧の表は、どれほど多くの女性たちが、郡山地区の
 慰安婦達が、流産を経験したのかを示しています。
  韓国人相手の慰安婦188人中37人が流産を経験しました
 が、自然流産6人、人工流産が31人です。
  米軍慰安婦132人中、流産を経験した人は89人ですが、
 21人が自然流産、68人が人工流産でした。
  人工流産の回数を見ますと、1回から20回まであります。
  5回以上が18人もいます。
  10回、20回、その様な遺産の回数を私には想像し難い
 のです。
  鋭い刃が、女性たちの体を数回かき乱したのです。
  これが、1964年当時の軍周辺の基地村で行われた反女
 性、反人権の実態でした。
  米軍慰安婦の半分近くが出産を経験したと申し上げま
 したが、その結果、全国的に数多くの混血児が生まれた
 のは、我々韓国人が、皆がよく知っている事です。
  ご覧の表は、1955年~1969年までの各年度の混血児の
 総人数です。
  混血児の総人数に続き、その隣に混血児で外国に、主
 に、アメリカに、養子として送られた子供の数を示して
 います。
  その子供たちが、白人系か黒人系か、その他の第3系か
 が共に示されています。
  この数値は少し曖昧です。
  混血児の総人数が、養子を送ってから残った数なのか、
 養子を含めての数なのかが、時期によって曖昧(あいま
 い)です。
  とにかく、1969年まで、1955年から12年間9058人の混
 血児が、主に、アメリカに養子として送られました。
  その後でも、1969年のその年に、国内には1393人の混
 血児が居ました。
  混血児は、1955年以来、毎年600人~700人ずつ生まれ、
 その傾向は、1960年代の中後半に入り、返って増えたの
 ではないかという気がします。
  どうして、この様な事が起きたのでしょうか?
  先ず、米軍が、兵士たちの性慰安行為を管理しなかっ
 たからです。
  つまり、兵士たちが、慰安婦と性交渉をする時は、必
 ず、コンドームを着用するように強制しなかったのです。
  韓国人相手の慰安婦に比べて、米軍慰安婦の流産回数
 が、先ほどお見せしましたように、はるかに多いです。
  その事は、米軍の兵士たちが、女性たちの妊娠と性病
 の危険性に鈍感で、コンドームを着用しなかったからで
 す。
  それに比べて、今度またご紹介しますが、日本軍では、
 性病統制の目的で、兵士たちにコンドームの着用を義務
 化しました。
  この事から、日本軍慰安婦の妊娠と流産の頻度は、1950
 年代の米軍慰安婦よりはるかに低かった、ということが
 言えます。
  女性たちの立場から考えて、どちらがより有利なもの
 だったでしょうか?
  視聴者の皆さんが、ご自身で判断してみてください。
  2番目は、この様な数多くの女性たちの妊娠と出産、流
 産と、そして、養子問題、この事で言えることは、当時
 の韓国人の人権意識は非常に低かった。
  ほぼ欠如した状態だったということが示されています。
  基地村の包主(ポジュ、楼主、経営者)達は、女性た
 ちに流産を強要しました。
  そこで、数多くの人工流産が行われたのです。
  そこで、数多くのメス裁きが女性達の体をかき回した
 のです。
  韓国社会は、どうだったのでしょうか?
  流産の危険を克服して生まれた子供たちを、韓国社会
 は包容しませんでした・・(受け入れを拒否しました)
  彼らを、皆、海の向こうのアメリカに送ってしまいま
 した。
  1950年代の「保健社会統計年報」では、混血児を後天
 性小児麻痺や先天性心身障害者と同じ障害者と分類して、
 扱っています。
  正常の人間とみなしていなかったのです。
  そのような人権意識の徹底的に欠如した状態が、先程
 お見せしましたような、凄惨なほどの基地村の慰安婦
 の流産を強要したのです。
  そして、ようやく生まれた子供は、祖国から捨てられ、
 アメリカへ養子として送られました。
  多くの基地村の女性たちが、生きることをあきらめ、
 毒薬を飲み、線路に飛び込んで自殺したのは、こういう、
 妊娠、流産、出産、子供を養子として送られる衝撃が原
 因でした。
  そのため、私は、ご覧の、問題の写真の原本を購入し
 たことを大々的に報道する大学の研究チームと言論(マ
 スコミ)に聞きたいです。
  私たちが良く知っている我々の中の反人権行為、反人
 権犯罪、1950年代~1960年代、基地村で行われた反人権、
 反女性の犯罪、少なくとも女性たちの半分近くが妊娠と
 出産と流産を経験した。
  そういう反人権の実態が、日本軍慰安所でも、そのよ
 うな範囲と頻度で、あったかという質問です。
  そのような歴史の矛盾性、同時代性の問題を、果たし
 て研究者達は、意識しているのか聞きたいのです。
  研究者が、ある史料を発掘し、貴重に引用する時は、
 それがどれほど一般的に自分が分析・追跡する問題を代
 表するかという事を考えなければなりません。
  従って、私は、この大学の研究チームが、写真を公開
 し、大々的に宣伝する前に、日本軍慰安婦の妊娠、出産、
 流産の頻度がどれほどのものだったのかを、まず、示さ
 なければならないと思います。
  その後でこそ、今の写真が史料としての生命を有しま
 す。
  その後でこそ、言論(マスコミ)が、臨月の危険性、
 彼女たちの勇気に感服すると言えると思います。
  これに関連して、私が知っている情報を一つご紹介し
 ます。
  これは、1943年と1944年に、ビルマのラングーンとシ
 ンガポールにあった日本軍慰安所の管理人、日本語で帳
 場と言いますが、帳場で働いていたパク・チグンという
 人の日記です。
  今度、順番になれば、この日記が伝える情報を詳しく
 ご紹介します。
  ラングーンとシンガポールでの約2年間の生活の間、こ
 の人が管理した慰安婦は合わせて30名余りでした。
  その中で、妊娠と出産を経験した女性は、たった一人
 です。
  日記の関連部分は次の通りです。
  「1944年7月、慰安稼業婦、ホ・○○は目下妊娠7ヶ月
 で休業届を提出した」。
  それから2ヶ月後の日記です。
  「1944年9月、本倶楽部の稼業婦、ホ・○○は、妊娠中
 であったが、今晩、中央病院に入院し、23時半に男児
 出産した」。
  妊娠の出産の比率は、すべての慰安婦の中で、1年6ヶ
 月間、30分の1でした。
  日本軍兵士たちが、軍の統制に従って、サック、すな
 わちコンドームを着用したからです。
  パク・チグンの日記には、他の慰安所に所属した一人
 の慰安婦が、妊娠7ヶ月で自然流産したことも記されてい
 ました。
  全ての日記の中で、約2年間の日記の中で、女性たちの
 妊娠、出産、流産に関することは2件に過ぎません。
  私は、この事を知っているため、先ほどお見せしまし
 たその写真が、果たして、どの程度、日本軍慰安婦の実
 態を一般的に代表するのか、その代表性があるものか、
 という疑心を私は抱くのであります。
  最後に指摘したいことは、言論(マスコミ)が、ひい
 ては我ら韓国人一般が、果たしてそんなに、あの写真を
 見て憤怒するほど自身の歴史に対して「責任が無いか」
 という点です。
  もっと広範囲で、残酷な反人権、反女性の犯罪的行為
 が近い過去に、自分の過去に行われていたことに対して
 は、どうしてそんなに無関心なのでしょうか?(目を背
 けるのでしょうか?)
  私は、日記を紹介した時に「ホ・○○」と読みました。
  日記の本文には、正確な名前が載っています。
  私は、パク・チグンの日記を発掘・発刊するにあたっ
 て、女性たちの名前や韓国の住所をすべて削除しました。
  万が一、生きている本人と彼女たちの子孫が傷つくか
 が心配だったからです。
  しかし、日本軍慰安婦達をどうするつもりなのか、
  運動団体は全てを明かしています。
  実名を、そして、実の顔を公開する様に強要したので
 す。
  これは、女性たちの名誉や身体が持つ尊厳に対しての、
 もう一つの「暴力」ではないでしょうか?
  あの時代の写真は、実は教科書に載せるには相応しく
 ない、極めて暴力的な想像を引き起こします。
  そう想像させることは良いことでしょうか?
  その写真を、その原本が手に入ったと、再び大々的に
 報道し、再び、韓国人を憤怒させ、涙を誘うことは、裏
 返せば、写真の中の女性たちに対する、継続的な暴力で
 はないでしょうか?
  韓国人の心情が、そんなに暴力的だから、そんなに執
 拗に日本政府と国民の謝罪までも拒否し、両国の友好関
 係を、未来の協力関係を進んで破綻させて来たのではな
 いでしょうか?
  言論(マスコミ)の報道を見ながら、私は、そういう
 複雑な思いがしました。
  その複雑な思いを一つずつこれからしっかりと発表し
 て行きたいと思います。
  今日はここまでに致します。
.
2019年、中国は、なんだかんだと相手に「金を渡す」。
  例えば、中国で出版してあげるから本を書きなさいと
 持ちかけ、本を書かせて、出版部数の印税を、まだ、販
 売していないのにその金を渡す事をしている。
  この様な様々な手口で相手を手なずける。
  しかし、この様に書かせた本は、実際に中国で売られ
 るかというと、その様なことはない。
  完全に、金を渡すための方策となっている。
  当然、本の内容は、中国が有利になる様に書かせてい
 る。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

(増補版)656E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年8月~1896年9月)

題:(増補版)656E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年8月~1896年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆中国と韓国は隣の国・・引っ越しの出来ない隣の国・・
  だからこそ、正しいことを言って正しい関係を作らな
  ければならない。
  卑劣なねじ曲げ発言に躊躇(ちゅうちょ)してはなら
  ない・・あくまでも、正しいことを教えてあげねばな
  らない!
  また、中国・韓国は、隣国・日本の立場を理解するこ
  とにつとめなければならない。
 ☆国際社会は、中国へ民主化を強く求めなければならな
  い・・民主化の達成できない国=中国・・
.
1896年8月、日本郵船が、北米航路を開設した。
  明治維新の直後に、日本を導く国として三菱グループ
 の最初の会社として誕生した・・世界の既得権益を堅持
 しようとする海運会社を相手に闘いを挑んだ日本のリー
 ディングカンパニー。
  度重なる困難に打ち勝ちながら、世界有数の総合物流
 企業として成長して来た。
  開国当初の日本海運は、外国船に太刀打ちできず、イ
 ギリスやアメリカの船会社に日本近海はもとより独占さ
 れ尽くしている状況だった。
  岩崎弥太郎は、藩の廻漕業・九十九商会を継承して、
 1874年、本拠を東京に移した。
  数々の業績で、大久保利通大隈重信らの信用を得て、
 政府より海運を一任された。
  1875年、政府の命を受け、日本初の外国航路となる横
 浜~上海定期航路を開設した。
  この時、航路を独占していたアメリカのパシフィック
 メール社は、三菱商会(当時の社名)を潰しにかかり、
 9か月におよぶ運賃切り下げを行ない、競争状態に入る。
  結局、日本沿岸より撤退する。
  また、イギリスのP&O社も航路を開設して、対抗し
 て来た。
  政府の支援も得て、結局、この社も半年後に航路を閉
 じた。
  しかし、熾烈な戦いに勝ち、順風満帆の時ばかりでは
 なかった・・1881年、政界の地図が変わり逆風も吹き始
 める・・官民の風当たりが強くなる。
  1882年、半官半民の共同運輸会社が設立された。
  この会社との熾烈を極める競争が始まる・・会社の体
 力は両社とも極めて消耗する・・世論は理解を示さず、
 味方をしなかった・・
  日本海運の危機が生まれた・・消滅の危機・・この危
 機を救ったのが西郷隆盛の弟・西郷従道農商務卿だった。
  1885年、交渉が実を結び、郵便汽船三菱会社と共同運
 輸は合併する・・日本郵船会社の誕生となる。
  だからと言って、順風満帆の船出ではなかった。
  日本の発展はすさまじく、陸路の運搬も急速に発展し、
 その競争もし烈だった・・また、地方船主も生まれてい
 た。
  ここで、日本郵船は海外に活路を見い出した。
  1893年、日本初の遠洋航路であるボンベイ航路を開設。
  日本の輸出産業の花形である紡績産業の発展とともに、
 日本郵船は、欧米の船会社との競争にも打ち勝ち、日本
 の輸出拡大に貢献して行った。
  1894年の日清戦争後、日本政府は、海外航路拡充の法
 律を次々と制定した・・さらに、日本の海運も大きく進
 展して行った・・そこで・・
  1896年、日本郵船は、アメリカ、ヨーロッパ、オース
 トラリアへの三大遠洋定期航路を開設して行く。
  この決断は功を奏した・・この快挙は、日本の国際的
 な名声も高めた・・日本郵船は、世界の船会社としての
 地位を固めた・・そして、海運国日本が築かれて行く・・
  (参照:日本郵船ホームページ)
.
1896年9月1日、東海道線の新橋駅~神戸駅間に、急行列車
 が登場した。
  所要時間は、17時間22分だった。
  尚、急行料金は不要だった。
  この急行列車の開設は、2年前の1894年に、当時、私鉄
 だった山陽鉄道(現在の山陽本線を運営していた)が、
 急行列車を運行し始めたから、その刺激を受けた結果だ
 った。
.
1896年9月5日、「鉄道略則第13条列記物品〔貴重品〕及牛
 馬獣類ヲ旅客列車便ニテ運送スル場合ニ仕払フヘキ増賃
 金割合」を改正した(逓信省告示第167号)
  25マイル(40.2㎞)未満の輸送では、価格100円につき
 10銭、
  25マイル以上50マイル未満は同20銭、
  50マイル以上は同30銭、
  価格100円未満は100円に切上げ計算する。
.
1896年9月7日、大阪市に汽車製造合資会社(後の、汽車製造
 株式会社)が創業した。
  鉄道車両の製造会社で、1972年、川崎重工業に吸収合
 併された。
  日本の鉄道行政の黎明期を牽引した井上勝が・・、
  1893年3月に設立した・・日本初の民間機関車メーカー。
  1899年7月、井上は鉄道庁長官を務めたが、長官を辞す
 るに際して、その機に、長州藩の先輩である井上馨や、
 黒田長成、前田利嗣、毛利五郎らの旧諸侯や、岩崎久弥、
 住友吉左衛門渋沢栄一安田善次郎らの実業界の有力
 者らが出資し、1899年7月、大阪市西区川北大字島屋(現:
 此花区島屋)に開業した。
  メーカーとしての出発は、外国製の機関車などの模倣
 から始まり、日本の独自の改善を施して行くという発展
 を果たした・・
  日本人の優秀さが、どのジャンルにおいても、この様
 な抜群の吸収力・応用力から発した。
.
1896年9月9日、平瀬作五郎がイチョウ精子を発見した。
  「花粉管端より躍然精虫の遊動して活発に転々突進す
 る状況を目撃」・・小石川植物園の平瀬作五郎が、世界
 で初めてイチョウの泳ぐ精子を発見した模様を表現した
 言葉だった(1894年説あり)
  平瀬作五郎(1856年~1925年、植物学者)安政3年1月
 7日、越前国福井市)に生まれる。
  1872年(16歳)福井藩中学校(藩校)に入学、卒業後、
   図画術教授補助に任命される。
  1873年(17歳)東京に出て油絵を学ぶ。
  1875年(19歳)帰郷し、岐阜中学の図画教師となる。
   かたわら「小学用器画法」(1888年)ほか図画教科
   書を著した。
  1888年(32歳)帝国大学理科大学(現:東京大学理学
   部)植物学教室へ画工となる。
  1890年(34歳)技手となる。植物学に興味を抱く。
  1893年(37歳)助手となり、矢田部良吉教授の植物図
   を描く。イチョウの研究を始める。
  1894年(38歳)池野成一郎(この後、東京大学教授と
   なる。ソテツの精子の発見者)の助言で、イチョウ
   の花粉管内に精子を発見した・・
    裸子植物に初めて精子を発見・・受精過程を追跡
   した(イチョウの受胎および胚の発生研究)
  1896年(40歳)イチョウ精子発見を発表した。
   ソテツの発見と共に、これらの発見は、植物分類学
   細胞学・進化学上の一大事件であった・・
    海外の学者にも称賛された。
   平瀬作五郎は、当時、助教授だった池野成一郎に、
   精子を発見した時、寄生虫だと思って見せた・・そ
   れを見るなり池野は「精子だ」と直感したという。
  1896年9月9日、「花粉管端より躍然精虫の遊動して活
   発に転々突進する状況を目撃」・・となる。
  1896年10月、「いてふノ精虫に就テ」という論文を発
   表する(裸子植物の世界初の精子の発見)・・なお・・
   1894年1月、最初の論文「ぎんなんノ受胎期二就テ」
   を「植物学雑誌」に発表という史料もある。
   そして、1896年に、イチョウ精子を世界初でプレ
   パラート上で確認したの史料もある。
  1897年(41歳)東京大学を退職し、彦根中学へ転出、
   一時、研究も断念する不幸の時期があった。
  1912年(56歳)池野と共に学士院恩賜賞を受ける。
   初めは、平瀬作五郎の授与は予定されていなかった
   と言われている・・が、しかし、池野成一郎が、「
   平瀬が貰わないならば、私も断らせて戴く」と言い、
   二人の同時受賞となったという。
   後半生は、平野は、花園中学校で教鞭をとる。
  1918年(62歳)クロマツの受精に関する報告をする。
  1924年(68歳)肝硬変で花園中学校を退職する。
  1925年1月4日、京都市右京区御室の自宅で永眠された。
  尚、平瀬作五郎の精子発見のイチョウの木は、今でも、
 東京都文京区白山東京大学理学部付属植物園に保存さ
 れている。
  1956年、その記念のイチョウの木の下に記念碑が建立
   された。
   「精子発見六十週年」と刻まれた。
  1996年9月9日、「イチョウ精子発見百周年記念市民国
   際フォーラム」が、東京大学安田講堂で開催され、
   広瀬作五郎の功績が讃えられた。
.
1896年9月14日、豊州鉄道の伊田駅~添田駅間の建設に際し、
 田川郡大任村、および、同郡伊田村の両地区の500戸の住
 民から、良田の11町余がつぶされて悲境に陥ると、線路
 の迂回要求の請願書が出された。
  (1899年9月16日、川崎駅~添田駅間、および、伊田
 ~伊加利駅間の建設出願と同時に、伊田駅~添田駅間の
 線路敷設権の取消願を提出して、翌年3月13日に認可され
 た)
.
1896年9月18日、第2次松方正義内閣が成立した。
  進歩党の大隈重信は、内閣連帯性、言論・集会・出版
 の自由、民間人登用の3条件を提出し、大蔵大臣に就任
 した。
  第6代第2次松方内閣が成立した(~1898年1月12日)
  第1次松方内閣のトキの帝国議会対策での失敗もあり、
 組閣は順調とは言えなかった。
  松方自身が率いる薩摩藩からも反対論が出る状況だった。
  種々の妥協からこの内閣を「松隈内閣(しょうわいな
 いかく)」とも呼ばれる。
  特筆すべきは、政党の本格的な政権参加が実現した。
  また、1897年3月26年に、金本位制の貨幣法が公布され
 た(「大隅財政」「松方財政」は悲願としていた)
 松方内閣第十議会(氷川清話)
.
1896年9月21日、奈良鉄道と連絡運輸を開始した。
  京都と奈良の2つの古都を結ぶ鉄道は、鉄道省国鉄
 の運営する奈良線が、1896年に開通していただけで・・、
  そして、蒸気運転でもあって速度は低く、列車本数も、
 1日12往復と少なく、都市間交通としては不便という問題
 点があった。
.
1896年9月25日、明治座で歌舞伎役者の初世・市川左団次
 座が興行した。
  (参考)初世:しょせい、初代に同じ。
  25日間の全部を売り切った。
  近所のそば屋の印を押した切手(売り切りそば券)を
 袋に入れて、頭取が配った・・大入袋のはじまり
  これが大評判となり、25日間の興業切符の全部が売り
 切りとなった・・
  明治座は、1893年に新築され・・市川左団次(初代)
 は、座元(劇場所有者兼興行総責任者)として近代的な
 劇場経営を行った。
  新作物中心の興行を推進した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国の南太平洋への影響力拡大に警戒が必要・・
   また、中国・人民元は、世界の通貨覇権を狙っている。
   アメリカ・ドルへの挑戦をし始めた。
   そして、電磁パルスで、皆が皆、世界中の人々が、公平に死に至ることを、
   習近平金正恩、そして、文在寅プーチンへ教えてやれ!
   地下に隠れたって駄目!
.
2世紀末、ローマ帝国内にキリスト教が広まった。
  キリスト教は、2世紀末には、ローマ帝国全土に教線を
 拡大していた。
  ディオクレティアヌス帝の退位(305年)後に起こった
 内戦を収拾して、そして、その後に、単独の皇帝となる
 コンスタンティヌス1世(大帝。在位:副帝:306年~、
 正帝324年~337年)は、当時の東帝リキニウスと共同で、
 313年に、ミラノ勅令を公布し、キリスト教を公認した。
  その後も、キリスト教の影響力は増大を続け、ユリア
 ヌス帝による異教復興などの揺り戻しはあったが・・
  後のテオドシウス1世(在位:379年~395年)の時に、
 国教に定められた・・
  そして、キリスト教の教義どおり、異教が禁止された
 (392年)
  394年には、かつてローマの永続と安定の象徴とされ、
 フォロ・ロマーノにありローマの建国期より火を絶やす
 ことのなかったウェスタ神殿のウェスタの聖なる炎も消
 されるに至った・・異教だから消せ・・と・・
  ローマ時代のキリスト教徒は、特に、「終末」の意識
 が高かった。
  中世は、「イエスが時間を支配し、世界を支配する」
 と考える意識を強く持たされた・・
  そして、キリスト教会は、復活祭表の改定の必要性か
 ら・・「イエス紀元」が、525年に、考案された。
  考案したのは、スキタイ人キリスト教修道士(デオ
 ニシウス・エクシグウス)だった。
  彼は、「復活祭を、ディオクレティアヌス暦でやって
 いるのは、不信心な迫害者の記憶に結びつけることにな
 り、気に入らないから」と、その理由を書いた。
  それまでは、アレクサンドリアの司祭の復活祭を決め
 る表を使っていた。
  また、ディオクレティアヌスは、キリスト教の迫害を
 していた。
  ちなみに、ギリシャ人は、紀元前776年を紀元とする
 「オリンピック紀元」を使っていた。
  また、「ローマ人は、紀元前753年を起源とする、「ロ
 ーマ建国紀元」を使っていた。
  また、紀元前284年のディオクレテゥヌス帝の即位を紀
 元とする年号は、ローマ帝国内で、広く使用されていた
 が、この「ディオクレテヌス暦」は、ローマ帝国を越え
 て使用を強制できなかった。
  今・現在、キリスト教のイエス生誕に関連する西洋暦
 を使っているが、キリスト教が迫害されて、気に入らな
 かったため、キリスト教修道士が計算し作り出したのだ
 った・・しかし、ちなみに、イエスの生誕日は不明なの
 である。
.
354年11月13日、キリスト教の教父と言われるアウグスティ
 ヌスが生まれた(~430年8月28日)
  彼が有名になるのは、キリスト教ローマ帝国に公認
 され、国教とされた時期と重なるグッド・タイミングも
 あった。
  彼は、後のキリスト教へ多大な影響を与えた。
  衰退しかけたキリスト教を復興し、中世のキリスト教
 が栄える時代へとつなげた。
  ただ、悲しいかな、また、当然のことであるが、彼は、
 現代の様な科学知識が無いため、色々な間違いをし、ま
 た、発言もしている。
  そして、アウグスティヌスの最大の発明品と言われる
 「死んだ後の救済」をキリスト教の教理とした。
  ここに、救済の「神の国が出現する」とした。
  人々は信じ、現世では夢は叶えられない「終末と最後
 の審判の後に実現する『神の国の実現』に救済される」
 とした。
  人々は、その彼の発明品によって、また、キリスト教
 聖職者が説く『殉教』を美しく感じさせられた。
  結果、自分の命を軽く扱い、捨てるという行為が安易
 になされた。
  この様な若者が多く出る状況となった。
  また、幼い子供の頃の絵本「フランダースの犬」も、
 この様なストーリーで、幼児がマインド・コントロール
 される状況となっている。
  神の前で死んで行く主人公を美しく感じさせられ、マ
 インド・コントロールしている・・その様な幼い頃より
 の洗脳する絵本・・
  それが、「永遠の至福なのだ」と洗脳し・・青年期の
 自殺へとつながる。
     ・
     ・
15世紀、ヨーロッパ中世末の15世紀・・悪魔と契約してキ
 リスト教社会の破壊をたくらむ者という「魔女」の概念
 が、「キリスト教会によって作られた」。
  男尊女卑のキリスト教の如く・・女性が悪者にされた。
  そして、最初の大規模な魔女裁判がおこった。
  そしてまた、16世紀後半~17世紀には「魔女熱狂」と
 言われる多くの女性が焚刑(ふんけい、焼き殺す刑罰)
 となる大迫害時代となった。
  その中心は、キリスト教会内にあるキリスト教裁判所
 で行われた・・
  そして、その裁判長は、キリスト教聖職者がなった。
  魔女でも何でもない女性が裁かれ焼かれた。
  目的は、大きくなりたい、権威が欲しいとするキリス
 ト教の資金集めが目的だった・・また当時、権威のあっ
 た助産婦(家庭医でもあった)がターゲットだった(権
 威者の消滅)・・夜、薬草を煎じる姿を魔女としたりし
 た・・また、資産家の女性が狙われた・・
  社会は、燃え盛る「キリスト教魔女狩り」の社会と
 なった。
  魔女にされた無実の女性は、キリスト教会内にあるキ
 リスト教裁判所で、必死に無実を訴えた。
  それでも、キリスト教聖職者のキリスト教裁判所の裁
 判長は、色々な拷問を続けて無実の女性を痛めつけた。
  助かる者はいないという状態だった・・
  長い陰湿な拷問が続いた。
  キリスト教聖職者の性的ストレス解消もなされるとい
 う軽蔑的行為もなされた。
  最後は、女性方は、皆、魔女とされ焚刑となった。
  燃え盛るキリスト教魔女狩りの嵐の前に、なすすべ
 もなかった。
  そして、見せしめの「市中引き回し」が行われ、キリ
 スト教聖職者がその先頭を歩いた。
  そして、町の広場で、顔見知りの方々の見守る中で焼
 かれた。
  卑劣なキリスト教の考える、そして、その行為だった。
  燃え盛るキリスト教の迷信宗教の中で、女性は、真実
 を訴えながら焼かれた。
  女性の財産は、キリスト教会に奪われた。
  キリスト教は、これが目的だった。
  キリスト教会は、女性を焼いた薪代(まきだい)まで
 請求した。
  この様に、初めから終わりまで、キリスト教が仕組ん
 でいるこのことが明らかな事柄に対し、最近になって、
 「すべては民間の世俗が行なったこと」と、被害者側に
 ある市民の行為だと、キリスト教は「なすりつける行為」
 を言い始めている・・恥の上塗り・・
.
1816年、キリスト教聖職者のロバート・フィンリーは、黒
  人の方々をアフリカに送還するための「アメリカ植民
 協会」を結成した。
  この真の意味は、奴隷解放ではなく、黒人は、たとえ
 「自由人」であっても、白人社会の中で白人と一緒に生
 活する事は出来ないという白人優越=黒人蔑視の人種的
 偏見に根ざしていた・・古来から、キリスト教はこの考
 え方をした・・アウグスチヌスもアフリカのエチオピア
 の方々を迫害した・・
  また、その政策は、黒人の方々を「隔離」し「追放」
 することだった。
  そして、その3年後の1819年、アフリカのフランス領の
 象牙海岸の隣接地に4万平方キロメートルの地域が、植民・
 棄民のための場所として用意された。
  そして、まもなく、入植が行なわれ、首都は、ジェー
 ムズ・モンロー大統領の名前にちなんで「モンロビア
 と名付けた。
  現在のリベリア共和国である。
  しかし、入植した人数は、極めて少なかった。
  皮肉なことに、アフリカ最初の独立国となった。
  エイブラハム・リンカーン大統領は、この棄民政策
 推進した。
  自由黒人の進歩派の方々は、この政策の真意を見抜き
 反対した。
  そして、その戦いの先頭に立った。
  やがて、この自由黒人の奴隷制廃止主義者の方々も加
 わった。
  卑劣なキリスト教聖職者から始まったこの行動・行為
 も、この様な経過を辿(たど)った。
  そして、黒人の方々は、1830年に、アメリカ自由黒人
 協会を結成した。
  黒人の方々による最初の政治結社だった。
  集会運動を通して、アフリカ送還の棄民政策に反対し
 た。
  また、当然、黒人奴隷制度に反対し、逃亡奴隷に手を
 差し伸べ、黒人の方々の市民としての権利(選挙権や教
 育や仕事など)を要求し、平等を要求し、肌の色による
 差別行為に抵抗した。
  アメリカには、このような差別が根強く残った・・今、
 国連がSDGsをしているが、男女平等も大切だが、『
 まず第一に、人権の尊重と平等を掲げよ』・・
.
1911年、日本へ軍事技術を教える事に対しての警戒感が明
 確となった。
  日露戦争で、日本海軍が、あまりにも見事に、ロシア
 海軍を殲滅(せんめつ)したことが、世界に大きく衝撃
 を与えた。
  この事により、これ以降、日本は、海外の諸外国の先
 進国から、特に、海軍関係の知識を教える事に対し、警
 戒されるようになった。
  日本の留学生が、イギリスの海軍兵学校へ行くが、日
 英同盟があっても、1911年の時点であっても、英国海軍
 省からの指示で、「砲術の授業に日本人は入れるな」と
 された。
  また、第一次世界大戦の時点でも、日本とイギリスは、
 一緒になって、ドイツに対して戦った同盟国であったが、
 軍事技術の供与は、大きく制限された。
  アメリカもこの時期、この様な警戒を日本に対してし
 始め、イギリスと同様な動きとなった。
  今・現在の現時点において、中国が、「太平洋を半分
 づつにしよう」と、アメリカに言っているが、この言葉
 に代表される様に、また、習近平の言葉の様に、「世界
 覇権を得る」「2049年に、中国は軍事と経済で世界を制
 する」という目標を掲げる中国には「最大限の警戒を要
 する」。
.
1942年2月15日、シンガポールが陥落した。
  シンガポールの戦いが、1942年2月7日から、イギリス
 の海峡植民地のシンガポールで、日本とイギリスの間で
 行われた・・そして、イギリスのシンガポールは、2月15
 日に陥落した。
  2倍以上の兵力を誇ったイギリス・・そのイギリスとの
 戦い・・また、難攻不落と言われていたシンガポール
 要塞。
  ここを、10日足らずで攻略した日本・・
  この結果、イギリスは、率いる軍として、歴史上最大
 規模の将兵が降伏し、捕虜となった。
  この時、イギリスのチャーチル首相は言った・・
 「イギリス軍の歴史上最悪の惨事であり、最大の降伏だ」
 と・・
  日本の緒戦(しょせん)の勝利は、東南アジアやイン
 ドの方々に「独立への夢と勇気」を育(はぐく)んだ。
  東南アジアにおける日本軍の目ざましいの進撃は、現
 地のかた々の協力なしには、なし得なかった・・
  協力があってこそなし得た。
  イギリス軍に居たインド軍兵士の中からインド国民軍
 が結成された。
  日本軍と協力して、インドへ向けて進撃を始めた。
  インドネシアビルマでも、軍隊が作られた・・
  そして、日本軍は指導した。
  マレーシアの独立運動家で、元上院議員のラジャー・
 ダト・ノンチック氏は書いた・・
  「日本軍は、長い間、アジア各国を植民地として支配
 していた西欧の勢力を追い払い、とても白人には勝てな
 いと諦(あきら)めていたアジアの民族に、驚異の感動
 と自信とを与えてくれた。
  長い間、眠っていた「自分たちの祖国を、自分たちの
 国にしよう」という心を目覚めさせてくれた。
  私たちは、マレー半島を進撃して行く日本軍に、歓呼
 の声を上げました。
  敗れて逃げてゆくイギリス軍を見た時に、今まで感じ
 たことのない興奮を覚えました」・・と・・
  (追伸)アジアの各地から日本軍が撤退した後、これ
     等のアジアの国々は、ほぼ十数年の間に次々と
     自力で独立を達成した。
      日本軍の兵士の中には、現地に残って独立戦
     争に参加する日本兵士も多かった。
      インドネシアでは、その戦士たちは、英雄戦
     士の墓に眠っている。
.
1945年12月1日、サイパンで、最後まで戦い抜いた日本軍が
 山を下りた。
  サイパン島に残ったわずかな日本軍地上部隊は、ゲリ
 ラ化して、遊撃戦に移行していた。
  そして、各個で戦闘を継続した。
  日本のポツダム宣言受諾後も、その事実を知らない陸
 海軍の将兵らは、遊撃戦を継続していた・・
  ・・が、ポツダム宣言受諾の事実を知り順次投降した。
  タッポーチョ山を拠点としていた歩兵第18連隊衛生隊
 の大場栄陸軍大尉以下47名の部隊は、1945年11月27日(
 発令は25日)に、独立混成第9連隊長の天羽馬八陸軍少将
 (陸士第23期卒)の正式の命を受け・・
  1945年12月1日、軍歌(彼らの部隊の隊歌と「歩兵の本
 領」)を歌って戦没者の霊に弔意を示しながら山を降り、
  そして、投降した。
  栄光ある軍事行動に従事していた彼らは、大本営のサ
 イパン放棄を知らず、必ず友軍がサイパンを奪還に来る
 と信じていた。
  大規模な投降としては・・最後のものとなった。
  なお、歩兵第18連隊主力は、1944年5月に、グアムに移
 駐したが、衛生隊ほかは移駐が間に合わず、サイパン
 戦いに加わることになった。
.
2019年、題名:キリスト教性悪説では子供は伸びない・・
  また、その性悪説の精神的圧迫は、自殺の危険を招く・・
  テレビの司会者などで、キリスト教の考え方の「性悪
 説が優れている」と、自分のキリスト教信仰を『巧妙に
 伝道している者』が居るが・・
  そして、また、仏教の性善説を貶(おとし)める発言
 を・・自分の立場を利用して行なう者がいる・・
  これは「放送法の違反行為となる」・・公平な報道で
 はない・・
  特に、キリスト教に偏するNHKに、この行為は多い。
  科学的には、「子供は、前向きに性善説的に褒(ほ)
 め、育てる方が良い」と結論されている。
  例えば、子供にキリスト教の様な「性悪説的な精神的
 圧迫」を加えた場合、そこから「トラウマが発生する」。
  その精神的トラウマが、身体的トラウマにもなり・・
  キリスト教の若者に自殺が多いが、常に与えられ続け
 る性悪の圧迫は、蓄積すると爆発する・・怖いのである。
  その内、希望まで無くなってしまう・・
  常に、性悪説的に発想し、思考展開し・・そして、そ
 れらが行動・行為に、反映してくる・・
  そしてまた、その精神的圧迫が身体的に影響してくる。
  性悪説の危機的な状況を察知すると、脳は、ストレス
 ホルモン系と自律神経系とを動員して、それを回避しよ
 うとする・・本能がそうさせる。
  それが、常に、与えられ続けると、逃げ場の無い状態
 となる。
  体や本能が、その対応をとることが出来なくなる。
  その結果、身体は、体内でその警報を、ずっと鳴り続
 けさせる。
  トラウマ状態になって行く。
  危機的状況から本能や体が対応できなく、思うように
 守れなくなると、自分の体の主導権が奪われた状態に陥
 (おちい)る。
  トラウマとなると、自分の体が感じているはずの事を
 正確に感じることが出来なくなる・・想像することが破
 壊される。
  常に、身体は緊張状態となっている。
  自分の感覚から受け取った情報を正確に処理できなく
 なって・・
  自分の内部で起こる感情の変化を自覚することが出来
 なって・・
  緊張しっぱなしの体が悲鳴を上げる・・
  薬物療法で緩和しても、根本的な解決とはならない。
  この様な展開が、恐ろしい結果を生む・・
  マイナスの圧迫、その常時の圧迫の怖さである。
  人間は、性善説的に、前向きに明るく思考展開した方
 が良い・・科学的にも証明されている・・
.
2019年、電磁パルスによる殺傷が起きる。
  広島や長崎の原爆は、地上500メートルで爆発した。
  それによって、超高温で焼かれ蒸発し、殺され、死ん
 だ。
  人間は蒸発して行った。
  石造建物の石に、「ここに人がいたんだな」と思わせ
 る影の黒い痕跡だけを残して、人間は跡形もなく居なく
 なって、蒸発していた。
  母を探しに行ったら、台所に母の指輪だけが落ちてい
 たという話も聞く。
  原爆の超強烈なエネルギーは、その様なエネルギー・・
  広島・長崎は、山に囲まれているから、被害はその山
 に囲まれた地域内だけになった・・
  東京に投下されたら、関東平野は広いから、その広大
 な面積が焼かれ、蒸発させられることになる・・
  それに、今は広島・長崎の時の原爆より、けた違いに
 巨大になっている。
  ここで知っておきたいことは・・爆発高さが広島・長
 崎の時が500メートルだったが、この高さが高くなると
 どうなるか?・・ということである。
  日本は、地上数十キロメートルで爆発されると、日本
 全土が、原爆の熱によっては死なないが、原爆の爆発に
 よって発生する「電磁パルス」によって、結局、死に至
 ることになる。
  (参考)高高度核爆発:
      高高度における核爆発・・
      強力な電磁パルス(EMP)を攻撃手段として利
     用し、広範囲での電力インフラストラクチャー
     や通信、情報機器の機能停止を狙う。
      爆発高度によって分類されるものであり、核
     兵器の種類や爆発規模などは問わない。
      高度数十km以上の高層大気圏における核爆発
     においては、大気が非常に希薄であり、核爆発
     の効果に関して、高度が上がるにつれ爆風は減
     少していく。
      核爆発のエネルギーは電磁放射線が多くを占
     めることとなる。
      核爆発により核分裂後10ps(10~11秒)以内
     に発生したガンマ線X線)が大気層の高度20km
     ~40km付近の希薄な空気分子に衝突し、電子を
     叩き出し(コンプトン効果)、叩き出された電
     子が地球磁場の磁力線に沿って螺旋状に跳び、
     10nsほどの急峻な立ち上がりで強力な電磁パル
     ス (EMP) を発生させる。
      大気が希薄であることからガンマ線は遠方ま
     で届き、発生した電磁パルスの影響範囲は水平
     距離で100km~1,000km程度にまで達する場合が
     ある。
  電気・水道・ガスをはじめ、金融システムはじめ現代
 社会は、コンピューター・システムによって生きている。
  原爆の高高度のこの炸裂で、この電磁パルスによって、
 やられる。
  人間は死なないだろうが・・社会基盤を失う。
  この失われた社会基盤の普及は、数年を要する。
  結局、人類は生きて行けないで・・死に至る・・
  衛生状態も良好に保てない状況の中で・・死滅する・・
  核弾頭ミサイルを撃墜し、大気圏、再突入できないと
 しても、この位置で炸裂したら、この電磁パルスで、遅
 かれ早かれ、死に至る・・
  日本全土がこの憂き目にあう。
  例えば、この逆、北朝鮮の上空で、この状態と同じこ
 とが起きれば、当然、同じことが起きる。
  北朝鮮上空と言ったが、隣国の中国へも被害が及ぶ。
  北京にも被害が及ぶ。
  即死は無いが、結局は、広い範囲が死に至る。
  大気圏の核爆発というのはその様なもの・・
  核爆発による攻撃のボタンを押した者が、自分たちだ
 けが生き残れると思っているのは・・『妄想だ』。
  皆、一緒に死ぬ羽目に陥(おちい)る・・
  人工衛星も、駄目となる・・近代の機器は壊滅する・・
  電磁パルスで、皆が皆、世界中の人々が、公平に死に
 至ることを、習近平金正恩文在寅、そして、プーチ
 ンへ教えてやれ!
  地下に隠れたって駄目!
.
2019年、韓国政府は、慰安婦問題の虚偽がはっきりした現
 在・・その様々な虚偽発言で「傷ついた日本国民」へ
 謝罪せよ!
  韓国政府は、今まで、日本政府へ主張して来た「慰安
 婦」について、それが、虚偽であったことがはっきりし
 た・・その様な今、韓国大統領名で、謝罪文を書き、発
 表すべきだ。
  朝日新聞が、虚偽だと明確に認め、謝罪している様に、
 同じ様に行動すべきである。
  また、この件で、長い間の虚偽行動で、日本国民の心
 が非常に傷ついた、この事に対して、韓国政府は基金
 設けて、その修復に努めよ!
.
2019年9月24日、中国の南太平洋への影響力拡大に警戒が
 必要という読売新聞の社説が掲載された・・
  以下、その抜粋・・
  経済援助と引き換えに台湾との断交を迫り、影響力を
 拡大する。
  南太平洋での中国の動向には警戒が欠かせない。
  南太平洋の島嶼国、ソロモン諸島キリバスが相次い
 で台湾と断行し、中国と国交を樹立することを決めた。
  これで、台湾が外交関係を持つ国は、世界で15カ国だ
 けになった。
  中国が、台湾を国際的に孤立させようと、攻勢を強め
 ているのは明らかだ。
  南太平洋はかつて、中国と台湾が熾烈(しれつ)な援
 助外交を展開したが、近年は、中国が経済力を背景に存
 在感を増している。
  オーストラリアの調査機関によると、中国は、2006年
 からの10年間で、南太平洋の国々に17億8000万ドル(約
 1920億円)を援助した。
  今や豪米両国国に次ぐ主要な援助国となった。
  この地域の秩序を主導する米豪に対抗する戦略だろう。
  懸念されるのは、中国の南太平洋への進出によって、
 地域の緊張が高まる事態だ。
  「海洋強国」を国家目標とする中国は、太平洋やイン
 ド洋など遠海へと活動範囲を広げている。
  国際ルールに反した一方的な海洋進出や、相手国の財
 政状況を無視した融資が批判されてきた。
  中国の習近平国家主席南シナ海について「軍事拠点
 化しない」と約束した。
  にもかかわらず、岩礁を埋め立てた人工島にレーダー
 やミサイルを設置し、「航行の自由」を脅かしている。
  インド洋の島国スリランカは、中国への債務返済が出
 来なくなり、南アジア最大級のハンバントタ港の権益を
 事実上、譲渡した。
  南太平洋で同様の問題が起きないとは言いきれない。
  島嶼国の多くが中国への経済的な依存度を高めている。
  バヌアツでは、中国が港湾整備を進め、軍事利用する
 との見方が出ている。
  南太平洋は、アジアと米大陸をつなぐシーレーン(海
 上交通路)にあたる。
  米軍がアジア太平洋の戦略拠点として基地を置くハワ
 イやグアムに近い。
  日米豪などが共有する「自由で開かれたインド太平洋」
 構想でも大切な地域だ。
  中国が島嶼国を拠点に軍事活動を強化し、地域の安定
 を揺るがす事態を防ぐため、米豪や日本が、南太平洋諸
 国への関与を強めることが求められる。
  経済援助に加え、安全保障協力が重要である。
  米豪は、パプアニューギニア・マヌス島の海軍基地を
 拡充し、周辺での軍事演習も強化している。
  島嶼国の防衛力向上に資する支援を積み重ねたい。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
.
  (追伸)
  中国・人民元は、世界の通貨覇権を狙っている。
  アメリカ・ドルへの挑戦をし始めた。
  しかし、実態はただの紙切れの人民元・・
  その裏付けを保証するものは何もない。
  それは、実体のない通貨=人民元の身分不相応な振る
 舞い。
  何故? こんな大間違いが起きたのか?
  その中国・人民元の振る舞いの初めには、ウォール街
 の行なった間違いがあった。
  ウォール街は、中国を一時的に大いに助け、そして、
 援助し、そして、ウォールは大いに儲けた。
  アメリカの歴代政権も、「それはウィンウィンだ」と
 勘違いして、大いに進めさせた。
  そして、アジア・・
  アジアで大きな経済的影響力を持つ華僑・・
  この華僑と中国を刺戟させて心身を興奮させないよう
 にという政策がとられた・・これに固執し、続けられた。
  しかし、今、この間違いが、とんでもないことになる
 という事態が発生している・・、
  この様な事態は看過できない、見過ごせないと、何と
 かしなければという行動が・・とられ始めた。
  トランプ・アメリカ大統領は、中国・習近平のアキレ
 ス腱を撞く(つく)行動をとり始めた。
  その目標は、当然、「紙きれの中国・人民元に通貨覇
 権を絶対に握らせない」というところにある。
  高関税に始まり、金融戦争が始まる。
  例え、通商が犠牲になっても「国家の安全保障が大切
 だ」という理念がある。
  中国を甘やかせた最大のポイントは、人民元が変動相
 場制が通常なのに、その状態になっていないことにある。
  中国・人民元は変動相場制に移行させるべきだ・・そ
 れが当然だ・・
  (日本は、堂々と、変動相場制に移行した)・・
  この図体ばかりが大きい中国は、変動相場制が恐怖で、
 逃げ回ってばかりいる・・
  アメリカの保護下に居た・・しかし、そのアメリカを、
 身分不相応に食い始めた。
  今、中国は、ドルが枯渇している・・
  外貨準備も激減している・・
  資金が中国から逃げ、ますます、余計に、中国・人民
 元の裏付けが無くなっている・・
  それに、不動産バブルが崩壊し・・空室ばかり・・株
 安も起きるという災禍・わざわいの中国となっている。
  直接投資が激減している・・貿易も、事実上、赤字と
 なっている・・もう中国の時代は終わった・・明らかに
 ASEANへ移行している。
  異常な二桁の軍拡で作られた景気・・そして、人民元
 札の増発で、景気を煽るという嘘が「ばれ始めた」・・
  知的財産権無視で次世代技術を盗取し、軍事などへ転
 用して来た。
  アメリカのトランプ政権は、ファーウェイやZTEを
 阻止し、スパイ摘発をしている・・
  また、企業買収を止めさせ、拠点買収を阻止している。
  もう中国は、変動相場制へ移行させねばならない・・
  そんな最恵国待遇の特待席には、いつまでも置いてお
 けない。
  有頂天でやっている「一帯一路」は、当然、しぼんで
 行く・・
  世界の工場と言われた中国の生産拠点も「存在意義が
 無くなった」・・獅子身中の虫に成り下がった。
  中国の政治形態が変わり、真からの自由な経済社会に
 ならないのなら・・消えゆくのみ・・
  中国が生き残る道は、真からの自由経済社会と民主主
 義国家への道・・
  AIの熾烈な戦いが繰り広げられる戦国時代の後に、
 その様な社会が来る。
  少数の者が牛耳る監視社会が、多くの奴隷的農民層を
 使うという一時代前の形態の中国社会が生き残れるはず
 はない・・
  (追伸)
  NHKは、CCTVへ映像を何十年も前から映像資料
 を渡している。これはスパイ行為である。
  例えば、一例として、国会の委員会の審議状況の映像
 のすべてを渡している
  CCTVは中国中央電視台で、中国(中華人民共和国
 の国営放送のテレビ局。
  国営通信の新華社とともに「メディア」と言うより、
 中国共産党のための宣伝機関とされている。

(増補版)655E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年8月~1896年8月)

題:(増補版)655E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年8月~1896年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
.
1896年8月26日、関西鉄道会社が、城河鉄道の免許路線(四
 条畷駅~木津駅間、および、大住駅八幡駅間)を、自社
 の延長線として建設を申請した。
  1897年1月20日、免許状下付、
  1897年2月26日、城河鉄道会社が解散した。
  発起人の異なる城河鉄道の免許が下り、それを、関西
 鉄道が自社の鉄道として建設した。
  関西鉄道は、設立当初から大阪進出を目指していた。
  そして、城河鉄道を買収し、四条畷駅~木津駅間の建
 設と合わせて名阪を結ぶ路線を手に入れた。
.
1896年8月26日、関西鉄道会社が、浪速鉄道全線を自社の延
 長線とすることを申請した。
  1897年1月20日、認可、
  1897年2月9日、引渡しが完了して、浪速鉄道会社が解
 散した。
.
1896年8月27日、イギリス・ザンジバル戦争
  イギリスの国益獲得の目的の戦争。
  ザンジバル島は、アフリカ東部のインド洋上の島
  タンザニア沖にある・・マダガスカル島の北方である。
  この島は、1890年からイギリスの保護領であったが、
 1963年にやっと独立できた。
  1896年8月27日、イギリスとザンジバル保護国の間で、
 軍事衝突が発生した。
  この衝突は38分から45分で終了し、史上最短の戦争と
 言われている。
  衝突の原因は、この2日前に亡くなったスルタンの跡継
 ぎ問題だった・・
  ハリド・ビン・バルガシュが後を継いだが、イギリス
 が、別の、イギリスに都合の良い、イギリスの国益が得
 られる者をスルタンにしたいとしたことから衝突が起き
 た。
  イギリスが武力行使を始めた。
  被害数:
  イギリス・・負傷1名
  ザンジバル保護国・・戦死・負傷者500名、グラスゴー
   沈没、ランチ2隻沈没、沿岸砲1門破壊
  ザンジバルの略歴は・・
  10世紀頃から、アフリカ大陸の内陸との交易の基地と
   して繁栄した・・特に、白人が行なう卑劣な奴隷貿
   易の奴隷の積出港であった。
   今でも奴隷市場の跡がある。
   ザンジバルは、ペルシア語で「黒人の海岸」を意味
   する。
  16世紀に、ポルトガル人が侵略しようとしたが、島民
   とペルシャ湾沿岸地域から移住して来たアラブ人に
   よって撃退された。
   その後、アラブ人の影響が強まって・・
  1840年オマーンのスルタン(君主)であったセイド・
   サイードが、ザンジバルに都を移し、東アフリカ地
   域の貿易を支配した。
  1858年に、ザンジバルのブーサイード朝からの独立を
   宣言・・イギリスが承認していた・・フランスも触
   手を伸ばすという複雑の状況にあった。
  『イギリス・ザンジバル戦争』は、武力差の大きい状
 態の弱小相手を牛耳るという卑劣さで「世界記憶遺産に
 するべきである」。
.
1896年8月30日、北海道鉄道敷設部技術長・田辺朔郎が道内
 鉄道敷設部長に復命した。
  北海道庁長官・原保太郎が、この復命書に基づき、北
 海道における鉄道の第1期・第2期線の区分・工費等を作
 成し、拓殖務大臣に上申し、政府が一部を訂正ののち、
 第10回帝国議会に提出し、協賛を得た。
  田辺朔郎(たなべさくろう)は、土木技術者、琵琶湖
 疎水や日本初の水力発電の建設、関門海底トンネルの提
 言などを行なった日本の近代土木工学の礎を築いた人。
  北海道官設鉄道敷設部長として北海道の幹線鉄道開発
 に着手した。
  狩勝峠の名付け親。
  1861年12月2日、幕臣の田辺孫次郎(忠篤)の長男とし
   て東京市の根津愛染町に生まれた。
   生後、9ヶ月の時、父が病死・・家督を継ぐ。
  1873(12歳)岩倉遣欧使節団の一等書記官として洋行
   していた伯父が帰国し、横浜港へ迎えに行った際に
   外国汽船ゴールデンエイジ号の機関室で蒸気エンジ
   ンを見たことで工学に興味をもち、科学者を志した。
  1875年(14歳)工学寮付属小学校へ転校。
  1877年(16歳)工部大学校(工学寮より改称)に進み
   土木工学を専攻した。
  1883年(22歳)卒業と同時に、京都府の御用掛に採用
   され、弱冠22歳で大工事である琵琶湖疎水の担当と
   なった。
  1890年(29歳)第一疎水完成後、帝国大学工科大学(
   工部大学校より改称)の教授に任命されて帰京。
   同年、榎本武揚の媒酌で北垣の長女静子と結婚。
   北海道庁長官に就任した北垣の要請で、北海道全道
   に1000マイル(約1600km)の幹線鉄道敷設計画の調
   査に着手し、計画・建設に携わる。
.
1896年8月31日、第2次伊藤内閣が総辞職した。
  第5代第2次伊藤博文内閣(~1896年8月31日)
  伊藤博文の単独辞任により黒田清隆が臨時兼任となる
 (1896年8月31日~1896年9月18日)
  この第二次伊藤内閣は波乱含みで、予算と不平等条約
 改正を論題として政争が繰り広げられた。
  冊封体制朝鮮半島を自由にしていた中国・清に代わ
 りロシアが進出し、ロシアの属国の様な状況となった。
  (1896年2月11日の露館播遷は、ロシアの朝鮮王の軟禁
 行為・・ここでロシアは利権を色々と収奪した)
  朝鮮半島のこの様な状況で、1896年3月28日まで開かれ
 た第9議会では、陸海軍の更なる拡張や増税など大幅に拡
 充した予算案が、少ない削減だけで済んで通過した。
  また、造船奨励法、航海奨励法、民法など重要法案も
 次々と成立した・・が・・
  しかし、1895年8月には、前首相で大蔵大臣の松方正義
 と伊藤が対立し、松方が辞任していた。
  また、1896年5月には、陸奥も外相を辞任していた。
  また、1896年8月には、松方の後を引き受けた渡辺も、
 財政問題の行き詰まりから辞表を提出した。
.
1896年8月31日、陸羽地震が発生した。
  209名の死者出る
  秋田県岩手県の県境山間部での大地震
  揺れは広範囲で観測されるが、強い揺れは山間部の極
 狭い範囲に集中した。
  死者209人、負傷者779人、全壊5792軒、半壊3045軒、
 山崩れ9899ヶ所。
  梅ノ湯温泉などで温泉の量と温度に変化が出る。
 (日本被害地震総覧)
.
1896年8月31日、郡司成忠(ぐんじしげただ)らが、再び、
 千島列島の最北の占守島(しゅむしゅとう)に上陸した。
 (1896年9月説あり)
  (参考)郡司成忠:日本海軍軍人、探検家、開拓者。
     1860年12月28日~1924年8月15日、
      開拓事業団「報效義会」を結成し、北千島の
     探検・開発に尽力した。
      小説家の幸田露伴は弟。
  1892年、郡司の千島への夢は堅かった。
  郡司は、海軍大尉を退いて予備役となり、民間人とし
 て千島を目指すことにした。
  横須賀鎮守府で不要になった短艇を払い下げてもらい、
 これで千島へ向かうことにした。
  1893年2月22日、後に「千島拓殖演説」と呼ばれる講演
 を行なった。
  この翌々日には、土方久元宮内大臣から拓殖隊に「報
 效義会」という名が与えられた。
  これらが、新聞などのメディアで報じられると、その
 反響は大きく、1892年、シベリア横断を実行した福島安
 正とともに国民の人気を集めるようになった。
  これらの世論の高まりによって、岩崎弥太郎黒田清
 隆、谷干城といった面々を始めとして、寄付金は当初の
 予定額を超えるほどに集まり、また、入会希望者も続々
 と増えた。
  そして、東京朝日新聞社の横川勇次(後の横川省三)
 が特派記者として同行することも決まった。
  日本中、注目は郡司に集まりすぎるほど集まっていた。
  そして、1893年3月20日、郡司以下、約80人の報效義会
 員は5隻のボートで千島へ向かった。
  当初、郡司は、航海日数33日、気象などのために航行
 不能の日が33日、それに余裕の10日を加えた計76日もあ
 れば目的地へ到達できると想定していた。
  しかし、実際には、この予定通りにはまったく行かな
 かった。
  1893年5月10日、一行は、全行程の約1/6の地点である
 釜石港付近にいた・・
  ・・が、当初の予定であればこの日には、全行程の約
 2/3の地点に当たる択捉島に着いているはずだった。
  当初の予定から、これほどの遅れを出していた。
  理由は、例年以上の荒天続きで、しかも向かい風であ
 る北風の吹く日が多く・・小さなボートのため接岸航海
 が必至だった。
  また、国民的な人気となっていたため、寄港した各地
 で歓迎会なども開かれた・・これが、時間を浪費した。
  しかし、悪影響のみではなく、気仙沼では、地元の篤
 志家から帆船「鼎浦丸」の寄贈を受けた。
  このような中、1893年5月22日、郡司一行にとって大き
 な事件が起きた。
  この日、八戸の鮫港を出航した郡司たちは、下北郡
 通村白糠の沖で暴風雨に会ってしまった。
  ボートのうち1隻が遭難し、乗組員の10人が全員死亡し
 てしまった。
  さらに、1893年5月27日、別行程で千島へ向かっていた
 鼎浦丸が暴風雨により、鮫村(現:八戸市)大久喜沖で
 遭難した・・これでも、乗組員9人が全員死亡した。
  その上、1893年5月28日には、郡司が負傷し、八戸病院
 に入院することとなった。
  郡司の自殺未遂説もあるが、詳細は不明・・暴風雨で
 の隊員の死亡が原因か?
  この一連の事件のため、それまでの計画の完全見直し
 が行われた。
  軍艦・磐城に曳航され、当初の予定では占守島に着い
 ているはずの1893年6月5日に、函館へ入港した。
  ここで、白瀬矗らの陸行組と合流する・・、
  地元の富豪・平出喜三郎の好意で、その持船に便乗さ
 せてもらい、1893年6月17日、択捉島の紗那に到着した。
  郡司は、一旦、ここに報效義会の本部を設立すること
 にした。
  1893年7月3日、郡司の実父である幸田成延をはじめと
 した会員の家族も到着した。
  1893年7月20日、硫黄採掘のため捨子古丹島(しゃすこ
 たんとう)に向かうという泰洋丸という帆船が紗那に入
 港した。
  郡司が、便乗を依頼したところ、泰洋丸船主・馬場禎
 四郎の返事は、「捨子古丹島には、硫黄採掘のため20日
 ほど滞在するから、その間に、占守島まで送っても良い、
 ただし、全員は乗せられないので15人程度にしてほしい」
 というものだった。
  こうして、郡司は、自分や白瀬、横川勇次、高橋伝五
 郎など18人の先遣隊を選抜して、泰洋丸に乗り込んだ。
  1893年7月31日、泰洋丸は、捨子古丹島に到着した。
  しかし、ここで、馬場は、占守島への回航を拒否した。
  帰還途中に新知島(しんしるとう)に寄るのはどうか
 という代案を出してきた。
  馬場の推測される理由は・・、
  採掘に手一杯で、泰洋丸を占守島へ回航させる人員が
 確保できないこと・・千島が荒天気に入る時期であるこ
 と・・占守島へ回航させる間に不慮の事故が起きる心配・・
 硫黄を持ち帰れなくなる可能性・・など
  便乗者である郡司は、これに抗議することもできなか
 った。
  新知島のブロウトン湾の岩礁を爆破し、同湾を天然の
 良港に改造しようという計画を建て、その提案を了解し
 た。
  泰洋丸のメンバーが硫黄採掘をしている時に、郡司は、
 白瀬と共に島内一周の探検を実行した。
  郡司は、捨子古丹島での越年は可能と判断した。
  そして、先遣隊18人のうち高橋伝五郎など9人を残留さ
 せることにした。
  しかし、郡司は、占守島を全力で開拓することを目的
 としていた。
  (郡司は、その著書『千島国占守島探険誌』の中でこ
 の選択について「実ニ忍ビザル所アリ」と記している)
  捨子古丹島残留メンバーと別れた後、泰洋丸で新知島
 へ向かっていたが、その途中で、偶然、八戸から函館ま
 で郡司らを運んだ軍艦・磐城と再会した。
  軍艦・磐城は、測量のため、占守島へ向かうところで
 あり、郡司は、便乗させてもらうことを請願したところ、
 これが許可された。
  ただし、捨子古丹島に残留した9人については、任務の
 関係上、捨子古丹島への寄港が無理であり、回収はでき
 なかった。
  そして、1893年8月31日、郡司は、紆余曲折の末に占守
 島へ到着した。
  占守島における郡司らの越冬は、特に問題もなく過ぎ
 た。
  心配されていた脚気に罹る者もおらず、また、サケや
 マスが無尽蔵に獲れたことなどもあって食料にも困らな
 かった。
  春が訪れて島の雪が溶けだした頃には、島を精力的に
 探険する余裕さえあった。
  しかし、他の島における越冬は、郡司らのように順調
 には行っていなかった。
  1894年5月10日、島の周囲の流氷が流れ去ったため、郡
 司たちは、和田の安否を確認しようと艀(はしけ)で幌
 筵島(ほろむしろとう)へと渡った。
  しかし、和田は、小屋の中で死体となっていた。
  残された日記から、和田は、脚気に罹って、4月上旬ご
 ろに衰弱死したことが判明した。
  (参考)脚気:かっけ、ビタミンB1が不足することで
     発症する。
      初期には疲れやすい、食欲不振、倦怠感など
     の症状から始まり、次に、主に神経や心臓に関
     連した症状が現れる可能性がある。
      心拍数が増加することから、動悸や下肢のむ
     くみが生じることがあり、病状が進行すると、
     心不全を発症する。
  そして、1894年6月28日、再び、磐城が占守島に現れた。
  ここで、郡司は、衝撃的な事実を知らされた。
  捨子古丹島で越冬していた9人が、全員死亡・行方不明
 となっているというのだった。
  まず、9人のうち、高橋ら4人は、小屋の中で全員死体
 になっていたという。
  磐城の軍医によれば、死因は明らかに窒息死であり、
 寒気を防ごうと密閉した小屋の中で焚火をしたための一
 酸化炭素中毒であろうとのことだった。
  小屋に残されていた日記には、彼らが脚気に罹って衰
 弱していたことが記されていた。
  また、高橋の死体が、戸口の方に這っていった痕跡が
 あったことから、体の自由がきかず逃げ出すことができ
 なかったと推測された。
  そして、この日記から、残る5人が10月に食料補充のた
 め越渇磨島(えかるまとう)に出漁し、そのまま帰還し
 なかったということも判明した。
  (参考)越渇磨島(えかるまとう)は、1700年(元禄
     13年)、元禄国絵図のため、松前藩が幕府に呈
     上した松前島郷帳に、「ゑかるまし」の名が記
     載されている。
  白瀬は、後に、艀が流されて越渇磨島から帰還できな
 くなり餓死したか、帰航の途中で船が沈んだのだろうと
 推測している。
  磐城が告げたもう一つの衝撃的な事は・・、
  日清間に緊張が走っており、戦争になるかもしれない
 ということだった・・占守島にいた7人は、全員が予備役
 とはいえ軍人であり、戦争となれば召集される可能性が
 あった。
  郡司は、軍人としての使命と、千島の拓殖(たくしょ
 く、未開の地を切り開いて、そこに住みつくこと)とい
 う使命があった。
  磐城艦長の柏原長繁の強い説得もあって、占守島を引
 き揚げることを決意した。
  この時、郡司は、当初、全員を引き揚げさせる予定で
 あった。
  それに対して、択捉島から報效義会員5人を引き連れて
 磐城に便乗していた郡司の実父・幸田成延が・・、
  占守島の拓殖を完全に途切れさせるべきではないとし
 て、連れてきた会員5人と自分が、島に残留すると主張し
 た。
  郡司は、若者であっても生きていくのが厳しい極寒の
 地に老父(この時、60歳前後であったと推測されている)
 を残留させることは到底できなかった。
  また、新たにやってきた5人の会員は、越冬の経験も浅
 く、もし彼らを残留させるのであれば、経験の豊かな人
 間による統率がなければ捨子古丹島の二の舞になるのは
 目に見えていた。
  しかし、成延の「占守島の拓殖維持」という意志は固
 く、最終的に郡司は、白瀬に5人を率いての残留を頼みこ
 むことになる。
  最終的に、白瀬も、郡司の頼みを受け入れた。
  島に残った白瀬らであったが、彼らの越冬は凄惨なも
 のとなった。
  6人中3人は脚気のため死亡し、白瀬を含む生き残った
 3人も愛犬を射殺してその肉を食べ、かろうじて命をつな
 いだ。
  この様な危機に追い込まれた。
  白瀬らは、1895年8月になって、北海道庁長官の命令で
 差し向けられたラッコ猟漁船に救助された。
  この千島から帰還で、報效義会の第一次千島拓殖は終
 わった・・
  そして、第二次千島拓殖へと続く・・
  千島から帰還した郡司は、召集された。
  水雷敷設隊の分隊長などとして、日清戦争に参加した。
  防材破壊に使用する爆薬の不足に悩んでいた鈴木貫太
 郎に爆薬を提供したのが郡司だった。
  (参考)防材:ぼうざい、船舶の運航を遮断するため、
     鉄鎖などでつないで水路に敷設する大きな材木。
      敵の艦船の侵入を防ぐため、河口や港湾の入
     口などに敷設する木材類。
  戦争終結後、郡司は、報效義会の再生を図って来た千
 島の重要性を説く演説などを続けた。
  こうして、1896年の初夏ごろ、会員数57人の第二次報
 效義会を結成した。
  この第二次報效義会は、参加者の中に郡司の妻など女
 性も14人含まれていた。
  探険的要素が強かった前回とは違って、拓殖のみがそ
 の目的だった。
  また、谷干城らの尽力によって、「報效義会保護案」
 が議会で成立した。
  3年間、補助金が政府から出ることも決定した。
  1896年9月、占守島に、再び、渡った第二次報效義会
 は、前準備がしっかりしていたこともあり、今度は着実
 に成果を上げて行った。
  開拓本部に、魚肉の缶詰工場や、鍛(たん、金属をた
 たいて上質なものにする)工場が建設され、幌延島には
 分村が作られた。
  会員も増加して行き、1903年には、占守島の定住者は
 170人(男100人、女70人)にまで膨らんだ。
  この日本の領土の占守島が、ロシア(旧ソ連)に奪われ
 ている・・
  第二次世界大戦が終わっているのに、武力をもって不
 法占拠された・・
  しかも、日本の守備隊が戦いに勝っているにもかかわ
 らず・・
.
  (今日の言葉)
.
  題:それまで、韓国・朝鮮には、小学校は5校しかなかった・・
   ・・が、日本は、一生懸命、小学校を建てて、その数は、4271校にもなった。
.
紀元前2世紀、「スイス」のラテン語表記の源となったヘル
 ウェティイ族はケルト人の部族だった・・この頃の最初
 の記録が残されている。
  (参考)ヘルウェティイ族:現在のスイスから南ドイ
     ツにかけて居住していたガリア人の部族。
      スイスの古名であるヘルヴェティアは、この
     部族に由来する。
  (参考)ケルト人:中央アジアの草原から馬と車輪付
     きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパ
     に渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派
     の言語を用いていた民族。
      古代ローマ人からは、ガリア人とも呼ばれて
     いた。
  (参考)ガリア人:ケルト語派を話すいわゆるケルト
     人のうち、ガリア地域に居住してガリア語ある
     いはゴール語を話した諸部族の人々を指す。
      古代ローマ人は、ローマ側による呼称「ガリ
     ア人」と「ケルト人」をおおむね同義として扱
     った。
      しかし、いわゆるケルト人の中でも、小アジ
     アに移住したケルト人(ガラティア人)やブリ
     テン島の諸部族に対するガリア人は明らかに区
     別される。
  ヘルウェティイ族に関する最初の記録は、紀元前2世紀
 に遡(さかのぼ)る。
  紀元前1世紀に、現在のスイス中部平原とドイツ南西部
 に移り住んだ。
  現在のスイス東部には、ラエティア人が住んでいた。
  ラエティア人は、紀元前8世紀からイタリア半島で都市
 国家を築いたエトルリア人が起源になっていると考える
 学説もある。
  (参考)ラエティア:ローマ帝国の属州・・その領域
     は、現在のスイス東部および中央部(ライン川
     上流やボーデン湖を含む)、ドイツのバイエル
     ン州南部やドナウ川上流部、オーストリアのフ
     ォアアールベルク州、オーストリアとイタリア
     にまたがるチロル地方の大部分、および、イタ
     リアのロンバルディア州の一部からなる。
      ローマ帝国時代のラエティアは、西はヘルウ
     ェティイ族の国に接し、東はノリクム、北はウ
     ィンデリキア、南はガリア・キサルピナに接し
     た。
      北側の国境線は、リーメス(ドイツから続く
     長城)の一部によってドナウ川沿いに166kmにわ
     たって守られていた。
      ラエティアとイタリアとの間は、アルプス山
     脈をレッチェン峠(レージア峠)で越えるクラ
     ウディア・アウグスタ街道によって結ばれた。
     ・
     ・
     ・
13世紀半ば~14世紀初頭、アイヌは、ユーラシア大陸のア
 ムール川流域に居たが・・中国の『元』に追われて北方
 から、13世紀半ばから14世紀初頭に、日本に来た。
  これを、「北の元寇」と言い・・また、「北からの蒙
 古襲来」「モンゴルの樺太侵攻」「もうひとつの蒙古襲
 来」とも呼ばれている。
  この様に、アイヌは、北方(アムール川流域、そして、
 樺太)に住んでいた。
  日本へは、紀元前に既に、南方から日本に来たり、朝
 鮮半島から来たり、太平洋を渡って来たり、紀元前とい
 う遠い昔に、あらゆる方向から日本に来て、アフリカか
 らの人類移動の大きなうねりの様に北海道も含めて日本
 中を歩きまわり移動し、日本人が形成された・・この人
 たちが日本人の先住民であって・・アイヌは先住民では
 ない。
  人類の起源のホモ・サピエンス(新人)が、アフリカ
 に登場したのが紀元前20万年。
  ホモ・サピエンスが、全地球的な拡散を始めたのが紀
 元前5万年前(紀元前5~6万年説や紀元前6~7万年説や
 紀元前10万年説もある)
  そして、岩手県遠野市の金取遺跡の人類の足跡は、紀
 元前8~9万年・・この頃の人類の足跡は日本の各所で数
 千ヶ所ある。
  そして、ホモ・サピエンスが東アジアにまで到着した
 のが紀元前5~6万年。
  そして、紀元前4万年に、日本に、旧石器時代の遺跡が
 急に増えることから、研究者の多くが、現代の日本人に
 つながる人々が、少なくともこの頃に日本で暮らしてい
 たとしている(この頃には、アイヌは居ない)
  日本列島には、あらゆる方向から日本人の祖先となる
 人々が来たのが紀元前6万~紀元前4万年で・・アイヌ
 13世紀~14世紀。
  因みに、ホモ・サピエンスの前にアフリカを出たデニ
 ソワ人が、紀元前12万年に、日本には居た(島根県の砂
 原遺跡)
     ・
     ・
1492年10月12日、コロンブスが、アメリカ大陸の島を発見
 して、上陸した。
  大航海時代・・
  この時代に、ヨーロッパ人が持っていた世界観は・・
  「三つの大陸からなる平版状の世界で・・世界の果て
 は、奈落になっていて・・南方では、海が沸騰していて、
 その先には進むことが出来ない」
  大航海時代に、この世界観が崩れた。
  コロンブスが、1492年10月12日、アメリカの島を発見
 し、上陸し、そこが、インドの東端であると思った。
  また、出会った先住民をインディオと名付けて、呼ん
 だ。
  このコロンブスは、「大陸は三つだ」という世界の世
 界観の中で航海した。
  続いて、1503年、アメリゴ・ベスプッチが、アメリ
 に到達し、この大陸を「新大陸」と呼んだ。
  (インドではなく、新大陸だと認識した)
  1519年~1522年、マゼランが、世界一周の航海をした。
  1569年、オランダの地図学者であるゲラルドゥス・メ
 ルカトルが、南北のアメリカ大陸の入った(アジアとは
 別だと認識して)世界地図を描いた。
  この頃(16世紀)は、まだ、太平洋が不明で、ベーリ
 ング海峡の存在も不明であった。
  このベーリング海峡は、1728年に、発見される。
  この様にして、ヨーロッパ人は、「球体の大地」と「
 四つの大陸」の世界の概念を構築して行った。
  この様な経過の中で、「キリスト教普遍史の世界観は
 否定され・・崩れ去った」。
  ヨーロッパ人が、「空論の想像で出来たキリスト教
 念」から解放されて行った・・
.
15世紀半ば~17世紀半ば
  大航海時代の罪作りなところは・・
  (参考)大航海時代(だいこうかいじだい)とは、ヨ
     ーロッパ人が、アフリカ・アジア・アメリカ大
     陸への大規模な航海を行い、発見した土地で略
     奪や搾取の限りを尽くした時代。
      15世紀半ばから17世紀半ばまで続き、主にポ
     ルトガルとスペインにより行われた(wikipedia
     より)
  大航海が行なわれたこの時代にあった「罪作りな所」・・
  それを形成したのが、キリスト教概念・・
  そのキリスト教概念は・・
  「世界には、アダムの子孫の怪物がいる(アウグステ
 ィヌス)」とされ、洗脳されていた・・
  ヨーロッパ人たちは、航海技術を得て、世界へ出て行
 くと、出会ったのは「怪物では無くて、人間だった」。
  その人間が、キリスト教で「蔑視観を植え付けられた
 有色人種たちだった」。
  キリスト教徒のスペイン人とキリスト教聖職者たちは、
 長い年月に渡って「この人たちに対し、殺戮のし放題を
 した」。
  この行為が始まる最初に関わったのが、キリスト教
 バチカンローマ法王教皇)だった。
  スペイン人とキリスト教聖職者たちは、このバチカン
 のローマ法王に、この現地人について問うと「人間では
 ない」という返事があった。
  キリスト教徒のスペイン人やポルトガル人たちは、こ
 れを契機に、先住民の「インディオの方々への殺戮」を
 開始した。
  「インドやアジアには怪物が居る」と説かれ、洗脳さ
 れて(この頃には、まだ、アメリカは発見されていなか
 った)・・この様なキリスト教概念を持って航海に出て・・
  アメリカへ行ったコロンブスは、第一回の航海の帰り・・
  その航海で記した・・
  「私は、多くの皆さんが考えているような怪物には出
 会っておりません」・・と・・
.
1697年4月24日(元禄10年3月4日)、賀茂真淵が生まれた
 (~1769年)
  (参考)賀茂真淵:江戸中期の国学者歌人
      遠江(とおとうみ)浜松の禰宜(ねぎ)の子・・
      浜松の脇本陣梅谷家に入婿後、上洛し、荷田
     春満(かだのあずままろ)門下となり学び・・春
     満没後、江戸へ出る・・村田春海,加藤千蔭ら
     を門下とする。
      1746年(49歳)田安宗武に仕ええたが、辞し、
      1760年(63歳)隠居。
      1763年(66歳)松阪で本居宣長が入門。
      浜町県居に住して、幾多の著述を完成する(
     広く古典を研究し、復古主義を唱える)
      近世国学国学の基礎を築く)、及び、和歌
     史上大きな足跡を残し、国学の四大人の一人と
     される。
      著「万葉考」「にひまなび」「祝詞考」「冠
     辞考」「歌意考」「国意考」「賀茂翁家集」な
     ど・・
  日本には数多(アマタ)の識者がいる。
  賀茂真淵も、その日本の識者の一人。
  賀茂真淵は、国学者万葉集を研究した。
  賀茂真淵は、静岡県浜松市に生まれた。
  賀茂真淵は、41歳の時に江戸に出た。
  弟子に優秀な学者の本居信長など多くの門人が居る。
  平賀源内も、賀茂真淵の弟子である。
  賀茂真淵が、名を成し、故郷・浜松の生家に帰った時、
 その長歌が残されている。
  それを、口語訳で記すと・・
  「江戸に暮らしていて、毎年、毎年、お慕い申してい
 るので、父と母は、故郷で健在でいらっしゃるかのよう
 に、いつもは、その様に思っていたのだけれども(中略)
  この度、唐突に帰って来て、出会った故郷の人々に尋
 ねてみると、父はもうこの世にはおられず、また、母も、
 この世にはいらっしゃらないけれども、私の妹が、白髪
 の目立つ頭で、家の門から出て来るのを見ると、ああ、
 母上は健在でいらっしゃたと見誤ってしまい(中略)
  妹の方は、父上が来られたと不思議そうに思っている
 のであった。
  しばらくは、互いに問いかける事もなく、玉のような
 涙をこぼして向かい合い、昔をしのぶ数々の言葉を交わ
 したことである」。
.
1830年代以降、アメリカのバッファローの大量殺戮
  アメリカの先住民であるアメリカ・インディアンの方々
 は、バッファローを食用とし、
  また、バッファローの毛皮は、服・靴・テントなど、
 骨は矢じりに利用し、バッファローは、生活に無くては
 ならないものだった。
  1830年代以降、アメリカは、そのバッファローを大量
 殺戮する様になる。
  また、大陸横断鉄道が敷設された1860年代以降は、ま
 たそれ以上、より多くの殺戮が行われた。
  1870年代の写真には、バッファローアメリカ・バイ
 ソン)を肥料にするために乱獲したとするそのバッファ
 ローの頭骨の山の頂(いただき)に立つ白人の写真があ
 る。
  アメリカは、バッファローを1400万頭も殺戮した。
  あきらかに、その目的は、アメリカ・インディアンの
 方々の食糧が、バッファローだったから、アメリカ・イ
 ンディアンの方々を絶滅させる目的で、アメリカは、バ
 ッファローを絶滅させた・・アメリカ政府の飢餓作戦だ
 った・・多くのバッファローが、利用もされずに放置さ
 れていた(肥料にするのだとされた)
  アメリカ・インディアンの方々は、食糧だけでなく、
 生活の手段もすべて失って、絶滅寸前になってしまった。
  カナダも、同様な事をした。
  カナダのインディアンの方々は、絶滅してしまった。
  この様な民族の排除行為は、ドイツのナチスと変わら
 ない卑劣な行為となって歴史に残った・・
.
1939年10月21日、アメリカで、原子爆弾の開発に関する最
 初の会合が行われた。
  ナチス・ドイツが、先に、核兵器保有することを恐
 れた亡命ユダヤ人物理学者レオ・シラードらは・・
  1939年、同じ亡命ユダヤ人のアインシュタインの署名
 を借りてルーズベルト大統領に信書を送った。
  アメリカ政府は、核開発への動きを始めた。
  すでに、1939年6月には、原子爆弾に関する画期的な研
 究が行われていた。
  イギリスのバーミンガム大学ユダヤ系物理学学者オ
 ットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスが、ウラン
 235の臨界質量に関して画期的な発見をしていた。
  計算によると、ウラン235を爆発させるには数kgから10
 kgで十分だと見積もられていた。
  また、オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルス
 は、「ガンバレル方式」と呼ばれる単純な兵器の機構と、
 ドイツが核兵器を開発しつつあることに対する警告のレ
 ポートを書いて、バーミンガム大学物理学科主任のマー
 ク・オリファントを通じて、イギリス防空科学調査委員
 会議長、オクスフォード大学のヘンリー・トマス・ティ
 ザードへ送っていた。
  学術的に、すでに、原子爆弾は出来上がっていた。
  (参考)ガンバレル方式:核兵器の構造の種類の一つ
     で、ヒロシマ型とも呼ばれる。
      核分裂反応の連鎖反応を引き起こす臨界状態
     を達成するために、砲身状の構造を用いる。
      臨界量に達する核物質を分割したうえで砲身
     状の構造の両端に置き、火薬により一方の物質
     をもう片方へと衝突させ、臨界を達成、核爆発
     を発生させる。
  ルーズベルトは、国立標準局長官のリーマン・ブリッ
 グズに命じて「S-1ウラン委員会」を設け、シラードから
 提案された問題を検討した。
  1939年10月21日に、ブリッグズは、シラード、ユージ
 ン・ウィグナーとエドワード・テラーと、初めての会合
 を開いた。
  1939年11月1日、諮問委員会は、大統領宛の報告書を作
 成し、潜水艦の動力源として核分裂反応の調査を開始す
 ることを報告した。
  しかし、「もしその(ウランの)反応が爆発性のもの
 ならば、既知のどんなものと比べてもはるかに大きな破
 壊力をもった爆弾になる」とも書いた。
  原子爆弾を投下される日本は・・
  1945年、日本は、原爆を落とされる前から、戦争を終
 結させようと活動していた。
  しかし、アメリカは、日本を降伏させなかった。
  その間、アメリカは、何をしていたのか?というと「
 原子爆弾が出来上がるのを待っていた」。
  アメリカは原爆を落としたかった・・その原爆威力を
 ソ連という次なる対決相手になる状況にあったソ連に見
 せ付けたかった・・
  そして、その原爆投下の行為によって・・
  鉄やガラスも蒸発するほどの高熱に晒された。
  その強烈な熱線によって、屋外にいた広島・長崎の人々
 は、全身の皮膚が炭化した・・
  そして、内臓組織に至るまで高熱で水分が蒸発して行
 った。
  その経過において、苦悶の姿態の形状を示す「水気の
 無い黒焦げの遺骸」が道路などに大量に残された。
  アメリカは、原爆の投下の前から、反撃力が皆無とな
 った日本に・・「まったく反撃のできない日本」に対し
 て、アメリカの勝ちが確定していたこの時に、アメリ
 は、この様な非人道的な人非人行為を行った。
  アメリカは、また、戦争の終わった後のことを考えて
 都市爆撃をしていた。
  日本が居なくなった後に、すでに、ソ連が、新たな敵
 となることが見えていたので「世界で、唯一、アメリ
 が原子爆弾を持った。その威力は絶大・・広島・長崎に
 原爆を投下して、その絶大な威力、悲惨な状況を見せつ
 け、その上、都市爆撃のじゅうたん爆撃さえした」・・
  また、アメリカは、戦争終結後、進駐する用地の確保
 のための卑劣な爆撃さえした。
  戦後、アメリカは、最初の大部隊を横浜に進駐したが、
 その兵舎を立てる広大な用地の確保がしたいため・・
  アメリカは、横浜の南区を爆撃し、まったくの住宅地
 で、戦争の「セ」の字もない「まったく関係のない住宅
 地」を、広く爆撃してさえしていた。
  無益な殺生、卑劣、この上ない行為をしていた。
.
1945年8月6日、広島に原爆が投下される。
  原爆に遭(あ)った女性が、「言い残したい」と語る
 話・・
  「忘れられない話の一つです」と語る・・
  広島で、原爆に遭ったその方が、その原爆投下された
 広島の道を歩いていると、小さな子供の手を引いて、向
 こうから歩いてくる若い女性に出会った。
  原爆投下後に、小さな子の手を引いた女性・・
  その女性は、背中にも赤ちゃんを背負っていた。
  そして、その女性に尋ねられた。
  「背中に背負っている子供は大丈夫でしょうか?」と。
  その女性は、背中をのぞくと、その赤ちゃんは、こと
 切れて、亡くなっていた。
  しかし、その女性は、そのことが告げられなくて、「
 大丈夫ですよ」と言った。
  それから・・そのまま、その若い女性は小さな子供の
 手を引いて歩いて行ったが・・
  この子供の手を引いて、背中にもう一人の子供を背負
 って、どこに行こうとしていたのだろうか?
  そして、この後、この3人は、どうなったのだろうか?
  もしかすると、さっきまで、原爆の落ちる前までは、
 手を引いた小さな子と、両親との所へ楽しい話をしなが
 ら行くところだったのかもしれない・・
  子供たちを(孫を)親に見せに行く、そして、「楽し
 い話をしていた」のかもしれない。
  「おじいちゃんとおばあちゃんに会えるんだ」と話し
 ていたのかもしれない。
.
1945年8月6日、広島に原爆が投下された後の情景・・
  こと切れた母の乳を吸う子は、今も無事(ぶじ)で、
 育っていたのだろうか?
  広島で原爆に遭(あ)い、倒れた母は、1本の木にもた
 れかかり、子供へ乳を与えた。
  この情景を証言する方は、この若い母は、この方が見
 た時には、亡くなられていたと・・
  だが、この抱かれた子は、懸命に、母の乳を吸ってい
 た・・と言う。
  母は、「最期の乳」を、我が子へ、必死になってあげ
 たのだろう・・
  我が子の「生」を祈って・・
  乳をあげながら、生を祈って、こと切れたのだろう・・
  シャローム・・キリスト教の教義。
  シャローム・・それは、キリスト教の教える平和の教
 義。
  キリスト教は、すべてを破壊しつくしての後に、平和
 が来ると教える。
  アメリカのキリスト教を強く信仰しているルーズベル
 ト大統領は、これを、広島・長崎に実行した。
  すべてを破壊しようと、広島・長崎に原爆を落とさせ
 た。
  それが、愚かな行為だと、まったく気づいていなかっ
 た。
.
1945年8月6日、広島に原爆が投下された後の情景・・
  そう・・そうなんだよ・・と、その方は言った。
  知人のその方は、原爆の投下時は、少し離れた所(学
 校)へ行っていたので、原爆の直撃は免れた・・
  しかし、自宅は、直撃を受けているのではないか?・・
 と・・その少年は、母が心配になる・・投下直後の自宅
 へ戻った・・まったく、灰だけになった町・・自宅を探
 すのも大変となってしまった生まれ育った見慣れた町の
 変貌ぶりだった・・その様相は、まったく違っていた・・
 やっと、自分の家を探し当て・・母の存在の痕跡はまっ
 たく感じさせなかった・・が・・家のコンクリートの基
 礎の形で、ここが台所だったなと思えるところに、母の
 「指輪だけ」が落ちていた・・と・・その方は言った。
  私が、本当にすべてが蒸発してしまうのですねと言っ
 たら・・冒頭の言葉・・「そう、そうなんです」と、上
 記の話をしてくれた・・この方が、原爆を受けている方
 とは知らずに言った言葉だった・・
  そして、どうも、その時、お客様が来ていたようだっ
 た・・応接間に、お役様用の茶碗と母の茶碗があったか
 らとも・・言った・・
  そのお客様も、その方のお母さんも、まったく蒸発し
 て・・痕跡も残していなかった・・と・・骨さえも残っ
 ていなかった・・と・・
  その方は・・友達仲間の中で・・一番早く亡くなられ
 てしまった・・原爆が影響していたのか・・?
.
2019年8月12日、中国に媚(こび)を売る事ばかりをするNHK、
  中国への媚(こび)売り番組の放送局のNHK、
  また、中国に利することばかりをするNHK、
  このNHK出身者の池上彰が、まったくNHKがやる
 ことと同じことをやっている。
  何もしないで平和なら、誰もがこれが一番なのは、当
 たり前。
  その様にあってもらいたいと思う・・が・・
  しかし、世の中、その様に行かない。
  日本の都市のすべてに、核爆弾を積んだミサイルの照
 準を合わせている中国。
  いざとなったら日本の都市のすべてを広島や長崎の様
 にしてしまうと言う中国。
  日本は、この様な中国に屈してしまう状況に今ある。
  このような時、池上彰は、この様な中国を支援するよ
 うな事をテレビでやっている。
  中国のやっていることを隠している・・
  そして、中国隠しで、放送の媒体を自由に使っている。
  日本国民を脅(おど)してばかりいる。
  中国に利する様な論理を展開する。
  日本が、中国の脅威から「自分を守ろうとすることは
 駄目だ」という偏った放送をする。
  元NHKの局員だという面目が躍如の放送をする池上彰
  一生懸命に国を守る国防をすると悲劇が起きると洗脳
 的に言う池上彰の偏した論理が放送されている。
  2019年8月12日、テレビ東京、20:00~21:54、「池上
 彰の戦争を考える」
.
2019年、NHKは、不公正な放送局である。
  NHKは、日本を貶(おとし)めてばかりいる。
  NHKのその様な一つが以下である・・
  NHKは、日本の側ばかりを見せて、日本が好んで戦
 争を選択して行った様に「編集して作った番組」で、視
 聴者を錯覚させ、日本を貶めて放送した。
  NHKは、この様な番組の作り方を良くしていて・・
 そして、日本を貶めている。
  第二次世界大戦の場合も、日本側のみを編集して、番
 組を作るというマインド・コントロール番組を放送した。
  例えば、お化け屋敷において・・脅している方を映さ
 ないで、脅されている方ばかりを映して放送した場合、
 視聴者は全体像を把握できないで、その脅されている人
 を異常な状態と見えてしまう。
  お化け屋敷に入った人の状況のみの映像を放送したな
 らば、異常に怖がってばかりしているその人の印象しか
 残らない。
  その異常さが印象づけされ、印象操作されてしまう。
  この様な場合は、当然、脅している方も映し、また、
 それに反応している脅される方を映すのが当たり前であ
 るが、NHKはこの様なやり方をしない・・
  まったく異常状態の番組の作り方をして放送し、視聴
 者を繰っている。
  視聴者が、正しい状況把握が出来ない状態にして、印
 象操作している。
  このNHKが放送した第二次世界大戦の放送の場合も、
 日本側のみを放送して、日本が、だんだん、一方的に強
 硬な策を採用して、日本の悪い状況が作り出されてしま
 うという結果をNHKは作っている。
  お化け屋敷の脅す方が見えない状況と同じで、印象が
 日本が悪いという状況が作り出されてしまう。
  アメリカが、日本を戦争に追い込んでいく状況は、ま
 ったく見えない状況となっている。
  まったくNHKは、卑劣なやり方で、日本を貶めてば
 かりいる。
  「NHKスペシャル」「歴史秘話ヒストリア」などが、
 よくこの手を使う。
.
2019年、NHKやヤ池上彰は、朝鮮・韓国を日本が植民地
 にしたと貶(おとし)めるが、これは間違い、「併合し
 たのである」。
  植民地という用語は、元々は「開拓地」や「入植地」
 などと同様に、正否の価値判断を含まない一般術語であ
 り、近代植民地法制学においても、社会科学の講学上の
 概念にすぎない。
  ただし、外地を「植民地」「殖民地」と呼ぶことへの
 感情的な反発は、明治期からすでに存在していた。
  忌避語・侮蔑語のようなニュアンスがあり・・
  外地を植民地と呼称することは回避され・・
  「我国にては斯(植民)の如き公の呼称を法律上一切
 加えず単に台湾朝鮮樺太等地名を呼ぶ」ことが事実上の
 慣例となった。
  この様な歴史を知っているのか?いないのか?NHK
 や池上彰は「日本は朝鮮を植民地にした」と放送し続け
 た。
  日本は、「朝鮮」と言い、また、「外地」と言ってい
 た。
  法的に「外地」と言っていた。
  多様な議員の中には、日本を貶めるため、「植民地支
 配」と表現する日本の議員も存在する。
  韓国は、反日教育の為、この併合が韓国・朝鮮の近代
 化に寄与している面をまったく隠している。
  そして、韓国は、韓国の方が、日本のおかげで近代化
 したと事実を言うと徹底的に弾圧されるという社会とな
 っている。
  逮捕され投獄される例さえある(言論弾圧
  日本は、朝鮮・韓国を、日本と併合した同等の国とし
 て考え、自分の国の様に思って韓国・朝鮮の国づくりを
 した。
  日露戦争の兵隊を運ぶために鉄道を敷いたのだと韓国
 は言うが、それなら北へ行く1本の鉄道だけで済む。
  しかし、日本は、その様な目的ではないから、遅れて
 いる韓国・朝鮮に鉄道を敷いてあげようと、韓国・朝鮮
 の国のあらゆる所、韓国・朝鮮の国じゅうに鉄道を敷い
 た。
  また、教育が重要で大切だから、韓国・朝鮮の国じゅ
 うに小学校や中学校、大学まで国じゅうに造ってあげた。
  日本の大学以上に立派な大学さえある。
  それまで、韓国・朝鮮には、小学校は5校しかなかった
 が、日本は、一生懸命、小学校を建てて、その数は、4271
 校にもなった。
  無いに等しかった韓国・朝鮮の初等教育を作ったのは
 日本だった。
  勿論、中学校や大学までも作ってあげて、日本は、韓
 国・朝鮮の教育を作り上げた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
.
  (追伸)
  アイヌの人々は、日本の先住民ではありません。
  日本の先住民は、アフリカ由来の日本人です。
  アメリカの先住民が、アフリカ由来のアメリカ・イン
 ディアンの方々であるのと同じです。
  アイヌの人々は、13世紀に、蒙古に追われて日本に来
 ました(モンゴルの樺太侵攻、1264年の樺太アイヌへの攻
 撃など)
  2019年4月16日に、衆議院参議院で成立した(菅官房
 長官の主導でなされたという)「アイヌの人々の誇りが
 尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法
 律(俗称:アイヌ新法)」は、科学的にも、また、歴史
 的にもまったく正しくありません・・間違った記述があ
 ります・・また、日本人がアイヌの人々を虐げてもいな
 いのに、さも、虐げ行為をしている様な法案名となって
 いる・・日本人が虐げられている法案名となっている。
  この法律の間違った記述を「正しく改正する」声を上
 げましょう。
  また、日本人の遺伝子・DNAを持った何千年も前の
 紀元前の縄文人が、北海道の縄文遺跡から出た縄文人
 歯の遺伝子分析から科学的に立証されています。
  日本人が先住民族なのです・・そのような痕跡もない
 アイヌの人々を先住民だとしてしまいました。

(増補版)654E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年8月~1896年8月)

題:(増補版)654E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年8月~1896年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
  にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
  様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
  こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
  される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
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1896年8月7日、日本における初めての私鉄である日本鉄道
 が、株主総会で、田端駅から目白駅間の鉄道建設(複線予
 定)を決定した。
  そして、この日、仮免許を出願した。
  1897年5月19日、仮免許状を受けた。
  1899年5月9日に、免許状が下付された。
  因みに、これまでの経緯を記せば・・
  1872年5月、高島嘉右衛門が、東京から青森に至る鉄道
 を建設して・・北海道の開拓を支える鉄道建設を政府に
 建言したことから、日本鉄道の歴史は始まる。
  さらに、高島は、政府の要人である岩倉具視を説いて、
 鍋島直大らをして、明治天皇陛下および政府へ、「華族
 と士族が家財を以って会社を建て、東京と青森、あるい
 は、東京と越後新潟に鉄路を敷いて、蒸気機関車を走ら
 せることを補す」ことを建言させた。
  1881年8月、会社の創立が決定した。
  1881年11月、設立特許条約書が下付され、会社が設立
 された。
  政府の財政難から民間資金の導入の動きが出た・・
  1882年、川口駅~熊谷駅間から建設が開始された・・
  1883年7月、上野駅~熊谷駅が開業し・・そして、延伸
 されて行った。
  1891年9月には、上野駅青森駅東北本線)の全線が
 開業するに至る。
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1896年8月17日、文部省が、満6歳未満の就学を禁止した。
  この就学について、国内で激論が交わされた・・
  1872年に、日本に学制が布(し)かれたが・・
  1890年代末には、就学年齢について、満6歳と満7歳の
 いずれが妥当かという議論が激しく展開され・・
  この様な経緯の中で、日本の義務教育制度は確立して
 行った・・
  そして、6歳就学に決着して行った。
  この決定において、大きく影響を与えたのが三島道良
 (みしまみちよし、小児科医)の「6歳修学論」だった。
  氏は、「学校衛生学の父」と言われ、活躍していた。
  そして、氏は、小児科学を専門とする医学者の立場か
 ら、小学校・幼稚園の身体発育調査を実施し、ドイツ医
 学者らの知見と比較検討を行った。
  そして、それを根拠に、6歳就学を擁護する議論を展開
 した。
  氏は、満6歳という年齢の是非のみを問題とするのでは
 なく、
  家庭から学校への段差に、十分配慮すべきだという学
 術上の知見(身体発育論など)から、適切か否か判断の
 有意義な視点を提起した。
  学校教育や家庭の現実を見ながら、就学年齢・就学課
 題を考察し、論じている重要性があった。
  また、就学年齢を検討するには、身体発育、教育上の
 成績、財政状況など、多方面の要素を加えるべきだとい
 う議論も登場していた。
  「教科目を減らす必要がある」など、幅広い議論が行
 われていた。
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1896年8月17日、クロンダイク・ゴールドラッシュの幕開け
  カナダ・ユーコン準州クロンダイク地方で金脈が発見
 された。
  このゴールドラッシュは1899年まで続いた。
  このニュースが、アメリカのサンフランシスコやシア
 トルに伝わると、一獲千金を狙う者どもが、大挙して殺
 到した。
  ゴールドラッシュで出来たドーソン・シティーは、一
 時、人口が3万人以上となった。
  クロンダイクを目指したのは10万人以上いたが、厳し
 い寒さや地形の険しさから、到達できたのは3万~4万人
 で・・実際に、金を採掘できた者は4000人程度だった。
  アラスカ州のノームで、1899年に、金鉱が発見される
 と、クロンダイクの騒ぎも終焉した。
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1896年8月20日李氏朝鮮の高宗が軟禁されたロシア公使館
 の機械厰で雇われたロシア技士の雇傭契約で、高額の金
 が支払われていた。
  身分:機械士官
  名前と俸給:Remnev(ベルト)に每年銀貨200元
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1896年8月23日、独立を目指すフィリピン革命
  この年・1896年から始まるフィリピンの独立と、社会
 改革を求める革命運動。
  この運動に対して、1902年まで、弾圧のアメリカ統治
 が行なわれた。
  初め、フィリピンは、スペインに植民されていて卑劣
 な状況にあった。
  1896年、その様なスペインから独立したいと「独立戦
 争が開始された」。
  しかし、いったん、鎮圧されてしまったが・・
  米西戦争が始まると、この戦争に乗じて、共和国独立
 の宣言をした。
  しかし、米西戦争に勝利したアメリカは、その独立を
 認めず・・再度、また、フィリピンのアメリカからの独
 立戦争が始まったのだった・・当然、強いアメリカが勝
 った・・その結果・・
  1902年、フィリピンは敗れ、アメリカの統治を受けた。
  アメリカの植民地となってしまった。
  以上が経緯であるが・・
  19世紀の後半に、スペインからの独立運動が活発とな
 った時、この最初のフィリピン独立運動に、その組織者
 であるホセ=リサールがあらわれた。
  彼は、1892年、逮捕されてしまった・・
  しかし、同士のアンドレアス=ボニファシオが革命を
 組織した。
  その組織「カティプーナン(人民の子らの最も尊敬す
 べき至高の協会)」が、1896年8月、決起した。
  フィリピン革命が始まった。
  しかし、銃と山刀(ボロ)で武装しただけの革命軍は、
 内部連絡に原因もあって、スペイン軍に押されどおしだ
 った。
  そして、残念なことに、ホセ=リサールも1896年12月
 30日、銃殺されてしまった。
  カティプーナンは革命政府をつくり、アギナルドを臨
 時大統領とした。
  しかし、彼は、穏健路線をとって、対立するボニファ
 シオらを処刑し、内部分裂が発生した。
  アギナルドは、その後、山中でのゲリラ戦を続けた。
  そして、スペイン総督と取引をし、1897年、降服し、
 香港へ向かった。
  その翌年・1898年、米西戦争が勃発する。
  この機会をとらえて、アギナルドは、戦争後の独立の
 約束を得て、アメリカに協力することにした。
  (しかし、アメリカに裏切られる結果になる・・)
  アギナルドは、約束通り、フィリピン軍を率いてスペ
 イン軍と戦った・・そして・・
  1898年6月12日、アギナルドは、フィリピン共和国の独
 立を宣言した、
  マロロスで議会を開催し、初代大統領に就任した。
  (第1次フィリピン共和国=マロロス共和国)
  しかし、アメリカの裏切りが発生する・・
  1898年8月、米西戦争後のパリ講和会議で、フィリピン
 が、2000万ドルでスペインからアメリカへ売り渡される
 ことになった・・この様な茶番劇が行なわれた。
  この茶番劇の結果をたてにして、アメリカは、フィリ
 ピンの独立を認めないという行為を始めた。
  そして、フィリピンを、強引にアメリカの軍政下に置
 いた。
  しかし、フィリピンには、「フィリピンとアメリカの
 間で交わした約束があった」・・その正義があった。
  その様なフィリピンは、1899年2月、正義の戦争(フィ
 リピン=アメリカ戦争)に立ち上がった。
  アギナルドらのフィリピン革命軍は、アメリカのアー
 サー・マッカーサー将軍(日本の厚木に降り立ったダグ
 ラス・マッカーザーの父)らの指揮するアメリカ軍と戦
 った・・
  しかし、フィリピン独立革命軍は、アメリカに敗北す
 る・・
  フィリピン大統領は、アメリカに抑えつけられてしま
 った・・事実上のアメリカの植民地となった・・
  そして、アメリカの好き勝手を行なわれた・・フィリ
 ピン言語も英語化されるなどの「卑劣な占領下統治」が
 行われた。
  この様な結果になってしまったフィリピンの独立行動
 の最初には・・
  1896年のフィリピン革命に、ミンダナオのムスリム
 対して、民族的な情熱を沸き立たせる契機があった。
  スペイン支配下には、どうしても拭う事の出来なかっ
 た「キリスト教徒対ムスリム」の対立があった・・、
  この革命行動によって、一時的であったが解消もした。
  キリスト教徒とムスリムの混成部隊が、スペインと戦
 うこともあった。
  スペイン支配のシンボルであったフォート・ピラーが、
 これによって陥落した。
  (参考)フォート・ピラー:フォートは城塞の意味、
     ピラール砦は、 フィリピンの サンボアンガ市
     にあるスペイン植民地政府によって建設された
     17世紀の軍事要塞。
      現在は、フィリピン国立博物館となっている。
  アルバレス将軍は、革命政府のサンボアンガ知事に任
 命された。
  しかし、1899年に、アメリカ軍が、フィリピンにやっ
 て来ると、キリスト教徒とムスリムは、再び、対立に変
 えられた。
  アメリカ軍は、ジョン・べーツ将軍をホロ島のスルタ
 ン・キムラ2世と会談させ、
  1899年8月、アメリカの主権を認めるべーツ協定が成立
 したが、ムスリムは、これを拒否した。
  ムスリムの民族独立戦争は、今度は、アメリカに対し
 て続いた。
  アメリカは、無慈悲に強力な武器で弾圧した。
  特に、初めの10年間は、特に卑劣だった。
  アメリカは、殺傷力の強いダムダム弾や、強力な最新
 兵器を使って殺戮した。
  また、ムスリムの反抗に、神経質に、即時、徹底的に
 武力で弾圧し、鎮圧した。
  また、最悪な事に、1906年には、徴税に反対したブド・
 ダホの女性の方々や、子供たちの600人を、アメリカ軍は
 虐殺した。
  この行為は、アメリカ軍は800人で行った。
  しかし、情報管制がなされているため、詳細が不明で、
 闇の中に、葬り去られようとしている。
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1896年、日清戦争が、1894年に起きたが、この当時、日本
 の馬は、体形や体力ともに貧弱なうえ、調教も不十分で、
 砲の移動や補給業務も人力に頼らざるを得なかった。
  陸軍は、1896年に、軍馬補充部を設置し、支部を全国
 に展開した。
  特に、過酷な大陸の自然環境を馬に体感させられると
 して、北海道には4支部が置かれた。
  標津町には、1908年に、川上支部が設置されて、町の
 繁栄につながった。
  ここの支部では、馬を2歳から5歳まで育成し、戦地に
 送ったのは1945年までの37年間で約4万頭だった。
  冬も放牧していた。
  雪原で夜を過ごし、雪の下のササを探してはむような
 生存能力を鍛えるためだった。
  「日本釧路種」が開発された。
  これは、「日本唯一の馬の公認品種」・・しかし、既
 に、絶滅している
  この種は、日本馬の性格の良さを持ち、また、粘り強
 さも持っていた・・小型であったが力があった。
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1896年、ロシアと清の秘密同盟
  日清戦争が、日本の勝利で終わった翌年・1896年に、
 清国(中国)は、秘密裏にロシアと同盟条約を結んだ。
  清国は、日本への日清戦争の「復讐戦争」を企画して
 いた。
  この秘密条約は、「李鴻章・ロバノフ条約」と言い、
 ロシアか、または、清国のいずれかが、日本と戦争にな
 った場合、他方が軍事援助をするという「日本敵視の秘
 密攻守同盟」だった。
  これは、日露戦争の伏線となった。
  つまり、日露戦争は、ロシアだけと戦争をしたと思わ
 れているが、そうではなく、この秘密条約で、清国とも
 日本は戦っていた。
  日本は、日露戦争で、満州でロシアと戦ったが、その
 時、この秘密条約の清国の中国とも、満州で戦っていた。
  日本は、その様な「ロシア・清国の同盟軍」と戦い、
 満州へ進軍した。
  第二次世界大戦で、アメリカが戦勝して沖縄へ軍事進
 出したのと同じで、日本の満州での戦いも、同様な状況
 で、当然、侵略とは程遠く、侵略ではない。
  「中露同盟軍」と戦い、戦勝しての満州地域の戦いと
 なった訳で、日本が侵略などと言われるいわれはない。
  これが侵略なら、アメリカも日本への侵略となる。
  国際法に則(のっと)った行為を日本はした。
  1896年、教科書にも載ってない、ロシアと中国(清国)
 の同盟条約・・「露清秘密同盟(李鴻章ロバノフ条約)」。
.
  (今日の言葉)
.
  題:2016年2月17日、慰安婦問題で、韓国が主張していたことは虚偽であるということがはっきりした。
    この日付での産経ニュースがある。
    また、国というものは簡単に消えるのだ・・北海道がその端緒でなければよいが・・
    また、一党独裁で、民の権利を認めない「非民主国家」を自由諸国圏に入れたのが「間違いだった」。
.
紀元前2000年頃、インド・ヨーロッパ語族のラテン人が、
 イタリア半島に南下した。
  ここから、イタリア半島の歴史は始まる。
  因みに、紀元前771年、ロムルスが、ローマを建設した
 とされている・・
  ロムルスは、「伝説上」の王政ローマの初代王。
  レムスと共に双子の兄弟だったという。
  ラテン人の貴族の子で、紀元前717年7月5日に死去した
 という(ローマ神話)(紀元前753年説がある)
   ・
   ・
紀元前814年、「カルタゴが建国された」と言われている。
  紀元前820年説などもある。
  カルタゴは、現在のチュニジアにあった古代都市国家
 で、地中海貿易を広大に行なって、栄えていた。
  初め、農耕を営む者と、海で生活する者との長い闘争
 の歴史にあったが、海運の有力者たちが、都市の統治権
 を握って行った。
  船隊を組んで、北アフリカや南部スペインの銀のほか、
 果物、家具、象牙などの貿易を行なった。
  この貿易で勢力を蓄えた。
  紀元前720年頃、地中海に進出したフェニキア人が、貿
 易都市を建設したのが始まりという説もある。
  カルタゴは「新しい都市」を意味するが、ギリシャ
 はカルケドンと呼び・・また、ローマ人は、フェニキア
 人を「ポエニ人の町」と呼んだ。
  そして、紀元前6世紀頃、カルタゴは、地中海西部の覇
 者となって行く・・
  そして、シチリアの領有をめぐって、ギリシャの諸都
 市との争いが生じた・・(紀元前4世紀頃に至るまで、こ
 のシチリア戦争は続いた)
  また、カルタゴは、マルカスという指導者のもと、ア
 フリカ内陸と沿岸一帯を領土として・・拡大した。
  紀元前540年、ギリシャとの海戦を勝利する。
  紀元前480年、カルタゴの大規模な軍事行動が開始され
 る。
  この始まりは、ギリシャに支援されたシラクサのゲロ
 ンが島を統一しようとしたことから始まった・・本格的
 なギリシャとの戦争の始まりだった。
  紀元前5世紀、カルタゴは、この地域の商業の中心地と
 なる。
  カルタゴは、強力な海軍力を有し・・ギリシャとの対
 立が増大する。
  紀元前3世紀頃より、シチリアにおける領土と、チレニ
 ア海の制海権をめぐって3回に渡ってポエニ戦争をローマ
 と戦う。
  カルタゴハミルカル・バルカスは、30万の大軍を集
 めたと言われている。
  軍略を駆使して、ハンニバルらの将軍は、ローマと果
 敢に戦った。
  カルタゴの戦いの歴史が展開される。
  カルタゴは、ローマの名将軍スキピオ・アフリカヌス
 に敗れ(第2次ポエニ戦争)、カルタゴは凋落して行く。
  紀元前146年、カルタゴの復興を恐れたローマは、この
 年、徹底的な打撃を与え、全滅させた、
  略奪に放火・・町は廃墟となった(第3次ポエニ戦争
  畑には塩が撒かれ、二度と作物が作れない様にもされ
 たという。
.
紀元前753年、ローマが、王政時代に入る(〜紀元前509)、
  そして、紀元前509年から共和政時代に入る。
.
紀元前700年頃、ギリシャノ詩人ヘシオドスは、歴史の見方
 を・・黄金の時代から銀の時代、銅の時代、英雄の時代
 を経て、今は鉄の時代だと述べた。
  この様な没落史観を持っていた。
.
紀元前509年、ローマが共和政時代に入るが、貴族の政権
 独占で出発したローマだった。
  貴族と農民は、激しい闘争を行ない、共和政治の組織
 が完成し、ローマは、イタリア半島の統一を完了した。
  そして、紀元前287年に至る。
.
紀元前384年、アリストテレスが生まれた(~紀元前322年
 3月7日)
  古代ギリシャの哲学者のアリストテレスの言葉・・
  「人間は、自然に(本性上)国的動物であり、また、
 偶然によってではなく、自然によって、国を為(な)さ
 ぬものは劣悪な人間であるか、あるいは人間より優れた
 ものであるのかのいずれかである」。
  アリストテレスが言っているこの「人間より優れたも
 の」は、「神々を指している」。
  故に、アリストテレスが言いたかったことは・・
  人間は、自然に(本性上)国的動物なのだ・・そうで
 なければ劣悪な人間だ・・
.
紀元前287年、イタリア半島が統一され、共和政治体制の時
 代は次の段階に入る。
  この紀元前146年までの時代、ローマは、カルダゴとの
 間で三度のポエニ戦争をする。
  その戦争のすべてに勝利する。
  また、ローマは、東方へも進出する。
  そして、ローマは、紀元前146年に、「地中海世界の覇
 者となった」。
.
紀元前146年、ローマが、地中海世界を制覇した。
  ポエニ戦争で、カルタゴを壊滅させ、滅亡させた。
  この年、地中海世界の覇者になった「ローマ」は、こ
 の覇権確立の反動でローマ社会は乱れて行く・・
  ローマ社会の伝統は崩れ、秩序も崩れ、次第に、強大
 な軍隊をに握った個人へ権力が集中し、権力を持って行
 く。
  カエサルが勝ち残った第一回三頭政治を経て、オクタ
 ビアヌスが第二回三頭政治を勝ち残り、帝政を開いて行
 く(〜紀元前27年)
.
紀元前27年、オクタビアヌスによる帝政と「5賢帝」に依る
 帝政の時代(〜紀元後180年)
.
70年、ローマ帝国が、エルサレムを完全に破壊した。
.
144年~166年頃、カニシカ王の統治。
.
180年〜284年、ローマ社会の秩序が、この頃、大きく崩れ
 た。
.
284年〜476年、ローマ社会の崩壊を、ディオクレティアヌ
 ス帝の専制君主制の樹立で食い止めた。
  しかし、ゲルマン民族の大移動でローマは分裂し、西
 ローマ帝国の滅亡に至る時代。
   ・
   ・
11世紀〜13世紀、中世と言われる中世中期の最盛期。
  社会を支えていたのは、農民の農奴の立場の人々だっ
 た。
  その農民を支配した者は、荘園を所有していた領主た
 ちで、主従の関係で結ばれていた。
  そして、騎士・・、
  そして、頂点のローマに居るローマ皇帝まで・・ピラ
 ミッド型の封建制度で築き上げられていた。
  それと、キリスト教教皇ローマ法王)を頂点とし
 た、キリスト教イデオロギーで、世俗社会に根を張った
 キリスト教カトリック組織が存在した。
  この頃、発生した都市には、ゴチック様式のキリスト
 教会が建ち・・
  また、この頃出来た大学・・キリスト教は、権威を得
 たいと、また、組織を大きくしたいと「この大学とくっ
 ついた」。
  そして、キリスト教は、組織の強大化のための金と、
 権威を得ることに執着し、世俗の権力を凌駕して行った。
  そして、その権力を得たキリスト教の圧迫から解放さ
 れたいと「12世紀ルネッサンス」と呼ばれる「人間性
 復活を主張する運動」が花開いて行った。
  最終的に、キリスト教権力は、皇帝を凌駕し、アジア
 へ無謀なキリスト教十字軍を何度も派遣した。
     ・
     ・
1909年12月4日、朝鮮・韓国の最大の政党が「日韓合邦を要
 求する声明書」を提出した。
  朝鮮・韓国内は、日本と併合したいという意見に満ち
 ていた。
  その声明書の中には・・
  「我が国の皇帝陛下と大日本帝国天皇陛下に懇願し、
 朝鮮人も、日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政
 府と社会を発展させようではないか」と書かれていた。
.
1910年8月29日、日韓併合がなされた。
  そして、第二次大戦後は、アメリカ(アメリカ軍政庁)
 が、朝鮮半島南部(現:韓国の地域)の統治を開始した。
  そして、1948年8月15日に至り、アメリカ(アメリ
 軍政庁)からの独立を宣言し、韓国(大韓民国第一共和
 国)の建国に至った。
  日韓併合がなされる前の李氏朝鮮という時代・・日本
 との日韓併合がなされる前の時代は、清朝・中国の冊封
 下の従属国、属国状態にあった。
  清朝・中国へ、日本は「朝鮮は独立の国だ」と主張し
 た・・その如くの状態だった・・この問題で、日本と中
 国に対立関係が生まれた。
  日本は説明した・・「朝鮮国は、自主の邦にして日本
 国と平等の権を保有せり」と・・
  中国は、朝鮮を属邦と考えていたため対立関係が生じ・・
  李氏朝鮮の王の高宗も「朝鮮は中国の属邦である」と
 言うくらいの、国の元首が言うくらいの「属邦根性の異
 常状況」だった。
  日本の国内には、「朝鮮に国力がつくまで保護国とす
 るべきだ」との意見もあった(伊藤博文
  朝鮮・韓国というお荷物状態の国を背負わないで、状
 況の経過を見るという「この考え方が良かったのではな
 いか」と言える。
  桂太郎首相や小村寿太郎外相は、政府内で、「韓国の
 現状に照らして将来を考量(こうりょう、物事をいろい
 ろ考え合わせて考え判断する)するに、韓国を併合する
 より外に他策なかるべき」と演説した。
  伊藤博文も、「協同的に進み、進んで一家たらんをせ
 ん」と言った。
  韓国内も「日韓併合大歓迎」で、韓国の最大の政党の
 「一進会」は「日韓併合をして戴きたい」と「併合の推
 進運動」をした・・そして・・
  1909年12月4日、「日韓合邦を要求する声明書」を提出
 するという状況だった。
  その声明書の中には・・
  「我が国の皇帝陛下と大日本帝国天皇陛下に懇願し、
 朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受したい」と
 書かれていた。
  しかし、2019年の今、この様な歴史の事実をまったく
 (知ってか知らずか)非礼で、無視する韓国となってい
 る・・
  この様な状況であるので、可哀想ではあるが、本当の
 ことを言わなければならないので、以下の様な事を記す。
  韓国・朝鮮は貧しい国だった・・本当に貧しい国だっ
 た・・。
  李氏朝鮮は、悪い政権だった、良くない政権だった。
  それも長く続いた政権だった。
  「何の国づくりもしない」最悪の政権だった。
  道路は、畑のあぜ道のような状態のままだし・・
  学校も、5校という程度で、「ほとんどない」という
 状態で、「教育がなされていない」という国の状態だっ
 た。
  また、鉄道も、1本もないという状況だった。
  朝鮮・韓国社会には、リャンバン(両班)という特権
 階級が存在していて、一般庶民の方々を虐(しいた)げ
 ていた。
  農民や一般庶民の方々は、金銭を取り上げられ、また、
 労働も取り上げられ・・貧困に喘(あえ)いでいた。
  農民の方々は、生活に困って娘を売ったりした。
  韓国・朝鮮にはゼゲン(女衒、뚜 장이)というその様
 な娘を買う商売人たちが居た。
  (語彙)女衒(뚜 장이):女衒は、主に若い女性を買
     い付け、遊廓などで性風俗関係の仕事を強制的
     にさせる人身売買の仲介業であり、人買の一種。
  町に、この様な女性が居る韓国・朝鮮を、日本は救っ
 た。
  最悪状態だった朝鮮・韓国を救った。
  1910年に、日韓併合がなされ、韓国・朝鮮の方々は、
 皆、大喜びだった。
  日本のこの時のことを「良かったよ」と言う韓国の老
 人の方々が、大勢、居た。
  しかし、時が過ぎ、その様な老人の方々も亡くなって
 居なくなった。
  そして、韓国は、昔のことを忘れたのか?
  反日教育がなされ・・その様な教育で「反日を刷り込
 まれた若者が、まだ、日韓併合時の事を知っている老人
 の方々が居る頃は、反日教育を刷り込まれた若者が、日
 韓併合時の事を聞くと、「良かったよ」という返事を聞
 き、予想に反した返事に・・学校の反日教育との違いに、
 その返事にびっくりすることも起きていた・・
  しかし・・その様な老人の方々も少なくなって、居な
 くなると・・真実を教えてくれる人々も居なくなると・・
  現政権は、反日に、韓国の方々を煽っている。
  嘘の慰安婦像を建てることまでして、洗脳している。
  それも、世界中に立てるという行為を辱(はずかし)
 くもなく行っている。
  世界の方々が、この後、だんだん本当のことを知る様
 になって来たら・・その像が、逆に、韓国が軽蔑される
 像になることを、韓国は知らない。
  この様な嘘の低次元の事ばかりしている「現在の韓国
 政権」の状況となっている・・
  地続きの中国に虐げられ、冊封されて来て、韓国は、
 この様な態度を取る「ひねくれた性癖の国」になってし
 まった。
  この問題の根底には、長い中国の冊封支配がある。
  韓国・朝鮮は、この植民地支配下に、長い期間あった。
  海を隔てた日本は、この逆で、海の隔たりも幸いし、
 独立が守られ、豊かな文化の中で育(はぐく)まれた。
  日清戦争で、強烈にぶつかり合う時もあったが・・日
 本文化は豊かに育まれた。
  中国という国自体も、色々な民族が奪い合う「戦いの
 歴史の中にあった」。
.
1910年、日韓併合によってできた官庁の朝鮮統監府は(設
 置は1909年)、新たに、戸籍制度を朝鮮に導入した。
  そして、李氏朝鮮時代には、「人間とは見なされず」、
 姓を持つことも許されていなかった朝鮮・韓国の奴婢や
 白丁などの人々(賤民)へも、姓を名乗って良いとした。
  そして、その戸籍には、身分を記載する必要などない
 として、皆を平等に登録するようにした。
  それまでの朝鮮・韓国の非人道的な行為を廃して、人
 道的な行動を行なった。
  また、当然、その身分が開放された方々(賤民とされ
 た人々)の子弟も、日本が作った学校へ通えるようにし
 た。
  この様な状況に、身分解放に、反発する旧来の朝鮮・
 韓国の「特権階級に居た朝鮮の両班(リャンバン)」は、
 激しい抗議デモを繰り広げた。
  身分にかかわらず、機会均等に、教育機会を与えるべ
 きと考える日本政府によって、その反対行動は治められ
 退けられた。
  因みに、日本は、1918年のパリ講和会議においても、
 盛んに、「人種的差別の撤廃」を世界最初に訴(うった)
 え、主張した。
  (1918年11月13日、外交調査会において、「人種的偏
 見の除去」を主張している)
  1919年1月14日、パリに到着した日本全権団は、人種差
 別撤廃提案のため、各国との交渉を開始した。
  各国の賛同を得られたが・・結局、アメリカの策動の
 ため、この条項は採択されず、削除された。
  アメリカは、「内政干渉だ」と強い批判をした。
  アメリカは、「人種差別国だった」ので後ろめたかっ
 た。
  イギリスやカナダも、このアメリカに引きずられた。
.
1910年、困窮している朝鮮の方々を救うため、日韓併合
 出来た朝鮮総督府は、土地調査事業を行ない、土地の所
 有権をはっきりさせて・・
  その所有者不明の土地を、朝鮮の農民の方たちへ安い
 価格で払い下げた。
  しかし、韓国は、この土地調査事業を土地の収奪の為
 だったと、ひねくれた言い方をしている・・韓国は、こ
 の様な言い方ばかりしている。
  日本は、李氏朝鮮時代の農地は荒廃していて、また、
 高い小作料から離村する人が多かった・・この改善のた
 め、この様な施策を行なったのだった。
  それでなくても、朝鮮民衆は、官吏や両班や高利貸し
 から苦しい圧迫を受け、収奪されていた。
  日本が指導した朝鮮総督府は、しっかりした農業経営
 が出来る様に、さらに、この朝鮮の農地の水防工事を行
 い、また、水利工事を行い、朝鮮の農業を育てようとし
 た。
  また、農業を伸ばそうと、水利組合を結成させたり、
 金融組合を結成させ、安い金利で融資を受けて、農業を
 大きく伸ばそうとした。
  日本を貶(おとし)める事ばかりをしているNHKや
 元NHK職員の池上彰は、「日本は朝鮮を植民地にした」
 と、日本を貶める印象操作の放送ばかりしている。
.
1940年10月、アメリカで、「マッカラム覚書」が作成され
 た。
  その中に、「日本を追い詰めて行く行動を行う計画が
 書かれていた」。
  そして、追い詰めて、日本を窮地に陥(おちい)らせ
 て、どうしようもない状態にすることが書かれていた。
  これは、はっきりとした「日本を暴発させようという
 策略の覚書だった」。
  全面的に禁輸にするのだと・・
  アメリカにある日本の資産を、資産としての活用をさ
 せないで、凍結して、経済的に締め上げるのだと・・
  生産活動や生活する上で重要な、そして、必ず必要な
 石油を、一切渡さないで・・禁輸にするのだと・・など
 などが書かれていた・・
  貴方の食事が、あなたの前に、一切、出て来なかった
 ら・・貴方はどうしますか?・・
  ご飯を食べないで、我慢が出来ますか?
  電車や車や、船も動かず・・
  「取り上げられたままの様な状態」になったら・・貴
 方はどうしますか?
  「大切な電気も来ない」という状況・・その様な生活
 となったら・・貴方は、どうしますか?
  この時、アメリカは、『まったく非常識な』、この様
 な事を、日本に対してやり始めた・・
  この様な計画を立てた。
  このアメリカの行為は、日本に対して戦いを始めたの
 と同じ行為だった・・
  『事実上の宣戦布告』だった。
  アメリカ大統領のルーズベルトは、日本に対して「宣
 戦布告と同様なこと」を始めた。
  この覚書を作成したアメリカ海軍情報将校のアーサー・
 マッカラム少佐は、日本が暴発せざるを得ない状態にす
 る行動を書いた。
  ルーズベルトは、これを、着々と実施し、行なった。
  日本を追い込んで行った。
  戦争が起きる原因を、「完全にアメリカが」作ってい
 た。
  日本が、アメリカの最大の攻撃戦力の艦隊が、ハワイ
 の真珠湾に居る事を知っているのと同じように・・
  アメリカも、日本の艦隊の動きのすべてを知っていた。
  日本の艦隊の無線電信も「完全に把握していた」。
  アメリカは、日本を戦争に誘い込む道を「真空の海」
 と呼んでいた。
  だから、ハワイへ進む日本艦隊のすべてを知りながら、
 手出しをしないで、誘い込みをしていた。
  だから、総べてを知るルーズベルトは、つい、「明日、
 日本が攻めて来る」と、親しい人へ、事前に、言ってし
 まっていた。
  そして、真珠湾攻撃が起きると、「戦争を作った」と
 言って喜んだ。
  また、イギリスのチャーチルへ電話をかけ、戦争(第
 二次世界大戦)が始まったことを喜び合った。
  (すでに始まっていたイギリスのドイツとの戦いに、
 アメリカが参戦して、イギリスを助けに来てくれると・・)
  日本の無線電信で、アメリカは、日本の攻撃目標が、
 ハワイの真珠湾だと知っていたが、ハワイのアメリカ海
 軍司令部へ、そのことを連絡をせず、「日本の奇襲とい
 う形をでっち上げる行為をしていた」。
.
1941年1月20日フランクリン・ルーズベルトが第39代アメ
 リカ大統領に就任した(~1945年1月20日
  ルーズベルトの言葉・・
  (大統領に就任する直前・2ヶ月前の言葉)
  「私の先祖は、中国貿易に従事した事がある。
  だから、いつも中国人には親しみがある。
  そんな私が、『日本をやっつけよう』と言うスティム
 ソンに、同意しないわけがないではないか」。
  ルーズベルトは、中国を支援して、隠密に、秘密裏に、
 命令書を書き、アメリカ軍の正規兵や武器や資金を中国
 へ投入した。
  真珠湾攻撃以前から、秘密裏に、中国で、アメリカは
 参戦していた・・そして、日本を攻撃していた。
  卑怯な事に、ルーズベルトは、真珠湾攻撃を「日本の
 奇襲攻撃だと仕立てた」。
  そして、また、このフランクり・ルーズベルトの祖先
 の中国貿易と言ったって「麻薬貿易」だった。
  ルーズベルトの母方の家系であるデラノ家の祖父や伯
 父が、香港を根城・中心地にして、アヘン貿易で大儲け
 していた。
  その人非人の稼業で、巨万の富を築いた。
  大統領選挙の時に、この金が動いたのだろう。
.
1941年12月8日、真珠湾攻撃
  アメリカのルーズベルト大統領は、アメリカ議会で、
 「日本にだまし討ちにあった」と嘘の演説をした。
  ルーズベルトは、アメリカの議員の方々を騙した。
  ルーズベルト大統領に騙されたアメリカ議員の方々は、
 日本を「討ち負かせ」と、「日本に対して宣戦布告の戦
 争開始の議決をした」。
  ルーズベルト大統領の嘘の演説に、「完全に騙されて
 いた」。
  まったく、ルーズベルト大統領の策謀に嵌(はま)っ
 てしまったアメリカ議会だった。
  そして、事もあろうに、総べては、ルーズベルトが仕
 組んでいるのに、ルーズベルトは、策謀で、「ハワイの
 キンメル太平洋艦隊司令長官に、情報を伝えなかった・・
 にもかかわらず・・キンメル司令長官を悪者に仕立てて・・
  「キンメルが、真珠湾の対策を怠ったから悪いのだ」
 として、キンメルに罪を着せて、キンメルに責任をとら
 せた・・解任してしまった。
  戦後になって、これ等の「ルーズベルトの策謀が明ら
 かになる」と・・キンメルの親族や友人や支持者たちが、
 「キンメルの名誉回復のために起ちあがった」。
  アメリカ国民の方々は、ルーズベルトに騙されていた
 と真実を知るようになった。
  「日本の奇襲だ」なんて言う話は、完全に、ルーズベ
 ルトのデッチ上ゲだと分かったアメリカ国民の方々だっ
 た。
  「日本の暗号を、アメリカは、完全に解読していて、
 日本の行動の一部始終を、アメリカは完全に知っていて・・
 『日本の奇襲』なんて完全に嘘のデッチ上ゲであって、
 そんな事は言えないと・・「本当のことを知ることとな
 った」。
  また、アメリカは、卑劣にも、日本の攻撃によってア
 メリカの一般市民の方が亡くなったと嘘を言った・・
  しかし、日本の機動部隊は、ハワイの「軍事施設のみ」
 を攻撃目標にしており、日本は、一人のアメリカ市民の
 方々を標的にしていない。
  逆に、アメリカは、広島・長崎の原爆や、東京・大阪
 などの日本のあらゆる都市の一般市民を標的にして、「
 無差別爆撃のじゅうたん爆撃」をしており、国際法違反
 の行為をしている。
  この点においても、日本は非人道的な行為を、アメリ
 カの様にしていない。
  日本は、この点でも、アメリカを上回った行動にいる。
  日本の潜水艦に搭載した飛行機で、アメリカ本土爆撃
 をした時でさえ、日本の爆撃は、アメリカ市民を攻撃目
 標にしていない・・
  アメリカ市民の方々の命を狙うような爆撃を避けてい
 て、戦後、この飛行士が、アメリカの方々から表彰され
 ているくらいだった。
  この様な点でも、「日本は、完全にアメリカを上回っ
 ている」。
  アメリカは、戦争に勝ったとはいえ、愚かな卑劣な歴
 史を残している。
  今後、永久に、「このアメリカの汚点は歴史に刻み続
 けられる」。
  不名誉な事をしてでも勝ちたいという「アメリカの卑
 怯な愚かさが・・歴史に永久に残された」。
.
1941年12月8日、第二次世界大戦を、日本には、まったく
 アメリカと戦う必要性など完全になかった。
  日本には、アメリカと戦争をするつもりもなかった。
  しかし、アメリカの挑発によって、戦争に引きずり込
 まれて行った。
.
1950年代、中国には、400以上の民族が居ると言われている。
  実態は、よく分からない状態。
  中国は、色々な民族が、中央政府を取り合ってきた歴
 史の中にある。
  この多民族国家の中国、1950年代から、中国政府は、
 言語学者民族学者に調査をさせ、民族認定をさせた。
  1979年に、順々に民族認定をして来て、この年、ジノ
 ー族が56番目の民族として確認された。
  しかし、これが最後となり、調査が終わってしまった。
  貴州省黄平県のグォージアレン《革(人偏)家人》民
 族は、民族とされなかった。
  今、57番目の民族として認めてもらいたいと「活動を
 している」。
  一時は、別の民族と一緒にされそうになった。
  その様な動きを拒絶し、押し返すことが出来た。
  今、中国には、未識別者が居る。
  その数は64万人と言われているが、不確(ふたし)か
 である。
  因みに、中国の総人口でさえ、はっきりした数が分か
 っていない状態。
  日本の様に、しっかり把握されていると思ったら大間
 違いである。
  中国のデーターで、確かなものは、「まったくない」
 と言ってもよい状態。
  中国は、今、漢民族の言葉に統一しようとしている。
  オロチョン族の人は、「自分たちの言語や伝統や文化
 が、無くなるとは思っても居なかった」と言う。
  習近平は、2020年までに「全国に標準語(漢民族語)
 を普及させる」としている。
  それを、「漢民族とその他の民族(55民族と言ってい
 る)を包括する『中華民族』にとって、共同体意識を強
 固にする」と、自分たちの漢民族に都合の良い理屈を言
 っている。
  そして、標準語(漢民族語)を修得すれば、仕事が得
 られるということを言ったりもしている。
  「漢民族化への圧力」が増している。
  中国は、超長期にわたって領土を拡大して来ている。
  中国は、57番目の民族として日本民族を狙っている。
  チベットウイグル内モンゴルは、すでに、その被
 害を受けている。
  「満州族の地は、すでに無くなってしまった」。
  満州族の方々も居なくなった。
  どこへ行ったのか? 今は、まったく不明状態。
  地名は「中国東北部」となった。
  その実態は、「中国東北侵略部」。
  そして、今、中国は、その先のシベリヤのロシア領へ
 浸透を続けている。
  「太平洋を半分くれ」という事も「表明している」。
  南シナ海は、「すでに、占領を完了した」。
  今、太平洋の南の島々へ工作の手を広げている。
  一党独裁で、民の権利を認めない「非民主国家」を自
 由諸国圏に入れたのが「間違いだった」。
.
1965年、日韓基本条約が締結された。
  この条約によって「過去のわだかまりの一切が解決し
 た」と合意した。
  日本の首相は佐藤栄作首相、韓国は朴正罷(パクチョ
 ンヒ)大統領だった。
  日本は、この時、最大限の誠意を示した。
  この頃、日本は、まだ、裕福ではなく、外貨準備高も
 わずかで18億ドルしか無かった。
  しかし、日本は、その中から5億ドルも韓国に支払い、
 そして、与えた。
  外貨準備高の3割近い28%も、身を切って与え、支払っ
 た(無償3億ドル、有償2億ドルの賠償金とした)。
  日本は、大きな負担を背負ったのだった。
  精いっぱいの誠意を見せたのだった。
  これによって韓国経済は飛躍的に伸びた。
  「漢江の奇跡(はんがんのきせき)」と呼ばれるほど
 の発展をした。
  韓国は、この時、「個人補償は、国がやるから、総べ
 てを国家に支払ってもらいたい」と言い、「国家賠償に
 してくれ」と言った。
  これは、韓国政府の決定事項だった。
  しかし、後になって、今頃になって、個人補償が終わ
 ってないと言い出した。
  約束では国に払ってくれ、韓国の国に払ってくれれば、
 韓国の国から韓国の個人に支払うからと言われ、そして、
 約束し、だから、日本は韓国の国へ支払ったのに、終わ
 っていないと言い出した。
  いつもの韓国のやり方で、「約束を放り出して、ごね
 だした」。
  そして、要求をどんどん「せり上げて行った」。
.
1976年2月24日、ユバル・ノア・ハラリ(ヘブライ大学歴史
 学部教授)の言葉:・・
  「人間は、長い時間の中で、目の前にあるものが現実
 なのか、それとも誰かが創ったストーリーなのか、区別
 する能力を失った。
  結果、多くの人が、神や国家や会社という想像上のも
 のに自分を捧(ささ)げて戦争に行き、何百万人という
 人を殺戮した」。
  だから、「目の前にあるものが、現実か虚構なのかを
 区別し、その上で利用する方法を考えよ」。
  そして、「虚構の奴隷になるな、虚構を利用せよ」。
  (参考)1976年2月24日、生まれ。イスラエル人。
      著書「サピエンス全史、文明の構造と人類の
     幸福」「ホモ・デウステクノロジーとサピエン
     スの未来」
      2000年、オックスフォード在住中にヴィパッ
     サナー瞑想を開始し、それが「人生を変えた」
     と語っている。
  (参考)ビパッサナー瞑想:ナーマ(こころのはたら
     き、名〔みょう〕)とルーパ(物質、色〔しき〕)
     を観察することによって、仏教において真理と
     される無常・苦・無我を洞察する瞑想。
.
2016年2月17日、慰安婦問題で、韓国が主張していたことは
 虚偽であると言うことがはっきりした。
  この日付での産経ニュースがある・・以下その抜粋・・
  杉山外務審議官の発言要旨:慰安婦強制連行に関する
 国連女子差別撤廃委員会
  日本政府は、日韓間で慰安婦問題が政治外交問題化し
 た1990年代初頭以降、慰安婦問題に関する本格的な事実
 関係調査を行った。
  日本政府が発見した資料には、軍や官憲によるいわゆ
 る強制連行を確認できるものはなかった。
  慰安婦が強制連行されたという見方が広く流布された
 原因は、昭和58年(1983年)、吉田清治氏(故人)が「
 私の戦争犯罪」という刊行物の中で、自らが日本軍の命
 令で、韓国の済州島で大勢の女性狩りをしたという事実
 を捏造(ねつぞう)して発表したためだった。
  この内容は、朝日新聞社により、事実であるかのよう
 に大きく報道され、日本と韓国の世論のみならず国際社
 会にも大きな影響を与えた。
  しかし、この書物の内容は、複数の研究者により完全
 に想像の産物だったことが、すでに証明されている。
  朝日新聞も平成26年8月5、6日を含め累次にわた
 り記事を掲載し、事実関係の誤りを認め、正式に読者に
 謝罪した。
  20万人という数字も具体的な裏付けがない。
  朝日新聞は26年8月5日付の記事で、通常の戦時労
 働に動員された女子挺身(ていしん)隊と慰安婦を誤っ
 て混同したと自ら認めている。
  なお、「性奴隷」といった表現は事実に反する。
  日韓両政府は、昨年12月28日、ソウルで日韓外相
 会談を行い、慰安婦問題が最終的かつ不可逆的に解決さ
 れることを確認した。
  両首脳も同日、電話会談を行い、合意を確認し、評価
 した。
  今後、韓国政府が元慰安婦の支援を目的とした財団を
 設立し、日本政府は10億円程度の資金を一括で拠出す
 る。
  現在、両政府はそれぞれ合意内容を誠実に実行に移す
 べく取り組んでいる。
  国際社会は日韓両国の合意を歓迎している。
  先の大戦にかかわる賠償や請求権の問題は、サンフラ
 ンシスコ平和条約、日韓請求権経済協力協定や日中の処
 理の仕方も含むその他の2国間の条約などによって誠実
 に対応してきている。
  条約の当事者間では、個人の請求権の問題を含めて法
 的に解決済みというのは、日本政府の一貫した立場。
.
2019年4月19日、アイヌ新法と言われる「アイヌの人々の誇
 りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関す
 る法律案」が成立した。
  そして、この法律の第一条に・・
  「日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族であ
 るアイヌの人々の・・」・・と、北海道の先住民族とし
 ている。
  これは、科学的に間違っている。
  北海道には、すでに、日本人の祖先である縄文人が住
 んでいた・・アイヌの人々が北海道に来る以前からであ
 る・・
  アイヌの人々は、13世紀に北海道に渡って来た。
  この歴史的史実は、立証されている。
  そして、日本人の祖先である縄文人は、そのアイヌ
 人々が北海道に来た時よりズーッと以前の「紀元前」か
 ら北海道に住んでいた。
  何故、科学的に間違った法律を成立させたのか?
  大いに疑問が残る・・
  この行動について・・
  「チェチェ思想(主体思想)を信奉している人たちが
 行なっていて、この後、自分たちの国を北海道に作る」
 と説明する人たちが居る・・
  その根拠は・・その事が明確にチェチェ思想の本に、
 そのことが、その様に書いてあるという。
  (参考)チェチェ思想:朝鮮労働党および北朝鮮の指
     導指針とされる思想。
  現在、「中国東北部」と呼ばれる地は、中国の漢民族
 とはまったく関係が無かった。
  この地には、満州人の方々が多く居て、日本は、「満
 州国の建国を助けた」・・しかし、戦後、この地は「中
 国東北部」という名で呼ばされ、中国の地とされてしま
 った。
  そして、気になるのは、今、満州人の方々が、まった
 く居なくなっていて・・(追い払われたのか?殺された
 のか?)・・満州人の方々の影も形も無くなっていると
 いう。
  今、中国の地だとされている「ウイグルの方々の地」
 でも、300万人ものウイグル民族の方々が、強制収容所
 入れられている」・・
  中国は、テロ対策だと言っているが・・この様な人権
 無視の行為がなされている。
  国が簡単に消えるのだ・・北海道がその端緒でなけれ
 ばよいが・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

(増補版)653E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年7月~1896年8月)

題:(増補版)653E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年7月~1896年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
 ☆真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
  そして、総べての真実を議論してこそ民主主義が達成
 される。
 ☆過去を忘れたら「歴史」は蛮行を繰り返す。
 ☆J・ロックの言葉:議論こそは真理を広める唯一の正
  しい方法だ。
 ☆歴史を知って、アイデンティティが形成される。
.
1896年7月24日、名古屋に株式会社鉄道車両製造所(現:日
 本車両製造株式会社)が創業した。
  1896年9月に鉄道車両の製造販売を目的として設立との
 説明もある。
  別説:1896年7月26日、日本車輌製造株式会社設立。
  企業家・奥田正香ら中京財界人により創立。
  鉄道庁・鉄道関係者以外の民間人による車両会社設立
 は前例がなかった。
  この頃、車両だけでなく大八車も製作した。
  笹島仮工場にて操業開始。
  1896年8月18日、農商務省指令、第10399号
  「明治29年7月30日付申請、日本車輌製造株式会社設立
 の件、免許す」 農商務省大臣、子爵、榎本武揚
         申請者:奥田正香、他拾名
  1897年、熱田工場が稼働した。
.
1896年7月、上川線の空知太駅~旭川駅間の建設工事が着工
 された。
.
1896年7月、加能鉄道会社が、社名を七尾鉄道株式会社と改
 称した。
 沿革・・
  1894年5月、第4回鉄道会議の中で加能鉄道認可に関す
   る審議がなされた。
   鉄道会議とは、「鉄道会議規則」に基づき鉄道担当
   官庁が1892年に設置した諮問会議で、渋沢栄一は第1
   回より臨時議員として出席していた。
   加賀の津幡町から能登半島の七尾町に至る加能鉄道
   について「半島の突先に鉄道を架ける必要はない」
   などの意見があり、それに対して渋沢栄一は、突先
   であっても七尾港は良港であり、津幡から七尾への
   連絡線は地域のためにおおいに利益ある路線と反論
   した。
    また、地域の繁盛になることだから許可を希望す
   ると意見を述べた。
    審議の結果、過半数の賛成を得て加能鉄道への仮
   免状下付は可決された。
    この決定を受けて、加能鉄道会社には同年9月に仮
   免許が、1896年4月に本免許が下付された。
    同社は、七尾鉄道と社名を変更して工事に着手、
   七尾・津幡間の工事は1898年4月に竣工した。
.
1896年7月、関西鉄道会社と浪速鉄道(大阪片町・四条畷
 営業)が譲受の契約を締結した。
  関西鉄道は、官設鉄道の経路から外れた東海道沿いの
 滋賀、三重県下の都市を東海道線に結ぶ目的で設立され
 た。
  しかし、大阪進出の意図はあった。
  そして、また、名古屋と大阪の間に出願した大阪鉄道
  (初代)との間で調整も行なわれていた。
  その後、路線を奈良へ向けて西へ延長し、片町~四条
 畷を開業していた浪速鉄道、および、四条畷から木津方
 面の路線免許を持つ(未開業の)城河鉄道を合併して現
 在の片町線経由で名古屋・大阪間を開通した。
  そして、1898年に大阪片町にターミナルを入手した。
  しかし、敷地の拡張が困難なため網島に起点を移設し、
 さらに湊町から奈良に路線網を持つ大阪鉄道 (初代)を合
 併し現在の関西本線を全通させ、湊町にターミナルを、
 再度、移転させた。
.
1896年7月、フランスが、朝鮮半島の鉄道敷設権を取得した。
  この年、ソウルと現在北朝鮮の新義を結ぶ京義線(き
 ょんうぃせん)の敷設権を取得した。
  結局、この後、この路線も日本が建設を行なう・・そ
 して、朝鮮半島・韓国の社会資本の充実の貢献を行なう。
  日本は、朝鮮半島のあらゆる地方の鉄道敷設を行ない
 朝鮮半島の物流の改善に貢献しており、朝鮮・韓国経済
 などの発展の元を築いた。
  韓国は、この様な日本の行為を、まったくと言って良
 いほど感謝の意を示していない。
  それまでは、畑のあぜ道の様な状況の道路に物流を頼
 っていた朝鮮・韓国・・この改善が第一に必要とした日
 本は、朝鮮・韓国の鉄道敷設に多くの日本の資本を提供
 し、実施した。
  また、これ等に従事した日本の技術者の汗の結晶に、
 韓国は感謝の意を示していない。
  また、これ等の多くの工事に従事し、亡くなった工事
 関係者の多くの方々への慰霊の意も示していない。
  韓国は、これは、日露戦争の兵士を送るために作った
 のだと、感謝どころか批判をしている。
  多くの朝鮮・韓国の人々が、汽車や列車に乗って生活
 を享受している姿を、その様に表現している。
  その便利さに笑顔でいる朝鮮の方々の顔を見ていない
 で、その様な言い方をしている。
  何をしてあげても、この国は感謝をしない国・・逆に、
 恩を仇で返す国。
  誠実に対処して来た日本の「ことごとくの好意」に、
 韓国は、意地の悪い言い方を続けている。
.
1896年7月、朝鮮で改革派が、独立協会を組織した。
  軍事、財政、人事権にまで干渉するロシアを排除する
 ため、市民を動員して万民共同会が開催された。
  多くの成果が上げられた。
  李商在、徐載弼、尹致昊、李完用らを中心に結成され
 た組織だった。
  これらの人々は、日本の好意を理解している人々だっ
 た。
  協会は、機関誌「独立協会報」を発行、また、ハング
 ル専用の「独立新聞」の発行した。
  因みに、このハングル文字も、それまで使われていな
 かったこの朝鮮文字の良さを発見し、使用する様に提案
 したのは、慶應義塾大学を創立した日本の福沢諭吉氏だ
 った。
  独立建設活動などにより一般大衆の支持を受け、わず
 か3ヵ月で会員約1万名に達した。
  この様にして、この協会は、民衆への啓蒙団体から、
 政治団体へ変化して行った。
  1898年10月に至り、協会は、官民合同によって官民共
 同会議を開催した。
  そして、国政を改善するための6ヵ条を決議した。
  しかし、政府は、決議案を空文化させ・・反対行動を
 とる様になる・・
  協会の幹部に対して懐柔行為がなされたり、果ては、
 強硬手段の逮捕など・・あらゆる手段を用いて弾圧する
 様になった。
  1899年、政府が、皇国協会を示唆し扇動して流血事件
 を引き起させた・・
  独立協会は、やむなく解散した。
  朝鮮の改革派の有志が、軍事、財政、人事権にまで干
 渉し、朝鮮の独立を崩壊させるロシアに対して立ち上が
 ったが、そして、市民も参加して大きな行動となったが、
 結局、弾圧を受けて崩壊して行く・・
  この様な所にも、日本が、ロシアに対して立ち上がっ
 た遠因があった・・
.
1896年8月1日、釧路鉄道の標茶駅~跡佐登駅間の営業が休
 止された。
  釧路鉄道(くしろてつどう)は、北海道東部の硫黄山
 で産出される硫黄の輸送を目的として建設された。
  硫黄輸送の専用鉄道で、鉄道事業者安田財閥
  安田財閥は、この事業で基盤が築かれたと言われてい
 る。
  しかし、鉱山保有する山田銀行への貸し付け分の回収
 が関係し、硫黄の採掘が中止され、開通から10年足らず
 で廃止となった。
  しかし、この鉄道によって釧路地域の開発が進展した。
  安田善次郎氏は、1921年に、釧路の発展の功績によっ
 て釧路区(現:釧路市)から表彰された。
  因みに、1872年、佐野孫右衛門が硫黄山の採掘を始め
 た・・
  1886年北海道開拓使の方針に基づいて、採掘が開始
 された。
  佐野孫右衛門は、凾館の山田銀行に譲渡していた。
  1887年、山田銀行へ融資していた安田善次郎へ譲渡さ
 れた。
  この鉄道によって、当時、馬によって運び、標茶から
 船で運ぶという大変な運送が改善され改革された。

1896年8月6日、フランスが、マダガスカルを「植民地だ」
 と宣言した。
  フランスは、その強大な武力を背景に、アフリカ大陸
 の西側、インド洋上にある島々を侵略し・・また、イン
 ド、および、東南アジアを侵略して領有した。
  フランスは、広大な地を植民地とした。
  ヨーロッパ列強の一つのメンバーであるフランスの行
 為だけでも、この様な横暴を世界にしていた。
  マダガスカルは、4世紀から5世紀の頃、東南アジアか
 らオーストロネシア語系の人びとや、マライ系の人びと
 が、インド洋を渡ってやって来ていた。
  そして、アフリカ東岸に住みついて、社会が形成され
 た・・
  10世紀頃には、マダガスカル島に移住して来た人々が
 いるとされている。
  現在でも、マダガスカル島は、インドネシアや、マレ
 ーシアの人々との近親性があり、稲作農耕も行われてい
 る。
  15世紀以降、イスラーム化した・・アラブ系住民も増
 加した。
  イスラーム国家も存在した・・、
  19世紀後半、ヨーロッパ諸国の帝国主義の列強諸国に
 よるアフリカ分割の悪夢の時代に、フランスが侵入して
 来た。
  1880年代~1890年代、フランスは、優れた自分たちの
 武器による武力をもって、抵抗を排除して、領有権を奪
 った。
  マダガスカルの方々は抵抗した・・たびたびの反フラ
 ンスの抵抗運動は起きた・・しかし、その度に、武力で
 押さえつけられた。
  独立は、20世紀に至るまで果たせなかった・・
  1960年に至って、やっと独立が果たせた。
  マダガスカルの19世紀初めは、アンドゥリアナムプイ
 ニメリナ王の息子であるラダマ1世がメリナ王国を引き継
 いでいた。
  彼は、先進的な考え方の持ち主で、国民の教育レベル
 を引き上げようとした。
  ヨーロッパの知識を取り入れなければ、ヨーロッパに
 植民地にされたままになってしまうという危機感を持っ
 た。
  それに対し、今・現代の日本は、中国が、沖縄や北海
 道などを狙っている中にあるが、まったくその様な状況
 についての危機感は無いという状況になっている。
  植民地化の危惧を抱いていたラダマ1世は、モーリシャ
 スの『イギリス総督』であったファーカーの援助を受け、
 軍隊をイギリス流に訓練した。
  さらに、奴隷貿易の廃止運動を行ない・・また、学校
 の設立、アルファベットによるマダガスカル語表記の導
 入など、近代化=西欧化政策を進めた。
  日本が、学校を一生懸命に建設して、朝鮮・韓国の教
 育を一生懸命にしたのと同じ・・
  しかし、1828年、志なかばでラダマ1世は死去した。
  ラダマ1世の第一夫人が、ラナヴァルナ1世として即位
 した。
  彼女は、植民地行為がありありのヨーロッパ諸国に対
 し、敵視政策に切り替えた。
  まず、植民地行為の尖兵であったキリスト教を、1835
 年に、布教の禁止を行なった・・しかし・・
  1861年、ラナヴァルナI世は死去する。
  その息子が、ラダマ2世として即位した。
  ラダマ2世は、再び、ヨーロッパ化を推し進める苦悩の
 政策へと変更した。
  しかし、その政策が急であったため、欧化反対派によ
 って、1863年に、暗殺された。
  ラダマ2世の後継は、その妃であったラスヘリナが即位
 した。
  1868年、このラスヘリナも没する・・暗殺か?
  やむなく、従妹がラナヴァルナ2世として即位した。
  彼女は、行政改革に努めるが、メリナ王国は衰退して
 行く。
  メリナ王国が衰退を続けると、ハイエナの様なイギリ
 スは、王国の衰退を察して、植民地化の野心を向け始め
 た。
  これを察したフランスは、それに先んじるため、1883
 年に、タマタブ(マダガスカル東部の都市トゥアマシナ
 の旧称)を占領した。
  1883年、ラナヴァルナ2世が没する。
  その従妹が、ラナヴァルナ3世として即位した。
  1890年、メリナ王国の保護権をフランスに認めざるを
 得なかった。
  一方、イギリスに接近し、軍隊の再整備を進めた。
  1894年、フランスは最後通牒を突きつけた。
  1895年、メリナの王宮の置かれていたアンタナナリヴ
 (マダガスカルの首都)を占領する。
  1897年、フランスは、ラナヴァルナ3世を拘束し、レユ
 ニオン島に流した。
  そして、メリナ王国を滅ぼした。
  1896年8月6日、フランス政府は、マダガスカルを植民
 地としたことを宣言した・・フランスは、この宣言を正
 式だと称した。
  この様な歴史は、日本を貶める事ばかりを放送するN
 HKは、まったく放送しない。
  フランスがマダガスカルを植民地化した(1896年8月6
 日)・・
  この解放は、第二次世界大戦後の日本の戦いの後とな
 る。
.
  (今日の言葉)
.
  題:彦星(ひこぼし)と、織姫(たなばたつめ)と、今夜(こよい)逢(あ)ふ、
   天(あま)の川門(かわと)に、波(なみ)立(た)つなこめ
.
698年、遠い昔からジェンダー平等(男女平等)だった日本・・
  また、身分の上下ない社会だった。
  今(2019年)、盛んに国連はSDGsをして「ジェン
 ダー平等を啓蒙している」が・・
  世界は、日本をお手本とするべきである・・
  万葉集に・・
  「彦星(ひこぼし)と、織姫(たなばたつめ)と、今
 夜(こよい)逢(あ)ふ、天(あま)の川門(かわと)
 に、波(なみ)立(た)つなこめ」(詠み人知らず)・・
 がある・・
  (訳)彦星と織姫が逢う今夜なのです・・
  天の川の渡し場に、波よ、決して荒く立ってくれない
 でください・・
  今から1300年以上も前の日本人の優しい心が伝わって
 来る。
  彦星(牽牛星)と織女(織女星)の逢瀬が、年に一度
 だけ許されるという七夕(たなばた)の和歌です・・
  この伝説は、持統天皇が在位していた698年代頃、中国
 から日本に伝来したと言われているが・・
  この話は、それまで、それ以前から日本各地にあった
 「棚機津女(たなばたつめ)伝説」と融合した。
  それは、年に一度、7月に訪れる神への捧げものとして
 処女が水辺の棚で神衣(しんい)を織ったという話・・
  これと融合して庶民の間にも広まり、人々の想像力を
 掻き立てたのだった・・
  万葉集には、130余首も七夕歌が収録されている。
  その多くが庶民の歌で「詠み人知らず」となっている。
  身分の上下、貴賤もない社会の日本だった・・
  日本は、遠い昔から庶民の一般市民と隔たりない処遇
 をしていた優しい平等な国だった。
  遠いこの昔から、女性方々も尊重されていた。
.
9世紀~10世紀、神聖ローマ帝国が出来た(~1806年)
  神聖ローマ帝国は、代々のドイツ王が、ローマ教皇
 ら冠を授けられて、皇帝となった。
  神聖ローマ帝国は、実質的にはドイツ帝国・・
  神聖ローマ帝国は、巨大な領域を持つ。
  最盛期の版図は、現在のドイツ、オーストリア、イタ
 リア、フランス、チェコ、スイス、オランダ、ベルギー、
 ポーランドリヒテンシュタインルクセンブルク、モ
 ナコ、クロアチアサンマリノスロバキアなど現在の
 EUの領土とほぼ同じ・・
  巨大だが、国家とか連邦という性格は・・ほとんど無
 い。
  帝国全体を総括する行政機関も無かった。
  多くの領域の緩い集合体の様なものだった。
  軍も借りものが集まったもので、帝国全域を包括する
 ナショナリズム持った。
  この様なこの領域は、独立を保つ実力も無かったが、
 権威を犯すなと存続した。
  しかし、1806年、ナポレオンの台頭で幕を閉じた。
  しかし、ドイツ人の武力によるリベンジは素早かった。
  1870年、普仏戦争でフランスを負かし、
  翌年の1871年には、鉄の宰相ビスマルクが活躍して、
 ドイツ帝国が起こった。
  そして、第一次世界大戦の敗北で、そのドイツ帝国
 消滅すると、今度は、ヒトラーが台頭した・・そして、
 再再度、ヨーロッパ制覇を目論んだ。
  ヒトラー政権は、神聖ローマ帝国、後のビスマルク
 ドイツ帝国に続く第三帝国と呼ばれた。
  そして、その第三帝国は、無残に滅び、消滅した。
  そして、二度と立ち直れないと思われたが、西ドイツ
 は、1990年、東ドイツを飲み込み、一体となりヨーロッ
 パで第一の大きな国となった。
  そして、今(2017年)、EUに君臨した。
  一番の影響力のある国となっている。
  そして、その軍事力でも強大になって行くと予測され
 ている。
.
1158年、キリスト教聖職者のオットーが死んだ。
  キリスト教の「教父」と言われたアウグスティヌス
 354年~430年)は、その生存した古代の時代なりの考え
 方をしていた。
  その様な古代の遅れた認識で、その存在が古代ゆえに
 やむを得ない面があるが・・問題は、その彼の遅れた論
 理が、今・現在もなお、現在に至るまで、多大にキリス
 ト教へ影響を与え、延々とキリスト教に引き継がれ、キ
 リスト教の遅れた状況を作り出す原因となっている
  その様なことの一つが、「キリスト教普遍史」である。
  彼=アウグスティヌスは、「ローマ帝国が終われば、
 人類が終わる」と考えた。
  そして、キリスト教の教義である「人類の終末に訪れ
 る最後の審判」となり、その審判を恐れた。
  悲しいかな、まったく無用な恐怖なのであるが、キリ
 スト教は、この恐怖を抱えていた・・今・現在も・・
  しかし、そのローマ帝国が滅び、年月を経ても、「何
 も起こらなかった」。
  びくびくして・・年月だけが過ぎた。
  当然の事だった。
  しかし、年を経て、その整合性を問う話が沸き出て来
 た・・そのことを考えた者が現れた。
  ドイツのキリスト教聖職者のオットーだった。
  彼は、中世的普遍史の完成者と言われている・・そし
 て、彼は「年代記」を書いてアウグスティヌスを訂正し
 た・・。
  彼は、ローマ帝国まではアウグスティヌスを踏襲した。
  問題はその後にあった。
  キリスト教が色々な面で、辻褄(つじつま)合わせを
 色々、苦労してやっているが、オットーもこの辻褄合わ
 せに苦渋した。
  そして、考え出したのが「帝権移動」の屁理屈論理だ
 った。
  何を意味するのか?・・まったくのこじつけ論理なの
 だが・・「ローマの帝権は移動し、そして、続いている」
 とこじつけた。
  だから、キリスト教が説く「終末は来なかったのだ」、
 また、「最後の審判」も無かったのだとした。
  彼の帝権移動論を細かく書くのも馬鹿々々しいが、そ
 の抜粋・概要を以下に書くと・・
  ローマ帝国は、ラテン人のローマ帝国だった。
  しかし、ローマ帝国の滅亡後、数世紀を経過しても、
 なお、世界は終末を迎えることなく存続していた。
  カール大帝が皇帝に即位した。
  ローマ建設から1552年、カールは、ローマ教皇によっ
 てパトロキウスの称号を与えられ、アウグストゥス以後
 第69代の皇帝かつアウグストゥスと呼ばれた。(中略)
  コンスタンティヌス帝から以後この時まで、首都にコ
 ンスタンティノーブルに中心が置かれていたローマ人の
 統治権は、こうしてフランク人に移された・・
  ・・意味不明な事を延々と書き・・
  はっきりしているのは、「ローマ帝国は滅亡してない、
 引き継がれた」・・だった。
  まだまだこの他にも「おひれはひれ」が付いているが
 割愛(かつあい、はぶく)する。
  何しろ、現在も、コンスタンティノーブルが存在して
 いるが、ならば、「現在も、ローマ帝国は存在している
 のか?」と、キリスト教に言いたいところだ。
  キリスト教は終末が来ること、その時に演じられる「
 最後の審判」におびえている・・
  この様に、遠い昔の古代から「いつ来るか?」「いつ
 来るか?」と怯えている。
  このキリスト教の終末論理には「色々な怪物も登場し
 たり、色々な華やかな話も展開する」。
  教父のアウグスティヌスは、「怪物たちもアダムの子
 孫だ」と言う様な人だった。
  そして、また、アウグスティヌスは、「この怪物と胎
 児」について「理性的で死すべき生き物」として、自分
 勝手な論理展開をした。
  そして、この定義に当てはまるので「すべて起き上が
 り、生きるか死ぬかを求められるべきだ」と言った。
  これらは、「インドは世界の果てだ」という言葉と共
 に語られる・・
  キリスト教において、「意味が分からなくても、心配
 してはならない世界の話」。
  ちなみに、オットーの生涯は1111年?~1158年。
.
17世紀~18世紀、ヨーロッパの啓蒙時代
  「啓蒙時代」とは、17世紀~18世紀に、ヨーロッパで
 広まった、キリスト教神学に代表される旧来の伝統や権
 威を『理性のもとに批判』し、民衆を啓蒙し、目覚めさ
 せようとした時代だった。
  中世のヨーロッパは、キリスト教の考え方によって日
 常が歪(ゆが)められていた。
  しかし、科学知識が、革命的に得られて来た事によっ
 て、その知識を得た啓蒙主義者たちは、その歪んだキリ
 スト教の観念に立ち向かって行った。
  その一つが、「キリスト教普遍史」に立ち向かった知
 識人たちであった。
  彼らは、厳しく「キリスト教普遍史」を批判し、キリ
 スト教の「時間観念」に立ち向かった。
  そして、彼らは、キリスト教普遍史とまったく異なっ
 た「時間観念の下で過去を見直した」。
  キリスト教から見れば「異端的考え方をする者たち」
 だった。
  それまでの常識とされて来た「キリスト教から洗脳さ
 れた歴史の時間」からは「かけ離れた長大な時間だった」。
  「地球が巨大な火の玉だった」という事は、キリスト
 教観念からは・・まったく考えられなかった。
  その様な科学知識などを知った知識人たちには、キリ
 スト教観念に沿って説明することは「苦痛だった」。
  それでも、地球の誕生は7万5000年前と、また、人類の
 誕生は6000年~8000年前と、キリスト教の時間観念に妥
 協をした。
  でも、キリスト教普遍史の時間スケールからは「大き
 くはみ出していた」。
  すべてがはみ出していた。
  太陽系の他の惑星が同時に誕生したこと、地球の誕生
 前の「物質の創造」「光と闇の分離」など、どうしても
 キリスト教聖書に沿って説明が出来ない面が「多々あっ
 た」。
  キリスト教は、彼らを脅(おど)した。
  しかし、彼らは、そのキリスト教の脅しには屈しなか
 った。
  彼らは、また、一般人に配慮した。
  キリスト教に洗脳されていた一般人、この一般人から
 理解が得られる説明に心がけた。
  人類の誕生は、キリスト教聖書の記述に合わせたりし
 た。
  日常生活が、キリスト教観念によって影響されている
 一般人、その人々に配慮した。
  間違った観念の下で生きている問題に対し、正しい観
 念を「必ずしも与え得なかった」。
  間違った観念の下で暮らす怖さを取り除いてあげられ
 なかった・・そのもどかしさの中に科学者たち・知識人
 たちは居た。。
.
1883年、アメリカで、黒人の方々に対し、大変卑劣な差別
 判決が出た。
  合衆国最高裁判所が、「アメリカ国民に与えられた色々
 な特権(公民権)は、そもそも州の市民にそなわるもの
 であるから、これ等は黒人の市民権付与を規定した憲法
 修正第十四条の適用は受けない」として、「1875年の公
 民権法を否定した」。
  この判決によって、アメリカでは、堂々と黒人の方々
 への「差別」が、一層さらに、行われる事態となった。
  交通機関、学校、レストラン、教会、映画館などなど
 において人種差別行為が行なわれ、また、隔離も行なわ
 れた。
  また、州法や市条例やその他によって、法制化して確
 実化した・・そして、縛(しば)った。
  1896年5月18日には、さらに、最高裁判所が、「列車で
 黒人隔離をしても、平等だ」という、「隔離しても平等
 という屁理屈判決」を出した。
  これが、また、差別行為を正当化して、アメリカ差別
 社会は、一層その卑劣さを増した。
  軽蔑を通り越すアメリカの黒人の方々に対する差別に
 憤りが湧く。
.
19世紀末、スペインのバルセロナ地方に独立したいという
 動きがある・・差別が原因・・
  これは、19世紀の末頃から、常にあった。
  スペイン中央政府カタルーニャ民族を軽視する行動
 が原因だった。
  また、カタルーニャは裕福な州で、中央政府のカタル
 ーニャへの支出金があまりに少なく・・
  カタルーニャ州が税金として支出する金額と隔たりが
 大きい・・還元される金額が少ないという状況もあり、
 独立運動と結び付いて行った。
  2010年代、特に、盛んになった。
  また、イギリスのグリーンランド地方でも独立したい
 という動きがある。
  理解できる活動である。
  今、帰属しているスペインやイギリスは、他国民の多
 くを殺戮して来た、本当に多くの人々を殺戮して来た。
  これを思うと、帰属している国と、我々は違う民族な
 のだと、それを主張したいとなるのだった。
  アメリカも、本当に、多くの他民族をキリスト教観で
 乱暴な対処をして来た。
  バルセロナ・・スペイン北東部のカタルニャ自治州で、
 バルセロナ県の県都である。
  伝承であるが、フェニキア人によって建てられた。
  バルセロナの名は、カルタゴの名家のバルカスによる
 とされている。
  ローマ人、そして、西ゴート人の支配を受け、そして、
  717年頃、イスラムの統治下に置かれた・・しかし・・
  801年、カロリング朝フランク王国のルイ1世によって
 征服された。
  9世紀末に、バルセロナ伯領の首都となった。
  中世を通じて、ゼノアやベネチアと並ぶ地中海岸の商
 業の中心地として発展した。
  カタルニャ王国の首都として、アラゴン王権に対抗し、
 商人層を中心とする民主的な自治を行なった。
  独立の気運は「常に高くあった」。
  内乱時には、人民戦線政府の最後の拠点となった。
  このカタルニャには「自治運動があった」。
  この地方は、スペイン中央部とは経済的にも文化的に
 も異なっていて・・
  19世紀末頃から自治運動が絶えなかった。
  1923年、再び自治運動が高まり・・
  1931年4月、地方選挙後、カタルニャ自治政府の樹立を
   宣言をした。
   この時、スペイン全土でも共和派が大勝し、国王は
   亡命した。
  1931年、共和憲法によって地方自治が承認された。
  1932年9月、カタルニャ自治法によって自治州と認めら
   れた・・しかし・・
  1934年10月、耕作法をめぐって中央政府と対立し、カ
   タルニャは独立を宣言したが、すぐに軍隊によって
   武力で鎮圧された・・そして、自治法は停止された。
   スペイン内乱中もカタルニャと中央政府との対立が
   続き「内戦中の内戦」が展開された。
  1939年、 F.フランコの勝利で自治運動も不可能となる。
   しかし・・
  1975年、フランコ総統が死に・・その後・・
  1977年、中央政府の了解のもとに臨時自治政府が成立
   した。
  1978年、新憲法によって正式に自治が認められた。
   中心都市はバルセロナ
  1980年、第1回自治州議会選挙以来、穏健派連合が過半
   数を制してきた。
  1992年3月、自治州議会選挙では独立を標榜するカタル
   ニャ共和左翼党が野党第2党に進出した・・しかし、
   穏健派連合優位の構図に大きな変化はない。
  日本でも、中国が陰で働きかけるアイヌや沖縄を独立
 させようという工作や運動が水面下でなされている・・
.
1933年1月30日、ヒトラーが、ドイツ首相に就任した。
  ナチス(単数形のナチ)は・・
  1919年、K.ハラーによってミュンヘンで結成された「
   ドイツ労働党」を、ヒトラー民族主義社会主義
   を巧みに接合させた・・
  1920年、「国家社会主義ドイツ労働者党」と改名した。
  1921年ヒトラーが党首となったが・・
  1923年、ヒトラーは、ミュンヘン一揆を企てて投獄さ
   れた。
   党は解散したが、ヒトラーの出獄とともに大衆政党
   として再出発した。
  1925年、党員数はわずか2万7000人にすぎなかった・・
   しかし、その後、群小右翼団体を吸収して膨張した。
  1929年、党員数17万6000人・・
  1930年9月、総選挙で 18.3%を獲得して第2党となり・・
  1931年、党員数80万6000人・・
  1932年7月、総選挙で37.4%を得て第1党に躍進した。
  1933年1月、軍部や財界と取引を行なって、この時、政
   権を獲得した・・
   党員数は390万人とふくれあがった。
  そして、破滅的な第2次世界大戦への道をとった。
  このヒトラー時代のドイツは、自国に有利になる様に
 「女性を道具として卑劣に使った」。
  まことに卑劣な話であるが、この時のドイツは、外国
 から来た者へ、自国女性に性的な対応をする様にさせた
  (ハニートラップ)
  朝鮮・韓国が、中国に冊封されている時、国の施設を
 持って、この様な事を行なっていたが(これは、史実と
 して明確に確定している)・・ドイツも、この様な状況
 であった。
  また、ドイツは、「現地妻」を制度的に用いていた。
  外国からの者へ「現地妻」を提供していた。
  また、冷戦中には、ソ連KGBも、この様な事を行
 なった。
.
1937年8月13日、第二次上海事変アメリカに支援された中
 国軍が攻めて来た。
  上海事件・・この戦いが、本格的な中国との戦いにな
 ったきっかけだった・・
  この戦いは、陰で、アメリカが、中国を支援をしてい
 た。
  これが、最大の悲惨な状況を作り出す不幸だった。
  ベトナムアメリカの戦争と同じだった。
  アメリカが、陰だとはいえ、間接的に参戦することに
 よって、中国での戦いは「悲惨な戦争となった」。
  大量の武器などの物量を中国へ与え、戦いを大きくし、
 また、戦いへ仕向けていっていたアメリカだった。
  歴史教科書にはこのような事は書かれていないが・・
  ただ日中の戦いだったら・・早期に「決着はついてい
 て、終わっていた」。
  戦う当事国同士なら、早期に戦いは決着し、悲惨な結
 果にもならずに済んだ戦いだった。
  アメリカという第三国による一方の中国への支援が、
 この様な形での「間接的な、アメリカの戦争への参戦」
 が、戦いを長引かせ、また、より悲惨な状況とした。
  ベトナムでの戦いも、ベトナムとフランスとの戦いで、
 すでに、決着し、終わっていた。
  しかし、アメリカが乗り出した・・より強力な武器を
 使って・・また、非人道的な武器や行為を行なって・・
  そして、結局、最後は、陰に隠れてい居られなくなっ
 たアメリカは表に出て来た。
  アメリカ軍それ自体が表で参戦するという、卑劣で破
 廉恥な戦争行為となった。
  そして、表面立ってのベトナムアメリカの戦いが新
 たに生まれた。
  ベトナムアメリカ戦に変わった。
  戦いは、また続いた・・戦いは長いものとなり、また、
 筆舌に尽くせぬ卑劣な手を使ってでもアメリカは勝とう
 とし(枯葉作戦など)、しかし、アメリカは勝つことが
 出来なかった。
  ただ、戦争と何ら関係ないベトナムの一般の方々が、
 女性の方々が・・そして、小さな子供たちが・・大勢、
 死んだだけだった・・多くの奇形児も生まれた・・
  日中の戦争も・・泥沼となった・・
.
1945年9月10日、GHQが「新聞報道取締方針」(SCAPIN-16)
 を発令し、検閲を開始した。
  アメリカは、あらゆる面で、日本をコントロールし始
 めた・・卑劣だった・・(戦争に勝ったら、そんなこと
 が出来るのか?)
  日本には誇るべき平安京の時代がある・・女性は尊重
 されていた。
  当然、その様な社会環境から・・女性も高い教養を身
 に付けていた。
  その様な社会環境から、「人類最初の長編小説」が、
 日本のこの時代に書かれた。
  アメリカは影も形もないこの時代・・1200年以上も前
 に書かれていて、そして、生まれていた・・
  日本の女性の手によって書かれていた。
  こんな遠い昔でも、日本は、アメリカの様な奴隷制
 の欠片(かけら)もない平等な社会だった・・そして、
 女性の人格も尊重される社会だった。
  まったく卑劣極まるレベルのアメリカの奴隷社会とは、
 まったく隔絶されて違う・・品位ある社会だった。
  日本は遠い昔から、奴隷社会などという遅れた社会か
 ら隔絶していて・・戦争もなく、兵役もなく、宗教の自
 由があり、言論の自由もあった。
  アメリカが、第二次世界大戦後、その様なことを「日
 本に教えるのだ」と言ったのは間違いだった・・逆に、
 日本から学ぶべきだった。
  アメリカの自国の歴史をもって、「日本もそうなのだ
 ろう」と思うことは、「おこがましい(出過ぎている。
 さしでがましい)」・・反省してもらいたい。
  日本人のプライドを奪うことを、この後、戦後に、ア
 メリカは、まだまだ行った・・まったく卑劣である。
  そんなことは、どこの国もやらなかった。
  だから、その点について、イギリスのチャーチルは、
 さすがに言った。
  そんなことをしたら、「タルタル人の様だと」と・・
  タルタル人と同じではないかと・・
  「タルタル人の時代に戻ってしまうではないか」と・・
  アメリカは、戦争に勝ったかもしれないが、それでは、
 タルタル人と同等ではないか・・と・・
  チャーチルは、数日間、抵抗した。
  しかし、アメリカに押し切られた。
  歴史に裏打ちされた品格を持つ日本は、この点で勝利
 していた・・人間として大事なこの点で、日本はアメリ
 カに勝ち、アメリカは敗けていた。
  (参考)タルタル人:タタール(Tatar)は、北アジア
     のモンゴル高原とシベリアとカザフステップ
     ら東ヨーロッパのリトアニアにかけての幅広い
     地域にかけて活動したモンゴル系、テュルク系、
     ツングース系およびサモエード系とフィン=ウ
     ゴル系の一部など様々な民族を指す語として様々
     な人々によって用いられてきた民族総称。
      日本では、韃靼(だったん)という表記も用
     いた。
.
1994年、今(2019年)から25年前、アメリカと北朝鮮は、
 かなり危機的な状態となった。
  クリントン大統領の時である。
  アメリカに「やる」という話が出た。
  アメリカ海軍は、「トマホーク」を使えば、北朝鮮
 原子燃料施設を破壊できるという考えだった。
  アメリカ兵の犠牲も出ない。
  金もかからない・・と・・
  「やる寸前」まで行った。
  しかし、北朝鮮アメリカを脅した・・
  「もし、アメリカ軍がトマホーク攻撃を仕掛けてきた
 ら、地上戦でソウルを火の海にしてやる」と言った。
  また、作戦の実行に、アメリカ陸軍が反対した。
  韓国に、アメリカ軍3万人に加えて、その家族が3万5000
 人が居た。
  将兵家族の引き上げの問題である。
  そして、クリントン政権のペリー国防長官が、クリン
 トン大統領へ「全面戦争になったら、100万人の死者が出
 る」と・・言った。
  また、「アメリカ人も、8万人~10万人死亡する。
  そして、我が国が負担する軍事費用は、1000億ドル(
 11兆円)に上る」と報告した。
  クリントン大統領は・・屈した。
  この時が、北朝鮮の核施設を無くすチャンスだったと
 言われている。
  この時、日本は何をするべきだったのか?
  その考え方が、「まとまっていなかった」。
  この時、日米で共同作戦を取っていれば、「日米安保
 体制も、ゆるぎないものになっていた」という・・
  日本には、「自国の安全保障に対して何をなすべきか?」
 の「一本、筋の通った論理」が無かった。
  「何も考えないで、アメリカに、頼り切っている状態
 の日本があった」。
  日本の安全保障であるのに、それを真剣に突き詰めて
 いたのか・・?・・これは、今でも続いている・・
  ただただ、戦争は嫌だと言っているだけで良いのか?
  それで済むなら誰だってそれでよいとする・・
  NHKや池上彰は、「徴兵制は怖い」などと脅す事だ
 けをしている・・本質の解説は「逃げている」・・
  北朝鮮は、必死に生き残りをかけてやっていて・・北
 朝鮮は、核とミサイルで自国民を守った。
  アメリカは、最後まで責任をとってくれるのか・・?
  今日の香港・・明日の東京・・そして、ニューヨーク・・
  周りに核に囲まれた日本・・銃を持った者たちによっ
 て、あなたの愛する妻や子が囲まれた時、あなたは何を
 するのですか?・・
  今日も銃の乱射で多くの人が亡くなったアメリカの報
 道が新聞にあるが・・

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1995年、クリントン政権ジョセフ・ナイ国防次官補が「
 アメリカのアジアに対する『深い関与』戦略」という論
 文を発表した。
  それは、「アメリカは、ヨーロッパから軍隊を引き揚
 げても、東アジアからは撤退しない、『深い関与』を続
 ける」というものだった。
  アメリカ軍が、駐留を続けることによって「東アジア
 地域での軍備競争を抑える」だった。
  また、ペリー国防長官も、似たような主張をした。
  アメリカは、「日本を抑え付けておきたい」と言えな
 いから、この様な言い方をした。
  また、「瓶のふた論」も展開できないから、こんな言
 い方をした。
  「瓶のふた論」は・・もう古い・・
  ペリー国防長官の言い方は、「東アジアを安定させた
 い。軍備競争が起きないようにしたい。それ故に、我々
 は、冷戦が終わっても日本に5万人のアメリカ軍を駐留さ
 せる」と。
  どの様な言い方になっても、結局、「瓶のふた論」の
 思想の行動をアメリカは続けている。
  そして、その「瓶のふた論」をするアメリカへ、「思
 いやり予算」と称して日本国民の血税が支払われている。
  ところが、このペリーという男が、曲者(くせもの)
 で、「中国が、大好きな親中派」・・
  それも、自分さえよければ良いの男だった。
  クリントン政権の前に居たカーター政権で何をやった
 かと言うと、「アメリカの軍事技術を、せっせと中国に
 渡していた」。
  国防次官という身分で、「軍事技術供与」と称して、
 アメリカのノウハウを渡していた。
  そして、この行為は、この後も続いた。
  カーター政権を辞め、スタンフォード大学に戻ってか
 ら、「武器・軍事技術輸出に関するコンサルティング
 社」を作った。
  目当ては、政権にいた時に作った中国。
  中国を最大の客として、重要な軍事技術を中国へ渡し
 た。
  それも、20年以上の期間に渡って。
  中国は、国防予算をうなぎ上りに増やした。
  前代未聞の4年から5年ごとに、倍増・倍増・倍増の超
 軍拡。
  「東アジアに軍拡競争をさせない」というアメリカの
 公言(人前で隠しだてすることなく堂々と言うこと)は、
 「絵に書いた餅」となった。
  アメリカなんて、こんな事が展開する国だった。
  アメリカ企業は、中国をお得意様として、中国に対す
 る軍事技術の輸出をどんどん増やした。
  「自分の懐に、金が転がり込めば、何でもいいのさ」
 の状態だった。
  アメリカ政府は、黙認した。
  北朝鮮も、この時期、せっせと核弾頭の材料である核
 燃料を増産した。
  1994年、アメリカは、北朝鮮と「これ以上プルトニウ
 ムを作らない」合意をした。
  しかし、1996年、北朝鮮は、このアメリカとの合意・
 約束を破って、パキスタンから「ウラニウム濃縮技術」
 を導入した。
  アメリカは、この重大な情報を日本に秘密にした。
  日米同盟なんてチャンチャラおかしいという状態。
  同盟関係なんてありもしないという日米同盟だった。
  裏切り者の卑怯なアメリカだった。
  さらに、アメリカが、卑怯で卑劣なのは、この状態を
 黙認したこと、核弾頭の開発を続ける北朝鮮を野放しに
 したこと・・この様な事を、アメリカはした。
  何の対抗策も取らなかった。
  日本だけには、ガチガチと枠をはめるアメリカだった。
  日本の自主防衛能力の構築だけが、ガチガチに抑え付
 けられていた。
  そして、2017年、北朝鮮は、立派な核保有国となり、
  ICBM(大陸間弾道弾)も保有する国となった。
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2002年2月18日、アメリカのブッシュ大統領が来日した。
  この時、「小泉首相靖国神社に共同参拝したい」と
 申し入れられていたという。
  日本は、中国を刺戟したくないと、この申し入れを断
 った・・(何を怖がっているのか?)
  その結果、ブッシュ大統領の単独による明治神宮の参
 拝になったという。
  日本は、中国に気を使い過ぎている。
  ウイグルの方々を300万人も拘束している中国、ウイグ
 ルの方々へ「洗脳とか、思想教育とか」をしている・・
  この抗議に対して、中国は「テロ対策だ」という「説
 明にならない説明」をしている中国となっている。
  さらなる抗議に対しては、「内政干渉だ」と突っぱね
 る中国となっている。
  その様な状況に対して、その正反対に、気を使い過ぎ
 る日本となっている。
  明治神宮の共同参拝までしなかった日本・・
  「政教分離にならない」というのも理由だったという。
  アメリカは、大統領の就任式にキリスト教の聖書に手
 を置いて祈り、誓うが、一定の範囲に宗教が関わること
 は正しい、「正義だ」、「許されるのだ」。
  宗教を否定する共産主義の中国とは違うのだ。
  馬鹿々々しいほど律義に行なう日本の方が「おかしい」。
  民の選挙も行なわない・・そして、宗教を否定する中
 国の方が・・「おかしいのだ」。
  日本は、中国の内政干渉には、きっぱり撥ね付ける必
 要がある。
  アメリカは日本に対して言っている、「マッカーサー
 の神道指令」を卒業して、「独自の日本の正義の態度を
 示せ」と・・
  その背景に、「中国に毅然と日本の主張をせよ」との
 思いがある。
  最近のアメリカは、日本に対し、「もっと自分の国に
 誇りを持った歴史観を持つべきだ」というメッセージを
 盛んに発している。
  靖国神社の参拝についても、反対の意見は無い。
  逆に、この類の話の中で、「中国への警戒感や脅威論
 が出る」という状況となっている。
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2011年、ドイツと中国の間で「二国間政府サミット」が定
 期的に開催されるようになった。
  これは、やはり、狙いは商談・・金儲け・・
  首脳同士、閣僚同士の会談の影で、盛んに産業界の大
 物たちが、政府のサポートを受けながら大型契約の交渉
 に熱中していた。
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2018年1月14日、スエーデンで、「ジャングルで一番格好の
 良い猿」と言って、黒人の子供の写真を載せる宣伝広告
 がなされた。
  考えられないほどの、「最低の人種差別の宣伝」で、
 世界で、この会社の商品の不買運動を始めよう。
  最悪な卑劣さで、怒りが心頭に達する。
  産経ニュース、2018年1月14日、「ジャングルで最もか
 っこいいサル」…黒人差別の広告に抗議、南アでH&M
 店が襲撃される
  スウェーデンの衣料品大手H&Mが、黒人への差別的
 な広告を使用した問題で、南アフリカ国内にある同社の
 複数の店舗が13日に襲撃され、商品が盗まれるなどの
 被害が出た。
  黒人の権利擁護を訴える野党が、支持者に呼び掛けて
 いた抗議行動が過激化した。
  南アのメディアが報じた。
  地元警察によると、最大都市ヨハネスブルクの店舗で
 は、商品が略奪され警官隊がゴム弾で制圧。
  商品が床にまき散らされた店もあった。
  H&Mによると、客や店員にけがはなかった。
  「ジャングルで最もかっこいいサル」と記したパーカ
 を黒人少年のモデルに着せた写真を、H&Mが広告に使
 っていたことが今月に判明。
  「人種差別だ」と批判が相次いでいた。
  支持者に抗議行動を呼び掛けた野党、経済的解放の闘
 士(EFF)のマレマ党首は「黒人への侮辱は許さない。
  (H&Mは)教訓を学んだだろう」と述べ、襲撃の謝
 罪を拒否した。
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2019年、存立危機事態(産経新聞の解説文)・・
  自衛隊による集団的自衛権の行使が可能だと日本政府
 が判断する事態の称呼。
  安全保障関連法は、「密接な関係にある他国への武力
 攻撃が発生し、日本の存立が脅かされ、国民の生命、自
 由、幸福追求の権利が根底から覆(くつがえ)される明
 白な危険がある事態」と定義している。
  「国民を守るため、他に適当な手段がない」「必要最
 小限度の実力行使にとどまる」と合わせて「武力行使
 新3要件」を満たす場合に、集団的自衛権の行使が認めら
 れる。
  この条文を読んでいるうちに、中国や北朝鮮からの核
 ミサイルは・・着弾するだろう。
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2019年8月2日、日本は、韓国への「ホワイト国の指定」を
 取り外した。
  これは、韓国が、「軍事上の重大違反」を繰り返すと
 いう重大ミスがあったからだった・・当然の処置だった。
  この韓国へ与えてあげていた「貿易上の優遇処置」の
 取り外しは、特に、「軍事関係の重要品」を不適切国へ
 輸出するという「重大違反を重ねていた」からだった。
  この様な事は、重要な事として韓国も十分知っている
 事だったが、現実に起きることは、韓国の『重大なミス
 が重なる』という状況だった。
  この様な事に対して、韓国は謝罪も説明も一切ない。
  韓国へ与えてあげていた『ホワイト国の優遇処置』を、
 『普通のポジションへ戻した』。
  韓国の輸出不正の多い状態は、「二段階降下が適正で
 あった」が、「普通レベルに留めて」あげた。
  軍事的に重要な戦略物資の不適切な輸出は、非常に神
 経を尖(とが)らせなければならない重要な面であるが、
 故意ではないかと疑われるほど、韓国は「重大ミスが重
 なるという韓国の状況であった」。
  そこで、日本政府になり代わって、韓国政府へ、以下
 の文を書く・・
  日本政府が、韓国のホワイト国(輸出手続き上の最遇
 国)から排除する決定を下した。
  これは、韓国政府が、問題を解決するための外交的努
 力を拒否し、事態を一層悪化させる極めて無謀な行為を
 繰り返していたことに依ることであって、深い遺憾を表
 明する。
  問題を解決するために、膝を突き合せようという日本
 政府の熱意と提案を、韓国政府は、ついに、頑なに自説
 を曲げないで受け入れなかった。
  一定の期限を定め、現状をこれ以上悪化させないよう
 にしながら交渉の時間を持つように促す米国の提案にも、
 韓国政府は応ぜず、解決案にほど遠い自説を曲げなかっ
 た。
  韓国政府は、日本政府と国際社会の外交的解決の努力
 を無視し、状況を悪化させて来た責任を、韓国政府は重
 く反省しなければならない。
  この様な責任が、韓国政府にあるという事が明らかに
 なった以上、これから起きる事態の責任も、全面的に韓
 国政府にあるという点を、はっきりと警告する。
  どの様な理由で言い訳をしようとも、韓国政府の今回
 の行動は、まったく国際社会のルールを踏み外している。
  決着している過去の問題を何度も蒸し返したり、持ち
 出したりして、建設的な前向きな解決をしようとしない
 韓国政府に問題が存在する。
  最も近い隣人であり、友好国であるべき韓国が、この
 様な行為をとって来た事は、実に失望すべき事であり、
 残念なことである。
  この様な不正を押し付ける韓国の姿勢は、国際社会の
 これからの為にも、はっきりと指摘して行かなくてはな
 らない。
  国際社会はお互いが助け合うことが基本であり、ルー
 ルに反することを、自国に有利だからと行なう韓国政府
 の行為は、断固指摘せねばならない立場に日本政府には
 ある。
  日本政府は、韓国のこの様は不当な行動に対し、断固
 として正しい事実に則った態度を取って行く。
  韓国政府が行なう盗人たけだけしく騒ぐ状況を決して
 日本政府は座視しない。
  日本政府は、韓国政府の行なう措置に応じて、対応措
 置を強化して行く。
  そして、今までの、韓国政府の甘えの体質も反省すべ
 きである。
  不正な行動をする韓国政府は、大きな代償があるとい
 うことを認識しなければならない。
  日本政府は、対抗の悪循環を望んではいない。
  止められる方法はただ一つ、韓国政府が、偽りの行動
 を反省し、誠実にそして真実の行動をとることにある。
  日韓両国には、日本が韓国の国づくり、また、社会資
 本づくりなどに貢献して来た歴史があるが、この事につ
 いても一切の感謝の気持ちを韓国は表明していない。
  韓国政府は、この様な事に対する誠実な感謝の気持ち
 を表明すべきである。
  遠い昔から、江戸時代から、韓国政府は、この様な蒸
 し返しの行為を、日本政府に対して繰り返し行なって来
 た歴史がある。
  しかし、日韓政府の正常化に挑戦して行くことに対し、
 日本政府は努力するが、肝心な韓国政府が昔から日本に
 して来たような態度を繰り返すならば、歴史は繰り返さ
 れることとなる。
  共に、日本と延びたいのならば、国際ルールに則り、
 正しい行動の出来る国に韓国政府はならなければならな
 い。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/
.
  (追伸)
  ロシア(旧ソ連)よ!
  千島列島と北方四島を日本に返還しなさい。
  終戦後の1945年8月18日に、占守島に奇襲攻撃して来た
 行為を反省しなさい。
  占守島の戦いで日本は戦いに勝っていたのに、終戦
 であったので、ソ連(現ロシア)と合意の上で日本は武
 器を置いた・・日露間の戦争はここに終わった。
  しかし、日露の合意の終戦の後、日本兵の居ない日本
 領の千島列島と北方四島ソ連(現ロシア)は不法に占
 拠し始めた。
  千島列島の最北端の占守島の戦いで、日本が武器を置
 く式を日露合意で行ったことを遵守せよ!
  だから、君たちには、日本の領土を勝手に盗る行為を
 行なう正義の論理は無い。