水俣病・・石牟礼道子さんは、やはり、国が一番悪いのだと言われました。原因者のチッソが、一番、悪いけど・・   解決までに、なぜ、この様に時間を要したのか?

題:水俣病・・石牟礼道子さんは、やはり、国が一番悪いのだと言われました。原因者のチッソが、一番、悪いけど・・
  解決までに、なぜ、この様に時間を要したのか?
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  会社、政治、行政、社会の面で、原因者の会社であるチッソが一番悪い・・だが・・
  だが、最後の砦として『国の民を守るべき国』、その国が一番悪い。
  最終的に全面的に責任を負うべき、しっかりしていて欲しい国(政治)がその責任を果たしていない。
  その重大さを知っていながら『逃げた』・・この事が一番悪い。
  次に来るのが、国の行政を司る官僚と熊本県などの地方行政。
  そして、原因者・チッソの公害問題の絶大なる大きさを過小評価し、会社とまったく無関係の方々へ被害を与え、その被害と引き換えに会社の利益を生み、被害者の命と置き換えた行為・・
  そして次に来るのが、この公害について知識のなかった社会、また、知識のある人が正義の声を上げなかった社会と見る。
  1941年にすでにチッソの問題は発生している。
  1956年の水俣病の公式確認の実に15年も前に『問題はすでに発生していた』のである。
  何もなかったの様に看過されたのである。
  時を要した第一は、この政治・行政・会社・社会のすべての黙過である。
  そして、1952年は魚が獲れなくなったと大騒ぎをし・・1953年には猫がよく狂い死にして、猫おどり病という言葉が流行る社会となった。
  患者が大量に発生し始め、そして翌年・1954年から水俣病患者の方々が死に始める。
  そして、やっと1956年になってやっと・・最初の水俣病の方がやっと公式認定となって世の中は目を覚ます。
  しかし、完全にまだ目を覚ましてはない。
  しかし、この程度になるまでに、なんだかんだとここまで10年以上も経ている。
  すでに、チッソは、1932年にアセトアルデヒドを生産していたが、チッソアセトアルデヒドを大量生産開始してからでも、9年も経た後のことである。
  有機水銀中毒と関連すると知らないことが半分あるにせよ。徹底的に調べようとしない。
  そして、この頃、毎年、立て続けにチッソは、水俣病と同じ問題で問題を起こす。
  1942年に、すでに、チッソは非を認めている。そして、補償金まで支払っている・・が・・翌年・1943年、工場排水が問題だという事をチッソは否定している。
  そして、自粛していた生産を、1946年、チッソは製造再開させている。
  そして、その後に、さらに大きな問題へ発展させている。
  この様なチッソと共に、政治・行政・社会は、この大きな問題を見過ごすことをしていたのである。
  政治や行政は、特に、あまりにも大きな問題を恐れおののいたのか、問題を小さくしようと「もがいたり」、問題を「胡麻化して収めてしまおう」という小賢(こざ)しいやり方に終始する。
  国や県、そして、その大きさを無視したチッソが共に悪人。
  根本から解決しようという態度を最初から見せていればこんなにこじれることはなかったのに、国も熊本県も誤魔化そう誤魔化そうと恥ずかしい態度をとり続けた。
  1955年、5歳の女の子が「水俣病の公式認定」を受けた後も、この誤魔化そうという態度でこじれにこじれた。
  ここから患者の方々は、仕方なく司法に訴える手に出る。
  それに逆らって、国は、1957年9月に、厚生省、熊本県の照会に対し「水俣湾内特定地域の魚介類のすべてが有毒化しているという明らかな根拠が認められないので、水俣湾内特定地域において捕獲された魚介類のすべてに対し、食品衛生法4条2号を適用することはできないものと考える」旨回答している。