(増補版)354E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年8月〜1878年12月)

題:(増補版)354E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年8月〜1878年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1878年8月30日、明治天皇陛下が巡幸される(〜11月9日)
  明治天皇陛下が、岩倉具視大隈重信らと、北地巡幸
 に御発(北陸・東海道地方)
  明治期(1868年〜1912年)の、明治天皇陛下の地方巡
 幸は、97件。
1878年8月、夜間興行が、新富座で初めて行われる。
  ガス灯を設備し、夜間上演が可能という画期的な近代
 劇場だった新富座で、日本初の試みの夜間興行が行われ
 た。
1878年9月3日、観象台(かんしょうだい、東京天文台)が
 創設された。
  東京・本郷本富士町の文部省用地内に、東京帝国大学
 理学部の観象台が創設された。
  東京天文台の前身。
  1878年東京大学理学部の観象台として本郷構内に発
      足した。
  1888年、旧内務省および海軍省の天文関係の業務が統
      合され、改称された。
  1921年、麻布飯倉の地に、東京天文台が設立され、
  1924年三鷹に移転し、現在に至る。
1878年9月11日、愛國社 再興第1回大會
  大阪で、愛国社の再興大会が開かれた。
  1875年に、立志社が中心となって結成された日本で最
 初の全国的政治結社だったが、
  中心人物の板垣退助の参議復職で自然消滅した。
  しかし、1878年に、地租改正反対闘争が、各地で盛り
 上がるや、
  この年に、植木枝盛(えもり)らの主唱によって、再興
 大会がもたれた。
  翌年・1879年の第2回大会には、18県21社が結集した。
  これを契機として、自由民権運動が急速に発展した。
  1880年3月の第4回大会には、2府27県の国会開設請願
 署名者10万1161名の代表97名が大阪に結集した。
  名を国会期成同盟と改め、
  土佐立志社の片岡健吉、福島石陽(せきよう)社の河野
 広中(こうのひろなか)を代表に選んで、
  政府に「国会を開設するの允可(いんか)を上願する書」
 を提出した。
1878年9月15日、最初の鉄道事故
  新橋〜横浜間の河川が氾濫し、3日間の運転休止。
  因みに、世界で最初の鉄道事故は、1830年9月15日、イ
 ギリスのランカシャーのパークサイド駅で発生した。
  この日は、リバプールマンチェスター鉄道の開業当
 日という記念すべき日だった。
  この日に、代議士が、知人に挨拶をしようと線路を横
 切ったところ、轢かれて死亡した。
  汽車の速度を知らなかったので予測できなかったとい
 う。
  日本の最初の鉄道事故として、標記の他に、1877年に
 発生した「東海道線西ノ宮列車正面衝突事故」とする説
 がある(これは、死亡事故としての最初)。
  死亡事故でなければ、さらにさかのぼって、
  1874年に、「新橋駅構内列車脱線事故」がある。
  ポイント故障で、機関車と貨車が脱線した(死亡は無
 し)。
  しかし、日本の鉄道が開業した1872年9月12日に、記念
 すべき鉄道開業式のこの日に、
  線路に入り込んだ見物人が、機関車に引かれて、指を
 切断している。
  (参考)「事故の鉄道史――疑問への挑戦」
1878年9月19日、佐野常民が、博愛社日本赤十字社の前身)
 の存在と、その事業を社会に知らしめる為に、宣伝文を
 作成した。
  因みに、佐賀の七賢人と言われた佐野常民は、1878年
 6月に、博愛者副総長に大給恒とともに就任した。
  また、佐野常民は、1867年のパリ万国博覧会に、佐賀
 藩の団長として、
  そして、6年後のウィーン万国博覧会に、博覧会事務副
 総裁として渡欧した。
  そして、その時、西欧の先進的な知識・技術・思想の
 見聞・習得に努め、
  同時に、各国に赤十字社が組織されていることを知っ
 た。
  そこで、1877年の西南戦争の惨状に、博愛者の創設と
 西南戦争の救護活動の行動を起こした。
  10年後に、日本赤十字社となり、常民は、初代社長に
 就任した。
1878年10月1日、初めて、鉄道往復切符が発行された。
1878年10月8日、桂太郎が、「陸軍参謀局拡張の議」を太政
 官に上申した。
  陸軍省による参謀局の拡張上申は、軍令機関の組織・
 機構・権限の拡張で、
  その直後の軍令.機関の分離・独立を意味し、桂太郎
 軍少佐 (参謀局勤務) の建議を基本にして行なわれた。
1878年10月12日、山県有朋陸軍卿が、「軍人訓戒(ぐんじ
 んくんかい)」を配布した。
  西周(にしあまね)が起草し、天皇陛下絶対神聖、
 軍隊の中立化を説き、軍人勅諭の先駆となった。
  西南戦争後の近衛砲兵の反乱である竹橋騒動を起因と
 して、
  明治・大正時代の代表的な藩閥政治家であり、元老、陸
 軍の最長老として、山形有朋(やまがあありとも)が示
 した。
1878年10月16日、札幌農学校の演武場が完成(札幌時計台
  基本構想図は、教頭のW・ホイラーが作成した。
  開拓使工業局主席技術者・安達喜幸が、設計・監督。
  費用は、3869円16銭3厘。
  演武場は、農学校生徒の兵式訓練や、心身を鍛える体
 育の授業に使う目的で建設された。
  2階は、兵式訓練や体育の授業などの屋内体育館や、中
 央講堂、
  1階は、研究室、講義室、動植物や鉱物の標本展示室
 など
  演武場が完成したときに、時計台はなく、小さな鐘楼
 のみ、
  開業式に出席した開拓長官・黒田清隆の発案で、時計
 の設置が決定した。
  1881年明治14年)7月、玄関正面部と鐘楼を取り壊し、
 骨組みを強化して、時計を設置した。
  改修費は1329円
  北海道・札幌農学校の演武場(現=札幌市時計台)が
 落成する。
  演武場(Military Hallの訳)とは学生に軍事訓練を行
 う道場のことで、
  米マサチューセッツ農科大学のミリタリー・ホールを
 模して造られた。
  下見板張りの外壁の木造2階建て建築で、
  2階には、練兵場と武器室があり、兵式訓練や体育の授
 業などの屋内体育館や中央講堂として使用され、
  1階は、研究室、講義室、動植物や鉱物の標本展示室と
 して使われた。
  時計がつけられていなく小さな鐘楼(しょうろう)の
 みだったが、開業式に出席した開拓長官・黒田清隆の発
 案で、時計の設置が決まった。  
1878年10月20日東京大学に生物学会が創立された。
  東京大学の初代動物学教授であった大森貝塚発見者の
 モース(E. S. Morse)が、東京大学、植物学教授・矢田
 部良吉とともに創立した。
1878年10月24日、体操伝習所(たいそうでんしゅうじょ)
 の設立(体操教育始まる)
  この年に、東京に設置された文部省直轄の西洋式体操
 の教育機関で、
  アメリカ人 G.A.リーランドを教師として西洋の体操を
 導入し、
  リーランドの退任後は、坪井玄道が、その後を継いで
 日本の学校体育の基礎確立の中心となった。
1878年10月28日、郡区町村制が決まり、町村に初めて自治
 体としての性格が与えられた。
  地方制度の根本となる郡区町村編成法、府県会規則、
 地方税規則に基づくもの。
1878年11月1日、明治天皇陛下が、車駕(しゃが、くるま。
 乗り物)東行し金原明善(きんぱらめいぜん)夫妻
 を召見(しょうけん、呼び寄せて対面すること)
  金原 明善氏:(1832年7月4日〜1923年1月14日)、明
 治時代の実業家。遠江国長上郡安間村(現浜松市東区
 間町)出身。浜名郡和田村村長。
  天竜川の治水事業・北海道の開拓・植林事業など近代
 日本の発展に活躍した。
1878年11月2日、東京府、15区6郡を定める。
  東京府が、大区小区制を廃して15区6郡(麹町、神田、
 日本橋、京橋、芝、麻布、赤坂など15区)を定めた。
1878年11月2日、西南戦争の功により、有栖川宮熾仁を大勲
 位に叙す。
1878年11月2日、学校体操が、初めて東京女子師範にて実施
 された。
1878年11月16日、北海道・函館で大火。
  13ヶ町が焼失。焼失家屋954戸。
1878年12月5日、参謀本部條例
  陸軍参謀局を廃し、陸軍省参謀本部を設置
1878年12月10日、教育総監部の前身となる監軍本部創設
  (中部は野津鎮雄、東部は谷干城、西部に三浦梧桜)
1878年12月10日、紙幣局を、大蔵省印刷局と改称
  大蔵省印刷局が創立(大蔵省紙幣局を印刷局と改称)。
  1871年7月27日、大蔵省内に紙幣司創設
  1871年8月10日、大蔵省紙幣司を紙幣寮と改称
  1872年9月20日、大政官正院印書局設立
  1875年4月、抄紙局設置(現王子工場)
  1875年9月4日、大蔵省紙幣寮と太政官正院印書局が合
 併され大蔵省紙幣寮となる
  1876年4月5日、抄紙局操業開始(現王子工場)
  1876年10月10日、印刷工場が東京大手町に落成
  1877年1月11日、大蔵省紙幣寮を紙幣局に改称、現業
 官庁となる。
  1877年、国産第1号紙幣を製造(国立銀行紙幣一円(新
 券)12月28日発刊)
  1878年12月10日、大蔵省紙幣局を印刷局と改称。
1878年12月13日、監軍本部條例
  陸軍監軍本部を置く (後の教育総監部
1878年12月15日、停車場扱いの電信開始される(最初は新
 橋・横浜両駅のみ)
1878年12月24日、侍従長を置く(米田虎雄中佐任命)
1878年12月26日、従来の海軍始の儀式を廃せられる
1878年12月、東京の風月堂が、日本初の国産チョコレート
 を製造・販売する。
  輸入したチョコレートを加工したもの。
  新聞に掲載された日本初のチョコレートの広告には、
 「貯古齢糖」という漢字があてられた。
1878年12月末、井上良馨(いのうえよしか、軍人)が、艦
 の艦長となり初の国産軍艦「清輝」が出港、ヨーロッパ
 諸港を回航した。
  軍艦・清輝は、ヨーロッパ航海を最初に成し遂げた日
 本艦となった。
.
(今日の言葉)
  知人が幼い子供と散歩をしていた時・・、
  その子供との散歩のところへ・・、
  運悪く・・車が突っ込んで来た。
  知人は、とっさに逃げ、幸い、けがはなかった。
  しかし、子供は・・けがをしてしまった。
  奥さんは、知人を攻めた。
  何故?・・子供を抱いて逃げなかったの?・・と、
  知人を攻めた、
  問い詰めた。
  とっさの場合だったので、その様になってしまった・
 ・と、
  知人は「気詰まそうに」・・私に話した。
  幸い子供の怪我も大けがではなかったので、
 事は、話は・・おさまって行ったが、
  心に・・何かが残った。
  冷静に事を処すことが出来たら・・、
  当然、その知人は、自分の子供も一緒に抱いて逃げ、
 事を避け、無事に・・事態を収め得ただろう。
  それが、妻と一緒の散歩のときも・・その様に・・、
  家族全員を守ろうと・・知人は・・行動しただろう。
  その時・・、実の親、ご両親の場合も、
  知人は・・守ろうとしただろう。
  また、その時、妻のご両親の場合であっても、
  その様にしただろう・・と・・想像する。
  そして、親友だったら・・?
  近所の良く話しあう・・気の合った方々だったら・・
 と、考えて行くと・・、
  高校野球の場合もそうだ。
  自分の子供が甲子園に出ることになって・・、
  大変、うれしくて・・出るんだ、出るんだ・・と、必
 死に出るんだと周りの人に知らせ、必死に応援していた
 方が居たが・・、
  また、地元のチームが敗退したので、その隣の地域の
 チームを応援しています・・と、言う話も聞いた事があ
 ったが、
  守る、応援する、助ける・・という行為は、
  自分の周りの社会から始まって行く・・、
  オリンピックでも、日本の選手のメダル獲得を喜ぶ。
  これは、自然の心情なのだ。
  しかし、この自然の心情が・・尊いのだ。
  故に、当然に、
  愛する家族が、妻や子供が、そして、愛するご両親、
 親族、そして、地域の方たち、
  そしてそして、日本の方々へと・・その意識は広がっ
 て行く。
  その愛する方々が、危険に犯された時に、
  その意識のもとに・・行動を起こす。
  自動車事故から守る・・という話と、
  他国から危険にさらされた時、家族の生命も危うくな
 ると思われた時、守ろうという意識と、そして行動が起
 きる。
  俺は逃げるという事を言う人もいるだろう。
  一人で逃げるのかい?
  えっ! 家族は連れて行くって??
  ご両親は?
  兄弟は??
  そして、戦争が悪いのだ・・と言うのかい?
  そうだ。君の言う通り、戦争は悪いのだ。
  それで・・、そう言って・・そう言っていれば・・戦
 争は起きないのかい?
  起きなかったのかい??
  人間の歴史は、そんな簡単なことで、戦争を避ける事
 が出来てきたかい?
  歴史を見ても分かるように、
  「戦争は悪いのだ」と言って、戦争を避けることが出
 来なかったことを示している、
  あなたも分かっているでしょうが・・。
  戦争が起きて、家族が危険にさらされ、
  ご両親が危険にさらされ、
  地域の方々が危険にさらされ、
  国の人々が危険にさらされ・・
  自分だけ逃げることが出来ない時・・
  あなたはどうするのだ。
  その時、あなたには・・、
  家族を守り、ご両親を守り、兄弟を守り・・、
  地域の人を守り、そして、国の方々を守るという、
  『崇高な使命』があります。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive