(増補版)351E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年2月〜1878年3月)

題:(増補版)351E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年2月〜1878年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1878年2月14日、廣田弘毅ひろたこうき)が、福岡に生ま
 れた。
  戦争の回避に全力を尽くした人・・
  しかし、アメリカに主導され、戦後に開設された東京
 裁判で、「A級戦犯」にされ、死刑に処せられた。
  絞首刑だった。
  廣田は、軍人ではなかった。
  理由は、東アジア、太平洋、インド洋などを支配しよ
 うと、共同謀議を一貫してした・・だった。
  オランダの判事が「廣田は軍人ではなく、文官政府は
 軍部に対しほとんど無力なのだ」という弁護を言った。
  そして、また、「その限られた枠の中で廣田は、十分
 努力していた」と弁護した。
  そして、何と、キーナン首席検事でさえ驚き・・、
  その判決に対し・・
  「なんという馬鹿げた判決なのだ。
  絞首刑は不当だ。
  どんな重い刑罰を考えても、終身刑までではないか」
 ・・と言った。
  非人道的な東京裁判だった。
  戦勝国の無反省の中で、相手ばかりに非を求める、
  そして、自分勝手な判断によって、吊るし首が横行し
 た西部劇の乱暴狼藉の様な世界が、戦後のこの時に、ま
 かり通っていた。
  裁くべき法のない中で、無理に裁く『演技』をした。
  興奮し、上気した中で、常識の世界ではまったくない
 リンチ(私刑)がまかり通っていた。
  ひどいことをするものだ・・、
1878年2月、春陽堂(しゅんようどう)書店の創業(文芸書
 出版、春陽堂文庫などを刊行)
  神田和泉町での、本の小売商売に始まる。
  岐阜県出身の創業者の和田篤太郎は、西南の役から帰
 還した後に、本を背負っての行商を初め、
  やがて、芝・新桜田町に小さな書店を開き、
  1882年(明治15年)頃から出版に手を伸ばす。
  当初は、開化期の実用本や明治合巻本、滝沢馬琴や鶴
 屋南北の復刊などへと手を広げ、
  1884年明治17年)、京橋区南伝馬町に移転し、
  明治期の文学出版をリードするようになる。
  大正期にかけて、夏目漱石芥川龍之介などの文豪の
 作品を出版し、
  明治30年代から大正にかけては、『中央文学』や『新
 小説』などの定期雑誌も刊行した。
  幸田露伴森鴎外ら多くの文壇人に頁を提供した。
  種田山頭火、尾崎放哉、金子みすゞなど、詩歌関連書
 も発行している。
1878年3月6日、大久保利通が、一般殖産の建議をする。
  大久保は、1874年5月に、「殖産興業に関する建議書」
 を提出し、
  また、この時・1878年3月には、「一般殖産及華士族授
 産ノ儀ニ付伺」を提出した。
  この基本方針実現の財政計画として、参議兼大蔵卿の
 大隈重信は、「内国債募集ノ儀」につき上申を行った。
  積極財政を前提とした殖産興業政策が、ようやく実現
 へ、大きく発進しはじめた。
  そして、同年・1878年5月1日、「起業公債証書発行条
 例」が発布された。
  募集総額1,250万円(募集実額1,000万円)、年利6分、
 元金は2年据置、3年目より23カ年間にわたり抽籤償還。
  取扱事務は、国立第一銀行、三井銀行に委託し、
  政府は、新たに「起業基金部」を設けてその処置を行
 った。
  起業公債の公募は、全般的な財政散超と改正国立銀行
 の簇生(そうせい、群がって生えること)という金融状
 況の軟調に支えられて、
  予定額の2倍以上の応募を見るなど、順調に消化されて
 行った。
  公債資金は、大久保=大隈建議に言うところに遵(し
 たが)い、
  一半は、交通運輸機構の整備を中心とする社会資本の
 充実にあてられ、
  他の一半は、士族授産のための勧業資金の貸付にあて
 られた。
  因みに、大久保は、西南戦争において、西郷の死亡の
 報せを聞くと号泣した。
  そして、時々、鴨居に頭をぶつけながらも
  家の中をグルグル歩き回って(この際、「おはんの死
 と共に、新しか日本が生まれる。強か日本が・・」と呟
 いたという。
  また、西南戦争終了後に、「自分ほど西郷を知ってい
 る者はいない」と言って、西郷の伝記の執筆を重野安繹
 に頼んでいたりしていた。
  また、大久保が暗殺された時に、生前の西郷から送ら
 れた手紙を持っていたと高島鞆之助(たかしまもとのす
 け、西南戦争に別働第1旅団司令長官として出征、その後
 熊本鎮台司令長官)は語っている。
1878年3月11日、鉄道局が、下等客車内での広告掲示を許可
 した。初の車内広告。
1878年3月12日、東京商法會議所の設立
  東京商工会議所の設立認可。
  日本における商工会議所の源流は、鎌倉時代の「座」
 や、江戸時代の「株仲間」といった我が国古来の制度に
 さかのぼる。
  その後、「江戸町会所」「東京営繕会議所」「東京会
 議所」の過程を経て、
  欧米先進諸国の「商業会議所」の組織機構を取り入れ
 ながら、
  商工会議所の基礎を築いた。
  制度の誕生は、明治維新後、日本の経済社会が資本主
 義制度へ移行して行く中で、時代の要請に基づいた。
  明治政府は、欧米諸国に遅れた国力を増進するため、
 富国強兵、殖産興業、文明開化を国策の中心に掲げた。
  その中で、外国貿易振興のための商工業者の機関を必
 要とした。
  一方、自主独立や殖産興業を阻む不平等条約改正の取
 組みの中で、日本に、「商工業の世論を結集する代表機
 関がなく、世論を論拠とした明治政府の主張が虚構とな
 る恐れ」を感じた。
  そこで、伊藤博文大隈重信が、渋沢栄一に商工業者
 の世論機関の設立を働きかけた。
  これらの背景から、1878年明治11年)3月、現在の商
 工会議所の前身である東京商法会議所が設立された。
1878年3月14日、東京上野博物館の建設が起工した。
  1877年(明治10年)、上野の寛永寺本坊跡地(後に東
 京国立博物館の敷地となる)で、第1回内国勧業博覧会
 開催された。
  これは当時の「富国強兵・殖産興業」の国策に沿って
 開催されたもので、
  この博覧会の展示館の1つである「美術館」は、日本で
 最初に「美術館」と称した建物。
  この「美術館」は、博覧会終了後も使用することを前
 提として煉瓦造で建設された。
  初代館長の町田久成は、内山下町の博物館は手狭であ
 り、火災等の危険も大きいとして、博物館の上野公園へ
 の移転を陳情していたが、
  この1877年、太政官より上野移転の裁可を得た。
  コンドル設計の旧東京帝室博物館。
1878年3月17日、神田の大火
  東京・神田黒門町より出火。
  焼失家屋4562戸。
1878年3月24日、『団々珍聞』、黒田清隆の醜聞を風刺して
 発行停止になる。
1878年3月25日、日本で初めて電燈(アーク灯)が点灯した。
  日本初の電灯。
  電信事業がスタートしたのを記念して、東京・虎ノ門
 の工部大学校(現:東大工学部)の講堂で開業記念式典
 が行われた。
  その席上50個のフランス製アーク灯(弧光燈と呼ばれ
 た)が15分間点灯された。
  公式の席上で、電気点灯が行われたのは日本で初めて。
1878年3月25日、電信中央局が開業
  全国の電信局の元締めとなる電信中央局が、東京木挽
 町に新築された。
  開設の祝賀会が、東京虎ノ門の工部大学校講堂で、夕
 方から開催された。
  参会者は、大臣や参議をはじめとする高官、外国公使
 など150人に、
  英国人教師・エアトンは、伊藤博文工部卿から会場を
 電気灯で照らすよう命じられた。
  50個のグローブ電池を用い講堂の天井に吊るされたア
 ーク灯を点灯するため、助手の電信科学生藤岡市助らと
 調整した。
  午後6時、エアトンの合図で、目もくらむような光が
 周囲にほとばしった。
  講堂内をくまなく照らし出した。
  満場の人は「不夜城に遊ぶ思い」をした。
  この時のアーク灯は、1855年安政2年)に、フラン
 スで発明されたデュボスク式アーク灯だった。
  電源は、1839年天保10年)に、英国人のグローブが
 発明したグローブ電池だった。
1878年3月25日、電報の開始
  東京・木挽町十丁目に、工部省電信中央局が開業した。
  全国主要都市、および、国際電報の受け付けが開始さ
 れ、日本の電信事業が本格的にスタートした。
1878年3月29日、印刷局において、製紙の原料に初めて稲藁
 を用いて成功した。
  印刷局抄紙部が、初めて、稲わらを原料としてパルプ
 を試製する。
  紙幣寮抄紙部を印刷局抄紙部と改称し、初代局長・得
 能良介(とくのうりょうすけ)が、紙幣用紙を三椏(み
 つまた、ジンチョウゲミツマタ属)に確定した。
  また、擬革紙製造にも着手した。
  印刷特性・明瞭な透かしなど
  パリ万博出品の局紙は好評だった。
  模造紙のもととなる。
  稲科の原料は、墨・インクののりがよい「稲わらパル
 プ」。
  1878年明治11年)のパリ万国博覧会に、大蔵省印刷
 局が三椏(みつまた)を主原料とした高級特製和紙であ
 る「局紙」(きょくし)を出品。
  なお、局紙は、溜め漉き法により、1877年(明治10年
 に誕生し、その名称は、大蔵省印刷局で作った紙の意か
 ら来ている。
  局紙は、ジャパニーズ・ベラムと名付けられ、おもに
 ヨーロッパへ輸出されるようになったが、その品質は美
 しく、丈夫で、光沢があり、緻密な印刷ができると好評
 だった。
  しかし、高価格だった。
  そのため、1898年(明治31年)に、オーストリアの製
 紙会社が、亜硫酸パルプの原料で、機械抄きの、局紙に
 似せた風合の紙(洋紙)を造り、
  シミリー・ジャパニーズ・ベラム(日本の局紙の模造
 品)という名前で売り出した。
  日本の局紙が「模造」された。
 ヨーロッパ製のこの「模造紙」は、局紙とは比較になら
 ないくらい品質は劣っていた。
  しかし、安価なうえに、印刷、筆記、包装など広範な
 用途に使えた・・ので、
  逆に、日本に輸入され、評判は良かった。
  1913年(大正2年)に、九州製紙(株)がそれを真似た
 うえ、さらに改良し、亜硫酸パルプを使いスーパーカレ
 ンダー処理を行って、光沢があり、表面が平滑な、紙の
 国産化を行った。
  九州製紙が開発した技術で、他のメーカーも次々生産
 に参加し、ヨーロッパの模造紙を駆逐して行く。
  これが、今日のわが国での「模造紙」の始まり。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
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