(増補版)259D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1863年12月〜1864年8月)

題:(増補版)259D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1863年12月〜1864年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1864年文久3年)1月5日、☆横須賀製鉄所
  小栗忠順、横須賀製鉄所建設案を幕府に提出し、承認
 され、実地検分が始まった。
  小栗忠順おぐりただまさ、幕臣勘定奉行、江戸町
 奉行、外国奉行)、
  優秀な幕臣との評判が高い。
  横須賀造船所設立をはじめ、幕府の政治、財政、軍事
 の各分野で改革を推進しようとした。
  薩長(さっちょう)に対しては、主戦論を唱えたが、
  幕軍が鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いに敗れるや、
 上州(群馬県)へ隠退した。
  新政府軍に捕らえられて、慶応(けいおう)4年閏(うる
 う)4月5日斬(ざん)に処せられた。
  小栗は、1863年に、製鉄所建設案を幕府に提出した。
  国を強くするためには、何しろ、鉄を得なければなら
 ないと考えからだった。
  幕閣などから反発を受けたが、14代将軍・徳川家茂は、
 これを承認し、
  1864年1月5日に、実地検分が始まり、建設予定地は、
 横須賀に決定された。
  なお、建設に際し、多くの鉄を必要とすることから、
 上野国甘楽郡中小坂村(現在の群馬県甘楽郡下仁田町
 小坂)で、
  中小坂鉄山採掘施設の建設を計画し、武田斐三郎など
 を現地の見分に派遣した。
  見分の結果、鉄鉱石の埋蔵量は莫大であり、
  ついで、成分分析の結果、鉄鉱石の鉄分は、極めて良
 好であることが判明した。
  ただし、近隣での石炭供給が不十分であるので、しば
 らくの間、木炭を使った高炉を建設すべしとの報告を受
 けている。
  また、1865年には、高炉で使用する木炭を確保するた
 め、御用林の立木の使用について陸軍奉行と協議をして
 いる。
  1866年1月1日、横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠
 の建設を開始した。
  費用は、4年継続で、総額240万ドルで、これが後の小
 栗逮捕における徳川埋蔵金説に繋がったとも言われるが、
  実際には、万延二分金などの貨幣の増鋳による貨幣発
 行益により建設費用を賄っていた(濡れ衣)。
  横須賀製鉄所の建設を巡っては、相当な費用の負担を
 強いることから、幕府内部の反対論は強く、
  建設地を横須賀にすることへの反対論もあったが、
  工作機械類がフランスに発注済であり、最終的に製鉄
 所は建設された。
  多くの反対を押しきれたのは、計画の進捗が迅速であ
 り、
  外部がこれを知った時には取りやめることが不可能で
 あったからである。
  小栗は、横須賀製鉄所の首長としてフランスのレオン
 ス・ヴェルニーを任命した。
  これは、幕府公認の事業では初の事例だったが、
  この人事により、職務分掌・雇用規則・残業手当・社
 内教育・洋式簿記・月給制など、経営学や人事労務管理
 の基礎が日本に導入された。
  また、製鉄所の建設をきっかけに、日本初のフランス
 語学校・横浜仏蘭西語伝習所を設立された。
  ロッシュの助力もあり、フランス人講師を招いて本格
 的な授業を行った。
  この学校の卒業生には、明治政府に貢献した人物が多
 い。
  小栗は、陸軍の力も増強するため、小銃・大砲・弾薬
 等の兵器・装備品の国産化を推進した。
1864年1月、六卿建白(氷川清話)
1864年1月、勅使て家茂の上洛を賞せられる(氷川清話)
1864年1月、京都に見回り役を置く(氷川清話)
  京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)は、幕臣によっ
 て結成された京都の治安維持組織。
  幕府は、京都守護職で、会津藩主の松平容保の配下と
 して、蒔田廣孝松平康正京都見廻役に任命した。
  詰所は、二条城の側に置かれたとされる。
  見廻組は、新選組と同じく、反幕府勢力を取り締まる
 警察活動に従事したが、
  見廻組は、主に、御所や二条城周辺の官庁街を管轄と
 し、
  新選組は、祇園や三条などの町人街・歓楽街を管轄と
 した。
  坂本龍馬の暗殺について、相模組与頭の佐々木只三郎
 組士・渡辺吉太郎、高橋安二郎、桂早之助、土肥仲蔵、
 桜井大三郎、今井信郎渡辺篤らが、
  坂本龍馬中岡慎太郎の暗殺(近江屋事件)に関与し
 たとされている。
1864年1月、幕府、攘夷の職を尽くすべき旨、勅答書を上る
 (氷川清話)
1864年1月、将軍、暇を賜り、京都を発す(氷川清話)
1864年1月、水戸浪士の暴行について、命を関八州に下し、
 鎮撫させる(氷川清話)
1864年1月、操練所を摂津神戸村に建つ(氷川清話)
1864年2月6日〜8月23日、☆横浜鎖港談判使節団、
  フランスへ向けて出発。
  第2回遣欧使節ともいう。
  使節団の目的は、開港場だった横浜を、再度、閉鎖す
 る交渉を行うことであった。
  孝明天皇は、1863年6月25日をもっての攘夷勅命を発し
 ており、これに従って幕府は、1863年6月24日に各国公使
 に対して開港場の閉鎖を通達するが、
  諸外国は、当然、これを拒否し、幕府も9日後にはこれ
 を撤回していた。
  更に、下関事件や薩英戦争、フランス士官・カミュ
 害事件等が起きて、諸外国との軋轢も高まっていた。
  この様な状況で、幕府は、攘夷派を懐柔する為、江戸
 に近い横浜の閉鎖を交渉するために、使節団を派遣する
 が、もとより達成不可能な任務であった。
  なお、使節団の目的には、フランス士官殺害事件の賠
 償交渉も含まれていた。
  一行は、1864年2月6日に、フランス軍艦ル・モンジュ
 号で日本を出た。
  上海やインド等を経由し、スエズからは陸路でカイロ
 へ向かい、途中ギザの三大ピラミッドとスフィンクス
 見学し、
  その後、地中海を通って、マルセイユに入港した。
  パリに着いた一行は、皇帝ナポレオン3世に謁見した。
  しかし、横浜の鎖港に関する交渉は、横浜を対日貿易
 交渉の拠点と考えるフランスの抵抗にあい、失敗に終わ
 った。
  また、正使の池田長発(筑後守)自身も、西欧の文明
 の強大さを認識し、開国の重要性を感じ、交渉を途中で
 打ち切り、5月17日(6月20日)、フランス政府とパリ約
 定を結んだ。
  一行は、他の国には寄らず、そのまま帰路につき、同
 年8月23日に帰国した。
  この時に約定したパリ協定の内容は・・、
  (1)、長州藩によるフランス船砲撃に対する賠償支払
    い(幕府は10万ドル、長州藩は4万ドル)。
  (2)、フランス船の下関海峡自由航行の保証。
  (3)、輸入品の関税率低減(一部の品目は無税)。
  しかし、幕府は、批准を拒否し、7月24日に、約定の破
 棄をイギリス・アメリカ・フランス・オランダに宣言し
 た。
1864年2月6日、☆日本瑞西国修好通商条約調印(スイス)
1864年2月7日、☆参預会議(さんよかいぎ)
  一橋慶喜・雄藩諸侯(松平慶永山内豊信伊達宗城
 松平容保島津久光)ら朝議参預に任じられる(参預会
 議)
  また、別資料では・・、
  1863年の末から翌年1864年4月まで京都に存在した、朝
 廷の任命による数人の有力な大名経験者から構成された
 合議制会議、および、その制度。
  当時流行した公武合体論、および、公議政体論の一つ
 の帰結ではあったが、参預諸侯間の意見の不一致から、
 わずか数ヶ月で崩壊。
1864年2月1日、☆薩摩藩の船を、長州藩が砲撃する。
  関門海峡を航行中の薩摩藩使用の洋式船「長崎丸」(
 幕府より貸与)を、長州藩の陸上砲台が砲撃し、撃沈し
 てしまった。
  薩摩藩士24人が死亡した。
  薩摩藩が方針転換したことへの不満や、八月十八日の
 政変への報復目的から、長州の過激派が攻撃を行ったと
 言われる。
  長州藩の謝罪で一応は解決したものの、翌年にも、長
 州藩兵が薩摩藩の御用商船「加徳丸」を焼き討ちし、乗
 員を殺害する事件が起きている。
1864年文久3年)2月20日、☆島津久光廟議参与を許され
 る。
1864年2月21日、☆徳川家茂、再度上洛(2月5日説あり)
  将軍・徳川家茂は、2月5日に、軍艦翔鶴丸で品川を出
 航し、海路上京の途に着いた。
  1864年2月15日(旧暦:1月8日)、勝海舟、大阪着船
 (氷川清話)
  1864年2月16日(旧暦:1月9日)、勝海舟大阪城で垢
 付の小袖を賜う(氷川清話)
1864年3月2日、☆ 高杉晋作、長州を脱す
  高杉晋作顕彰碑文には・・、
  文久元年、藩公は、朝廷と幕府の間でしきりに周旋を
 行なった。
  その頃、君(晋作)は、世子(世継ぎ)の側近だった
 が、周旋を「藩に利あらず」とし、なすべきことは他に
 あると主張した。
  文久ニ年、藩公は、君を上海に派遣し海外事情を探ら
 せようとした。
  滞在すること数カ月。
  帰国してみると、世子は、勅命を奉じて江戸にあり、
 周旋に尽力していた。
  君は、当局にそれを不可として説いたが聞き入れられ
 ず、憂憤のあまり、一日、切に世子を諌め、藩邸を飛び
 出した。
1864年3月13日、☆ 長門藩、武器の他国流失を厳禁す
  長州藩は、周防国長門国を領国とした。
  長州藩は、赤字の藩であったが、軍事力増強に努めな
 ければならず、
  天保期だけではなく、1853(嘉永6)年のアメリカ使
 節ペリー来航以後は、これまで以上に、新しい軍備の充
 実などに、巨額の財政投資をせねばならず(この様な事
 は西南雄藩はどこでも同じで、軍事力の増強に務める日
 本の雄藩だった、しかし、比較すれば、長州藩薩摩藩
 は一歩遅れていた)、
  別会計の撫育局の財政は、黒字であってもこれを全て
 武器購入や幕末政局での活動費用に当てねばならず、
  藩財政の巨額の借金はそのまま残されてしまった。
 長州藩の財政資料によると、1871(明治7)年の廃藩置
 県時における長州藩の負債は、天保15(1844)年から慶
 応3(1867)年の分が、3万1390貫(約50万2240両、
  およそ、602億6880万円)、
  以後の新規の負債が、1万1381貫(約18万2096両、お
 よそ218億5152万円)、
  合計で、総額4万2771貫(約68万4336両、およそ821億
 2032万円)と、巨額なものであった。
  この借金は、このまま明治政府に引き継がれた。
1864年3月17日、☆ 松平容保京都守護職の精勤に対し5万
 石加増、翌日陸軍総裁となす
1864年3月25日、☆島津久光、砲12門を朝廷に献ず

1864年(元治1年)3月27日、☆「元治」に改元された。
  讖緯説に基づく甲子革令の年に当たるため、元治に改
 元された。
1864年3月16日、☆勝海舟が四国連合艦隊と折衝
  幕府が、軍艦奉行勝海舟を、外国軍艦による下関攻
 撃の延期交渉を命じ、長崎に派遣した。
  勝は、坂本龍馬を伴って神戸を出帆後、佐賀関に着。
  陸路九州を横断。
  氷川清話:勝海舟、二条城で、長崎表へ急用のため、
 差し遣わすにつき、賜暇金10枚、時服2及び羽織を賜い、
 即日出立。
  これは、英・仏・蘭の軍艦が、下関攻撃のきざしがあ
 るので抑留談判の為である。
  長崎に行き、英・蘭の船将・コンシェル等と数回対談、
 終に、攻撃の猶予を約束する(氷川清話)
  1864年3月30日、勝海舟が長崎入る。
 勝は、各国の領事や艦長と交渉し、延期に成功。
  1864年5月9日、勝海舟が長崎を発った。
1864年、四国連合艦隊、長州攻撃を予告
  長崎へ出張を命ぜられ、大阪城にて将軍より時服2、お
 羽織、黄金10枚、拝借金500両を戴いて出発する。
  これは、四国連合艦隊が、長州攻撃のため、下関を襲
 うという予告があり、
  それを、延期させるための談判に出掛けたのであるが、
  英・蘭の領事や、武官らは、海舟のかねてより顔見知
 りであり、談判はすらすらとまとまった。
  それらの功績に報いてであろう、5月14日、将軍より
 「軍艦奉行、作事奉行格、諸太夫として、安房守に任命」
 された。
  ついに「3000石、役金250両」の高級官僚になった。
 (氷川清話)
1864年3月29日、☆熊本藩主・細川慶順、長岡護久等連署
 て、長州処分の寛大ならん事を請う
1864年4月、☆ヨーロッパに派遣留学した、長州五傑のうち
 井上聞多伊藤俊輔が、日本からの下関事件の報道に帰
 国した。
  この後、薩摩藩からの密航留学生たちの存在を知って、
 交遊した、
  1866年に、遠藤謹助が帰国した、
  氷川清話:横浜鎖港の御請使節3名、外国より帰朝し、
 鎖港談判不調の旨復命して咎を蒙る(氷川清話)
1864年4月6日、☆松平慶永が、幕府へ公武合体を勧告した。
1864年4月8日、☆島津久光が、西郷吉之助に対して、上京
 を命じた。
1864年4月14日、☆参与会議が瓦解した
1864年4月14日、勝海舟、帰京(氷川清話)
1864年4月18日、勝海舟、謁見、詳述す(氷川清話)
1864年4月21日、☆薩摩藩主・島津忠義のイギリスに注文せ
 る軍艦2隻、大砲60門が、横浜に着す 。
1864年4月24日、☆西郷隆盛薩摩藩の軍賦役(軍司令官)
 に任命された。
1864年4月27日、☆フランス公使のレオン・ロッシュ着任
  フランスの第二代の日本駐在公使として、レオン・ロ
 ツシュが着任した。
1864年5月2日、 ☆天狗党の乱
  筑波山で挙兵した水戸藩内外の尊皇攘夷派(天狗党
 によって起こされた一連の争乱。
  水戸藩執政・武田耕雲斎を中心とし、横浜即時鎖港を
 求め挙兵した。
  1865年1月14日、投降した。
  安政5年8月8日(1858年9月14日)水戸藩は、幕府によ
 る日米修好通商条約調印を不服とする孝明天皇より直接
 に勅書を下賜されたと称した(戊午の密勅)。
  折しも、将軍継嗣問題を巡って、前藩主徳川斉昭らは、
 一橋徳川家当主で斉昭の実子でもある一橋慶喜を擁立し
 (一橋派)、大老井伊直弼と対立していた。
  直弼は、一橋派の中心人物は斉昭であり、密勅の降下
 にも彼が関与していたとの疑いを強めた。
  やがて直弼によって、一橋派や尊攘派への大弾圧が開
 始され(安政の大獄)、
  水戸藩に対しては、斉昭に永蟄居を命じて、再び失脚
 させ、京都での工作に関わったとみられる藩士に厳しい
 処分を行った。
  先に、朝廷より水戸藩に下賜された「勅書」について
 は、朝廷から幕府へこれを返納するよう命じられたが、
  この命令への対応を巡り、天狗党は、会沢正志斎ら「
 勅書」を速やかに返納すべしとする鎮派と、
  あくまでも、これを拒む、金子教孝(孫二郎)・高橋
 愛諸(多一郎)らの激派に分裂した。
  翌万延元年(1860年)になって、正志斎の強諌に、斉
 昭も、ついに観念して、「勅書」の返納に同意したが、
 激派は、これに反発して、実力行使を企て、
  高橋ら水戸浪士は、水戸街道の長岡宿(茨城県東茨城
 郡茨城町)に集結し、農民など数百人がこれに合流した。
  彼らは、長岡宿において、検問を実施し、江戸への「
 勅書」搬入を、実力で阻止しようとした(長岡屯集)。
  この激派の動きに対し、正志斎は、2月28日に、長岡宿
 に屯する輩は、朝廷からの「勅書」返納の命に背く逆賊
 であるから、これを討つとして、
  激派追討のため、鎮圧軍を編成した。
  これを見た高橋ら長岡宿に屯していた集団は、脱藩し
 て、江戸へと逃れ、
  水戸城下から逃れて来た激派の一団や、薩摩浪士の有
 村兼武・兼清兄弟らと合流し、
  3月3日、江戸城桜田門外で直弼を襲撃して殺害した(
 桜田門外の変)。
  8月15日の斉昭病没後も、激派の行動はやまず、さらに
 第一次東禅寺事件・坂下門外の変などを起こすに至った。
1864年5月4日、☆高杉晋作が、萩の野山獄に投ぜらる。
  野山獄跡の説明文
  場所:山口県萩市大字今古萩町
  正保2年(1645年)東隣に住む藩士岩倉孫兵衛が、
 酒に酔い、この地にあった藩士野山六右衛門の屋敷に斬
 り込み、家族を殺傷。
  両家共、取りつぶしとなり、跡地に置かれたのが「野
 山獄」(上牢)で、士分のものが入れられた。
  安政元年(1854年)10月、海外渡航に失敗して投じら
 れた吉田松陰が、
  獄舎内で高須久子、富永有隣らと知り合い、「孟子
 の講義を行った場所として知られる。
  元治元年(1864年)3月には、来島又兵衛らの説得を
 放棄し、
  京阪に脱走した罪で、高杉晋作が投じられ、
  「先生(松蔭)を遠く慕うて漸く野山獄」と記した。
  同年5月には、酒に酔った周布政之助が、馬上抜刀し
 た状態で、晋作のいる獄舎に乗り付ける事件を起こして
 いる。
  正義派、俗論派による抗争の絶えなかった萩藩では、
 多くの人材が投獄され、刑死させられた。
  野山獄は、正義派の殉難十一烈士(松島剛蔵、佐久間
 佐兵衛、中村九郎、楢崎弥八郎、竹内正兵衛、山田亦介、
 渡辺内蔵太、毛利登人、大和国之助、宍戸左馬之介、前
 田孫右衛門)、
  俗論派の、坪井九右衛門や椋梨藤太などが処刑された
 場所でもある。
   来島又兵衛(きじままたべえ、長州藩士):1863年に、
 高杉晋作奇兵隊を創設したのに触発されて、
  又兵衛も遊撃隊を組織して自ら総督となり、互いに連
 携して国事にあたった。
1864年5月11日、勝海舟、将軍、鯉魚門(軍艦)に乗り兵庫
 湊川、泉堺等に到る、それに供する(氷川清話)
1864年5月16日、勝海舟、将軍海路帰府、これに従い、翔鶴
 丸に乗り大坂を出発、
  浦賀に滞泊(たいはく、船が停留すること)
  船中で反物白銀及び紋付野羽織を賜う(氷川清話)
1864年5月20日、将軍帰城(氷川清話)
1864年5月23日、☆薩摩の島津久光、後事を西郷吉之助に託
 し、京都発帰藩の途に就く
1864年6月5日、☆将軍・徳川家茂が、参内して、江戸帰任
 の賜暇を奏上す(同月7日京都を出発)
1864年6月10日、勝海舟、急用で、大阪及び京都へ派遣を命
 ぜられる(氷川清話)
1864年6月12日、勝海舟、汽船長崎丸で出帆(氷川清話)
1864年6月13日、勝海舟の船のシリンドル摧破(さいは、く
 だけやぶれること)(氷川清話)
1864年6月14日、勝海舟、下田に入る(氷川清話)
1864年6月17日、☆勝海舟が、軍艦奉行となる
  勝海舟が、この日に、軍艦奉行となり、幕府海軍の創
 設に功があった。
  江戸末期、15代将軍・徳川慶喜を助け、国内紛争を回
 避するため尽力し、
  特に、倒幕官軍が東下して来るにあたって、官軍の西
 郷隆盛と会見して、江戸無血開城を成立させた。
  勝麟太郎義邦(安房守)、軍艦奉行、元治1年5月14日
 〜1年11月10日(氷川清話)
1864年6月17日、勝安房守と称する
  勝海舟大阪城軍艦奉行、作事奉行格、かつ諸太夫
 を命ぜられ、安房守と称す(氷川清話)
  勝海舟、神戸操練所取立海軍興起摂海警備等の事を委
 任される(氷川清話)
1864年6月19日、勝海舟、翔鶴丸に乗り換える(氷川清話)
1864年6月20日勝海舟、大阪着(これは鎖港談判の内命)
 (氷川清話)
  鎖港(さこう、港を封鎖すること、特に、外国船の入
 港・交易を禁じること。
1864年6月、竜馬、江戸着。
  しばらく滞在した後、勝とともに下田へ
  活躍する場へ出て行く竜馬であったが、竜馬の出身母
 体である土佐藩は・・
  土佐藩は、頑固な佐幕派だった。
  土佐藩は、薩長土を並び称されるように勤王倒幕主義
 とされているが、内実は違う。
  藩主、家老、上使などの藩の上層部は、佐幕論者で、
 倒幕派は、すべて軽格連中であった。
  軽格連中は、天下に志を述べるには、まず、藩の上層
 部と闘わねばならなかった。
  そこに、幕末土佐藩の数多い悲劇が生まれた。(竜馬
 がゆく・2)
1864年7月2日、☆幕府が、海軍操練所を兵庫に設置した。
  勝海舟の建議した海軍操練所、そして、この海舟を助
 ける坂本龍馬(29歳)
  海舟の建議した海軍操練所が設置された。
  海舟は、幕府に出仕させるが、運営は自分の理念に基
 づいてやるつもりであった。
  竜馬は、小龍の薫陶を受けた土佐の同志を呼び寄せた。
  海舟は、幕府から3000両、竜馬に使いをさせて越前藩
 の松平春嶽から5000両を出させている。
1864年勝海舟が、坂本龍馬に言うこと
  神戸の海軍操練兵所で、勝海舟は、坂本龍馬に「攘夷
 などは不可能、国防こそが大事、そのためには国を統一
 しなければならない」・・と、教え諭している。
1864年7月8日、☆池田屋騒動
  新撰組が、京都三条木屋町の旅館・池田屋を襲った。
  この池田屋に潜伏していた長州藩土佐藩などの尊皇
 攘夷派を襲撃した。
  長州藩土佐藩などの攘夷派の多数が、新選組に斬殺・
 逮捕された。
  新撰組は、京都守護職配下の治安維持組織。
1864年7月13日、☆井上聞多伊藤俊輔の両人が、馬関戦争
 の報に驚き、遊学中のロンドンから帰朝した。
  緊急帰国した、オールコックの同意を得て、長州藩
 攘夷中止の説得を試みるが、失敗した。
1864年7月、イギリスが、長州藩への攻撃を決定
  前年から行なわれていた長州藩海峡封鎖に対し、イ
 ギリスは、攻撃と決定した。
  仏 蘭 米の3国に参加を呼びかけ、艦船17隻で連合艦
 隊を編成し、
  1864年8月5日〜7日、英、米、仏、蘭4国連合艦隊が、
 長州藩の馬関と彦島の砲台を砲撃した。
  また、各国の陸戦隊が占領し、破壊した。
1864年7月、箕作秋坪福沢諭吉幕臣となる(氷川清話)
1864年7月、一橋慶喜、禁裏守衛総督となる(氷川清話)
1864年7月、諸侯参勤交代復旧(氷川清話)
1864年7月19日、☆徳川家茂、米15万俵を朝廷に献上。
1864年7月27日、☆久坂玄瑞、眞木保臣等、男山八幡に本陣
 を設けて勤王討幕の義旗を翻す
1864年7月29日、☆長州藩の家老・国司信濃桂小五郎等を
 従えて山口を発途、京都へ向う
1864年8月2日、幕府が、長州藩征討令を下す。(第一次長州
 征伐)
1864年8月12日、☆佐久間象山、暗殺される。
 京都で、佐久間象山が浪士に斬られる(氷川清話)
 佐久間象山、開国論を唱え暗殺される。
  外国船が来て、それまでは、文化が花咲く日本であっ
 たが・・、
  攘夷だと言っているうちに、国中が戦乱の世となった
 ・・修羅の巷と化している・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive