(増補版)345E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年5月〜1877年7月)

題:(増補版)345E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年5月〜1877年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1877年5月26日、西南戦争、鹿児島方面の戦いにおいて、5
 月24日、別働第1旅団と別働第3旅団は、大挙攻勢に出て、
 涙橋付近で交戦する一方、
  軍艦に分乗した兵が、背後を衝き、薩軍へ大打撃を与
 え、敗走させた。
  逆襲した薩軍と、壮烈な白兵戦が展開されたが、夕方、
 暴風雨になり、これに乗じた官軍の猛攻に、弾薬乏しく
 なった薩軍は耐えきれず、吉野へ退却した。
  この紫原(むらさきばる)方面の戦闘は、鹿児島方面
 で行なわれた最大の激戦で、官軍211名、薩軍66名の死傷
 者を出した。
  翌・5月25日、第4旅団は、下田街道を南下し、坂元・
 催馬楽・桂山から別府隊・振武隊十番中隊の背後を攻撃
 し、吉野へと追撃して行った。
  5月26日には、同旅団が、鳥越道と桂山の二方から前進
 し、攻撃したところ、薩軍は、抵抗することなく川上方
 面へ退却した。
  そして、この日、木戸孝允(きどこういん、たかよし)
 が病没した(45歳)。
  長州生まれ、通称を桂小五郎といった・・、
  この人は、今、必死に戦いをしている西郷隆盛と、そ
 して、大久保利通らと、薩長連合の密約を結び、
  そして、協力して倒幕勢力の結集を計った人だった。
  この縁ある二人の戦争が、激戦が、今、行なわれてい
 る・・この様な時に没したのだった。
  木戸は、「五箇条の御誓文」の起草にも参加し・・、
  1873年に、岩倉使節団の一員としても参加し、帰国後、
 西郷隆盛の主張する征韓論に、岩倉・大久保らとともに
 反対した・・、
  そして、西郷を退けた、
  そして、下野をさせた・・人だった。
  しかし、この直後に成立した大久保の独裁政権に対し
 て、木戸は・・批判的立場を示した。
  そして、ついに、1874年、参議を辞任した・・
  が、しかし・・、
  翌年の1875年に、大阪会議において、大久保らの政府
 主流派に妥協する・・そして、再度、参議に復帰する。
  そして、1877年に、病気により・・没した。
  この木戸が没したこの頃の、西南の役での、西郷の地
 元の鹿児島での戦いがある。
  涙橋の戦いとして、その秘話が伝わっている。
  涙橋・・鹿児島市電の「涙橋電停」下車し、1分の所の
 川沿いに石塔が立つ。
  「涙橋決戦の碑」とある。
  涙橋は、旧谷山街道の新川に架かる小さな橋。
  旧薩摩藩時代に、吉野実方(さねかた)にあった処刑
 場を、この橋の先の堺迫門(さかいせと)、今の二軒茶
 屋の付近の谷間に移した。
  刑場へ向かう罪人と家族は、この橋で泣き、そして、
 涙でこの世の別れをした・・涙橋の由来である。
  このいわれの涙橋、西郷軍が、この故郷の地にたどり
 着いたときには、この故郷の地のほとんどは政府軍によ
 って占領されていたという・・
  ここの地で、西郷軍の枕崎出身の今給黎(いまきいれ)
 久清以下213名の兵士が、
  谷山方面へ向かうため、武之橋方面からと、脇田方面
 から迫る政府軍と戦い、
  旧式の兵器や弾薬の不足にもかかわらず奮戦し、
  戦いは6時間にもおよぶ激戦の末に・・多くの戦死者を
 出した。
  そして、平田新左衛門ら90名の戦死者を出し、大敗し、
 柴原方面へ退却して行った。
  碑の建立は、勇敢に戦い、そして、散った兵士らの供
 養の意味もあった。
1877年5月27日 矢筈嶽(やはずだけ)の激闘(西南戦争
1877年5月28日、この日の明け方、官軍が、舞床の鵬翼隊
 三番中隊を襲った。
  また、この頃、桐野は、宮崎から鹿児島方面、および、
 豊後等の軍を統監していたが、
  ここを根拠地とするために宮崎支庁を占領し、5月28日
 に、軍務所と改称した。
  別働第2旅団の侵攻で、危険が目前に迫った人吉では、
 村田新八らが相談して安全をはかるために、
  5月29日、池上に随行させて、狙撃隊等2,000名の護衛
 で、西郷隆盛を、宮崎の軍務所へ移動させた。
  5月31日に、西郷が軍務所に着くと、ここが新たな薩軍
 の本営となった。
  そして、軍票西郷札)などが作られ、財政の建て直
 しがはかられた。
1877年5月29日、官軍は、この日に、再び、鵬翼隊三番中隊
 右半隊を攻撃した。
  薩軍は、塁を捨てて後退したが、
  鵬翼隊三番中隊左小隊が、よく奮戦し、この活躍によ
 り塁を取り返した。
  そして、銃器・弾薬を得た。
  この夜、三方堺の鵬翼隊二番中隊も襲われ、弾薬不足
 のため背進した。
1877年5月31日、薩摩軍が敗れて、ことごとく肥後人吉に退
 いた(西南戦争
  5月30日の夜明け頃、官軍が、程角左翼の塁を攻撃し、
 薩軍は敗北した。
  官軍は、勢いに乗じて干城隊八番中隊・振武隊十六番
 小隊を攻めた。
  薩軍各隊は、大いに苦戦した。
  そして、次々と兵を原田村に引き揚げた。
  激しい攻防が続いた、
  勝敗は決まらず・・夜になった。
  翌日・5月31日、薩軍各隊は、原田村に兵を配置した。 
  しかし、翌日・6月1日は激戦だった・・、
1877年(明治10年)5月、秋山好古(あきやまよしふる)が、
 陸軍士官学校に入学した。
  新しい日本が生まれる・・生みの戦いが行われている
 この時・・、
  次の時代の・・日本の人材が・・日本に生まれようと
 していた。
  「坂の上の雲」のナレーションは・・、以下の様な事
 を言っている・・、
  この頃の日本・・・、
  まことに小さな国が、開花期を迎えようとしていた。
  小さなといえば、明治初年の日本ほど小さな国はなか
 ったであろう。
  産業といえば農業しかなく、
  人材といえば三百年の間、読書階級であった旧士族し
 かなかった。
  明治維新によって、日本人は初めて近代的な「国家」
 というものを持った。
  誰もが「国民」になった。
  不慣れながら「国民」になった日本人たちは、日本史
 上の最初の体験者として、その新鮮さに昂揚した。
  この痛々しいばかりの昂揚が分らなければ、この段階
 の歴史は分からない。
  社会のどういう階層のどういう家の子でも、ある一定
 の資格を取るために、必要な記憶力と根気さえあれば、
 博士にも官吏にも軍人にも教師にもなりえた。
  この時代の明るさは、こういう楽天主義から来ている。
  今から思えば実に滑稽なことに、米と絹の他に主要産
 業のないこの国家の連中が、ヨーロッパ先進国と同じ海
 軍を持とうとした。
  陸軍も同様である。
  財政の成り立つはずがない。
  が、ともかくも近代国家をつくりあげげようというの
 は、もともと維新成立の大目的であったし、
  維新後の新国民達の少年のような希望であった。
  この物語は、その小さな国がヨーロッパにおける、最
 も古い大国の1つロシアと対決し、どのようの振る舞った
 かという物語である。
  主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということ
 になるかもしれない。
  ともかくも、我々は3人の人物のあとを追わねばならな
 い。
  四国は伊予松山に、三人の男がいた。
  この古い城下町に生まれた秋山真之(あきやまさねゆ
 き)は、日露戦争が起こるにあたって、勝利は不可能に
 近いといわれた
  バルチック艦隊を滅ぼすにいたる作戦を立て、それを
 実施した。
  その兄の秋山好古(あきやまよしふる)は、日本の騎
 兵を育成し、史上最強の騎兵といわれるコサック師団を
 破るという奇蹟を遂げた。
  若い日本、彼らは、明治という時代人の体質で、前を
 のみ見つめながら歩く。
  https://www.youtube.com/watch?v=j6Jwc4S3idI
  https://www.youtube.com/watch?v=sGPnbt-oeMo
1877年5月、永野万蔵(ながのまんぞう、カナダ移住が記録
 されている最初の日本人)が、横浜から英国船で、カナ
 ダのブリティッシュ・コロンビア州のニュー・ウエス
 ミンスターに密入国した。
  永野万蔵は、長崎県の南高口之津村の生まれで、日本
 人として初めてカナダに移民した人だが・・、
  後に、フレザー川の河口で鮭漁をはじめ、州都ビクト
 リアでレストランやホテル経営し、
  また、その後に、日本向けの輸出塩ざけ製造会社を設
 立し大成功した。
  一躍、大富豪となって、「塩ざけキング」の異名をと
 った。
  1922年(大正11年)に至り、ビクトリア市のメインス
 トリートにあるJ・M・NAGANO&CO.のビルが火災となり、
  全財産を失い、2人の子供をカナダに残し、妻・多誉子
 とともに日本へ帰国した。
  そして、1924年大正13年)5月21日に没した。
1877年6月1日、日本が、万国郵便連合(UPI)に加盟した。
  萬國郵便連合條約に加盟、調印し、日本の郵便制度が
 公式に国際化した。
1877年6月1日、西南戦争・・この日の早朝、諸道の官軍が、
 人吉に向かって進撃した。
  諸方面の薩軍は、すべてが敗れた。
  人吉や大畑に退却した。
1877年6月3日、官軍の二方面からの大関山への総攻撃が始
 まった。
  薩軍は、大口方面へ後退した。
1877年6月7日、久木野が陥落し、薩軍は、小河内方面に退
 却した。
1877年6月9日、立志社が、「國會開設建白」 請願した。
  立志社は、1874年(明治7年)、土佐において生まれた
 民間の結社であるが・・、
  1877年(明治10年)2月に、西南戦争が勃発すると、社
 内にはこれに同調して挙兵を企てる一派が生まれた。
  しかし、一方、植木枝盛吉田正春・竹内綱ら武力蜂
 起に反対する一派は、天皇陛下への上申書として「立志
 社建白」を作成した。
  その内容は、内閣専制や兵制・税制・外交の失敗など
 を挙げて政府を批判し、
  そして、地租の軽減や徴兵制度の廃止などを求めると
 ともに、民撰議院の設立、および、立憲政体の確立を提
 案・要求するものであった。
  立志社社長の片岡健吉が、総代として、この建白書を
 京都行在所に提出したが、
  「不遜ノ件」を理由として数日後に却下された。
1877年6月12日、人吉方面撤退後の、6月12日、村田新八は、
 都城に入り、人吉・鹿児島方面から退却してきた薩軍
 隊を集め、都城へ進撃する官軍に対する防備を固めた。
1877年6月13日、山野が陥落した。
  官軍は大口へ迫り、人吉を占領した別働第2旅団は、飯
 野・加久藤・吉田越地区進出のため、大畑の薩軍本隊に
 攻撃を加えた。
  結果、雷撃隊と薩軍本隊との連絡が絶たれた。
1877年6月17日 参軍・山県有朋は、八代に諸将を集めて、
 都城進撃の軍議をした。
  熊本鎮台兵は、三国峠を占拠した。
1877年6月18日、官軍の山野への進撃に対し、雷撃隊を率い
 る辺見は砲弾の雨の中、必死に官軍をくい止めていた。
  だが、北東の人吉からの別働第2旅団の攻撃、北西の山
 野からの別働第3旅団の攻撃により、郡山・坊主石山が
 別働第2旅団の手に落ちた。
  結果、両者の間の高熊山に籠もっていた熊本隊は完全
 に包囲された。
1877年6月19日 万国郵便条約が実施された。
1877年6月19日、大森貝塚の発見
  アメリカ人の動物学者・エドワード・S・モースが、横
 浜から新橋へ向かう途中、大森駅を過ぎてからすぐ。
  崖に貝殻が積み重なっている(露出)のを列車の窓か
 ら発見する(6月20日説あり)
  モースは、生物学を教えることになった東京大学の教
 え子たちと9月16日に至り、発掘調査を開始した。
  日本初の近代的な考古学的調査だった。
  あわただしく5日間で論文を執筆した。
  後に、科学雑誌「ネイチャー」の12/19号に、大森貝塚
 発見の記事を投稿した。
  モースによる発掘は、日本の考古学・人類学の幕開け
 となった。発掘報告書(1879年)
1877年6月20日、官軍は、この日、高熊山の熊本隊と雷撃隊
 が占領する大口に攻撃を加えた。
  この時の戦闘では塹壕に拠る抜刀白兵戦が繰り広げら
 れた。
  しかし、圧倒的な官軍の物量の前に、薩軍の急激な士
 気の低下があった。
1877年6月25日、この日、雷撃隊は、大口の南に布陣し、曽
 木、菱刈にて官軍と戦ったが、戦いは効を奏せず・・
  相良率いる行進隊と中島率いる振武隊と合流し、南へ
 と後退していった。
  ここに大口方面における約2か月もの戦いに幕は下りた。
1877年6月29日、大口南部の薩軍を退けた川路少将率いる別
 働第3旅団は、6月23日、宮之城に入り川内川の対岸およ
 び下流薩軍を攻撃した。
  一斉突撃を受けた薩軍は、激戦の末、遂に鹿児島街道
 に向かって退却した。
  別働第3旅団の部隊は、翌・6月24日には、催馬楽に至
 り、次々に薩軍の堡塁を落として、夕方には、ことごと
 く鹿児島に入り、鹿児島周辺の薩軍を撃退した。
  こうして官軍主力と鹿児島上陸軍の連絡がついた。
  退却した薩軍は、都城に集結していると予測した川村
 参軍は、6月29日、別働第1旅団を海上から垂水・高須へ、
 第4旅団を吉田・蒲生へ、別働第3旅団を岡原・比志島経
 由で蒲生へ進め、都城を両面攻撃することとした。
  また、海軍には重富沖から援護させ、鹿児島には第4旅
 団の1個大隊を残した。
1877年6月30日、勝海舟、長男の小鹿、米国アナポリス海軍
 大学校卒業(氷川清話)
1877年6月30日、初の交通規則の制定、
  泥酔者の馬車運転を禁止 
1877年6月、電話機が輸入された。
  電話機2台が輸入し、使用した事例・・、
  輸入した電話機が、赤坂御所と青山御所の間に架設し
 た電話線で結ばれ、 明治天皇陛下、皇后陛下・皇太后
 御三方で初通話をして戴いた。
  1889年(明治22年)に、東京〜熱海間で商用実験が行
 われ、翌・1890年から加入者を募集し、東京〜横浜間で
 電話交換業務が開始された。
1877年7月9日 外国渡船に国旗を掲げしむ。
  既に、1860年に、アメリカに行った咸臨丸に日章旗
 日の丸)を掲げて航行し、日米修好通常条約の批准書交
 換のため、アメリカ合衆国へ派遣されているが、
  船舶法(せんぱくほう、明治32年3月8日法律第46号)
  「日本船舶ハ法令ノ定ムル所ニ従ヒ日本ノ国旗ヲ掲ケ
 且其名称、船籍港、番号、総トン数、喫水ノ尺度其他ノ
 事項ヲ標示スルコトヲ要ス」
  「日本船舶ハ法令ニ別段ノ定アル場合ヲ除ク外船舶国
 籍証書又ハ仮船舶国籍証書ヲ請受ケタル後ニ非サレハ日
 本ノ国旗ヲ掲ケ又ハ之ヲ航行セシムルコトヲ得ス」
  また、船舶法施行規則の、第五章 国旗及船舶ノ表示
  「第四十三条 船舶ハ左ノ場合ニ於テ国旗ヲ後部ニ掲
 クヘシ」
  また、因みに、
  戦後のアメリカ軍などのGHQの・・、占領軍最高司令=
 ダグラス・マッカーサー元帥が、
  新憲法の内容から「平和を求める国家」に最もふさわ
 しい国旗は、「日の丸」であると、一方的に定義した。
  そして、その平和を求める象徴として国旗「日の丸」
 を、新憲法の施行日に、三権の長である「国会」「首相
 官邸」「最高裁判所」に、
  今後、毎日、掲揚せよと吉田茂首相に命令した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive