(増補版)258D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1863年6月〜1863年12月)

題:(増補版)*258D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1863年6月〜1863年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1863年文久3年)6月、西ノ丸火災(氷川清話)・・再建
 が成らず
  この年の江戸城焼失を以って・・幕末の政治的混乱と
 幕府の財政不足などが理由で、再建が不能となる。
  この火災で・・表・中奥・大奥のすべてが焼失した。
  焼け残った本丸の櫓や、門なども、富士見櫓、富士見
 多聞櫓、北桔橋門の高麗門を残して・・明治初年に解体
 された。
  本丸御殿は、1863年の焼失で再建不能へ、
  二の丸御殿は、1867年の焼失で再建不能
  西ノ丸御殿は、1873年の消失で廃止、
1863年6月13日、勝海舟、将軍に従い順道丸で大阪を出発
 (氷川清話)
1863年、将軍、神戸軍艦操練所の地を自ら指画す(氷川清
 話)
1863年6月16日、勝海舟と将軍が江戸城に帰着(氷川清話)
1863年6月24日、生麦事件などの賠償金の全額が、イギリ
 ス公使館へ輸送された。
  生麦一件の償金を英国に出す(氷川清話)
  横浜の商人の取引は、メキシコ・ドルによる支払であ
 った。
  賠償金も同様で、生麦事件の賠償金が10万ポンドであ
 ったので、メキシコ・ドルで40万ドルを超える金が支払
 われた。
1863年、この頃の竜馬・・、
  竜馬は、勝海舟の人脈を頼って・・、
  松平春嶽、そのブレーン(頭脳)の横井小楠薩摩藩
 のリーダー・西郷隆盛開明的な幕閣・大久保一翁など
 と会う機会に恵まれた。
  竜馬は、さらに、見識を広めて行った。
  竜馬は、利己心があまりないので、誰もが、胸襟を開
 いて会ってくれた。
1863年7月16日、小笠原の率兵、上京
  老中格小笠原長行の率兵着坂、
  老中格小笠原長行が、千数百名を率兵して着坂、大
 坂に上陸した。
  1963年6月24日に、生麦事件償金を独断で交付した老
 中格・小笠原長行は、
  1863年7月4日の慶喜の命により、償金交付を朝廷に弁
 明するためとして、
  1863年7月11日に、幕府が育成していた洋式軍隊1600
 名を引き連れて、江戸を出立した。
  しかし、すぐには京都へ向かわず、横浜に滞在し、
  軍艦5隻(蟠龍丸、朝暘丸、鯉魚門丸、イギリス船エル
 ギン号、ラージャー号)とイギリス艦も借り、
  歩兵と騎兵を合わせて約1600名を率いて乗船し、海路
 大坂へ向った。
  その目的は、武威をもって攘夷の朝議を一変しようと
 した・・という説があり、
  また、足止めされている将軍を、尊王攘夷派から警護
 し、迎え取るためだ・・という説もある。
  また、イギリスとフランスの両国の軍事援助に支援さ
 れた打倒尊攘急進派クーデターだった・・という説もあ
 る・・が、確定的なことは不明・・、
  幕府は、前年の1962年に、将軍の上洛の下準備として、
 京都・尊王攘夷の急進派勢力を抑えるため、
  当初は、慶喜らに大兵を率いさせての武力制圧を考え
 ていたこともあった・・が、
  公武合体派連合策・・
  総裁職の松平春嶽からの公武合体派連合策(薩摩藩
 の公武合体派大名・公家が連携して、公武一和の国是を
 決定する)・・の提案があって、
  この策で臨む事に決定し、武力制圧計画の実現はなさ
 れなかった。
  ただ、小笠原は、のちに、公卿の中に内応する人がい
 たため上京したが、
  その人が、不慮の禍害を受けたため蹉跌(さてつ、物
 事がうまく進まず、失敗すること)した・・と語ったと
 されており、
  これは、1863年7月5日に、暗殺された姉小路公知(あ
 ねこうじきんとも)と謀(はか)るところがあったと推
 側されている。
1863年8月15日、薩英戦争(〜8月17日)
  8月6日に、イギリス公使代理のジョン・ニールは、薩
 摩藩と交渉するため、横浜に停泊していた軍艦7隻を、
 鹿児島へと向け・・出港した。
  1863年8月11日に、鹿児島湾に到着、
  鹿児島城下の南、約7キロメートルの谷山郷沖に投錨し
 た。
  1863年8月12日、イギリス艦隊は、さらに前進し、鹿
 児島城下前之浜・約1キロメートル沖に投錨した。
  艦隊を訪れた薩摩藩の使者に対し、イギリスは、国書
 を提出した。
  イギリスは、違法にも2万5000ポンドを要求した。
  薩摩藩は回答を留保し、翌日の鹿児島城内での会談を
 提案した。
  1863年8月13日、イギリスは城内での会談を拒否、早
 急な回答を求めた。
  薩摩藩は、「生麦事件についての責任はない」とイギ
 リスへ回答した(この回答が当然で、日本の規律であり、
 慣習である、これを知らなかったイギリスに落ち度があ
 る。
  逆に、この最大の無礼である行為を、イギリスは、謝
 罪しなければならない)
  1863年8月14日、ニール代理公使は、要求が受け入れ
 られない場合は武力行使に出ると通告した。
  薩摩藩も開戦はやむを得ないと判断した。正義はこち
 らにあると判断した。
  1863年8月15日、夜明け前に、イギリス艦5隻が、薩
 摩藩の艦船の3隻へ接舷し、イギリス兵50〜60名が乱入
 した。
  薩摩藩兵を殺傷した。
  そして、薩摩藩の艦船を奪取した。
  午前10時に至って、捕獲した3隻を、イギリスは、自
 船の舷側に結わえ、牽引し、桜島の小池沖まで曳航した。
  薩摩藩は、これを、イギリスの盗賊行為であるとして、
 薩摩藩の7か所の砲台へ、攻撃命令を出した。
  正午、湾内各所の砲台へ薩摩藩本営からの追討令の急
 使が出た。
  そして、最も近い天保山砲台の火が噴いた。
  狙いは、イギリス艦隊の旗艦・ユーライアラス号に向
 けられた。
  その攻撃で、攻撃命令が出された事を知った各砲台の
 火が噴いた。
  桜島側の袴腰砲台は、眼下のイギリス艦・パーシュー
 ス号に向け砲撃した。
  パーシューズ号は命中弾を受け、慌てて、錨を上げる
 暇もなく、艦長は、錨の切断の命令を出し、その場から
 逃走した。
  キューパー提督(海軍少将)は、薩摩船3隻の焼却命令
 を出した。
  イギリス兵は、3隻から貴重品を略奪し、この3隻に砲
 撃をし、そして、放火した。
  3隻は沈没した。
  この後、イギリス艦隊は戦列を整え、薩摩藩砲台を砲
 撃し、対する薩摩藩砲台からも盛んなる応戦の砲撃が行
 われた。
  接近する艦隊には、小銃隊による狙撃も行われた。
  薩摩藩の大砲8門が破壊された。
  この時、暴風雨(台風)が吹き荒れていた。
  この暴風雨の影響で、イギリスは、近代兵器の長距離
 砲の利点が十分に活かせなかった。
  射程距離の劣る薩摩藩の大砲であったが、荒天によっ
 て、接近して狙いをつけざるを得ないイギリス艦に対し
 て善戦した。
  イギリス艦船に、この荒天による機関故障による操船
 の間違いなども発生し、
  また、艦船内への浸水が起きたりし、退却せざるを得
 ない状況も起きた。
  薩摩側へ有利な戦闘展開となった。
  イギリス側としてみれば、予想以上に薩摩藩との戦い
 に苦戦をし、大きな損害を出した。
  午後3時前、薩摩藩の辨天波戸砲台のボンベン砲の弾
 丸1発が、旗艦・ユーライアラス号の甲板に命中した。
  軍議室(艦橋)で破裂・爆発が起き、居合わせた艦長・
 司令・次官司令などの士官が戦死した。
  キューパー提督(司令官)は、艦長や指揮官などと居
 合わせたが、打倒されたり、転落したりしたが、左腕を
 負傷したにとどまり、幸い命は助かった。
  この様な状況で戦いは続いた。
  薩摩藩の側も、砲台・集成館(洋式兵器工場)を破壊
 され、多くの藩士が命を失った。
  圧倒的なイギリスの火力・装備で、叩かれた薩摩藩
 ったが、
  薩英戦争を戦って、薩摩藩が得た最大の教訓は、
  『武力をもって西欧列強を攘夷することは、現状の幕
 府・諸藩の力では不可能である
  (まずは西欧の先進的な兵器・技術・知識を導入して
 国力を充実強化しなければならない)』という現実認識
 だった。
  また、イギリスも、想像以上の薩摩藩(日本)の強さ
 を見直したのだった。
  戦後、薩摩藩は、急速にイギリスに接近して、武器・
 軍艦の購入を交渉するようになって行き、
  薩摩藩の『軍備・軍隊・工場の近代化』は、イギリス
 の支援を受けて進められて行った。
  薩摩藩は、武力で西欧諸国を攘夷することを断念する
 が、西欧諸国の先進的な技術や兵器、知識(科学)を積
 極的に導入し、国力を増強する『西洋文明の利点・優位
 の活用』こそが、薩摩藩、そして、日本の将来に役立つ
 と確信した。
1863年8月15日、薩英戦争・その2
  英船、薩摩と戦う(鹿児島戦争)(氷川清話)
  前年に起きた生麦事件の賠償と実行犯の処罰を求めて
 イギリス艦隊が、鹿児島湾(鹿児島市錦江湾)に侵入。
  薩摩藩はこれに応じず、交戦となった。
  薩摩藩は、かなりの善戦(薩摩側の民間人を含む死傷
 者9名に対して
  イギリス側の軍人死傷者63名をするが、鹿児島城下
 (焼失1/10)、藩の工場や民家へのなどへの大きな被害
 を受けた。
  しかし、これによりイギリスは、薩摩の戦力の優秀さ
 を知り、薩摩と直接の和平を結ぶことになる。
  この和平により薩摩は、イギリスからの情報や武器の
 入手が容易となり、薩摩は更なる軍備の充実に努めるこ
 とになり、聡明なる薩摩は、それを行った。
  一方、長州や薩摩の攘夷実行の現実を見た幕府は、
  1863年8月21日、国の方針が確定する前の外国船への
 砲撃は慎むよう長州藩に通告した。
  1863年8月29日には、中根一之允らを、軍艦「朝陽丸」
 で派遣し、
  無断での外国船砲撃や小倉藩領侵入について長州藩
 詰問した。
  ところが、長州の奇兵隊員たちは、アメリカ軍との交
 戦で失った長州艦の代用として、幕府の「朝陽丸」の提
 供を要求した。
  そして、1863年9月21日に、「朝陽丸」を拿捕した。
  さらに、1863年9月1日〜2日に、中根一之允らを暗殺
 した、幕府への明らかな挑戦(朝陽丸事件)
1863年、その、長州藩は・・、
  江戸期を通して、庶民を政治方針のために動員できた
 藩は長州藩しかなく、
  庶民軍である奇兵隊は、盲人まで太鼓を打ったという
 気質の中で成り立っていた。(街道をゆく・1)
1863年、朝廷が攘夷祈願、攘夷論最高潮。
  天皇、加茂社に行幸(氷川清話)
  賀茂、石清水に行幸される。
1863年8月、洋書調所を開成所と改め、数学局を置き、神
 田孝平が教員となる(氷川清話)
1863年8月、長崎に、清・蘭・英・仏・露の語学所を置く
 (氷川清話)
1863年8月、市川文吉、露に留学(氷川清話)
1863年緒方洪庵が没した(1810年1863年)(53歳)
  江戸後期の蘭学者・医者・教育者。
  備中(岡山県の西部)の人。
  江戸・長崎で蘭学を学び、
  1838年に、大坂に蘭学塾(適塾)を開き、大村益次郎
 福沢諭吉橋本左内らを育てた。
  1862年に、江戸に出て、幕府奥医師、兼、西洋医学
 頭取となる。
  種痘の普及に尽力、蘭学の発展に貢献した。
  訳書「病学通論」のほか、著書は多数におよぶ。
1863年文久銭を鋳る(氷川清話)
1863年8月、勅許を下し攘夷の指揮を幕府に委す(氷川清話)
1863年8月、和州一途、追討を諸侯に促す(氷川清話)
1863年8月、伊東圭介、職を辞す(氷川清話)
1863年8月、勝海舟、海陸備向取扱を命ぜられる(氷川清
 話)
1863年9月、勝海舟、幡龍丸修繕慰労として時服3を賜う
 (氷川清話)
1863年9月19日、攘夷親征論・・本当の目的は倒幕?
  朝議において、孝明天皇は、攘夷親征論を時機尚早だ
 と断固退け、
  代案として中川宮に西国 鎮撫使を命じることにしたい
 と強く述べられた。
  暗殺や放火の噂が絶えない京の都。
  尊王攘夷を口にして狼藉をはたらく浪人が溢れ、治安
 は完全に乱れていた。
  朝廷内では、天皇自ら兵を率いて攘夷を行うべしとの
 方針に傾き、行幸親征の実施を決定していた。
 『徳川幕府が攘夷期限の五月十日以降、攘夷を実行でき
 ずにいる。ならば天皇自らが御親征し、挙国一致で攘夷
 に臨むのだ』
  そう朝議で決定した。
  それに対して、幕府側の一橋慶喜松平容保は、「武
 力攘夷が実行できないのは、異国に対抗しうるだけの軍
 事力ないからだ、時期が早過ぎる。
  もし負けるような事にでもなえば、皇威を失墜する事
 になるではないか」・・と進言していた。
  だが、尊王攘夷派の本当の目的は、倒幕のための挙兵
 であった。
  朝議を操っているのは三条実美であり、その背後には
 尊王攘夷の巨魁・真木和泉
  そして、長州藩がいて、彼等が完全に朝廷を牛耳って
 いた。
  しかし、当の孝明天皇・御自身の心の中は別だった。
  「神国の国体を護るため攘夷を望むが、公武合体の象
 徴として和宮を嫁がせた、徳川幕府を見限るつもりはな
 い。倒幕は望んでもいない」
  それが天皇の思いだった。
1863年9月30日(旧暦:8月18日)八月十八日の政変
  会津藩薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩
 主とする尊皇攘夷派を京都から追放したクーデター事件。
  七卿脱走(氷川清話)
  尊王攘夷論者が失脚、七卿の都落ち天誅組の変が起
 きた。
  長州藩は、倒幕一辺倒の過激さから京を追われ、七人
 の公卿を擁して西に落ちのびた。
  追ったのは会津と薩摩、
  会津は、幕府に忠誠を誓う佐幕派の筆頭。
  この二藩は、賊と奸と言われた。
  薩賊会奸、薩摩の賊、会津の奸物の意。
  薩摩は、公武合体派であるので、会津に接近した。
  長州藩から見れば、1862年から、長州藩を中心にして
 攘夷派勢力の活動を活発にした、
  そして、この年、長州藩による外国船砲撃事件をした。
  ここで、天皇に大和行幸をして戴き、また、攘夷親征
 の詔勅を発して戴いて、一挙に倒幕・王政復古に突き進
 みたいと画策した。
  これに、危機感を抱いた薩摩藩会津藩を中心とする
 公武合体派が、中川宮を擁して、朝議を覆して、長州藩
 と急進派公卿を一挙に朝廷から追放した。
1863年10月、勝海舟、神戸を出、浦賀に漂泊、順動丸に令
 し一橋公を乗せ上京させる。自分は陸路帰府す(氷川清
 話)
1863年10月 長崎・江戸・京都市中に天誅の張紙
1863年10月31日、天誅組の変が終わる
  天誅組が、1863年9月29日に組織されたが・・、
  10月31日に至り・・掃討され、急進攘夷派公卿の中山
 忠光は、天誅組の解散命令を出した。
  天誅組の変(てんちゅうぐみのへん)が終わった。
  吉村寅太郎をはじめとする尊皇攘夷派浪士の一団(天
 誅組)が、公卿・中山忠光を主将として、大和国で決起
 し、
  後に、幕府軍の討伐を受けて壊滅した。
  幕府は、この時、討つために、彦根藩紀州藩、伊勢
 の津の藤堂藩の兵を差し向けた。
  その列が、朝から晩まで続いていたそうですと司馬遼
 太郎は現地で話を聞く(街道をゆく・8)
  吉村寅太郎・・勤王倒幕の士、天誅組を大和に起こす。
  士は、その総裁となり、幕府軍を相手にさんざん戦っ
 た・・
  が、しかし、時勢まだ熟せず、吉野山中の鷲家口(わ
 しかぐち)で、身に数弾をあび死す。
  時が、少し早かった。
1863年11月4日、勝海舟、登城(氷川清話)
1863年11月15日、本丸火災(氷川清話)
1863年11月27日、将軍、再び、海路上洛、鎖港談判。
  使節・池田筑後守、河津伊豆守、河田相模守、外国に
 出発す(氷川清話)
  幕府は、将軍の上洛を辞退し、後見職の慶喜に上京さ
 せる旨を奏上した。
  この将軍上洛の辞退の公の理由は、横浜鎖港談判だっ
 た(9月14日に開始)
  横浜鎖港の件を決着しないで上洛できないからだった。
  『徳川慶喜公伝』によると、
  幕臣は、「将軍一代の2度の上洛はすべきでない」「幕
 府の財政が欠乏している(上洛費用が多大)」と、上洛
 に異議を唱えた。
  だが、本音は、春の将軍上洛時の恥辱を再び受けるこ
 とを恐れたからだった。
  慶喜は、10月26日に、江戸を発ち、海路をとって、下
 田・清水等の諸港を経て、ゆっくり京都に向かった。
  1863年11月12日に、兵庫に着港し、
  1863年11月21日に、大坂城に入った。
  そして、入京したのは、1863年11月26日だった。
  また、幕府は、将軍上洛を、一度、辞退したが、
  朝廷は、再度、公武合体への将軍上洛の意を示した。
  1863年11月5日に、幕府は、朝廷へ「上洛すること」
 を奉答(ほうとう、謹んで答えること)した。
  徳川慶喜は、この後、一会桑政権の体制づくりをして
 行く。
  一会桑政権(いちかいそうせいけん)は、幕末の政治
 動向の中心地の京都において、
  徳川慶喜禁裏御守衛総督一橋徳川家当主)、松平
 容保(京都守護職会津藩主)、松平定敬京都所司代
 桑名藩主)の三者により構成された体制をいう。
1863年11月26日、一橋慶喜上京(氷川清話)
1863年徳川慶喜、上洛
  将軍上洛に先立って、徳川慶喜が上京し、尊王攘夷
 勢力と対抗した。
  朝廷の攘夷(じょうい)督促に対して、自ら開国を説く
 べく上洛(じょうらく)して、朝廷と折衝したが、かえっ
 て尊攘派勢力の工作によって、攘夷期日を5月と約束させ
 られて江戸に帰った。
1863年12月27日、将軍上洛、艦隊を作って将軍が上洛
  14代将軍(家茂)が、上洛せられる時は、幕府では、
 例の通り、陸路・東海道を御通過になるという予定であ
 ったけれども、
  俺は、日本は海国であるから、国防のためには、海軍
 を起こさねばならぬ。
  しかして、海軍を起こすには、将軍などが率先して、
 これを奨励して下さらなくてはいけない。
  それ故、この度の御上洛も、諸藩の軍艦を従えて、海
 路よりご出発あるが宜しかろうと、老中などに建議した。
  ところが老中なども、至極もっともの事ではあるが、
 諸藩から、各々その船を出させるのが、なかなか困難だ
 と心配するから、
  「それは、私がきっと引き受けます。しかしながら、
 いったん私にお任せある以上は、種々些細の事まで、あ
 なた方よりお指図があっては困ります」と言ったら、
  それは承知だから、一切お前に任せることになった。
  そこで、俺は、直ちに、諸藩に命じて、このたびは、
 将軍が、海路よりご上洛になるから、各々、その艦船を
 出してお供をせよと達した。
  ところが、西洋型の船を所有する藩は、皆、一そうず
 つを出したが、
  また、中には、幕府の船を借りて、乗組員だけは、そ
 の藩から出してきたものもあった。
  そのとき、集まった船と船将とはこの表の通りだった。
  幕府(翔鶴丸、朝暘丸、千秋艦、第一長崎丸、幡龍丸〉
  越前(黒竜丸)、薩摩(安行丸)、佐賀〈観光丸)、
  加州(発起丸)、南部(広運丸)、筑前大鵬丸)、
  雲州(八雲丸)。
  乗組員は皆、「私どもは船の事は誠に未熟であるから、
 万事指図を頼む」と言うから、
  「よしよし、俺が引き受けた。心配するに及ばない」
 と言って、俺の部下から練達のものを3人ずつ各藩の船
 に乗り込ましたところが、彼らも大いに喜んだよ。
  そのうえ、彼らは、藩から相当の手当てをもらってい
 る上に、幕府からも幕船同様に、給料を与えたから、ち
 ょうど二重に給料をもらう都合で、益々喜んだよ。
  将軍が、多数の軍艦を率いて、上洛するという事は、
 前古未曾有の事で、実に壮観であったよ。
  しかし、前古未曾有の事であるだけ、俺は、責任は重
 く、且つ、諸藩の船もあることだから、俺は、終始マス
 トの上に登って、艦隊の全部を見渡していたが、大阪へ
 着くまで、一週間というものは、ほとんど眠らなかった
 よ。
  しかし、ともかく、無事に大坂に着いて、それから、
 将軍は上洛せられたが、ずいぶん骨が折れたとはいえ、
 これも、日本は海軍を盛んにせねばいけないという考え
 から、幕府や諸藩の海軍を奨励するつもりなのさ(氷川
 清話)
  勝海舟、将軍海路再び上洛。これに従う。汽船、翔鶴
 丸で品川を出帆(氷川清話)
1863年12月28日、勝海舟浦賀に滞泊。将軍が手酌で酒
 を賜い、又、紋付小柄、及び、目貫を賜い、海上すべて
 委任の旨、厚い裁旨あり(氷川清話)
1863年近藤勇は、将軍・家茂の上洛に当たり、その警備
 役に加わる。
  後、京都に残って、この年、新選組を組織した。
1863年高杉晋作は・・、
  万延元年から3年後、長州の高杉晋作が、京都で将軍の
 行列を懐手(ふところで)をしながら見物し、ちょうど
 芝居の役者にでも声を掛ける様に「いよう、征夷大将軍
 と大声ではやした。
  それを聞いた将軍のお供の旗本たちは、悔しさに暗涙
 (あんるい)にむせんだと言う。(竜馬がゆく・2)
1863年、浪士、京都で足利将軍木像を壊す(氷川清話)
1863年松平春嶽、京都を去る(氷川清話)
1863年、天気図
  ルヴェリエ(フランス)が、この年、気象観測収集の
 ために通信網をつくり、これに基づいた天気図が刊行さ
 れた。
1863年、グラバーが、マッケンジーの南山手1番地の土地
 を引き継ぎ家(グラバー邸)を建てた。
  1864年に、艦船や、武器の取引、不動産、地金取引、
 金融代理店的な仕事もはじめた。
  後に、若い武士たちに、銃や艦船などの機械類を、大
 量に販売した。
  そして、茶、絹、銀など、各地方の特産物を輸出した。
  日本での主な取引相手は、倒幕を画策する、西南諸藩
 で、維新前の政治情勢に深くかかわった。
  後に、横浜や、上海に支店を置いた。
  1867年に、淡路屋ツルと結婚し、翌年に、女の子が生
 まれ、ハルと名づけた。
  1870年に、イギリスの本国政府が、グラバー商会に対
 し、破産を宣告した。
  理由は、この年が、日本の政情が不安定であったので、
 大量の武器・弾薬の需要があると見込んで、大量の買い
 付けをしたのだった。
  知恵ある日本人は、大戦争にならずに事を治めたのだ
 った。
  江戸城無血開城など・・、
  負債が、数十万ドル・・、
  その後、三菱の顧問になることが出来、高給を得て、
 新事務所を、1871年に、神戸に作った。
  また、1885年に、キリン麦酒株式会社の前身会社の設
 立に奔走している。
  1897年に、日本人の妻のツルとともに東京へ転居した。
  1899年に、胃がんのため東京のグラバー邸で妻のツル
 が没し(49歳)、長崎の太平寺に埋葬された。
  1908年に、日本政府から外国人には破格の勲二等旭日
 重光章が贈られ、功績が讃えられた。
  1911年に、グラバーは、73歳で慢性腎炎の発作に襲
 われ、東京にて没した。
  長崎の新坂本墓地に埋葬され、妻ツルの遺骨の一部も
 グラバーの墓へ分骨埋葬された。
  シーボルトは、日本での妻を捨てたが、グラバーは、
 誠実だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive