(増補版)378E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年12月〜1882年12月)

題:(増補版)378E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年12月〜1882年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1882年12月2日、巡査が、棒を廃して洋劔を帯びる。
  明治最初期には、邏卒(らそつ、警察官)は3尺の手棒
 を携行しており、帯刀は禁止されていた。
  その後、1874年の太政官達によって1等巡査にも帯刀が
 解禁されており、この時点で警部以上は既に帯刀してい
 たものと考えられる。
  この時点では、区内を巡行するときに限られていたが、
 その後、適用範囲が、順次、拡大され、
  1882年12月2日の太政官達第63号をもって、全国一斉に
 帯刀が開始された。
  基本的にはサーベルが用いられていたが、
  幹部などは、刀身が日本刀の場合もあり、外装も高級
 であった。
1882年12月3日、幼学綱要(ようがくこうよう)
  天皇陛下が、「幼学綱要」を地方長官らに下付された。
  幼学綱要は、幼童のための欽定教訓書で、 1882年に、
 宮内省より出版された(7巻)。
  1879年、明治天皇陛下の勅命を奉じて、元田永孚(も
 とだながさね、熊本藩士、儒学者、男爵)が中心となっ
 て編纂して来た。
  1881年には、成稿を得たが、なお修訂を重ねていた。
  古典からの引用と、中国、および、日本の例話をあげ
 ながら、孝行、忠節をはじめ、和順(わじゅん、気質が
 穏やか)、友愛、信義、勤学、立志、誠実、仁慈、礼譲
 (れいじょう、礼儀正しくへりくだった態度をとること)、
 倹素(けんそ、質素でむだな出費をしない)など 20徳目
 を掲げて、国民の守るべき道徳を説いている。
1882年12月7日、岩倉具視が、府県会が政府に批判的だとし」
 て中止するよう意見書を提出した。
  1871年廃藩置県以後、各府県で府県会・民会・区戸
 長会などの名目で、地域代表による諮問機関が設置され
 るようになっていたが、
  1878年明治11年)には、府県会規則を公布して、各
 府県に民選の地方議会である府県会を設置していた。
  府県会(ふけんかい)は、今日の地方議会の前身であ
 る府県の議会(府会・県会)のことで、
  府県会は、帝国議会よりも先に設置されていた(帝国
 議会の開設は、この12年後の1890年)
  そして、地方長官、あるいは内務卿が、国家の安寧を
 害し、法律規則を犯すと認めた場合には、会議の中止・
 解散・閉会を命じることが可能であった。
  この様な中で、自由民権運動が高まって行くとともに、
 各地で、県令と府県会の衝突が相次いだ。
  そこで、1882年に、右大臣・岩倉具視は、府県会中止
 の意見書を提出した。
  しかし、政府内部では、府県会の事実上の廃止を求め
 るこの岩倉の考えに同調する動きは少なかった。
  府県会に対し、政府の統制を強化することで対応して
 行った。
  因みに、府県会規則の選挙権は、年間地租5円以上納付
 の満20歳以上男子で、
  被選挙権は、同10円以上納付の25歳以上の男子だった。
1882年12月12日、請願規則を布告する。
  請願権は、国民の自己の権利の確保を求める手段とし
 て大切であるが・・、
  請願制度は、明治維新後活発に行われた「建白書」を
 1882年に、「請願規則」として、当時の政府が発布し、
 はじめて請願という文言用られ、権利として確認された
 のは大日本帝国憲法においてであった。
  自由民権運動が高揚して、1877年に立志社ができ、
  1880年に、国会期成同盟が、国会開設を要求する建白
 書を提出したり(政府はこれを却下)・・、
  この様な情勢に対応するために、1880年に、太政官
 告第53号を布告し、「建白」と定義して、管轄庁を経
 由して元老院に提出することを定めた。
  そして、翌年の1881年に、「建白書取扱順序」を定め
 た。
  そして、政府は、1882年に、請願規則を発布した。
1882年12月16日、郵便条例の制定
  郵便条例の制定(翌年・1883年1月1日、施行)により、
 第3種の規定が設けられ、雑誌(定期刊行物)は他より
 低料金となった。
  江戸時代から、公用の書状を送達する飛脚制度があっ
 たが、これは、幕府や一部大名の事務連絡用であり、一
 般の用に供されるものではなかった。
  明治政府は、欧米列強からの立ち遅れを克服すべく、
 近代国家、近代産業にとって欠かすことのできない交通・
 通信制度の整備に力を注いだ。
  1870年5月に、駅逓権正(ごんのかみ)兼任となった前
 島密は、公文書などの巨額の運送費を飛脚屋に支払って
 いた実情に目を向け、
  外国のように、官営の郵便制度を創設すべく検討を始
 めた。
  そこで、前島による創業の建議により、そして、鉄道
 建設資金借款要務のため、彼のイギリス派遣後は、時の
 駅逓権正・杉浦譲の準備作業のもと、1871年3月1日(新
 暦4月20日)、東京〜西京(京都)〜大阪の間に「新式郵
 便」の制度が発足した。
  これが日本おける国営事業としての郵便事業の始まり
 だった。
  1840年のイギリスの新式郵便創始から31年後だった。
  1875年に、外国郵便の取扱いが開始された。
  小包郵便は,国内に先立って外国との間で取扱われた。
  日本に設置されていたイギリスの郵便局の閉鎖の条件
 として、その取扱いの存続が求められて、1880年に、香
 港との間で外国小包の取扱いが開始された。
  (因みに、国内の小包郵便の開設は、その17年後の1892
 年だった)。
  当初は、制度や規則の改廃が、毎年繰り返されたが、
  1882年に、制度的にも固まってきたとして、初めて郵
 便条例が制定された。
  これによって、郵便事業は、法律的に体系化されると
 ころとなり、翌年の1883年より施行された。
1882年12月29日、村田経芳が、銃の発明で叙勲された。
  陸軍少将・村田経芳(むらたつねよし)は、日本陸軍
 が初めて採用した国産銃「村田銃」の発明の功により、
 勲三等に叙せられた。
1882年12月30日、軍備拡張を陸海軍両省に通達
  壬午軍乱を契機に、日本は、それまでの軍拡抑制の路
 線から転換した。
  清国(中国)の「定遠」「鎮遠」に対抗して軍備を拡
 張する方針を決定した。
  また、この年、それまでの治安維持軍事力は、対外侵
 攻のための軍事力として再編強化をして行くことになっ
 た。
  陸軍力の基幹である歩兵連隊は、1878年には15個であ
 ったが、1884年に3個、1885年に4個、1886年に5個、1887
 年には1個がつぎつぎ増設され、28個連隊になった。
1882年12月31日、陸奥宗光が、禁固5年の刑を終わり出獄を
 許された(特赦?)
  陸奥は、西郷隆盛を中心とする薩摩閥を強く批判して
 いた。
  さらに、陸奥は、彼らが起こした西南戦争を非難し、
 西郷を、歴史的に中国で謀反人として名高い安録山と名
 指しした。
  西郷の起こした西南戦争を非難しながら、皮肉なこと
 に、陸奥は、その西南戦争時に、旧土佐藩のグループに
 協力したので、結局、自分自身も政府に対して反乱を起
 こした謀反人の1人となり入獄することとなった。
1882年12月、東本願寺が、貫練教校を真宗大学寮と改称し
 た(後の大谷大学
  1868年3月28日に、「神仏判然令」が布達された。
  これによって「廃仏毀釈」が起きた。
  しかし、この反仏教的な処置に対しての農民を中心と
 した強い抗議運動があり、
  明治政府は、これに苦慮し、解決策を見いだすことを
 模索していた。
  また、浄土宗に属する増上寺の福田行誡や、真言宗
 釈雲照らは、諸宗同徳会盟などの活動を通して仏教擁護
 の運動を展開した。
  明治政府は、1872年に設置した「教部省」に、神社や
 寺院の建設や廃止の権限を置き、管理責任を与えた。
  ここに、教導職として、神主や僧侶も任用された。
  苦しい活動はあったが、運動は実を結び、宗教の自由
 を求める声は徐々に大きくなって行った。
  1875年11月に至り、明治政府は「信教の自由保障の口
 達」で仏教徒の要求を認め、信教の自由を保障した。
  1881年には、西本願寺が普通教校(本派普通校)を創設
 した。
  この学校は、当時の仏教界として画期的な一面を持っ
 ていた。
  また、僧侶のみを教育するのではなく、僧俗共学を実
 施した。
  更に、この西本願寺の普通教校には、学生を中心とし
 た自主的な修養団体があった。
  東本願寺では、1879年に、貫練場と称されていた教育
 機関が貫練教校と改称され、1896年には、真宗大学へと
 発展して行った。
  そして、真宗大谷大学と改称される。
1882年、アメリカが、中国人の移民を禁止した。
  この後、日本人が移民を始めるが、この中国人の後に、
 日本人が移民を始めたということが不運だった。
  日本人に対しても、インディアンの方々や中国人に対
 するのと同様に、『非白人』に関する劣った種の人間と
 の意識が移民先のアメリカに根強くあった。
  キリスト教に感化された意識だった。
  この意識が、アメリカの指導者階級にまで及んでいた。
  ジョン・ダワーの言葉:
  「彼らは敏感な白人の様には痛みを感じず、彼らによ
 って生命は安価だ」と言うのだった。
1882年9月4日、ニューヨークに初めて電燈が点火した。
  そして、この年、ニューヨークに、世界初の大規模な
 火力発電所が建設された。
  そして、白熱電球の発明により、照明は、石油やガス
 を使ったランプから、現在も利用されている電灯へと変
 わっていった。
  1879年には、エジソンが、白熱電球を45時間点灯させ
 続けることに成功していた。
  1882年9月に、エジソンは、ニューヨーク中央発電所
 200馬力ジャンボ発電機で、電力の供給を開始した。
  この時の電灯数は、わずか400個であったが、
  中央発電所はだんだんと消費者を増やし、1ヵ月後には、
 1万個の電灯に送電を行なうようになった。
  この時、エジソンは、直流によって電力供給を考えて
 いた。
  1890年頃に、これが問題となった時、エジソンは、照
 明が安定することや、モーターの起動力が大きいという
 理由で直流を主張した。
  しかし、エジソンの部下であったニコラ・テスラや、
 フェランティたちは、電圧を変えて効率よく電力を送れ
 るなどの点から、交流を主張した。
  そして、テスラは、1887年に、誘導電動機を発明し、
 交流技術を完成させ、
  そして、1896年には、ナイアガラ水力発電所を成功に
 導いた。
  この成功で、交流の優位が決定的となって、エジソン
 の主張は退けられ敗北した。
  エジソンの進めた直流による送電システムは、交流電
 力システムの発展とともに消えていった。
18829月、イギリスのエジプト支配が完了。
  イギリスの横暴、エジプトを保護国とする。
  イギリスは、エジプトにアラビ・パシャの民族運動が
 起き、エジプト国内の政情が不安になると、それを口実
 にして、アレキサンドリアを砲撃した。
  そして、さらに、これを端緒にしてエジプトを侵略し、
 イギリスの目的通りに武力で行動した。
  イギリスの帝国主義国家の行動だった。
  エジプトをイギリスは保護国化した。
  そして、スーダンへと侵略して行く。
  イギリスは、1881年に、エジプトにウラービーの反乱
 が勃発すると、イギリスは軍事介入し、
  1882年に至り、アレクサンドリアに上陸して反乱軍に
 砲撃を加え、鎮圧した。
  これによってエジプトは、イギリス軍の単独軍事占領
 下に置かれ、事実上の保護国とされることとなった。
  1904年には、英仏協商が締結され、
  イギリスは、フランスのモロッコ支配を認める代わり
 に、フランスにイギリスのエジプト支配を認めさせ、帝
 国主義諸国による植民地分割が行われた。
  この様にして、エジプトは、1882年に、イギリス領に
 実質的に組み組まれたが、形式的にはオスマン帝国の宗
 主権が続いていた。
  しかし、第一次世界大戦が、1914年に勃発し、オスマ
 ン帝国が、ドイツ・オーストリア側に参戦したため、
  イギリスは、正式にエジプトを保護国とすることをオ
 スマン帝国に通告した。
  第一次世界大戦では、エジプトのカイロは、イギリス
 の対オスマン帝国とのアラブ各地での戦闘の拠点とされ
 た。
  第一次世界大戦開戦に伴い、1914年に、正式に保護国
 とした。
  大戦後の民族運動の高揚をうけ、イギリスは、1922年
 に、エジプト王国の独立を認めたが、スエズ運河地帯で
 の駐兵権などは継続させた。
1882年5月20日、独墺伊、三国同盟(〜1915年)
  戦争ばかりしているヨーロッパ・キリスト教国。
  ドイツ、オ−ストリア・ハンガリ−二重帝国、イタリ
 アの間で三国同盟が成立した。
  これは、秘密軍事防御同盟で、英仏露三国協商と対立
 して、第1次世界大戦の一方の陣営を形成した。
  1870年〜1871年の独仏戦争で、フランスに勝って成立
 したドイツ帝国では、宰相・ビスマルクの下、フランス
 を孤立化させて、対独復讐を断念させる目的で、欧州各
 国との同盟外交を推進した。
  その一環として、1882年、オーストリア、イタリアと
 三国同盟を締結した。
  その後、ベルリン会議 (アフリカ分割)などにおける
 いざこざ(俺の方が分け前が少ない・・という餓鬼の戦
 い)対立により・・ロシア、イギリスとの関係が悪化し、
 ビスマルク外交は破綻した。
  しかし、三国同盟は維持され続け、1907年に成立した
 イギリス、フランス、ロシアの三国協商と角を突き合わ
 せて対抗した。
  1914年に始まった第一次世界大戦では、ドイツ、オー
 ストリアが同盟国を形成して『協商3国』などによる連合
 国と戦った。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive