(増補版)264D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1865年5月〜1865年7月)

題:(増補版)264D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1865年5月〜1865年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1865年(慶応元年)1865年5月1日、長防処置。世論の沸騰
 倍する(氷川清話)
  禁門の変で、朝敵となった長州藩は、武家官位を剥奪
 され、周防・長門を支配するという正当性を失った。
  しかし、世に、その論理に疑問が呈された。
 「長防処置の一件は、当時容易ならざる御大事と存知奉
 り候。全体幕府の長防再討の妄挙は無名の師を動かし、
 兵威をもって圧倒すべき ・・云々」
  逆に、長州藩は、書を作り、識字率の高い藩内に武士
 だけでなく一般庶民にまで配布した。
  それは、こんなひどい論理で長州は征伐を受けると、
 後世にわたって正しく伝えようという行動だった。
  以下、その説明文・・、
  長州藩は、幕府の討伐軍を迎えるに至り、士族だけで
 なく百姓に至る領内各戸に本を配布した。
  容量は20ページ、製本数は36万部。
  各戸配布に至った背景には、国内第二位の寺子屋数(
 約1,400)を有し識字率が高かったことが挙げられる。
  この合議書には「のちの世の中に志があやまって伝え
 られないように、すべての人がこの文書を懐に入れ戦場
 に立つ」という記述があるように討伐により長州藩が改
 易されようとも、領民に事実を伝え語り継がせようとい
 う思惑が伺える。
1865年、5月19日、幕府が、外国奉行・柴田剛中(しばたた
 けなか。しばたごうちゅう)らに、軍制調査の目的でフラ
 ンス派遣を命令した。
  柴田剛中は、神奈川開港問題の解決や、外国人殺傷問
 題(生麦事件)、そして、通貨問題などで欧米外交団と
 の交渉の窓口となって功績をあげて来た。
  また、1862年には、幕府遣欧使節組頭として、ヨーロ
 ッパに渡り、開港・開市の延期交渉にあたった。
  そして、この年に、製鉄所建設(資材買い付け)、及
 び、軍制調査・軍事教官招聘の正使としてフランス・イ
 ギリスに派遣された。
1865年5月、勅して外国条約を許す。但し、兵庫開港を止む
 (氷川清話)
1865年5月、将軍、京都より大阪城に入る(氷川清話)
1865年5月26日、山城の緒山陵修理竣工す(12月説あり)
  戸田忠恕(とだただゆき、宇都宮藩主)は、1862年に、
 山陵修理を幕府に建議し、
  藩老・間瀬和三郎(のちの戸田忠至)・県信緝らを督し、
 近畿地方の荒廃した山陵100余ヶ所を修理し、
  1865年12月に、山陵修補の完成を告げた。
1865年5月頃、蒸気機関車
  グラバーが、上海展覧会出展中の蒸気機関車「アイア
 ン・デューク号」を輸入した。
  2両の客車を引いて、大浦の海岸通り600メートルの区
 間を走らせた。
  燃料は、長崎港外高島の石炭を使用した。
  機関車の「アイアン・デューク(公爵)号」の由来は、
 1830年9月13日、イギリスのリバプールマンチェスター
 間の鉄道が開通した時、ウェリントン公が乗車した。
  グラバーは、この公にちなみ「公爵」と名付けた。
  機関車に同乗した小島町の海運業、松島長太郎の談話
 は、
  「機関車というものに初めて乗ってみて、走り出した
 時には、ほんとうにびっくりした。
  短い時間だったが、夢見心地だった。
  試運転が何回か繰り返された。
  毎日、近郊近在から見物人が押しかけて、海岸通りは、
 黒山の人だかりだった。
  みんな“アレヨ、アレヨ”と驚いていた」。
  長崎の古老の吉田義徳の手記には・・、
  「拙者、幼少の時大浦海岸において陸蒸気を運転する
 と聞及び、直ちにその場所に走り行き見物。
  現今の税関前辺り上り松が枝橋辺りの中間を運転し或
 いは停留しおる時、
  間近く立寄り居る際何人(なにびと)か後方より我を
 抱き乗せたる者あり、其時朋友新年なるものも乗り居た
 り」
  ロンドンで発行された「鉄道タイムス」の記事:
  「ジャパン―炭水車付機関車の鉄道が長崎のバンドで
 運転中。日本人の関心を大きくそそり、遠近を問わず見
 物にやってくる」
  この後に、機関車は、大阪へ運ばれ、川口の外国人居
 留地付近の松島辺りで、レールを敷いて公開運転を行な
 った。
  また、さらに後に、横浜に送られ、3たび公衆に観覧
 させた。
  そして、アイアン・デューク号は上海に戻った。
1865年6月7日、幕府が、スイスと通商条約締結。
1865年6月23日、土佐藩坂本龍馬が、薩長両藩の和解を
 周旋し、馬関において、桂小五郎と会見した。
  非常に仲の悪い薩長を結び付けた。
  蛤御門の変で、薩摩は、長州を滅多打ちにしていた。
  また、第一次長州征伐でも、薩摩は、幕府と一緒に長
 州を、やっつけて来ていた。
  「薩賊会奸」(薩摩藩は賊で会津藩は奸物)という字
 を草履の裏に書いて、踏みつけて歩いていたほど憎んで
 いた。
  つまり、竜馬は、中岡慎太郎らと共に、この様に憎み
 合う薩摩・長州を結びつけたのだった。
  この後、桂小五郎の長州と、西郷隆盛の薩摩が会見す
 る事となる。
1865年6月28日、中岡慎太郎が、西郷吉之助と会見のため、
 鹿児島に赴いた(薩長連合の周旋)
1865年7月3日、武市瑞山(半平太)処刑された。
  武市半平太という土佐藩士は、何しろ勤王を目ざした。
  土佐勤王党を結成した。そういう男だった。
  竜馬は、この時、彼の下に加わった。
  そして、藩論も、尊王攘夷に導いて行かれたが・・、
  前藩主の山内容堂は、公武合体の立場から、この勤王
 派を弾圧した。
  半平太は投獄されて、37歳で没した(切腹)。
  贈正四位
1865年7月8日、将軍・徳川家茂が、江戸を発し、長州征伐
 に向った。後に、京都より大阪城に入った。
  長州征伐、将軍江戸城を進発(氷川清話)
1865年7月13日、土佐藩士・中岡慎太郎が、馬関にて桂小五
 郎、高杉晋作等と、薩長連合を周旋した。
  この様な苦労の結果、薩長連合は、1866年3月7日に、
 小松帯刀邸(京都市上京区)で締結される。
  薩摩藩長州藩の『政治的、軍事的同盟』である。
1865年7月14日、将軍・家茂が参内し、長州の再征を奏上す
 る。
  奏上:そうじょう、天子に申し上げること。上奏。
1865年7月18日、第二代イギリス公使ハリー・パークスが、
 長崎に、1865年6月25日に到着し、
  7月18日のこの日に、横浜に到着し、着任した(37歳)。
  (1828年〜1885年)これより18年間日本に滞在す。
  前年の四国艦隊下関砲撃事件に際しての、前任者の行
 動が、イギリス政府は、意に沿わないとした。
  そして、前任者・オールコックを解任した。
  パークスは、後任公使として任命され、この日、横浜
 に到着したのだった。
   幕府との交渉を開始するが、当時、将軍など幕閣の大
 半が、第一次長州征討で、江戸を留守にしていたため、
  パークスは、仏・蘭とともに、連合艦隊(米国は代理
 公使のみの派遣)を兵庫沖に派遣し、威圧的に、幕府・
 朝廷と交渉した。
1865年、神戸海軍操練所が閉鎖された。
  勝海舟が罷免(ひめん、職務を止めさせること、免職)
  八月十八日の政変で失脚した長州藩が、京都へ進攻し
 た禁門の変の責を問われて、勝海舟は、軍艦奉行を罷免
 された。
  さらに、土佐脱藩浪士や、長州に同情的な意見を持つ
 生徒が多かった神戸海軍操練所は、
  幕府の機関でありながら、反幕府的な色合いが濃いと
 して、翌年の1865年に閉鎖された。
  この時、操練所にいた竜馬は、同志を連れて薩摩藩
 頼り、
  薩摩藩の資金と船を借りて、亀山社中を創立した。
  勝海舟の指導通りの行動だった。
  氷川清話:勝海舟、この年は閉門、門を出ず。
  もっぱら和・漢・洋の読書に精を出す(氷川清話)
1865年、海舟の方針が、幕府に忌避されたが・・竜馬が・・
  海軍塾が潰されると、竜馬は、同志を連れて薩摩藩
 頼り、薩摩藩の資金と船を借りて亀山社中を創立した。
  海舟の指導通りの行動であった。
  竜馬は、独創の人ではない、応用の人だった。
  竜馬が実現した亀山社中海援隊の設立、薩長同盟
 大政奉還のいずれをとっても、竜馬一人のオリジナルと
 は言えない。
  竜馬にあった人たちは、開明的意見もあり、重訳(じ
 ゅうやく、一度、他に翻訳されて伝わる、直接の翻訳で
 はない)でもあり、優れてもいたが・・、
  組織の反対や自己保身や旧組織への帰属意識を捨てき
 れない、実行できないエリートであった。
  無私の精神の竜馬という一脱藩浪人が、彼らになりか
 わり、巧みに公のものとして実現に移した。
1865年7月、坂本龍馬が、伊良林の亀山に「社中」(軍事的・
 政治的かつ商業的組織)を作った。
  亀山社中のはじまり、
  薩摩藩に、藩所有の汽船を任された坂本龍馬が、同志
 と商社を設立し、通商航海業をはじめた。
  亀山社中
  1864年5月に発足した幕府の直轄施設の神戸海軍操練所
 の生徒の一部と、坂本龍馬を筆頭とする一団が母体。
  神戸海軍操練所の解散をきっかけに亀山の地で結成。
  1867年7月上旬に、土佐藩は、「亀山社中」を「海援隊
 (脱藩を許されて隊長を坂本龍馬に)と称し、藩の付属
 とした。
  坂本龍馬海援隊長としての活躍がはじまった。
  外国を視野に入れた先見的な活動が行われる。
  また、竜馬は、蝦夷地の開発事業を行なう計画を持っ
 ていたとも言われている。
  (この遺志は、竜馬の親族が継いで、北海道の空知に
 入植しているという)。
  だが、龍馬が暗殺されると求心力を失った。
  1868年6月17日、藩命により解散される。
  土佐藩士の後藤象二郎は、海援隊を土佐商会として、
 岩崎弥太郎が九十九商会・三菱商会・郵便汽船三菱会社
 (後の日本郵船株式会社)・三菱商事などに発展させて
 行く。
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