水俣病・・まったく悲惨な、そして、被害甚大な公害だった・・しかし、この問題はまだ終わっていない・・

  題:水俣病・・まったく悲惨な、そして、被害甚大な公害だった・・しかし、この問題はまだ終わっていない・・
.
  悲惨な公害であるチッソという会社による有機水銀中毒。
  その有機水銀中毒によって人々は廃人となり、また、多くの方々が亡くなった。
  人々は、胎児性水俣病もあることを知って大変驚き驚愕した。
  生まれながらにして不自由な体にされた方々、まったくお気の毒な方々・・
  一主婦として普通に家庭生活をしていた石牟礼道子さんは、天草生まれだが、身近にこの様な悲惨な状況があることを知っ
 て驚愕する。
  そして、水俣病から逃げずに闘われた、行動した・・そして、国会前で座り込みもした・・「苦海浄土」という名著も書かれた。
  石牟礼さんは、2018年に、90歳で亡くなられたが、2012年の85歳の時、それまでを振り返り、回顧し、総括的に発した一番
 言いたかった言葉と言える言葉が、やはり、国への糾弾の言葉だった。
  『1970年、厚生省前に患者の方々と共に座り込みました。
  国が最終的に解決の為に示した言葉は官僚用語で人としての血が通ってない温かみのない言葉の羅列でした。
  最初から基礎調査をしっかりやり、誠実に、解決を図るべきことを、胡麻化し続けて来ました。
  明らかに公害病だと分かるのに、認めようとしなかったのです。
  私の生まれた対岸の天草も案の定出ました。
  しかし、国は汚染地域外だとしました。
  小さくしよう小さくしようと小賢しいことばかりを続けていました。
  「(救済を受けたいと言うのなら)汚染魚を食べたという証明を出しなさい」と言いました。
  「出せなければ救済はできない」と言いました。
  ごまかし行政の態度でした。
  大変な事件だと思っているのに、その全貌を捉えて、解決しようともしない。
  手落ちを隠したり、正当化しようとしたりして、善なる態度を少しも見せず、精神的な成長を国民と共に遂げようともしませんで
 した。
  失望ばかりが繰り返される国の態度でした。
  患者の方々は、「日本という国は、無か」、「東京まで行っても、日本という国は無か」と言っていました。
  「日本の国はどこにあるのか?」と。
  国は分かり合おうとせず、逃げ回っていました。
  最低の希望は、「分かり合う努力をする」こと、これが最低限、存在しなければいけません。
  分かり合えないというのが、一番、せつないことでした。
  患者の方の中には、そんな国でも許してあげようと言う人も居ました。
  「許さんば苦しくてたまらん」と、「全部、許す」と、「日本という国もチッソという会社も許す」と、「色々差別した人も許す」と。
  「みんなの代わりに、私たちが代わりに病んでいる、それで許す」と、「でも、私はまだ生きていたい」と。
  私たちは、許されて生きているのです、罪なことです。
  いいものをたくさん持っていた純朴な田舎の人たちを、ズタズタにしました。
  今日も生きた、明日も今日くらいには生きられればいいと思う人たち、特別、出世しようなどと考えない人たち、普通に生きると
 いう事が、一番、大事なことです。
  国は、普通に生きることを理解して欲しい。
  国は、やることはやったと、救済を閉め切ろうとしている。
  それでいいとしている。
  これからも、患者を切り捨てることが起きるでしょう。
  何時までも、関わっていられないという国の態度、事件の幕引きを早くしたいという国なのです」。