水俣病・・当時、有機水銀の様な毒は、胎盤を通して胎児には伝わらないと思われていた。

  題:水俣病・・当時、有機水銀の様な毒は、胎盤を通して胎児には伝わらないと思われていた。
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  しかし、水俣ではどう見ても水俣病だと思える胎児が、有機水銀中毒の水俣病の胎児が・・次々と生まれていた。
  そして、政府の態度は、さらに、セレン、マンガンの他、タリウムが疑われると「間違っていること」を言う・・
  厚生省は、他への原因を擦(なす)り付けようという発表をしている。
 そして、チッソは、1958年こっそり排水口を変更するという小賢しいことをした。
  これは、結果的に水俣病の原因を八代海という広い海へ拡大することとなる・・チッソは広い海域だから薄まって問題とならないのだろうという考えで、この様な廃水口の変更を小賢しく行ったのだろうが・・結果は逆だった。
  さらに被害が拡大する原因をチッソは行ったのだった。
  1958年、水質二法ができていて、チッソの操業停止をさせることが可能だった・・が、しかし、行政はこれを怠った。
  水産省は、チッソへの操業一時停止の要請をした・・が、チッソは拒否した・・
  通産省は、何もやろうとさえしなかった・・悪者だった・・何かをやろうという態度さえ見せなかった。
  1959年8月、チッソは、真実を翻(ひるがえ)す発言さえした・・この年、チッソ有機水銀が原因ではないと間違った反論をした・・それ故、チッソは、浄化装置の設置を急ぐ態度は見せなかった。
  すでに、原因が分かっていた水俣漁協や鮮魚小売り組合は怒った(チッソの廃水が問題だと、もう社会は確信していた)。
  チッソにデモをした・・浄化装置の完備を要求した・・猫実験で猫が発症し、排水が原因と証明されていた。
  そして、これに地方行政が逆らった・・多額納税者のチッソの肩を持った・・地方行政がチッソの味方をした・・1959年11月、水俣市長・市議45人らが、チッソをつぶすと水俣市が発展しなくなる・・チッソを守ってくれと言った。
  司法の場に、仕方なく被害者の方々は訴えたが、卑劣にも、この司法の場でも、まだ誤魔化そう誤魔化そうとした。
  それ故、だから、裁判の提訴は続いた・・あらゆる面から提訴が出され、続き、争われた。
  卑劣なことに・・初め、金を払って小さな話にして収めてしまおうという手に出た・・恥ずかしい話だ。
  しかし、一家の大黒柱を失い、死なせ、また、愛する子供たちを肢体不自由児にされ・・それで収まる訳はない。
  誠実さのない状況・・1969年、第一次訴訟が提訴されたが、その様な状況だった。
  ここ、提訴まで、1955年に5歳の女の子が公式の水俣病の認定が起きてから14年も経っていた。
  この段階でも、誠実に、徹底的に、真実に従って解決しようという態度がないため・・根本的に解決しようとの態度がないが故、やむなく、裁判の提訴は続いた。
  1973年、第二次訴訟の提訴。
  まだ、この段階でもしらばっくれている・・ので・・1980年に第三次訴訟の提訴・・そして、1982年に関西訴訟の提訴と訴訟が林立する。
  1990年には、裁判所の和解勧告を国が拒否している・・国が拒否しているのである。
  2001年には国連も動き出した。
  2004年に、関西訴訟の最高裁判決が出た・・そして、やっと、2005年、国が水俣病の新対策を発表した。
  しかし、まだ不十分だった・・司法判断で、やっと、国も責任を感じ、根本解決の姿勢ができたのが・・2009年だった・・
  2009年の水俣病特別措置法の成立だった・・1956年の5歳の女の子の初めての認定から53年も経ていた。
  (補)2009年(平成21年)7月15日、水俣病特別措置法(水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法)成立、公布(施行日:2022年・令和4年・4月1日)
  その法律の前文・・水俣湾及び水俣川並びに阿賀野川(あがのがわ)に排出されたメチル水銀により発生した水俣病は、八代海の沿岸地域及び阿賀野川(国のだらだら態度に新潟県阿賀野川沿岸でも第二の水俣病が発生していた)の下流地域において、甚大な健康被害と環境汚染をもたらすとともに、長年にわたり地域社会に深刻な影響を及ぼし続けた。
  水俣病が、今日においても未曾有の公害とされ、我が国における公害問題の原点とされるゆえんである(1890年代に、すでに、足尾銅山鉱毒事件がありますよ)。
  水俣病の被害に関しては、公害健康被害の補償等に関する法律の認定を受けた方々に対し補償が行われてきたが、水俣病の被害者が多大な苦痛を強いられるとともに、水俣病の被害についての無理解が生まれ(国の態度が生まれさせた)、平穏な地域社会に不幸な亀裂がもたらされた。
  平成十六年(2004年)のいわゆる関西訴訟最高裁判所判決において、国及び熊本県が長期間にわたって適切な対応をなすことができず、水俣病の被害の拡大を防止できなかったことについて責任を認められたところであり、政府としてその責任を認め(司法の判断を待たず、もっと早く認識しなければならなかったんだよ)、おわびをしなければならない。
  これまで水俣病問題については、平成七年(1995年)の政治解決等により紛争の解決が図られてきたところであるが、平成十六年(2004年)のいわゆる関西訴訟最高裁判所判決を機に、新たに水俣病問題をめぐって多くの方々が救済を求めており、その解決には、長期間を要することが見込まれている。
  こうした事態をこのまま看過することはできず、公害健康被害の補償等に関する法律に基づく判断条件を満たさないものの救済を必要とする方々を水俣病被害者として受け止め、その救済を図ることとする。
  これにより、地域における紛争を終結させ、水俣病問題の最終解決を図り、環境を守り、安心して暮らしていける社会を実現すべく、この法律を制定する。以上
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  ここまで国に、自覚させ、確認させた、患者の方々および石牟礼さん方などの努力・苦労・苦痛は非常に大きかった。