(増補版)350E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年1月〜1878年2月)

題:(増補版)350E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年1月〜1878年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1878年、住・生活: 
・銀座通りの煉瓦街が完成した。
・電信中央局の開業祝賀会に、初めて、弧光燈の電気燈が
 点火された。
・ジョセフ・スワンが、木綿糸を炭化したフィラメントを
 使用して長寿命(約13.5時間)の白熱電灯を作った。
新富座が、ガス燈をつけて、夜間興行をした。
・神戸のマッチが、上海へ輸出され始めた。
  1869年(明治2年)に、金沢藩の藩費でパリに留学した
 清水誠は、1873年明治6年)に、文部省留学生となり、
 フランスの工芸大学に入学した。
  1874年(明治7年)に、外遊中の宮内次官・吉井友実
 パリのホテルで会談した際、吉井卿が、卓上のマッチを
 指さして「このようなマッチまで輸入に頼っているが、
 外貨不足の際、これを日本で作れないだろうか」と言わ
 れて、清水誠は、マッチを日本で製造する決心をした。
  同年・1874年、留学生の制度が廃止になり帰国。
  清水誠は、官費留学生であったことから、1875年(明
 治8年)に海軍造船官として横須賀造船所に勤務した。
  その傍ら、暇ある毎に、東京に出て三田四国町にある
 吉井友実の別邸を仮工場としてマッチの製造を始め、試
 売した。
  従って日本におけるマッチを工業的に製造を始めたの
 は、1875年(明治8年)。
  公務の傍ら、マッチの製造では仕事がはかどらなかっ
 たが、時に内務卿・大久保利通に招かれ、「造船も大事
 だが何とかなる」「マッチに専念してはどうか」と勧告
 され退官。
  本格的にマッチ製造に集中することとなった。
  この年・1875年、清水誠は、マッチを製造するために
 軸木となる原木を求めて、日光山中に白楊(はくよう、
 別名:ヤマナラシ、ヤナギ科、落葉高木、上位分類:ポ
 プラ)を発見した。
  次いで、信州諏訪方面でも白楊を発見した。
  同年・1875年、大阪でも小野久兵衛と小杉又三郎が協
 同してマッチ工場(後の昌燧社)をつくり生産している。
  1876年(明治9年)9月、清水誠は、本所柳原町に一大
 工場を新築し、「新燧社」(しんすいしゃ)と名づけ、
 本格的な工場生産を開始した。
  新燧社の代表的な商標に、桜印がある。
  1877年(明治10年)に開催された第1回内国勧業博覧
 会で、新燧社はマッチを出品し、鳳紋賞牌(ほうもんし
 ょうはい)が授与された。
  この受賞は、新燧社のマッチの品質が優れていたこと
 を実証している。
  1877年(明治10年)3月に、神戸市山手通で堀という人
 が燐寸工場を新設したが小規模であった。
  これが神戸マッチ製造の先駆けだった。
  函館の玉林治右衛門は、服役中であったが、不自由な
 環境下で、独力でマッチの製法を研究し、1877年(明治
 10年)に試作に成功した。
  清水誠から優秀なマッチと品質保証を得た。
  玉林は、1880年明治13年)、函館燐寸製造所を設立
 した。
  清水誠は、士族授産、産業振興の見地からマッチ製造
 法を公開した。
  そして、各地にマッチ工場の建設が企画された。
  その主なものは、葆光社(盛岡)、慈恵社(尼崎)、
 就光社(姫路)、積善社(膳所)、有恒社(岡山)、徳
 潤社(徳島)、百做社(土佐)、共勉社(高松) 真燧社
 (名古屋)、葎律社(金沢)・・、
  また、1878年明治11年)に、長岡で燦盛舎が設立さ
 れた。
  そして、下津燐寸株式会社の前進である蜂蟻社(ほう
 ぎしゃ)(高松)が、1879年(明治12年)に設立された。
  1878年明治11年)に、初めて清国上海にマッチを輸
 出した。
  これ以来、マッチが日本の重要な輸出商品の一つとな
 った。
・東京の楓川に、国産初の鉄橋、元弾正橋(もとだんじょ
 うばし)が架設された。
  橋長15.2米、橋幅3.0米のウィップル形トラス鉄橋
  この橋は、国の威信をかけて架設された。菊の御紋が
 付けられた。
  また、このタイプの橋は多く架けられ、伊藤博文とか、
 山形有朋とか、大隈重信とかの要人の名前が付けられて
 いる。
1878年、その他・もろもろ:
・鉛筆が国産化
  輸入も減るだろう・・と(朝野新聞)
  1877年(明治10年)に、東京・上野で開催された第一
 回内国勧業博覧会の「教育ノ器具」部門に鉛筆が出品さ
 れた。
  また、三菱鉛筆の創業者である眞崎仁六(まさきにろく)
 は、1878年パリ万国博覧会を訪れた際、外国製のさま
 ざまな鉛筆にであい、その素晴らしさを感じ、独学で鉛
 筆製造に取り組み、国産化が本格的にスタートした。
  眞崎は、最初に三つ叉(また)になった軸の先に芯を
 はさむ「はさみ鉛筆」を作り、
  そして、1901年(明治34年)には「削り鉛筆」(現在の
 普通の鉛筆 ) を逓信省に納入するようになった。
フェノロサアメリカ人)が来日した。
・大蔵省が、西洋式複式簿記の講習会を開いた。
宮内省と工部省に、電話が通じた(朝野新聞)
・電話機の国産化に成功した人あり。
  舶来品に劣らず・・と(東京曙新聞)
・コッホが、破傷風菌を発見した。
  破傷風菌は、世界中の土壌や汚泥に芽胞として存在し
 ていて、破傷風毒素の毒性は極めて強く、
  破傷風毒素(テタノスパスミン)によって死に至る怖
 い病気。
  1889年に、日本の「細菌学の父・北里柴三郎」とエミ
 ール・フォン・ベーリングが初めて純粋培養に成功した。
  診断は、基本的に、症状から推測するしかないが、
  発症したときには、外傷が治癒してわからなくなって
 いることがあるため、外傷がないからといって破傷風
 可能性を除外しないことが肝要で、非常に大切である。
  治療は、早期の診断が大切で、
  速やかに破傷風免疫グロブリン(TIG)を筋肉注射して、
 毒素を中和する。
  早期診断・治療が、非常に重要である。
1878年1月11日、伊豆七島が、静岡県から東京府に移管され
 た。
  大久保利通の採決で移管されたが、伊豆諸島の住民の
 希望に沿った形だった。
  伊豆諸島は、名前の通り、伊豆半島静岡県)と同じ
 「伊豆国」に属していた。
  江戸時代は、徳川幕府の直轄領の天領で、
  明治維新後に、伊豆半島などの旧幕府領と共に「韮山
 県」となった。
  そして、1871年明治4年)に、神奈川県西部と静岡県
 の伊豆半島を管轄していた「足柄県」(県庁は小田原)
 に属することになった。
  1876年(明治9年)に、足柄県は、東部が神奈川県に、
 西部が静岡県に分割統合され、消滅した。
  この時、伊豆諸島は、「伊豆国」である伊豆半島と共
 に静岡県の一部となった。
  しかし、そのわずか2年後の1878年(明治1年1)に、内
 務卿・大久保利通の裁決で、伊豆諸島は、東京府に移管
 されて、現在に至っている。
  この理由は、伊豆諸島の裁判事務が東京裁判所に帰属
 することになったからで(大久保から太政大臣・三条実
 美への上申書に記載されている)、
  これは、島民が、司法・行政の要請で出頭するとき、
 静岡ではなく、東京に出ないといけなかったからだった。
  米の穫れない伊豆諸島は、島民は、海産物や黄八丈
 どの特産品を江戸の「島方会所」に送って売り捌いてい
 た。
  東京とつながりの強い中で、その代金を得て、生活の
 糧を得ていた。
  本土との航路は、伊豆半島の港以上に、江戸との往来
 が中心だった。
  明治になっても、伊豆諸島は、東京に経済的に強く依
 存し、変化なく続いていた。
  江戸=東京との間の航路が絶対的な生命線だった。
  伊豆諸島以南の島々は、日本国が太平洋上の権益を確
 保する上で、非常に重要な領土で、
  伊豆諸島が、東京以外の他の県の管轄における繋がり
 を維持する政治的配慮と予算は、東京とのつながりが最
 適だった。
  住民サイドからも、島民や商人からも、静岡県から東
 京府への移管を求める嘆願書が政府に提出されていた。
  手厚い支援の中に自立する島々、それ故、財政力も比
 較的潤沢な東京府へとの判断が、明治政府の判断だった。
  静岡県も、財政的な面からも、負担が大きい伊豆諸島
 の帰属を望んでいなかった。
  また、1876年(明治9年)に、日本の領土として国際的
 に承認された小笠原諸島の存在がある。
  小笠原諸島は、日本領と確定した直後に、内務省直轄
 地となった。
  「本土」として扱い、どこかの府県の管理を考えた時
 に、
  本土からは八丈島青ヶ島よりさらに2倍〜3倍の距離
 がある小笠原諸島管理を、東京府にした。
  東京は、首都として、他の府県以上に、中央政府の強
 い管理下にあった。
  当時、東京府知事は、政府が任命した役人が務めた。
  警察も、東京府だけは、府県の管轄ではなく、内務省
 直属の組織だった。
  そこで、小笠原諸島を、中央政府の影響が強い東京府
 の管理下においた。
  伊豆諸島も含めて、離島管理を東京府に一元化した。
  この様にして、伊豆諸島は、1878年に、小笠原諸島
 1880年に、東京府の所管となった。
1878年1月24日、東京府駒場農学校の開校式
  農事改良のため、欧米の学理と技術とを修得すべく、
 内務省勧農局所管の駒場農学校(こまばのうがっこう)
 が開校した。
  (氷川清話)駒場農学校、陸軍士官学校、工部大学成
 る。
  イギリスから5人の農学教師を招いて、駒場野に校舎を
 新築し、1878年1月に、開校した。
  しかし、イギリス・ドイツのいずれもが大農経営を前
 提とし、日本農業の実情に沿わず、
  「農学さかえて農業おとろえる」の観があった。
  そして、1881年農商務省へ移管。
  1886年7月、東京山林学校と合併し、現在の東京大学
 農学部の前身である東京農林学校となった。
1878年2月5日、東京警視本署が、相撲・行事取締規則、興
 行取締規則を布達。
  東京の相撲を統合一本化した。
  明治十一年二月五日警視庁御本署甲第拾一号を以て、
 相撲並びに行司取締規則御布達により、東京府下相撲合
 併一卜組と相成候に付、協議の上更に左之通り内規則相
 定め候事。
  第 一 条
  春冬両度大相撲興行の際、其損益金精算之義は、桟敷、
 土間、新桟敷、小間々に至る迄取締年番に及び歩持年寄
 並びに願人差添両大関とも出会の上差引精算可相立事、
 但し府下に於て修業相撲興行之際精算之義も本文同様た
 るべき事。
  そして、東京大角力協会申合規則、明治22年1月改正
  条 一 条
  当協会は東京大角力協会と称し東京市本所区元町十七
 番地に其事務所を設置す。
  条 二 条
  東京大角力は古来の習慣に随ひ一組合となし之を分離
 せざるものとす。
  条 三 条
  当協会は東京大角力取締上に関する諸般の事を処理し
 且つ風儀の改良技芸の上達を図る為設くるものとす。
1878年2月10日、横濱英國領事裁判所が、アヘンを密輸した
 イギリス商人のハルトレーに無罪判決した。
 (アヘン戦争の最悪行為の日本版・・それに無罪判決)
  正義なんてあったもんじゃない・・、
  日本における英国の商業活動が盛んになると、第一審
 を上海の高等領事裁判所が行うのは不便ということなり、
  横浜居留地に、第一審を行うための横浜領事裁判所が
 設立された。
  横浜領事裁判所の判事は、当然のごとく、イギリス人
 だった。
  このイギリス人が、自国人を無罪にした。
  英国高等領事裁判所は、中国、日本、及び、朝鮮で発
 生した英国民に対する訴訟及び領事裁判の上告を処理す
 るために、1865年に、上海共同租界に設立された上級裁
 判所で・・、
  アヘン戦争に勝利した英国は、1842年に清と南京条約
 を締結し、さらに翌年の虎門寨追加条約で治外法権を獲
 得した。
  アロー戦争後の1858年に締結された天津条約で英国の
 権利はさらに拡大された。
  日本において、1858年に締結された日英修好通商条約
 により、英国は、日本においても領事裁判権を獲得した。
  この侮蔑的な不平等条約によって、麻薬犯が無罪とな
 ったりしていた。
  イギリスは、当然のごとくの様に、この様なハレンチ
 な事をしていた。
  明治政府による条約改正交渉により、日英通商航海条
 約が、やっと1894年に締結され、締結より5年後の1899年
 に、英国は、日本における領事裁判権を失った。
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(今日の言葉)
三木谷君、私腹を肥やすのは、いい加減にしなさい。
  ちゃんと税金を払いなさい。
  納税の義務を果たしなさい。
  守銭奴にはなりなさんな。
  パナマ文書でわかった「税金逃れの輩」。
  「楽天なんかは負けてくれ」と思う。
  貴方の納税を待っている弱者の方が大勢います。
  「正直な者だけに納税させておけばいいのだ」という
 「貧乏人の心から抜け出しなさい」。
  この様な根性が気に入らない。
  「納税逃れではない」と強弁しているのも、気に入ら
 ない。
ーー報道事例ーー
パナマ文書の衝撃
楽天・三木谷会長の名も 10日に一部公表
楽天三木谷浩史会長兼社長
  国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)に参加
 する共同通信パナマ文書分析で8日、インターネット
 通販大手楽天三木谷浩史会長兼社長がタックスヘイブ
 ン(租税回避地)法人の株主となっていたことが分かっ
 た。
  ICIJは日本時間10日午前3時にホームページで
 文書の一部情報を公表する。
  多くの目でチェックしてもらうことで、より分析を深
 めたい考えで、「調査に値するものを見つけた場合」に
 は情報を提供するよう呼び掛けている。
 文書によると、三木谷氏は1995年に英領バージン諸
 島に設立された法人の株主になっていた。
  株の取得は楽天起業前で、同社は三木谷氏の話として、
 パーティーか友人の紹介で知り合った外国人から投資を
 持ちかけられ、80万円程度を出したが一部しか戻って
 こなかったと説明。
  三木谷氏は「租税回避の認識はなく、全くやましいと
 ころはない」と話しているという。(共同)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive