(増補版)268D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1866年5月〜1866年12月)

題:(増補版)268D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1866年5月〜1866年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1866年、大阪・江戸打ちこわし:
  江戸時代中期から、たびたびあったが・・、
  第二次征長のとき、征討令が出されて物価が高騰した。
  そのために起こった。
1866年6月13日、武州一揆武州世直し一揆
  武蔵国秩父郡名栗村で、この日に、蜂起し、19日に
 壊滅した。
  「世直し」を掲げた貧農ら約10万人余により、豪農
 に対する打ちこわしが行われた。
  打毀しは、450軒余に渡った。
  秩父(ちちぶ)郡・高麗(こま)郡・多摩(たま)郡の山村
 の百姓が、米値など諸物価の高騰に困窮し、在郷商人ら
 に米穀の安値売りを求めたが拒絶され、打毀(うちこわし)
 連中を結成して、同時に蜂起した。
1866年6月14日、国産初の蒸気軍艦・千代田型が就役した。
  石川島造船所で、初めて日本人が設計した蒸気軍艦・
 千代田型が建造された。
1866年6月25日、改税約書(かいぜいやくしょ、江戸協約)
  幕府は、英・米・仏・蘭と、改税約書に調印し、輸入
 関税の引き下げにより、
  以降輸入が急増した。
  列国の圧力のもとに、改訂された関税協定で、江戸協
 約ともいう。
  1865年11月4日、兵庫沖に集結した四国連合艦隊 (英、
 仏、米、蘭) の威嚇により、
  幕府は、兵庫開港延期の代償として、関税率の引下げ
 要求に応じるほかなく、
  1866年6月25日、江戸で、老中・水野忠精 (みずのただ
 きよ) が調印、6日後に発効(はっこう、法律や規則など
 の効力が発生すること)した。
1866年6月15日、信達一揆が起きた。
  江戸時代後期と末期に、陸奥国(むつのくに)信夫(しの
 ぶ)・伊達(だて)両郡(福島市周辺)にまたがり起こった
 大百姓一揆
  1749年(寛延2)と1866年(慶応2)に起こっている。
  この時の一揆は、物価高騰、助郷(すけごう)加重負担、
 蚕種・生糸の不良品取締りを名目にした荷改め料徴収な
 どに反対し、
  信夫・伊達両郡全域の農民らが、加担した在方商人ら
 に打毀(うちこわし)をかけたもの。
  6月15日から七日八晩にわたり49か村164戸を打毀し、
 要求を実現した。
  金原田(かなはらだ)村(伊達市)の農民思想家・菅野
 八郎(かんのはちろう)が指導者と目され、
  彼は、「世直し大明神」とよばれた。
  また、長州出兵の最中に起こった世直し騒動で、関東
 の武州一揆とともに幕府に大きな打撃を与えた。
1866年6月25日、燈台条約締結
1866年7月10日、勝海舟が、軍艦奉行に復帰した。
  長州藩と幕府の緊張関係が、頂点に達する直前のこの
 日に、
  勝海舟は、軍艦奉行に復帰し、
  老中・板倉勝静の命を受けて大阪へ向かった。
  出兵を拒否した薩摩藩と、会津藩の対立解消、および、
 薩摩藩を出兵させる約束を取り付けるという命だった。
  この任務は、成功したと、後年、海舟は語っているが、
 実際は、「薩摩藩は、拒否したまま」であった。
  また、「会津藩薩摩藩の対立も続いたまま」だった
 ため、完全に失敗していた。
  しかし、勝海舟は、氷川清話で、次のような事を言っ
 ている。
  慶応2年5月27日(1866年7月9日)に突然、(海舟の所
 に)奉書が来た。
  閣老・水野和泉守から、「明朝、礼服で登城せよ」と
 あった。
  破格に軍艦奉行に任ぜられて、すぐに大坂へ出張を命
 ぜられた。
  両三日たって、俺は大阪へ出発した。
  大坂に着いて、板倉伊賀守の言うには、長州再征の事
 について、薩州から大久保市蔵(利通)とか、岩下佐次
 右衛門とか、内田仲之助とかいう連中が来て、ひどく反
 対するから、お前、京都へ行って彼らを説き伏せてこい
 との事だ。
  そこで、俺は、かねて意見を述べて、長州征伐は決し
 て国家のために利ではない、
  大久保や岩下らの言うところが、かえって道理にかな
 っているという事を明瞭に弁じた。
  ところが、会津藩だけは、容易に俺の説に従わなかっ
 たけれど、
  色々例えなど設けて説明してやったら、後には、とう
 とう俺の意見が耳に入った。
  それで、遂に、長州とは和解するようになったのだ。
  この後も、俺は、時勢に応じて、いろいろ建白したけ
 れど、多くは役人の機嫌を損ずるばかりだった(氷川清
 話)
  勝海舟軍艦奉行再勤を命ぜられ、且つ、急用につき
 草々上坂申渡される(氷川清話)
  勝安房守義邦、軍艦奉行、慶応2年5月28日〜4年1月28
 日。(氷川清話)
1866年7月、勝海舟、京都において板倉閣老に謁して言う。
  幕府は、仏国より金幣軍艦を借入れ、内政の改革をし
 ようとの密議ありと聞く、その非道を痛論す(氷川清話)
  金幣:きんぺい、金の貨幣。
1866年7月16日、家茂が、防長大営を大阪に置く。
1866年7月17日、この日に、開陽丸が竣工し、
  1866年10月25日、榎本武揚(えのもとたけあき)ら留
 学生は、開陽丸とともに、
  オランダ・フリシンゲン港を出発、リオデジャネイロ
 アンボイナを経由して、
  1867年(慶応3年)3月26日、横浜港に帰着した。
1866年7月18日、幕府の第二次長州征伐、戦端が開く
  幕府軍艦(富士山丸など)が、長州藩領の周防大島
 を砲撃して、
  第二次長州征伐の戦闘がはじまった。
  (しかし、薩摩藩は、出兵を拒否)
  1866年9月に至って、幕府・小倉藩が全面敗北し、長州
 征伐が停止する。
  1866年10月10日、慶喜の意を受けた勝海舟と、長州の
 広沢真臣井上馨が、宮島で会談し、停戦合意が成立す
 る。
  1867年2月、ようやく両藩の和約が成立する
  この戦いは、薩長同盟が成立した中での戦いだった。
  薩長同盟には「干戈を交えても」幕府に決戦を挑もう
 とうたわれていた。
  干戈:かんか、武器。また、武力。戦争。
  西郷と大久保は、反幕から討幕へと脱皮した。
  第二次征長軍は、高杉晋作が指揮する奇兵隊の奇襲攻
 撃にあって惨敗した(1866年7月)
  将軍・家茂が急死(1866年8月29日)したことでようや
 く撤兵の緒を掴む。
  家茂が急死で、慶喜は、朝廷に運動して休戦の詔勅
 引き出し、
  会津藩や朝廷上層部の反対を押し切る形で、休戦協定
 の締結に成功した。
  ここで一橋慶喜が、徳川の宗家を継ぎ(1866年9月28日)、
 討幕派の結集を拒んだ。
  この頃になると、幕府の権威も落ち、将軍職に就くに
 は大名会議の推戴が要った。
  大久保は、朝廷を動かして、大名会議を操作しようと
 した。
  将軍空位による幕府弱体化を企図したが、事を荒立て
 ない慶喜が一歩勝り、天性の気品から公卿にも人気があ
 った。
  結局、大名会議は、形だけのものになり、慶喜は、15
 代の将軍宣下を受け、将軍の座に就いた(1867年1月10日)。
1866年7月18日、
  幕府艦隊の周防大島への砲撃が始まった。
  7月24日には、芸州口・小瀬川口、
  7月27日には、石州口、
  7月28日には、小倉口で、それぞれ戦闘が開始された。
  長州側は、山口の藩政府の合議制により作戦が指揮さ
 れた。
  この時、すでに、西郷と桂小五郎木戸孝允)が一堂
 に会して、薩長同盟の密約を結んでいた(1866年3月7日)
  坂本龍馬の斡旋であったが、西郷の事前のムード作り
 も功を奏した。
  同盟協約は、干戈(かんか、干・タテと戈・ホコの意、
 武力)を交えても、幕府に決戦を挑むとうたっていた。
  西郷と大久保は、反幕から倒幕へと変わった、脱皮し
 た。
  第二次征長軍は、高杉晋作が指揮する奇兵隊の奇襲攻
 撃に会って惨敗した(1866年7月)。
  将軍・家茂が急死〈1866年8月29日)した事で、ようや
 く撤兵の緒を掴(つか)むという状況であった。
  ここで、一橋慶喜が、徳川の宗家を継ぎ、討幕派の結
 集を拒んだ。
  この頃になると、幕府にも民主的ムードが漂って、将
 軍職に就くには大名会議の推戴が要る。
  大久保は、朝廷を動かして大名会議を操作しようとし
 た。
  将軍空位による幕府の弱体化を意図したが、事を荒立
 てない慶喜が一歩勝り、天性の気品から公卿にも人気が
 あった。
  結局、大名会議は、形だけのものになり、慶喜は、15
 代の将軍の座に就いた。
  その後も江戸へ引き上げず、国事多難を理由に二条城
 に留まった。
  巷には、慶喜東照神君家康公の再来と称える声も溢
 れていた。
  幕府は、立ち直る気配さえ見せ始めた。
  今や、世は、尊王一色であった(参考:プレジデント
 平成10年7月号)
  この様な時、西郷は大久保に言った・・、
  「下々からの世直しじゃ、長州を見てみやんせ」。
  長州は、士農工商の別なく藩民こぞって武器を手に立
 ち上がり、第二次征長軍を、完膚なきまでに破った。
  大久保は、有力諸侯を一つに束ねる事を考えた。
  海舟が示唆した雄藩連合の小手調べにもなる。
  彼は、薩摩の島津久光、越前の松平春嶽〈はるたけ)、
 土佐ノ山内容堂、宇和島伊達宗城を選んだ(四侯会議)。
  慶喜は、兵庫開港を、天皇の勅許を得られないが、外
 国公使に約束した。
  大久保は、イギリス公使・パークスに、即時、兵庫開
 港を強硬に迫られる一方で、四侯会議には断固反対して
 もらう事にした。
  しかし、慶喜は、反対する公卿たちに時世を説いて勅
 許を得た。
  慶喜は、四か国公使等の喝采を浴びた。
  西郷は、前代藩主・島津斉彬が、一橋家を嗣いだ慶喜
 を14代将軍に擁立しようとしたこともあって、
  西郷は、熱烈に慶喜を敬愛していた。
  しかし、倒幕の意思を固めていた。
  佐幕から反幕、反幕から倒幕へ。
  幕府が消滅しない限り、近代国家は生まれない。
  大久保も同じ結論になっている。
  孝明天皇崩御されると、公武合体論派は後退した。
  新帝・明治天皇は、まだ14歳(1867年1月30日.即位、
 1852年〜1912年)。
  西郷・大久保・桂は、新帝の外祖父・中山忠能を通じ
 て工作し、討幕の密勅を手にした。
  同じ日に、慶喜は、大政奉還の挙に出た(1867年11月
 9日)。
  幕府が消滅したので、密勅は宙に浮いた。
  大政奉還をしても徳川家は残る。
  竜馬が発案して、土佐藩山内容堂が演出した。
  主導権が土佐藩に奪われる事を、西郷は我慢できない
 と思った。
  禁裏の奥の小御所で、朝議が開かれ、明治天皇は、大
 政奉還に伴う王政復古を宣した(1868年1月3日)。
  西郷は、直ちに、旧幕の親藩・桑名の禁門衛兵を追っ
 て、薩摩の兵を配置に付けた。
  銃剣は、内に向け、朝議に無言の圧力をかけた。
  禁裏では、引き続き王政復古後の、初めての会議が開
 かれていた。
  西郷は、議場の外。
  大久保は、内にいるが、藩士の身分で出席し、宮中で
 は地位が低い。
  玉座近くに島津久光がいる。
  幕府は、消滅しても天皇の下に総理が徳川慶喜で、副
 総理が島津久光山内容堂あたりが収まると予測された。
  容堂が、前将軍・慶喜を出席させないのは不都合だと
 発言したことから、会議はにわかに紛糾した。
  硬骨の岩倉具視が反駁した。
  「慶喜は、速やかに官を辞し、領地を返上して、忠誠
 の証(あかし)を示すべし」。
  大政奉還を演出した容堂は激昂した。
  「勤王の志により政権を返上した徳川殿を、さらに罰
 するとは不埒(ふらち)千万なり」。
  大久保は、岩倉に同調した。
  「辞官納地の命を拒めば、追討もやむなし」。
  激越な発言も末席からでは効果が無かった。
  休憩の間に、使者が状況を伝えると、西郷は事もなげ
 に言った。
  「短刀一本あれば片付くことでごわす」。
  岩倉の席は容堂に近い。
  岩倉は、本気で容堂を刺す気でいた。
  議場は、殺気に包まれて、倒幕派の主張が容認された。
  二条城の幕臣たちに怒りが渦巻いた。
  慶喜は、暴発寸前の幕臣を鎮めて辞官納地を承諾した。
  (プレジデント平成10年7月号)
1866年7月21日(旧6月10日)、勝海舟、出立(氷川清話)
1866年7月27日、薩摩藩士・村田新八、黒田了介、山口に来
 り、藩主・毛利敬親に謁した。
1866年7月28日、第二次長州征伐(征長幕軍の敗退)
  長州藩軍は、1866年7月23日から、高杉晋作が率いる丙
 寅丸(へいいんまる)を用い、夜陰にまぎれて、幕府艦
 隊に近づき、激しく砲撃して反撃の火蓋を切った。
  1866年7月26日未明からは、長州藩の第二奇兵隊・浩武
 隊の二隊を大島占領のために投入し、
  松山藩軍と激しい戦闘を展開した。
  沖に停泊していた幕府艦隊が、長州藩軍の動きに応戦
 し、砲撃を打ち込み、戦闘は一進一退の攻防が続いた。
  激戦の末、島内の各所で、幕府軍を打ち破った長州藩
 軍の勝利となり、大島奪還に成功した。
1866年7月28日、英国公使パークス、汽船にて、横浜より鹿
 児島港に入り、藩主と会見を請う。
1866年7月、二朱金(天保二朱判)の通用を禁ず(氷川清話)
1866年8月1日、日白修好通商条約調印(ベルギー)
1866年8月2日(旧6月22日)、勝海舟、着阪(氷川清話)
1866年8月3日(旧6月23日)、勝海舟大阪城に出頭、会
 津・薩摩調停の内命を奉じ上京(氷川清話)
1866年8月4日、桂小五郎、杉孫七郎等、幕府・長州征伐の
 間に立てる外人の調停を固辞(こじ、かたく辞退するこ
 と)す。
1866年8月5日(旧6月25日)、勝海舟、先ず会津を説き、つ
 いで、薩摩・大久保市蔵等の諸氏に面会し、その征長出
 兵辞退の上書を抑え、円滑にその局を結ぶ(氷川清話)
1866年8月12日、長州藩兵、豊前小倉藩兵と衝突
1866年8月22日、長州藩石見内田に諸藩兵と戦う。
1866年8月25日、幕府、イタリアと通商条約締結。
1866年8月25日、日伊修好通商条約調印
1866年8月28日、薩摩藩主・島津茂久が、幕府に対し、征長
 の非を陳じ、その罪を赦さんことを請う。
1866年8月29日(旧7月20日)、勝海舟、家茂将軍が大阪城
 で病重しときき、号泣し長嘆息す(氷川清話)
1866年8月29日、将軍家茂が、没した(1846年〜1866年)
  将軍家茂、大阪城で死去する(昭徳院、21歳)(氷川
 清話)
  勝海舟の大恩ある家茂が、この日に、21歳の若さで脚
 気小心(衝心、心不全のこと)で急逝した。
  海舟はがっかりした。
  せめて、遺骸を軍艦に乗せて江戸までお供するつもり
 でいた所へ、長州征伐の後始末の談判のため、安芸の宮
 島へ出張を命じられ、9月29日(旧8月21日)広島に行っ
 た。
  その出発前、15代将軍として、一橋慶喜を迎える事を
 支持すると表明した。
  しかし、慶喜と海舟はウマが合わなかった(氷川清話)
  将軍・家茂が、幕長戦争のさなかに大阪城で病没する
 までの、計3年4か月余りの間に、将軍・家茂は、22か月
 も京都と大阪に滞在した。
  また、将軍・慶喜も、将軍後見職の時を含めて、その
 ほとんどを京都の政局の中で過ごした。
  この間、諸侯の上洛があいつぎ、志士が競って京都を
 目指した。
  こうして、公権力の所有者(将軍)も京都に移った形
 となり、日本の首都であると意識されるようになった。
1866年9月5日、徳川慶喜、将軍家相続に決定(9月28日説
 あり)
1866年9月7日、朝廷、慶喜の将軍家相続勅許
  将軍慶喜、相続を宣下(氷川清話)
1866年9月9日、豊前小倉落城す(氷川清話)
  小倉藩は、第一次長州征討も、第二次も参加し、第二
 次では、小倉口の先鋒として参戦した。
  戦闘は不利に展開し、長州軍が領内に侵攻して来た。
  九州諸藩は撤兵した。
  孤立した小倉藩は、この日、小倉城に火を放ち(小倉
 城自焼は、一説に、熊本藩の竹崎律次郎の勧めとも言わ
 れる)、田川郡香春(現・香春町)に撤退した。
1866年9月10日、徳川慶喜、仏国公使を通じ軍艦その他の
 兵器購入を依嘱す。
1866年9月(旧8月)、外国へ渡海、修学を許す(氷川清話)
1866年9月10日、小栗忠順が、フランス経済使節ウクレとの
 間に借款契約成立。
1866年9月24日(旧8月16日)、勝海舟、京都において長州
 へ密使を命ぜられる(氷川清話)
1866年9月25日(旧8月17日)、勝海舟、下阪(氷川清話)
1866年9月27日(旧8月19日)、勝海舟、出立(氷川清話)
1866年9月28日、ロッシュの仲介により、小栗忠順おぐ
 ただまさ、幕臣)が、フランスからの600万ドルの借款契
 約に成功。
  これを元手に、幕府の近代化・軍事力強化を目指した。
1866年9月29日(旧8月21日)、海舟、長州への使者になる。
  大坂に居た時、突然、京都から早打ちがやって来て、
 直ぐ来いと言うので、京都へ上った。
  その頃、慶喜公は、後見職であったから参内中であっ
 た。
  そのうち、慶喜公もご帰還になって、御直で、長州へ
 の使者を仰せつけられた(1866年9月24日)。
  1ヶ月中には必ず始末をつけて帰りますと申し上げ、
 一人の供も召し連れず、単身、芸州(広島)まで行った
 (1866年9月29日)。
  辻将曹が、色々周旋してくれて、宮島において双方会
 談する事になった。
  宮島へ渡ってみると、長州の兵隊が、ここかしこに出
 没して殺気が満ちていた。
  もとより、こんな事だろうと覚悟はしていたから、平
 気で旅館に泊まり込んで、長州の使者が来るのを待って
 いた。
  彼らも国論をまとめた上で、船に乗って来ると言うの
 だから、ずいぶんと手間がいったが、その間、今の長州
 の兵隊や密偵は、始終、俺の旅館の周囲をうろつき、た
 まには、遠方から旅館へ向かって発砲する者などもあっ
 た。
  しかし、俺は、ちっともこんな事に頓着しないで、旅
 館の広間に平然と座り込んで、
  日夜、使者の来るのを待っておったが、
  この頃、この辺りの婦人などは、どこかへ逃げて行っ
 てしまって、俺の旅館にも、老婆がただ一人残っておっ
 たばかりだった。
  かれこれするうちに、長州から広沢兵助など、8人の
 ものが使者としてやって来た。
  こっちは、木綿羽織に小倉はかまの小男の軍艦奉行が、
 たった一人控えているばかりだ。
  いよいよ、今日、会合という日になると、俺は、まず、
 大慈院、これが会合の場所だが、この寺の大広間に端座
 して居ると、後から広沢などがやって来た。
  しかし、さすがに広沢だけあって、少しも傲慢のふう
 が無く、一同、縁側に座ってうやうやしく一礼した。
  そこで、俺は、「いや、そこではお話が出来ませんか
 ら、どうぞこちらへお通りなさい」と挨拶すると、
  広沢は頭をもたげて、「御同席は、いかにも恐れ入る」
 と辞退するので、
  俺は、全体、ひょうきん者だから、「かように隔たっ
 ていてはお話が出来ぬ、貴方がおいやとあれば、拙者が、
 そこへまいりましょう」と言って、
  いきなり向こうが座っている間へ割り込んで行った所
 が、一同、大笑いとなって、
  「それでは御免こうむります」という事で、一同、広
 間に入って、いよいよ談判を始める事になった。
  談判と言っても訳はなく、とっさの間にすんだのだ。
  まず、俺は、よくこちらの赤心(まごころ)を開いて、
 「自分の初めからの意見は、かくかくであった。貴藩に
 おいても、今日の場合、兄弟争いをしておるべきでない
 という事はご承知であろう」という趣旨を述べた。
  すると、広沢も良く合点して、「尊慮のある所はかね
 てより承知していました」などと言った。
  そこで、俺は、断然、「私が帰京したら、直ちに貴藩
 の国境にある幕兵は一人も残らず引き上げるようにする
 から、貴藩においても、その機に乗じて、請願などと唱
 えて多勢で押し上げることなどは決してしない様にせら
 れよ」と言い放ったら、
  広沢も承諾の旨を答えて、談判もこれで決着した。
  さて、帰りには、また、辻の周旋で、えり抜きの船頭
 を雇って出帆したが、
  高砂の沖で、向こうからくる船と衝突して、ほとんど
 沈没しようとしたのを、やっとのことで、明石の浜辺へ
 乗り上げて、そこから陸を通って京都へ帰った(1866年
 10月18日)が、
  これは、出発した日から数えて、ちょうど28日から9日
 目であった。
  帰って見ると、留守のうちに一体の様子はがらりと一
 変しておって、
  わざわざ宮島まで談判に行った俺の苦心も、何の役に
 も立たなかった。
  しかし、もし、この時の始末が、俺の口から世間へ洩
 れようものなら、それこそ幕府の威信は、まったくなく
 なってしまうと思って、俺は、謹んで秘密を守って、辞
 職を願い出た。
  すると、ある老中が、中へ入って周旋してくれたため
 に、軍艦操練専務の役でもって、とうとう江戸へ帰るこ
 とになった。
  しかし、これが為に、幕府の命脈も、ちょうど1年延び
 た勘定になった(氷川清話)
  勝海舟、芸州着、ついで厳島で広沢兵助、井上聞多
 に面会、休戦及び衆議採用の大趣旨を演達す。彼承服し、
 又その国情を陳述す(氷川清話)
1866年10月(旧9月)、開成所に地理窮理兵学を置く(氷川
 清話)
  窮理(きゅうり):物事の道理・法則をあきらかにす
 ること→西洋流の学問一般、物理学、朱子学
1866年10月、イギリス公使パークスが、英・米・仏・蘭の
 4国への賠償金の代わりに、灯台を8か所に 建てることを
 要求し、幕府が承認する。
1866年10月10日、幕府、長州征伐の目的果たせず、講和成
 立。
  幕府の使節勝海舟が、宮島の大願寺に長州藩の代表
 と会見し和協す。
  将軍逝去につき、長防出兵停止の勅諭(氷川清話)
  徳川慶喜は、長州藩と休戦した。
1866年10月11日(旧9月3日)、勝海舟、広島に帰着す(海
 舟の自著亡友帖中、広沢真臣翰の後に慶応元年8月奉命、
 長州に使す云々、指名は2年8月で元年と記したのは誤り)
 (氷川清話)
1866年10月18日(旧9月10日)、勝海舟、帰京(氷川清話)
1866年10月20日(旧9月12日)、勝海舟、謁見、復命28日、
 長州の処置は公平至当を要する事を建白す(氷川清話)
1866年10月24日、高杉晋作、姫島の獄にある野村望東尼を
 救出した。
1866年10月27日、幕府が、征長軍の撤兵を命ず。
1866年11月7日(旧10月1日)、勝海舟、用向き相済み帰府
 を命ぜられる(氷川清話)
1866年11月7日、江戸市中と五街道に、荷物輸送用馬車の使
 用が許可される。
1866年11月12日、幕府吹上奉行を新設す。
1866年11月16日(旧10月10日)、勝海舟、次男四郎死亡、
 四男七郎誕生、後に、岡田氏をつぎ義徴と改名す(生母、
 小西かね)(氷川清話)
1866年11月18日、風水害による凶作で、幕府が外国米輸入・
 販売を許可する。
1866年11月21日、薩摩藩士・小松帯刀、西郷吉之助、一挙
 以て王政復古の実を挙げんと鹿児島発。
1866年11月22日、徳川慶喜が、参内して天盃を拝受す。
1866年11月28日(旧10月22日)、遊撃隊を置く(氷川清話)
 遊撃隊(ゆうげきたい)は、14代将軍・徳川家茂死後に
 結成された幕府軍の部隊。
  講武所師範や、奥詰め幕臣らによる銃撃隊の再編成に
 よって、この日に、「遊撃隊」が結成され、
  槍術家高橋泥舟や、剣客の榊原鍵吉などが頭取を務
 めた。
1866年12月2日、朝廷が、重ねて諸大名の上洛を促さる、
 病と称して上洛する者少なし。
1866年、薩摩藩士・小松帯刀、西郷吉之助、入京す。
1866年12月4日、在京諸大名参内して、徳川慶喜を15代将軍
 たらしめんとして奏請す。
1866年12月16日、江戸の大火、元乗物町より京橋八丁堀に
 至る延長21町、幅7町余延焼す
1866年12月17日、凶作と米価暴騰による窮民が増え、
  幕府が、施米などの救助のほか、強壮者の兵採用を布
 告する。
1866年12月21日、ロッシュが、徳川慶喜の依頼により幕政
 改革を提言した。
1866年12月26日、幕府が、三千石以上の者に英仏両国へ留
 学を許した。守兵の服制新兵式に改む。
1866年12月29日、三条実美ら、大宰府発、上洛出発。
1866年12月〜、慶応の改革。
  ロッシュの意見を入れ、老中の総裁制度(職務明文化)
 を採用した。
1866年、西周(にしあまね)著、『万国公法』。
1866年、福沢諭吉著、『西洋事情』初編3冊が刊行した。
  福沢諭吉「西洋事情」なる(氷川清話)
1866年、軍艦操練所は、さらに軍艦所と改称され、この年
 には、教育だけでなく幕府海軍の行政機関としての機能
 も追加されて、最終的に海軍所となった。
  操練所を海軍所と改む(氷川清話)
1866年、樺太の境界を定める。
  使節を露国に派遣し、樺太島の境界を定めさせる、箕
 作秋坪等随行す(氷川清話)
  山川浩(会津藩家老)は、慶応二年(1866年)に、幕府
 が、樺太境界議定のため、外国奉行・小出秀実らを露国
 に派遣するにあたり、
  藩主・松平容保の推薦によって、これに参与し、仏・
 独両国を経て露国に入った。
1866年、中村正直(なかむらまさなお、敬宇)等14人、英
 国に留学させる(氷川清話)
  中村正直は、渡英して帰国後、スマイルスの『セルフ
 ーヘルプ』を翻訳した『西国立志編』を出版。
  私塾同人社を設け、「三田聖人」福沢諭吉と並び、「
 江戸川の聖人」といわれた。
1866年、根岸競馬場
  総面積、6.53ヘクタール。
  一周、1764メートルの根岸競馬場を徳川幕府は創った。
  折りから攘夷運動が燃え盛っていた時だった。
  横浜・生麦村での事件や、薩英戦争などの嵐が吹き荒
 れていた。
  根岸の競馬場の建設は、外国勢力に対する幕府の理解
 の意味があった。
  明治の競馬は、外国人と金持ちなどに限られた人々の
 娯楽だった。
  春と秋に三日間前後のレースが催された。
  その日、横浜の外国銀行や貿易会社は、新聞広告を出
 して一斉休業を宣言した。
  昭和初期の入場料は、一等馬見所5円、二等馬見所3円。
  入れない庶民は外側から見物した。
  昭和17年のレースを最後に、旧海軍に接収された。
  それは、賭け事自体が白眼視されたうえ、馬見所から、
 遠く横須賀の海軍基地までが一望できたからだった。
  そこに、双眼鏡を持った外国人が集まるなど、とんで
 もない事だった。
  その様な時代だった。
  終戦後、アメリカ軍がすべてを接収した。
  接収は1969年まで続き、それまでは、アメリカ軍関係
 者のみのゴルフ場とされていた。
1866年、香港の人口が11万5000人になった。
1866年、アルミニウム電解精錬法が発明された。
1866年、アメリカ合衆国ネブラスカ州のオハマの西に、
 初めて、ユニオン・パシフィック鉄道が開通した。
  レールが、平原の真ん中に敷設された。
  この日から、インディアンの方々の地に、
  インディアンの方々に都合の悪いものが、大量に、
  そして、アメリカ合衆国に都合の良いものが・・運ば
 れて来た。
  アメリカ合衆国の白人は、文明を運んだと讃美した。
  鉄道会社に、線路の両側の6キロの土地が与えられた
(インディアンの方々に無断で)、
  そして、その地の開発が許可された(これも、インデ
 ィアンの方々に無断で)。
  新しい農業技術が、この頃、発達していて、
  その技術を持った白人・アメリカ人が、この鉄道に乗
 って、大量に、新たに、入って来た。
..
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