(増補版)358E1/3:気になった事柄を集めた年表(1879年8月〜1879年12月)

題:(増補版)358E1/3:気になった事柄を集めた年表(1879年8月〜1879年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1879年8月、東京大学医学部成る(氷川清話)
1879年8月、勤倹の詔下る(氷川清話)
1879年8月、流行:ウサギを弄ぶこと再び流行
1879年9月15日、製茶共進会を、初めて横浜に開催(産業一
 種目の共進会はこれを端となす)
  明治前期における政府の殖産興業政策の一つ。
  内国勧業博覧会と並ぶ明治政府の勧業政策。
  明治政府の工業化政策は、1873年内務省設置以後、
 大きく変化した。
  財政難や貿易収支の悪化によって、工部省の直営事業
 に対する批判が高まり、『民業の育成』が緊急の課題と
 して強調されるようになった。
  試験場・学校の経営、民業助成などに当たる勧業寮(1877
 年に勧農局と改称)や、各種博覧会事務局が、内務省内に
 設けられた。
  共進会は、産業の振興を図るため、産物や製品を集め
 て展覧し、その優劣を品評する会。
  明治初年代より各地で開催された。
  各地方の代表的な物産や技術を一堂に集め、一般の観
 覧に供するとともに、生産者、販売者に優劣を競わせて
 品質改良、産業振興を図らせた。
  1879年9月、横浜で開かれた製茶共進会と、
  1879年11月、生糸繭共進会が最初で、
  明治期に殖産興業政策の一環として生糸、茶、織物な
 どを中心に各地で催された。
  特に、輸出奨励の観点から生糸類と製茶、また、輸入
 防遏(ぼうあつ、侵入や拡大などを、防ぎとめること)の
 観点から綿、砂糖、織物の共進会が重要視された。
1879年9月29日、教育令(きょういくれい)の制定
  文部卿・寺島宗則が、教育令を布告した。
  この時、学制を廃止し、公布された学校制度全般に関
 する基本法令である教育令(明治12年太政官布告40号)
 が制定された。。
  全文が47ヵ条で、学制に比べて簡略であり、また、教
 育を地方の管理にゆだねた。
  1880年12月、太政官布告59号をもって改正し (通称、
 改正教育令) 、地方官の権限を強め、また、就学義務な
 どを強化した。
1879年10月1日、長崎商法会議所を築町に創立
  初代会頭に、松田源五郎が就任した。
1879年、電気通信連合に加盟した。
  電気通信連合は、国際電気通信連合(略称ITU)の前身
 で、
  このITUは、電気通信分野での国連専門機関の一つ。
  本部は、ジュネーブ
  加盟国数は、193か国(2012年)。
  通信の設備と運用の標準化、無線通信業務別の周波数
 割当、衛星軌道割当、通信の世界的拡充の計画と調整が
 任務。
  現存の国際組織のなかでもっとも古く、
  1865年に、ヨーロッパの20か国が設立した国際電信連
 合(万国電信連合。日本は1879年に加盟)を起源とし、
  その後の国際無線電信連合を合体して、マドリード
 際電気通信条約(1932年作成、1934年発効。日本は原加
 盟国)により今日のITUの形となった。
1879年10月13日、川路利良(かわじとしよし)が没した。
  警察制度の創設者(45歳)。
  薩摩藩の城下士郷士足軽との間の与力の家柄に生
 れた。
  大久保利通の腹心として日本の警察制度の確立に努力
 し、西南戦争では陸軍少将として警察隊を率いて従軍し
 た。
  明治5年には、西郷隆盛の推挙もあり、各国警察制度視
 察のために渡欧をしていた。
  大久保利通のもとで、終始、警察権力の強化をはかる
 ことにつとめた。
1879年10月25日、目黒火薬製造所
  日本海軍の目黒火薬庫を白金火薬庫に移転し、目黒火
 薬庫の跡地に火薬製造所を建設する事にした。
  明治維新後、明治政府は、薩摩藩1863年に建設した
 敷根火薬製造所を海軍に移管し利用した。
  しかし、1877年3月10日の西南戦争の際に、西郷軍の手
 に渡るのを恐れて、政府自ら同製造所を焼き払ってしま
 った。
  このため、火薬をすべて輸入する事になるが、
  経済的な理由や、軍事上、兵器の国内生産が必要なこ
 とから、
  東京近辺に火薬製造所を設置することにした。
  当時、火薬製造は、水車で行ったので、水利と、製造
 した火薬の運搬に適した土地を探していた。
  江戸時代末に刊行された「武江年表」の、文久3年(
 1863年)9月の項の一節に・・、
  「同時二十六日昼、四半(よつはん)時頃、荏原郡
 黒在三田村、合薬(鉄炮に用ふる所の品なり)の製所に、
 過って火を発す。其響四、五里に聞えたり。即死・怪瑕
 の者七十余人といふ」
  幕府が三田村に建設した砲薬製造所の数回にわたる爆
 発の記録がある。
  安政4年(1857年)幕府は、軍事上の必要から三田村の
 新富士辺より一軒茶屋上、広尾水車道までの約4万坪の地
 域に、それまで千駄ヶ谷にあった焔硝蔵(えんしょうぐ
 ら、火薬庫)を移転し、
  さらに、中目黒村内の三田用水より上目黒村・中目黒
 村・下目黒村の田んぼへの分水口下に、砲薬調合用の水
 車場を建てる計画を打ち出した。
  村民らは、火薬の爆発を恐れたが逆らえず、その代わ
 りに用水の分水口を村の決めた所に作ること、地代金を
 支払うことを幕府に認めさせた。
  こうして目黒砲薬製造所がつくられた。
  明治政府になって、新政府は、国防と内乱鎮圧などに
 備え、兵器・火器の補強を図る必要があった。
  そのために、新たに火薬製造所の建設場所を捜してい
 た。
  そして、旧幕営砲薬製造所跡の目黒の三田村が候補地
 となった。
  三田村は、目黒川・三田用水・豊富な湧水など水利に
 恵まれ、茶屋坂上の高台から目黒川にかけての傾斜地が、
 火薬生産に必要な鉄製水車を回すのに適していた。
  1869年(明治12年)、田畑をつぶし、道路を開き、水
 路工事に反対する村民の抵抗をしりぞけて、三田用水に
 玉川上水をひき入れ、
  翌年の1870年に、東西1町16間、南北4町10間、面積
 2,000坪に及ぶ目黒火薬製造所が完成した。
  ドイツ製の設備を導入し、ドイツ人を製造技師に迎え、
  1885年(明治18年)、操業を開始した。
  そして、製造した火薬は、海軍や鉱山用に使われ、生
 産額もしだいに増加して行った。
1879年10月27日、徴兵令改正(免役条項を縮小、輜重輸卒
 を説く)
  (参考)輜重輸卒(しちょうゆそつ)旧日本陸軍で、
    輜重兵の監督のもとに輜重の輸送に従事した兵卒。
     のちに輜重特務兵と改称。
  (参考)兵卒(へいそつ)1 最下級の軍人。旧日本陸
    軍では兵長以下。 2 軍人。つわもの。軍兵。兵。
  (参考)輜重(しちょう)軍隊の糧食・被服・武器・
    弾薬など、輸送すべき軍需品の総称。
  (参考)輜重兵(しちょうへい)旧日本陸軍で、輜重
    の輸送を任務とした兵種の一。また、その兵士。
1879年10月28日、札幌測候所が国営移管。
  文部省所管となり、中央気象台札幌支台へ改称した。
1879年10月28日、水上警察署を東京に開設した。
  都道府県警察は、海、空を含む都道府県の区域全域に
 ついて治安維持の責務を担っているが、
  海、河川、湖沼等の水上において行われる警察業務を
 とくに水上警察と呼称し、警察庁地域課が指導調整して
 いる。
  水上警察制度は、1877年(明治10年)2月の河海警察規
 則の制定、および、東京警視本署(警視庁)の河海警察
 仮出張所の設置に始まり、
  同年・1877年8月、河海警察が水上警察と改称され、
  さらに、1879年10月、水上警察所が廃止され、水上警
 察署が設置されてその確立をみた。
  そして、現在に至っている。
1879年10月、自由民権期の政論雑誌の『嚶鳴雑誌(おうめ
 いざっし)』が創刊された(求友社)
  自由民権運動高揚とともにその言論の一舞台となり、
 月5回刊まで発展、部数も増加した。
  しかし、1883年5月10日に75号で終刊し、「東京輿論
 誌」と合併した。
1879年11月1日、横浜で、生糸の共進会が開催された。
1878年11月5日、共同競馬会が設立され、
  11月30日に、第1回共同競馬会が開催された。
  競馬の歴史・・
  1860年(万延元年)横浜本村(現在の元町商店街あた
 り)で日本初の洋式競馬(馬蹄形の馬場)が開催された。
  因みに、この年に、咸臨丸がアメリカへ出発した。
  1862年文久2年)10月1日〜2日、横浜居留地(現在の
 中華街あたり)にいた居留外国人のレクリエーションと
 して、現在の競馬の原型となる近代競馬が始まった。
  (環形馬場で正式に番組を決めて実施した)
  1865年(元治2年)横浜のイギリス第20連隊駐屯地で競
 馬が開催。
  1866年(慶応2年)横浜の根岸に、幕府の手によって
 「根岸競馬場」が竣工した。
  1867年(慶応3年)1月「根岸競馬場」で競馬開催。
  1869年(明治2年)神戸の生田神社東側の競馬場で居留
 外国人による競馬が開催
  1870年(明治3年)九段(靖国神社境内)で、最初の招
 魂社祭典競馬を開催
  1872年(明治5年)札幌神社で祭典競馬を開催(札幌競
 馬の発祥)
  1875年(明治8年)函館招魂社祭典競馬を開催、
  御所内の吹上御苑(円周馬場)で天覧競馬開催。
  西郷従道が、根岸競馬場にて、日本人馬主として最初
 の勝利を挙げた。
  1878年明治11年)横浜レースクラブ、横浜レースア
 ソシエーションが解散し、新たに横浜ジョッキークラブ
 が発足した。
  1879年(明治12年)祭典競馬が契機となり、各地に競
 馬場が開設し、共同競馬会社が発足した。
1879年11月7日、愛國社が、再興後の第3回大會を大阪・江
 戸堀で開催した。
  愛国社第3回大会開催し、国会開設請願を決議する。
1879年12月6日:北海道・函館で大火。
  33ヶ町がした焼失。焼失家屋2326戸。
  魚市場より要塞付近まで、焼死者多数。
  焼跡に対し、前年同様の道路の大改革を行なう。
1879年12月10日、印刷局が、当用日記帳(懐中日記)の刊
 行を始めた。
  日本で最初に印刷製本して出版された日記帳は、大蔵
 省印刷局の初代局長の得能良介が、この年・1879年に、
 官吏に配った『懐中日記』とのこと。
1879年12月20日青森県・尻屋埼灯台に霧笛が設けられた。
  青森県下北半島北東端の尻屋崎燈台に日本で初めての
 霧笛が設置された。
1879年12月26日、東京・日本橋・京橋の大火
  東京・日本橋・京橋で大火。
  日本橋区箔屋町から出た火の手は、屋根の瓦が飛ぶほ
 どの強い北西風にあおられて、たちまち現在の日本橋
 丁目から3丁目、京橋1丁目、2丁目の一部に延焼し、
 八丁堀、新富、入船、湊、新川の一部、さらには、佃の
 一部を焼く大火となった。
  被害は65ヶ町、全焼1万613戸、
  焼損面積7万4234坪(24万4972平方メートル)。
1879年12月31日、人口調査
  現在の国勢調査にあたる「全国の総人口の現在調査」
 (当時は「現在人別調」と称した)を志し、
  その調査方法や問題点を把握するために、1879年(明
 治12年)に、日本における国勢調査の先駆となる「甲斐
 国現在人別調」を甲斐国山梨県)で実施した。
  同年・1879年の12月31日午後12時現在人を対象として
 行い、
  調査人:2,000人、
  調査費用は、約5,760円、
  そして、調査対象となる甲斐国の現在人数は、397,416
 人という結果を得た。
  いきさつは・・、
  杉亨二(すぎこうじ、日本近代統計の祖と言われてい
 る)が、人口調査の必要性を説いた。
  国勢調査の試験調査とも言うべき「甲斐国現在人別調」
 を実施した。
  「現在人別調の調査は根本である。国家必要なる事で
 ある」として、全国総人員の現在調査を計画し、
  実施の前に、具体的な実施方法、調査の問題点、調査
 経費等の大体の目途を知るため甲斐国で実施調査した。
  甲斐国を選んだ理由は・・、
  (1)人口の規模が適当である
  (2)管内の人口の移動が比較的少ない
  (3)東京に近く指導、連絡等が便利である
  戸籍法の戸口調査が、戸籍編成のために戸籍上の人を
 実地に点検調査したのと異なり、
  実際の住人を調査地域こそ甲斐国に限られたが、近代
 センサスとして我が国の国勢調査の先駆をなすもの
  「我が国における国勢調査の最初の試験調査」と位置
 づけられる
  調査員の2千人が、1人の調査員=1日平均39軒調査
  結果(甲斐国現在人数)=39万7416人
  調査費用=5759円99銭5厘8毛(1人当たりの費用=1銭
 4厘4毛9絲)
1879年12月、盲人学校の校舎が落成した。
  1875年5月に、古川正雄・津田仙・中村正直岸田吟香
 らが集まって盲人教育の必要について話し合い、
  盲人学校を設立するための主体として「楽善会」を発
 足させることを決めた。
  翌年・1876年、前島密・小松彰・杉浦譲・山尾庸三が
 加わり、
  また、1876年には、楽善会訓盲院の設立認可が下り、
 東京府より3000円が下賜された。
  校舎は、築地3丁目、約4783坪。
  1879年12月に、総面積約100坪、総レンガ造りの2階建。
  室内は総漆喰塗りの校舎が落成し、
  1880年より、授業が開始された。
1879年、アメリカのカリフォルニアの「州憲法」で、中国
 人の参政権を剥奪し、拒否した。
  正常な中国の方々を、精神異常者と同様な処置とした。
  完全な人権侵犯・人権侵害行為で、
  州として国として、一番大切にしなければならない基
 本的人権を侵犯する非民主国家的行為で、最低の行為で
 ある。
  アメリカは時々このような事をする国で、どこに民主
 的な国家制があると言うのだ。
  人権尊重は第一義に守るべきもので、人権を踏みにじ
 るこの様な行為は、人類の皆を敵にしている。
1879年1月11日〜7月4日、ズールー戦争が起きた。
  イギリスと南アフリカのズールー王国との間で戦われ
 た戦争。
  最新式の銃を用い、先進的な兵器を持ったイギリスが、
 弱い者いじめをした戦争。
  (強い者による、領土略奪・軽蔑行為)
  相手のズールー王国の方々は、槍と盾しかもたないと
 いう現地の方々に対し、血なまぐさい戦争行為をした。
  植民地欲しさの戦争。
  イギリスは、本国から大部隊をどんどん送り込んだ。
  敗ける訳はない、この様なやり方をした。
  そして、ズールー国家は滅亡した。
  イギリスによって、桁違いのズールーの方たちが殺さ
 れた。
  この戦争にもキリスト教がからんだ。
  現地のキリスト教宣教師が戦争を煽った。
  戦勝したイギリス軍指揮官に、ヴィクトリア十字勲章
 をイギリス国家は授与した。
  イギリスは、望まぬ戦争をしたとプロパガンダしてい
 るが、応援部隊の増派や、勲章授与など国家主導の戦争
 だった。
   望まぬ戦争ならば、戦争を止めさせることもできた
 のに、その様な行動はまったく無く、遅れた武器しか持
 たない人々に対して、卑劣な殺戮の戦争が続けられた。
  それも、体制を立て直して、また、戦争開始するとい
 う二度もの戦争が、南アフリカ共和国アパルトヘイト
 の酷い行為もあった)の地で行なわれた。
1879年10月22日、アメリカのトーマス・エジソンが白熱電
 球を発明した。
  トーマス・エジソンが炭化した紙を使用したフィラメ
 ントで白熱電灯の実験に成功した。
  12月31日の公開実験で、40時間の点灯に成功した。
  (別の説)エジソンは、日本産の竹を焼いて作った炭
 素を用いた白熱電球を完成させる。
1879年10月7日、ドイツ・オーストリア同盟(〜1918年)
  ドイツとオーストリアの間に存続した対ロシア防御同
 盟。
  1878年ベルリン会議以後、ドイツとロシアとの関係
 が悪化したので、ビスマルクは、オーストリアとの結合
 を強めた。
  そして、1879年10月7日に、両国間の秘密軍事同盟が、
 ウィーンで調印された。
  この条約は、締約国の一国がロシアから攻撃された場
 合、他の一国が共同して戦うこと、
  また、ロシア以外の国からの攻撃をうけたときには、
 好意的中立を守ることなどを義務づけた。
1879年11月、アルタミラの洞窟が発見された。
  人類最古の美術である洞窟絵画の第1号が、スペイン北
 部で発見された(洞窟長さは270メートル)。
  発見者は12歳の女の子。
  この地方の領主であり、アマチュアの考古学者である
 マルセリーノ・デ・サウトゥオラ侯爵は娘と洞窟に入っ
 て行った。
  そして、偶然に発見した。
  アルタミラ洞窟壁画は、先史ヨーロッパ時代の区分で
 主にマドレーヌ期(約18,000年前〜10,000年前)と呼ば
 れる旧石器時代末期に描かれた野牛、イノシシ、馬、ト
 ナカイなどの動物を中心とする壁画だった。
  侯爵は、これらの絵が旧石器時代のものであると考え、
 1880年に発表した。
  しかし、当時は、旧石器時代の絵が知られておらず、
 学界からは侯爵の捏造だと疑われた。
  20年ほどの間に、他の地でも、いくつかの洞窟壁画の
 事例が報告されたが、
  何と、これらの絵にも当初は否定的な見解がなされた。
  侯爵は、失意の中、1888年に、57歳でこの世を去る。
  しかし、1900年代に入ると、科学的な調査も進み、こ
 れらの洞窟壁画は間違いなく旧石器時代の絵だと認識さ
 れるようになった。
  侯爵の死から15年後、侯爵の論文を否定したトゥルー
 ズ大学のカルテラック教授は、洞窟壁画に関する肯定的
 な論文を発表し、
  かつて、侯爵の論文を否定したことを謝罪した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive