(増補版)261D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1864年9月〜1864年10月)

題:(増補版)261D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1864年9月〜1864年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1864年9月、この頃の・・西郷隆盛は・・、変化が?
  西郷隆盛は、幕府との協調路線を歩んでいた。
  禁門の変の責任を問う征長軍の編成がなされると、
  蜜月であった会津藩薩摩藩は主力となり、西郷は、
 その参謀長となった。
  この時も、いち早く勅許を仰いで、長州を劣位に落と
 し、主導権を握った。
  折りから、9隻の外国軍艦が、大阪湾に来ていて、兵庫
 の開港を迫っていた。
  幕府の本音は、征長どころではなかった。
  征長軍が動き出し、西郷も加わった幕府側の軍勢が、
 圧倒的な兵力を誇って、国境線まで進出した。
  長州藩も・・これまでか・・と思われた・・が・・
  この時に、西郷の行動に・・変化が表れた。
  征長総督の徳川慶勝が到着する前に・・、
  西郷は、和平交渉を進め、長州が自ら事の決着をつけ
 るという事にしてしまった。
  そして、征長軍の解体を行なってしまった。
  ???・・・西郷に・何があったのか?
  この時、西郷の中に、反幕へ、反対への方向の心があ
 った。
  西郷は下関を訪れた。
  この西郷の奇策によって、長州藩は難を逃れ、活力を
 取り戻した。
  しかし、第二次長州征討が起きる。
  幕府は、約2年後に又、第二次長州軍を起こす。
  そして、1866年5月17日に長州に命令が下され、
  1866年7月18日に、幕府軍艦が砲撃する事により始ま
 った。
  この時、薩摩は出兵を拒否した。
  この第一次長州征討経緯については、歴史教科書には、
 「西郷隆盛(36歳)が許されて、第一次長州征伐の総参
 謀となり、
  総参謀として長州藩を降伏させた」とある。
1864年9月14日、勝海舟、姫島に到着す。既に砲撃あり(氷
 川清話)
1864年9月15日、勝海舟、姫島を去り帰阪(氷川清話)
1864年9月18日、長州藩と和議成立(9/14?)。
1864年9月18日、結局、馬関戦争(下関戦争)は、圧倒的
 な近代兵器(艦砲)の火力を持つ四国連合艦隊の勝利に
 終わった。
  1864年9月8日に、馬関戦争の講和は、高杉晋作が使者
 として赴き、アーネスト・サトウの通訳で、総司令官・
 クーパーと交渉を行った。
  1864年9月18日に、講和条約はまとまった。
  長州藩は、
  ・下関海峡の外国船の通行の自由、
  ・石炭(燃料)・食物・水など外国船の必要品の売買
   の認可、
  ・悪天候時・遭難時の船員の下関上陸、
  ・下関砲台の撤去、
  ・賠償金300万ドルの支払い
    ・・の、5条件を受け入れた。
  賠償金300万ドルは、長州藩が、幕府の命令(幕府が朝
 廷に約束した攘夷)を受けて、不本意に攘夷を実行した
 という事情があったので、
  幕府に対して請求されることになった。
  この賠償金は、幕府が、大政奉還をして崩壊すると、
 新政府へと引き継がれた。
  1874年(明治7年)まで、支払いは続いた。
  フランス軍は、馬関戦争の戦利品として青銅製の砲門
 をパリに持ち帰っており、アンバリッドという軍事博物
 館に陳列している。
  そして、明治新政府は、この江戸幕府の借金は関係な
 いと言うべきだった・・ロシアの様に・・、正直な日本、
 誠実な日本である。
  ロシアは、この様な時に、前政権の借金は関係ありま
 せんと言ったという。
1864年9月18日、英・米・仏・露四国公使と下関海峡砲撃
 事件の償金300万ドルを約したが、
  長州藩との講和談判によって、約された300万ドルもの
 巨額の賠償金は、幕府に請求されて行く。
  イギリスは、逆に、これを自分の有利に使う。
  これを交渉材料にして、フランス・オランダと共に、
 将軍・徳川家茂の滞在する大坂に艦隊を派遣し(群れを
 なして脅しにかかる)、
  幕府に、安政五カ国条約(1858年の条約)の勅許と、
 賠償金の減額と引換に、兵庫の早期開港を迫る(1865年
 11月の兵庫開港要求事件)。
  しかし、兵庫は、京都の至近であり、
  朝廷を刺激することを嫌った幕府首脳部は、やむを得
 ず300万ドルの賠償金の支払いを受け入れた。
  幕府は、150万ドルを支払い、
  明治維新後は、新政府が残額を明治7年(1874年)まで
 に分割で支払った。
  明治16年(1883年)2月23日、チェスター・アーサー米
 国大統領は、不当に受領した下関賠償金(78万5000ドル
 87セント)の日本への返還を決裁した(当然だ、イギリ
 スは懐・フトコロへ入れた)。
  300万ドルの賠償金の分配は、アメリカ、フランス、オ
 ランダの3ヶ国の船艦が、42万ドルを分け、残額258万ド
 ルは連合艦隊の4ヶ国に分けたため、米国は合計で78万
 5000ドルを得ていた。
  実際の米国の損失は、
  1.米国船ペングローブ号の日時を要した費用5日分1500
   ドル
  2.長崎に寄港出来なかった為の損害6500ドル
  3.水夫への危険手当2000ドルだった。
   なお、ワイオミング号の損害は、日本への威圧の為
 に起った事で、日本ではそれ以上の損害が発生しており、
 連合艦隊への参加は、商船タキアン号1艘のみの参加で
 64万5千ドルを得た事になっていた。
  結果、米国の損害は、合計1万ドルに過ぎなかった。
  この賠償金は、弱小日本に対する威圧によって得た、
 いわば不当なものだった。
  しかし、何と、アメリカ合衆国国務省は、日本から
 分割金を受領するたびに国庫に納めず、国債として保管
 していた。
  その実情を明治5年(1872年)、フィッシュ国務長官
 森有礼公使に伝えた事から、日本側では機会をとらえて
 は返還の要請をしていた。
  日本では、明治22年(1889年)、返還金の元利金約
 140万円を横浜港の築港整備費用(総額234万円)に充当
 する事を決定し、明治29年(1896年)5月に完成した。
1864年10月1日、幕府、参勤交代を復活。
  第一次長州征伐の戦果において、不満が残る幕府だっ
 たが、まあ、諸藩が・・、
  幕府の命令に従い・・征長軍に参加した事と、
  とにかく・・政敵である長州藩を屈服させた事によっ
 て、幕府の上層部は・・
  『今こそ幕府の権威が回復させる機会だ』・・と、判
 断した。
  その行動の始めが、参勤交代の緩和があったのを、こ
 の時に、元に戻した。
  1862年の当時、将軍後見職だった一橋慶喜と、政治総
 裁・松平春嶽の主導で行なわれた参勤交代の緩和(参勤
 の間隔を三年に1回にする、藩主の妻子の帰国を自由に
 する、幕府上層部への賄賂の廃止)をしたが・・、
  その撤回を発表した。
  参勤交代の制度を昔に戻し、幕府の権威の回復を目論
 んだ。
  しかし、予想に反し、征長軍の参加には賛成した諸大
 名だったが、この参勤交代制度の強化については、態度
 を保留した。
1864年10月11日、幕府が、将軍上洛の無事終了を祝い、市中
 の13万3,541世帯に金6万3,000両を分配する。
1864年10月11日、西郷吉之助と勝海舟、初の会見
  二人は、大阪で会見した、そして、一大共有を悟る。
  海軍操練所の解散の直前の、この日、西郷隆盛と勝海
 舟が・・、初めての会談だった。
  これは、4年後の江戸城無血開城の伏線となる。
  『歴史の巡り合わせの妙』というべき出来事だった。
  この会見について、西郷が、大久保利通に知らせた手
 紙が、明治30年に近くになってから発見され、残ってい
 る。
  「勝氏へ初めて面会仕り候ところ、実に驚き入り候ふ
 人物にて、
  最初うち明け話にて、差し越し候ところ、トンと頭を
 下げ申し候。
  どれだけ知略これあるやら知らぬ塩梅に見受け申し候。
  まづ、英雄肌合いの人にて、佐久間(象山)より事の
 出来候ふ儀は、一層も越え候はん。
  学問と見識においては、佐久間抜群のことに御座候へ
 ども、現事に候ふては、この勝先生とひどく惚れ申し候
 ・・」。
  西郷が勝のどこに惚れたかというと・・、
  この時、海舟は三つの事を打ち明けた。
  一つは、幕府には人材が居ないから、もう駄目だ、
 幕府など相手にするな、という事である。
  第二は、それより「賢明の諸侯4、5人、会盟して」
 外艦を破るべき兵力を備え、
  横浜・長崎の港を開き、堂々筋道をたてて談判すれば、
 屈辱的条約でない外交交渉もできるであろう事。
  第三は、以上の方針を実行するため、雄藩諸侯が出京
 するなら、それまで自分の力で、外国人は引留めておい
 てみせるという事、であった。
  西郷は、これで目を開かれ、長州を敵として叩くこと
 は不利である事、
  むしろ、長州と手を握り、倒幕の方向に進むべき事を
 悟った。
  「一大共有」の路線に気が付けば、海舟の言う挙国一
 致策が、問題解決の鍵だと分かるわけである。
  そして、海舟の思想・政略を一番よく受け継いでいた
 のは、海軍塾の塾頭の坂本龍馬である。
  免職されて江戸へ帰る前、海舟はこの坂本の事と、海
 軍塾の事を、西郷及び薩摩藩に面倒を見てくれるよう依
 頼した。
  (海軍塾を止めるという切っ掛けであったこの会談が、
 幕府の命運の分かれる切っ掛けともなった・・)
  海軍塾は、長崎へ移って亀山社中となり、薩摩藩・そ
 の他をスポンサーとして活動する。
  この竜馬の亀山社中が、長州へ銃を運び、長州はこの
 銃で第二次長州征伐を戦い、そして、薩摩へ米を運んだ
 (参考:氷川清話)
1864年10月11日、勝海舟が書く「西郷/海舟、初会談」
  俺が初めて西郷に会ったのは、元治1年9月11日、兵庫
 開港延期の談判委員を仰せつけられるために、おれが召
 されて京都に入る途中に、大阪の旅館であった。
  西郷は、兵庫開港延期の事を、よほど重大の問題だと
 思って、ずいぶん心配していたようだったが、・・。
  彼が言うには、「とかく幕府は薩摩を憎んで、みだり
 に疑いの目をもって、禍心を包蔵するように思うには困
 る」というから、俺は「幕府のつまらない小役人どもの
 事だ。
  幕府にも人物があろうから、そんなことは打っちゃっ
 ておきたまえ。
  かようの事に懸念したり、憤激したりするのは、貴藩
 の為には決して良くない」と言ったら、彼も承知したと
 言ったっけ(氷川清話)
1864年10月11日、幕府は、長州を滅ぼさないのか?・・と、
  また、西郷が、勝海舟に「どうして幕府は、本気で長
 州を滅ぼさないのか」と迫った時にも、
  もう幕府は、空洞化しているのだから、長州一藩を云
 々(うんぬん)するのでなく、諸藩連合で、新しい日本
 を考えて行かねばならないと説いた。
  またに、倒幕の勧めで、その結果、薩長同盟も成立し
 ている。
  勝が、最後の幕臣として主張した事は・・、
  「徳川家を守る」、
  「徳川家臣団に俸禄を保証してやる」、
  「江戸は、徳川の官僚が守る」・・という3点だった。
  勝海舟、薩摩の大島吉之助(西郷隆盛)、吉井幸助(
 友実)等来り国事を談す(氷川清話)
  この時、坂本龍馬も西郷と初対面した様だ。
  西郷は、大阪湾に来航し、神戸の開港を迫る外国軍艦
 に、うろたえる幕府に、渇を入れてやろうぐらいに思っ
 て、勝と会談した様だが、
  逆に、渇を入れられたのは西郷の方だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive