(増補版)260D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1864年8月〜1864年9月)

題:(増補版)260D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1864年8月〜1864年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1864年(元治1年)8月19日、長州藩、御所に迫る(氷川清
 話)
1864年8月19日、長州屋敷を没収
  9月19日に至り、家屋をこわす
1864年8月20日禁門の変蛤御門の変・はまぐりごもんの
 へんが起きる)
  長州藩の行動と・・攘夷勢力・・、
  長州藩をはじめとする、攘夷派の京都での勢力は後退
 した。
  志士たちは潜伏を余儀なくされた。
  1864年7月8日の池田屋事件で、攘夷派の志士たちが、
 多数の志士が・・殺害され、捕縛された。
  8月に、孤立を深め、追い詰められた長州藩は、「藩主
 の冤罪(えんざい、無実の罪、濡れ衣)を帝に訴える」
 と称して、兵を京都へ進軍させ、局面を一挙に打開しよ
 うとした。
  長州軍は、京都に会津藩桑名藩が居るのを承知で、
 強引に入京した。
  当然の結果、その行為が原因となって、会津、桑名を
 主力とする幕府側と交戦状態となった。
  長州藩は、御所にまで侵入したが、御所の守りについ
 ていた薩摩藩兵が援軍として駆けつけ、撃退された。
  長州藩は惨敗した。
  (禁門の変:メモ)
  薩摩藩会津藩が、長州藩を京都から駆逐。
  御所に発砲した長州藩が朝敵とされた。
  長州兵が京都で幕府軍に敗れる。
  禁門の変蛤御門の変、元治の変、元治甲子の変とも
 言われる。
1864年8月20日勝海舟が、蛤御門の変を語る・・、
  長州の兵隊が、京都御所を犯したのは、元治元年7月18
 日であった。
  俺(勝海舟)は、神戸の海軍仮局に居た。
  夜になると、京都の方の空が、真っ赤に見えた。
  これは、何か変わったことがあるに違いないと思い、
 観光艦に出帆の準備をさせておいたら、
  果たして、翌日、大坂から飛脚が来て、長州藩が、順
 逆を過ったったために、
  昨夜、蛤御門や、竹田街道や、伏見表で戦争があった
 という事を知らせてきた。
  そこで、俺は、すぐに船に乗って、大坂へ行ったが、
 ちょうどこの時、毛利家の嫡子・長門守が上京のため、
 13日に国元をたち、今夜か明日か、兵庫に着くという事
 であったから、
  かねて、俺の家へ隠れていた長州の竹田庸二郎と、他
 にもう一人を、神戸に残しておいて「もし長門守が着か
 れたら、昨夜の事は、ただ無謀の徒が、一時の快をとる
 ために起こしたので、決して、深い考えなどあるのでは
 ない。
  長州侯のご意見はもとより、彼らと共に、事をなさる
 というのではあるまいと、勝が申したと伝えてくれよ」
 と頼んでおいた。
  さて、21日には、大阪城で議論が沸騰し、少しも決し
 なかった。
  そこで、俺が発議して、斥候(せっこう、敵の状況や
 地形などを探ること、また、その兵士)を放って、京都
 の形勢を伺わせようとしたが、
  皆、恐れて誰も深入りしないから、
  仕方なく、俺が、自ら斥候になって、淀川に沿うて進
 んで行くと、
  上の方から、一そうの舟が三人の壮士(そうし)を乗
 せて下って来て、俺の立っている前まで来ると、三人と
 も舟を捨てて上陸した。
  俺は、どうしようかと少し狼狽したけれど、ともかく
 も、彼らのなすところを見ようと、じっと立って居たら、
 そのうちの二人は、突然刺し違えて死ぬるし、
  もう一人も、のどを突いて死んでしまった。
  俺も一時は驚いたが、「ははあ、これで長州は、既に、
 敗れたのだな」と悟った。
  さてその夜、長州の敗兵が50人ばかり、大坂へ逃げて
 来て、藩の蔵屋敷へ隠れたので、
  また城内では評議があって、諸藩の武士に命じて、焼
 き討ちさせると言う事であったのを、
  これが為に、大阪の町が灰になってはならないと思っ
 て、俺が、堅く反対したので、とうとう、屋敷を明け渡
 させるだけですんだ(氷川清話)
1864年8月20日禁門の変:メモⅡ)
  1863年の「八月十八日の政変」によって、京都を追放
 された長州藩が、
  会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して
 挙兵した。
 (日本の主導権を武力行使によって握りたいとの行動)
  京都市中において、市街戦が繰り広げられた。
  大坂夏の陣(1615年)以来の戦いだった。
  京都市中は、戦火によって約3万戸が焼失した。
  大砲も投入された。
  激しい戦闘が行われたが、長州藩は敗北した。
  この戦いによって、尊王攘夷派の真木保臣ら、急進的
 指導者の大半を失った。
  勢力を大きく後退させた。
  反対に、長州掃討の主力を担った一橋慶喜や、会津藩
 桑名藩の勢力は、協調し、その後の京都政局を主導した。
  この禁門の変後、長州藩は「朝敵」となった。
  第一次長州征討が計画され、行われて行く。
  そして、その後・・、長州藩は、政治的復権をねらっ
 て薩長同盟(1866年)が結び、
  四侯会議(1867年)においても、長州藩処分問題が主
 要な議題とされるなど、
  長州藩は、幕末の政争の中心的な位置にいた、そして、
 問題ともなった。
1864年8月のち、蛤御門の変の後の事について、勝は・・、
  物騒なことといったら・・、
  ちょっと途中で会っても、壮士が、すぐに、刀の柄(
 つか)に手をかけるという風で・・、
  斬り合いなどは、日に幾たびとなくあった(氷川清話)
1864年8月23日、☆幕府第2回の遣欧使節が帰朝した。
1864年8月24日、☆朝廷は、幕府に対し、長州追討の勅命を
 発した。
  朝廷は、禁門の変で、京都御所へ向かっての発砲を理
 由として、長州藩を朝敵とした。
  そして、幕府に対して、長州征討の勅命を下した(第
 1次長州征伐へ)
  そして、この長州征伐の流れは、1866年6月7日に、幕
 府軍艦が、長州藩領の周防大島郡を砲撃し、第2次長州
 征伐の戦闘が始まる。
  そしてまた、1866年8月に、幕府・小倉藩が、全面敗北
 し、長州征伐が停止する。
  そして、1866年9月2日に、慶喜の意を受けた勝海舟
 長州の広沢真臣井上馨が宮島で会談し、停戦合意が成
 立した。
  そして、1867年1月に、ようやく長州藩小倉藩の和約
 が成立する。
1864年8月25日、☆幕府が、長州追討の勅命を受けて西国
 21藩に出兵を命じた(第1次長州征伐)。
1864年8月25日、☆幕府が、英・仏・米・蘭に、パリ約定の
 破棄を宣告した。
  この破棄が、下関戦争の契機を与えたと言われている。
1864年8月、横須賀に造船所創設(氷川清話)
1864年8月末、勝海舟、大阪の淀川岸上で狙撃にあう、一丸
 は笠を貫く(氷川清話)
1864年9月1日、☆将軍・徳川家茂、長州親征を布告。
  多事多難な幕府は、戦費もないし、したくなかっただ
 ろう。
1864年9月4日、イギリス・フランス・アメリカ・オランダ
 の四国艦隊17隻が、戦闘隊形を整えて関門海峡に入って
 来た。
  (日本のただ一つの藩を・・報復するため・・やろう
 と呼び掛け・・群れを作って・・目には目をだ・・)
  生物学的に、弱い、草食動物が、群れを作るとある。
  列強諸国は、強がりを言っているが、心根は草食動物
 なのだ。
  だから、インドの方々や、中国の方々へ、また、アジ
 アの方々へ、弱いと見れば、ハイエナの様に群れて、む
 しゃぶりつく・・一面・・卑怯・・武士が一番、嫌う事、
  『日本の様な武士道精神』が無い国なのだ・・、
1864年9月5日、☆奥村五百子(おくむらいおこ)男装し、
 危険を賭して、馬関の奇兵隊本陣へ使者として到着。
  奥村五百子:(1845年〜1907年)社会事業家、愛国婦
 人会の設立者。
  肥前唐津の仏教僧の娘(東本願寺)。
  北清事変の戦場の悲惨さを見て、傷病兵の看護を志し、
 そして、行う。
  また、遺族の方々へも保護をし、心を配る。
  高杉晋作との交友もある。
1864年9月5日、下関戦争(馬関戦争)(〜7日)
  長州藩アメリカ・イギリス・フランス・オランダの
 間に起きた攘夷による大砲を使った戦争。
  これは、1863年1864年の二度ある。
  その呼び方は色々あるが
  1863年:原因となった事件、下関事件、
  1864年:馬関戦争、四国艦隊下関砲撃事件、、下関戦
 争と言われている。
  この、2回目の後段の戦い(米英仏蘭と長州藩との戦い)
 は、前年からの海峡封鎖を受けていたイギリスが、
  長州藩に対して、報復しようと決定した事から始まっ
 た。
  イギリスは、アメリカ・フランス・オランダの三国へ
 一緒にやろうと、参加を呼びかけた。
  そして、都合、艦船が17隻で、連合艦隊を編成してや
 って来た。
  同艦隊は、1864年9月5日から8月7日にかけ、馬関(現
 下関市中心部)と、彦島の砲台を砲撃した。
  そして、各国の陸戦隊が、これらを占拠し、破壊した。
  戦力:連合軍・軍艦17隻、5000人、死傷者62人?
     長州藩・軍艦4隻、2000人、死傷者47人?
  このイギリス海軍中将・クーパーを総司令官とする四
 国連合艦隊の目的は、
  『長州藩に報復(目には目を)』すること。
  そして、『開国』させること・・であった。
  長州藩を、見せしめ的に攻撃するという大きな目的が
 あった。
  この時の長州藩は、この「四国連合艦隊の攻撃」と、
 「幕府による長州征伐」という二つの戦いの、内憂外患
 状態だった。
  長州藩としては、何とかして外国との戦争は回避した
 かった。
  豊後水道の姫島に集まっている四国連合艦隊(旗艦は
 ユーリアラス号)に、伊藤俊輔伊藤博文)と松島剛蔵
 を送って、和平交渉を行おうと努力した。
  しかし、既に、艦隊は出航し、交渉はならなかった。
  そして、その後にも、前田孫右衛門、井上聞多(井上
 馨)を送ったりしたが、事すでに遅しの状況だった。
  1864年9月4日に、四国連合艦隊の来襲が近いことを知
 った藩は、海峡通航を保障する止戦方針を決め、
  再度、伊藤を漁船に乗せ、交渉のため艦隊に向かわせ
 た。
  しかし、この時も、艦隊は、既に戦闘態勢に入ってお
 り手遅れとなった。
  この戦いにおいて、陸上戦では、長州藩の諸隊(特に
 奇兵隊・膺懲隊)が奮戦し、
  西欧諸国の軍隊と対等に戦った。
  1864年9月5日午後に至り・・、
  四国連合艦隊は、長府城山から前田・壇ノ浦にかけて
 の長州砲台群へ、猛砲撃を開始した。
  長州藩兵も必死に応戦した。
  前田砲台・州岬砲台・壇ノ浦砲台などが善戦した。
  だが、火力の差は圧倒的であった。
  砲台は、次々に粉砕され、沈黙させられて行った。
  艦隊は、前田浜で、砲撃支援の下で、陸戦隊を降ろし、
 砲台を占拠した。そして、砲を破壊した。
  1864年9月6日になって、
  壇ノ浦砲台を守備していた奇兵隊軍監・山縣狂介は、
 至近に投錨していた敵艦に、砲撃し、一時、混乱に陥れ
 た。
  だが、艦隊は、すぐに態勢を立て直し、砲撃をしかけ、
 そして、陸戦隊を降ろし、砲台を占拠し、砲を破壊する
 とともに、
  一部は、下関市街を目指して、内陸部へと進軍して行
 った。
  長州藩兵と交戦状態となった。
  1864年9月7日になり、
  艦隊は、彦島の砲台群を集中攻撃し、
  陸戦隊を上陸させ、砲60門を鹵獲(ろかく、敵の軍用
 品・兵器などを奪い取ること)した。
  1864年9月8日までに、
  下関の長州藩の砲台は、ことごとく破壊された。
  陸戦でも、長州藩兵は、旧式銃や槍弓矢しか持たず、
 新式のライフル銃を持つ連合軍を相手に敗退した。
  長州藩死者:18人・負傷者29人、計47人
  連合軍は、死者12人・負傷者50人、計62人だった。
  下関事件(下関戦争、馬関戦争、4国艦隊下関砲撃事
 件)
  連合軍兵士約2千人、軍艦17隻対して、
  長州藩士約1500人、軍艦6隻。
  損害(別資料)は、死傷者:連合軍62人に対して、長
 州藩47人
  1864年9月14日、長州藩が、4国艦隊と講和5条件を結
 んだ(9/18?)
  1、下関海峡の外国船の通航の自由
  2、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し
  3、悪天候時の船員の下関上陸の許可
  4、下関砲台の撤去
  5、賠償金300万ドルの支払い
1864年9月8日、☆長州藩高杉晋作、杉孫七郎、井上聞多
 伊藤俊輔等、英国水師提督と講和会議。
1864年9月12日、勝海舟、英・仏・蘭の軍艦が数隻、豊後姫
 島に滞泊し長州と事を起こしそうないなるので行って止
 めよとの命を受ける(氷川清話)
1864年9月13日、長州征伐
  長州征伐の諸藩の攻め口が定められた。
  幕府は、長州藩主・毛利敬親と養嗣子の定広(後の元
 徳)に、
  禁門の変を起こした責任を問い、
  そして、伏罪をさせるため、
  尾張藩・越前藩および西国諸藩より征長軍を編成した。
  動員された藩の数は、最終的に35藩、総勢15万人。
  1864年9月13日、諸藩の攻め口が定められ五道(芸州口、
 石州口、大島口、小倉口、萩口)より、萩城のある萩で
 はなく、藩主父子のいる山口へ向かうと決定した。
  征長総督は、尾張藩の前々藩主である徳川慶勝(7日に
 紀州藩徳川茂承より変更)。
  副総督は、越前藩主・松平茂昭が任命された。
  総督は、征長について将軍より全権委任をうけ、征長
 軍に対する軍事指揮権を掌握した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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