(増補版)263D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1864年12月〜1865年5月)

題:(増補版)*263D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1864年12月〜1865年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1865年(元治1年)、この頃の幕府・・そして、一会桑・・
  江戸幕府の260年を越えたこの頃、幕府の権威も大きく
 かすれて来た。
  その事を示す一つの事例が、参勤交代制度だった・・、
  参勤交代制度の強化は思うようには進まなかった。
  また、幕府は、『幕府権威』の復権を、目指して、
  年が明けた慶応元年・・1865年の正月に、
  長州藩・藩主父子に処分を言い渡す為、江戸に呼びつ
 けた。
  また、この長州藩は、ここ数年の長州藩の行動が示す
 様に、別の意味でも、幕府にとって目の上のタンコブだ
 った。
  また、朝廷と、一橋慶喜会津藩桑名藩の『一会桑
 (政権)』が、幕府の意思に反する様にも見え、
  その工作のためにも・・、
  老中の本荘宗茂と、阿部正外の両名に、幕府歩兵隊4
 個大隊を率いさせて、1865年3月初旬に上洛させた。
  そして、幕府の権威を復活させようと努めたりした。
  一会桑(政権)は、当時、禁裏の御守衛総督だった一
 橋慶喜と、京都守護職だった会津藩と、京都所司代だっ
 た桑名藩による京都における連合勢力なのだが・・、
  一見すると、幕府の京都における出先機関の様に見え
 るが、また、そうだったのだが・・、
  この一会桑は、孝明天皇から絶大な信頼を受けていた。
  その事によって、幕命で動くというより、独自の判断
 で動くようになっていた(幕府の意思から離れた行動の
 様に見えた)。
  幕府の下の組織というより、朝廷と幕府の仲介という
 形になっていたとも言える。
  その仲介・仲立ちという行動は、幕府の意思で動くと
 いうより、
  江戸の意向より、どちらかというと、朝廷の意向を優
 先している様に、幕府には映っていた。
  これは、この頃の幕府から見れば、一会桑の存在は、
 ある意味、半ば、政敵となりつつあった。
1865年1月3日(旧暦:12月6日)勝海舟、三男梅太郎誕生
 (生母、長崎の梶未亡人)(氷川清話)
1865年1月8日、西郷吉之助が、五卿動座の談判のため、単
 身長州に乗込む。
1865年1月10日、高杉晋作が、筑前より長府に帰った。
1865年1月11日、長州藩主・毛利敬親が、老臣・毛利隠岐
 征長総督府に遣し、伏罪の誓書を呈す。
1865年1月12日、長州藩士・高杉晋作等が、恭順派の藩政に
 反抗して、馬関新地の役所を夜襲した。
  高杉晋作の下関での挙兵(功山寺挙兵)、そして、その
 後、長州藩の藩論が倒幕に統一されて行く。
  苦闘の中の長州藩だった。
  第一次長州征伐の危機を乗り切った長州藩だったが・・、
  しかし、まだ、藩内には不安材料は残っていた。
  藩論が統一されていない事だった。
  同じ藩なのに、相手の派に対して粛正が行われたりす
 る長州藩だった。
  藩論を統一し、主流派になろうとする戦いが、この高
 杉の行動だった。
  蛤御門の変の敗戦で、俗論派が主導権を握り、諸隊に
 は、解散命令が出ていた。
  しかし、藩から解散命令の圧力が加わっても、一向に
 諸隊は解散する気配は見せず・・、
  この様な状況で、各諸隊は、逆に、解散の実力行使を
 恐れて長府に集結した。
  この様な状況で、俗論派の保守派政権は、諸隊の扱い
 に苦慮していた。
  この諸隊が、ここまで出来て来た経緯は、外国艦隊と
 戦った馬関攘夷戦争の際、
  長州藩の士族による正規軍が惨敗し、その醜態を晒し
 たのを見た高杉晋作が、補助戦力として建白し、
  そして、生まれたのが志願兵による奇兵隊だった。
  そして、その奇兵隊を初めとしてできた来た諸隊だっ
 た。
  この諸隊は、志願兵により構成されていた。
  そのため、士族だけではなく、農民や商人、また、他
 藩の浪人等も参加していた。
  そして、保守派政権が、諸隊を解散させようとしてい
 る所へ、
  九州に亡命していた高杉晋作が帰還した。
  高杉は、奇兵隊の隊士達に決起に参加するよう呼び掛
 け、そして、説得した。
  しかし、当時の奇兵隊総督や、軍監だった山形有朋の
 参加が得られず・・高杉の挙兵は成らなかった。
  しかし、高杉は、奇兵隊の協力は得られなかったが、
 決起を諦めず、遊撃隊と力士隊の協力を取り付け、
  1865年1月12日に、長府功山寺で、保守派政権への反乱
 の決起をした。
  高杉のこの決起は、山形有朋の慎重論を乗り越えたと
 され、また、この行動が、英雄的だと語り継がれること
 となった。
  当初、危ういとみられた高杉のこの決起・・、
  遊撃隊・力士隊を合わせて、わずか80名で始まった高
 杉のこの反乱・・無謀の様でもあった、
  その後、あれよあれよという間に要所を占拠した。
  そして、各地の豪農の援助も受けて行った。
  次第に勢力を増しても行く・・、
  この高杉の順調な行動を見ていた諸隊は、高杉のとこ
 ろへ集まるようになった。
  年末に至って・・、高杉は、保守派政権に対して、一
 大反乱軍の首領となっていた。
  ここまで大きくなると、保守派政権も、遂に、討伐軍
 の派遣を決意した。
  総奉行・毛利宣次郎、以下、栗屋帯刀・児玉若狭等が
 率いる藩の正規軍:約1000名を、1965年1月25日に、萩
 から出撃させた。
  山形有朋は、この藩の正規軍と戦った、そして、初戦
 を勝利した。
  各地での戦いを重ねるうちに、藩の正規軍は敗走する。
  志願兵の諸隊が、士族の正規軍に勝ったのだった。
  この様な戦いの進捗の中で、長州藩の保守派政権は、
 諸隊の軍事的侵攻を受けなくても・・崩壊を始めた。
  こうして、保守派政権は瓦解し、桂小五郎広沢真臣
 山田宇右衛門等による過激派政権が確立された。
  長州藩の方針は、表面的には幕府に恭順を装いつつ、
  幕府との戦いに備える「武備恭順」路線を取った。
  そして、四国艦隊との戦いにおいて、欧米の軍事の強
 さを実感した長州藩は、攘夷という観念から、対抗する
 幕府の姿が見え、幕府との戦いが見えて来る。
  そして、その幕府との戦いに備えた長州藩の軍制を、
 西洋流に転換して行く。
  この路線を行なうのが・・大村益次郎だった。
1865年1月14日、天狗党の乱(筑波山事件)の終結
1865年2月2日、長州藩正義派の緒隊兵、萩の鎮撫軍と交戦
 してこれを撃破す。
1865年2月10日、三条実美以下の五卿、勤王家の援護により
 長州より筑前大宰府に動座。
1865年2月10日、幕府が、長州藩主・毛利敬親(たかちか)父
 子の服罪により、長州征伐の中止を布告する。
1865年2月11日、征長総督・徳川慶勝が、大阪城に入る。
1865年2月11日、西郷吉之助が、薩摩に帰藩し、これより各
 藩勤王党連合し国是を一定せんと図る。
1865年2月23日、山口藩士毛利敬親の藩政改革。
1865年2月23日、西郷吉之助(隆盛)、39歳にて妻を娶る
  (坂本龍馬大久保利通小松帯刀等の勧めに依り岩
 山八郎太の長女・糸子を迎う)
1865年2月24日、幕府が、フランスとの横須賀製鉄所建設の
 契約を結ぶ。
1865年2月25日、毛利広封が、兵を率いて緒隊追討のため城
 を出て明倫館に入る。
1865年3月1日、武田耕雲斎の一党処刑(氷川清話)
1865年3月4日、老中の本荘宗茂阿部正外が、兵を率いて
 京都入り(3月2日に、阿部正外が上洛、3月4日に、本荘
 宗茂が上洛した)。
  権威を回復したい幕府と、攘夷のこともあって勅を出
 し、より世に関わる朝廷と・・、
  幕府が京へ送り込んだ一会桑の面々は、どちらかとい
 うと、幕府よりも朝廷の意向を優先しがちという状況に
 なっていた。
  そこで幕府は、その様な状況の政治工作の為に、
 二老中を京都に送り込んだ。
  京都に入った本荘と阿部の二老中は、一方で、幕府の
 歩兵隊4個大隊によって、無言の恫喝と、三十万両にも
 及ぶ工作資金の「飴と鞭の工作」によって、京の政治・
 政界を牛耳ろうとした。
  この様な幕府の行動に、二老中の行動に、対抗したの
 が、薩摩藩大久保利通だった。
  この頃の薩摩藩は・・、
  それまでの公武合体路線から転向しつつあった。
  反幕路線へと移行しつつあった。
  (だが、この頃は、まだ、薩摩藩は倒幕には至ってい
 ない)
  この頃、薩摩藩の京都での政治工作の表舞台に居たの
 が大久保だった。
  大久保は、金と武力による恫喝で、京を牛耳ろうとす
 る幕府の行動を見て・・、
  公家に対する工作を、大久保は、行ない始める(大久
 保は、3月4日に上洛していた)。
  そして、1865年3月19日に至り、朝廷は、ニ老中を呼
 びつけ、今回の行動を叱責し、逆に、将軍が上洛する様
 にと言明した。
  本来、朝廷と意思の疎通が出来ていた一橋慶喜が主導
 すべき事態であったが、
  二老中の目的は、「一会桑を、江戸に連れて帰る(一
 橋慶喜会津藩主と桑名藩主を京都より追い出す)」と
 いう目的もあったため、
  一会桑の協力も得る訳に行かず、この様な事態になっ
 たのだった。
  そして、大久保が、京都の政治の中で大きな地位を占
 めて来る、
  そして、二老中は、江戸に帰ることになる(3月19日に
 老中は、関白の叱責を受け、3月20日に、江戸に帰らされ
 た、将軍上洛の為もあって)。
  しかし、幕府は、この一件で、一会桑の役目の大事さ
 を理解した、
  これ以後、より慶喜の京都での働きを重視する。
  ここに、慶喜と大久保の両氏が、京都で火花を散らす。
1865年3月、高杉晋作(27歳)と伊藤俊輔(博文)が、洋行
 という名目で、2度目の長崎へ行った。
  グラバーと英国領事のラウダに海外渡航を相談、
  グラバーらは、高杉の海外渡航に反対する。
  幕府の第2次長州征伐に備え戦力を蓄えるため、下関
 を開港し、イギリスと貿易を行なうよう強調(グラバー
 は、あくまで商社マン)。
  高杉は、説得を聞き入れ下関に帰った。
  この後、グラバーは、日本がシッチャカメッチャカの
 戦争状態になると思って、大量の武器を仕入れたが、
  理知的な日本は、その様な事態は起こさずに、グラバ
 ーは、買った武器が売れず、破産となる。
  →1866年(慶応2年)、3度目の来崎。目的は薩長同盟
 に加わるため。銅座町の薩摩屋敷へ。
1865年4月4日、幕府へ参勤交代を緩めよと勅諚(ちょくじ
 ょう、朝廷が自ら定めたこと)
1865年4月5日、幕府が、英・米・仏・蘭の4国公使に、下関
 開港が不可能なことを申し入れた。
1865年4月17日、薩摩藩の遣英使節団が密出国した。
1865年4月20日、野村望東尼、三条実美に会見。
1865年(慶応元年)5月1日、慶応と改元
  元治1年から慶応1年になる。
  禁門の変や社会不安などの災異のために慶応に改元
1865年5月、土佐勤王党が、弾圧される。
1865年5月7日、幕府が、長州再征の部署を定めた。
1865年5月10日、将軍家茂が、長州征討のため江戸を出発
 した。
  一会桑の重要性を理解した幕府、そして、連携が成立
 した幕府。
  幕府は、一会桑からの上洛の勧めを受けたのと、長州
 藩主父子の出頭を命じたのに、いつまで経っても応じな
 い態度を示す長州藩に、再征討の必要性を感じた。
  そして、その再征討の陣頭指揮をする為に、1865年6月
 9日に、将軍・徳川家茂、自らが、幕府歩兵隊を主力とし
 た幕府軍を率いて、征長軍本営となる大阪を目指して、進
 軍を開始した。
 こうして1865年7月8日に、江戸を出発した家茂一向は、
 1865年7月14日に上洛し、参内した、そして、
  7月17日に、征長軍本営と定めた大阪城に到着し、
  8月14日に、再度、長州藩に対し重臣の出頭を命じた。
  しかし、長州側は、病気のため猶予を願うと回答した。
  長州藩は、この出頭命令を無視した。
  10月7日に、病気で無理ならば家来を上坂せよとの命令
 も出されたが、
  10月27日に、長州は、再び、病気を理由として拒否した。
  ここに至り、ついに、
  1865年11月9日に、慶喜を介し、朝廷に対して、長州藩
 への再討伐の勅許を得る為の行動が開始された(この日
 に、再征勅許を巡る朝議が開かれた)(奏請:朝廷に奏
 上して裁可を求めること)。
  これに対して、薩摩藩の大久保は、「長州藩への対処
 は、雄藩による諸侯会議で話し合うべきだ」と言った。
  幕府へ勅許が下りるのを阻止するためだった。
  また、大久保に入説された公家が反対したりした。
  しかし、朝議を牽引した慶喜は・・勅許を得た。
  長州問題への主導権を巡る「慶喜と大久保」の朝廷の
 場での意見対立が争われた。
  「慶喜と大久保」の政治工作に公家方も意見が分かれ
 た。
  政治戦は、公家達も巻き込まれて行なわれ、
  両者の政治工作に、公家方も態度が安定しなかった。
  1865年11月9日に、幕府に対し、長州藩に再討伐の勅許
 が降りた事によって、長州問題を巡る政治工作は、慶喜
 の勝利で終わった。
1865年5月13日、幕府が、長州再征布告。
..
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