(増補版)254D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1861年〜1862年5月)

題:(増補版)254D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1861年1862年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  結局、イギリスやアメリカに、こんなに歴史上の汚点
 が多く、日本に誇れるところが多いのは、依怙贔屓(え
 こひいき)ではありません。事実です。史実なのです。
  結局、考え方・思想・宗教に、この違いが由来するの
 です。
  性悪説性善説の違いです。
  その宗教の違いから派生する考え方や、思想の違いで、
  人間をどの様にとらえるか?・・という根本・基本に
 おいて、性悪と性善で、取るべき行動は、当然、違って
 来ます。
  性悪は、その性悪によって、結果は性悪になり、
  性善は、その性善によって、結果は性善になる。
  キリスト教は、性悪説に基本的考え方を置く宗教で、
 累々と横たわる戦争や殺戮の歴史。
  また、キリスト教を信じるキリスト教国のその行為、
 そして、その歴史・・、
  それを見れば、自(おの)ずから、何が良くて、何が
 悪いのか?・・が、分かります。
  そして、その事実・史実を元に、放送大学が嘘講義を
 する(前回の本ブログを参照ください)、NHKがキリ
 スト教に偏する放送をする、そして、読売新聞が、嘘で
 間違いの話で作り上げた杉浦千畝の映画の後援をする。
  そして、今日の年表は・・、
1862年文久2年)1月21日、第1回遣欧使節
  (文久遣欧使節、開市開港延期交渉使節)が、長崎を
 出帆した。
  (注意)本項目を、前回、旧暦の1861年12月22日で記
 してしまいました。訂正いたします。
 正使:竹内保徳(勘定奉行外国奉行)、副使:松平
 康直(神奈川奉行外国奉行)、目付:京極高朗、
  そして、咸臨丸で渡米した福沢諭吉や、通訳として福
 地源一郎、翻訳官として箕作秋坪松木弘安寺島宗則
 らが加わった。一行総員36人。
  香港〜インド洋〜スエズマルセイユを経て、パリに
 入り、更に、ロンドンを訪問した。
 そして、オランダからベルリンを訪ね、北上してロシ
 アの首都ペテルスブルグへ
  帰途は、パリから、ポルトガルの首都・リスボンを経
 て、往路と同じ道をとった。
  6か国を公式に訪問し、12月10日に、江戸・品川に帰
 った。
1862年1月、皇妹和宮降嫁の勅諭(氷川清話)
1862年2月13日、坂下門外の変
  浪士、坂下門外に、老中安藤対馬守(信正)を要撃す
 (氷川清話)
  公武合体派の老中・安藤信正、水戸浪士に襲われ負傷。
  4月11日、老中を罷免される。
  この変の背景は、桜田門外の変で、大老井伊直弼
 暗殺された後、
  老中・久世広周と共に、幕閣を主導した信正は、直弼
 の開国路線を継承し、幕威を取り戻すため公武合体を推
 進していた。
  この政策に基づき、幕府は、和宮降嫁を決定したが、
 尊王攘夷派志士らは、これに反発し、信正らに対し憤激
 していた。
1862年3月11日、公武合体の象徴として、皇女・和宮親子内
 親王が御降嫁された。
  公武合体策により、和宮が婚礼した。
  将軍、和宮と婚す(静寛院宮)(氷川清話)
  婚礼が行われた様子は、それまでの13代の将軍たちの
 婚儀とは異なっていた。
  和宮が、征夷大将軍よりも高い身分である内親王の地
 位で降嫁されたため、
  嫁入りした和宮が主人という立場になり、
  また、嫁を貰う立場の将軍・家茂が、客分という、逆
 転した立場で行われることとなった。
  これは、後々まで、江戸城内において様々な形で尾を
 引くこととなる。
  この後、京都では、尊王攘夷を唱える志士が、各地か
 ら集まる事態となり、町は騒然となった。
  朝廷は、薩摩藩島津久光に市中の警備を依頼した。
  これに応えて、朝廷の信頼を得た久光は、京へ上るが、
 自身が構想する幕政改革案を献策した。
  それは・・、
  1.将軍が、諸大名を率いて上洛し、国事を議する。
  2.沿海5大藩の藩主を、大老に任じて国政に参加させる。
  3.一橋慶喜を、将軍後見職に、松平春嶽を、政事総裁
   職に任じ、将軍の補佐にあたらせる。
  この3ヶ条を、朝廷に献策した。
  朝廷は、これを幕府に要求するため勅使・大原重徳を
 江戸に派遣した。
1862年4月22日(旧暦:3月24日)、坂本龍馬が脱藩した。
 (竜馬がゆく・2)
  脱藩は、罪が親類縁者におよぶ行為。
  龍馬は、1862年2月に、その任務を終え、土佐に帰着し
 た。
  しかし、この頃、薩摩藩国父・島津久光の率兵上洛の
 知らせが土佐に伝わった。
  この行為が、「土佐藩は二の足を踏んでいる」と、感
 じていた土佐勤王党同志の中には、脱藩して、京都へ行
 き、薩摩藩の『勤王義挙』に参加しよう・・とする者が
 出て来た。
  実際、これは、島津久光が、幕政改革を進めるための
 率兵上洛であったのだが、
  尊攘激派の志士の間の、討幕の挙兵と勘違いしたもの
 だった。
  これに参加するべく、まず、吉村虎太郎が、次いで、
 沢村惣之丞等が・・脱藩し、
  彼らの誘いを受けて龍馬も、脱藩を決意したものと考
 えられる。
  脱藩とは、藩籍から離れて、一方的に主従関係の拘束
 から脱することであり、
  脱藩者は、当然、藩内では罪人となり、
  更に、藩内に留まった家族友人も連座の罪に問われる
 ことになった。
  武市半平太は、藩を挙げての行動を重んじ、草莽(そ
 うもう、草莽の臣=在野の人、自分をへりくだって言う
 語)の義挙には望みを託さず、脱藩には賛同しなかった。
  龍馬の脱藩は、文久2年(1862年)3月24日のことだっ
 た。
1862年5月6日、土佐藩吉田東洋が暗殺された(竜馬がゆ
 く・2)
  吉田東洋は、先進的な開国派で、尊王攘夷を重んずる
 武市半平太とはまったく相いれなかった。(注意)司馬
 遼太郎氏は、旧暦で書かれている様なので注意したい。
 これは直しています。
1862年4月29日、幕府が、初の上海渡海互市(交易)のため
 長崎からバーグ型帆船「千歳丸」(358積瓲)を、上海へ
 向けて派遣した。
 開国後、初の官営貿易の試みだった(1861年?)
 千歳丸には、幕府使節や長崎の中堅商人が乗組み、他
 に、藩命による長州藩高杉晋作薩摩藩・五代才助、
 佐賀藩・中牟田倉之助らの総員51人が乗組んだ。
  5月6日に、上海到着し、8月9日《07/14》に、長崎帰着。
  試売品は、水産物、雑貨類で、返り荷は綿・毛織物類
1862年4月、尾州、志州沿海測量(氷川清話)
1862年4月、内田恒次郎、榎本釜次郎、赤松大三郎等数名、
 和蘭に遣し、造船監督等諸術を研究させる(氷川清話)
1862年4月、将軍、米公使を柳営に引見す(氷川清話)
1862年、幕府、参勤交代制度を緩和(3年に1回出府など)
  諸侯、参勤交代変更(氷川清話)
1862年5月14日、島津久光が入京(1回目の入京)
  薩摩藩の最高実力者である島津久光は、公武合体推進
 のため藩兵を率いて入京した。
  朝廷が、幕府に三事策を求めた。
  事前に、大久保一蔵を使者にたて、上京の勅許奏請を
 工作したが、婉曲に断られた。
  天朝の危機に、勅命を奉じて幕政改革を実行させる意
 欲のもと独断で京都へのぼった。
  志士の動向に怯えていた朝廷は、久光へ浪士鎮撫の勅
 命を与えた。
  ただ、気がかりは、薩摩藩内の尊王攘夷派の暴発であ
 り、有馬新七は、薩摩藩尊攘派に引きずりこむために
 テロを計画し、酒井所司代と九条関白を対象とした。
  監視をつけて、説得にあたらせたが、尊王攘夷派は、
 上京して船宿に入ったため粛清をした(寺田屋騒動)。
  久光の朝廷工作により、幕府改革への勅使として大原
 重徳が遣わされるという事態となった。
  幕府側には、それを拒否する力は無く、安政の大獄
 失脚した徳川慶喜を、将軍後見職松平春嶽を政事総裁
 職、松平容保会津藩主)を京都守護職とするなどの人
 事を含む改革を余儀なくされた(文久の改革)。
  一方、久光率いる薩摩藩兵は、帰国途中の1862年9月
 14日(文久2年8月21日)生麦村で、行列を横断しようと
 した英国人に斬りつける事件を起こす(生麦事件)。
  京都へ凱旋した久光だが、京都は、尊王攘夷派に政局
 が占拠されていた。
  即ち、桂や久坂、真木和泉のため長井は失脚させられ
 長州の藩論は、尊王攘夷へ転換されていた。
  憤りが収まらない久光は、鹿児島へ引き上げた。
  久光の改革案には、将軍の上洛が含まれていたが、三
 条実美・姉小路公知尊王攘夷派の過激公卿を奉じた長
 州藩、土佐藩尊王攘夷派が朝廷の圧力を利用して将軍
 上洛運動を強要した。
1862年5月21日、寺田屋騒動
  島津久光が、公武調停を企図、その途次に寺田屋騒動
 が起こった。
  島津久光、伏見寺田屋にて浪士を鎮撫す(氷川清話)
  文久2年4月23日(1862年5月21日)に、薩摩藩尊皇派が
 薩摩藩主の父で事実上の指導者・島津久光によって鎮撫
 された事件。「寺田屋騒動」とも言う。
  藩兵千名を率い上洛した久光は、日本中の尊王派の希
 望をその身に背負っていた。
  しかし、久光には、この当時は倒幕の意志はなく、公
 武合体がその路線であった。
  また、久光は、秩序を重んじる厳しい性格で、すでに
 西郷隆盛村田新八森山新蔵を捕縛して、大阪から帰
 藩させるように命じて粛清しており、
  京都の志士の思惑とは、全く趣を異にした考えの持ち
 主であった。
  それで4月13日に、伏見に到着した久光は、16日に入京
 し、まず朝廷より志士鎮撫の命を授かっていた。
  この展開に、驚愕した薩摩藩の過激派は、憂国の念か
 ら憤激し、有馬新七柴山愛次郎橋口壮介らは、諸藩
 の尊王派志士、真木和泉・田中河内介らと共謀して、関
 白九条尚忠京都所司代酒井忠義を襲撃して、その首を
 持って久光に奉じることで、無理矢理にでも蜂起を促す
 ということに決した。
  この襲撃の前に、根城としていた薩摩藩の二十八番長
 屋から出て、伏見の船宿・寺田屋に集まることを計画し
 ていたが、当時、寺田屋は、薩摩藩の定宿であり、この
 ような謀議に関しての集結場所としては、格好の場所だ
 ったようだ。
  志士暴発の噂を聞いていた久光は、側近の大久保一蔵、
 海江田武次、奈良原喜左衛門を、次々に派遣して説得を
 命じ、藩士を抑えようと試みたが失敗した。
  23日、薩摩藩邸では、永田佐一郎が翻意し、決起を止
 めようとしたが止められなかったために、切腹した。
  これによって、計画の決行日が迫ったことを知った在
 番役・高崎左太郎、藤井良節(工藤左門)の二人は、急
 ぎ、京都に注進した。
  久光は、驚き、出奔藩士を藩邸に呼び戻して、自ら勅
 旨と、今後の方針を説明して説得しようと考えたが、
  一方で従わぬ場合には、上意討ちもあると言い含めて、
 奈良原喜八郎・大山格之助・道島五郎兵衛・鈴木勇右衛
 門・鈴木昌之助・山口金之進・江夏仲左衛門・森岡善助
 の、特に、剣術に優れた藩士8名を、鎮撫使に選び、派遣
 することにした。
  奈良原、道島、江夏、森岡が本街道を、大山、鈴木、
 山口が、竹田街道を進んだ。
  後から、上床源助が志願して加わり、計9名となった。
1862年5月、蕃書調所を一橋門外に移し、洋書調所と改称す
 (氷川清話)
1862年5月、営中衣服制度を変更す(氷川清話)
1862年5月、仏兵式により歩騎砲3兵隊を編成す(氷川清話)
  高野長英が翻訳した兵書にある「三兵戦術」
  プロイセンの陸軍将校ブラントの戦術書。
1862年5月、小笠原諸島の領有を宣言した。
  幕府が、水野忠徳を小笠原諸島に派遣し、翌年の1862
 年5月に、再び、領有を宣言した。
  日本が、領有を宣言した当時、すでに、イギリスが領
 有し、アメリカ人が入植していた。
  小笠原島の歴史は・・、
  1543年、スペイン船によって発見。
  1670年、紀州のミカン船が漂着、
   この報告をもとに幕府は5年後の1670年に・・、
  1675年、この小笠原島に探検船を派遣して、領有宣言
   した。
  1727年、長崎のオランダ商館の医師ケンペルが、この
   日本人による発見のニュースを『日本誌』に書いて
   ヨーロッパに伝えた。
  1827年に、イギリスが領有宣言。
  1827年、イギリスの探検船が発見し領有宣言したが、
   ケンペルが伝えた1675年の日本の領有宣言があるた
   めイギリス政府は正式には認めていない。
  1830年に、アメリカ人とハワイ人(当時ハワイは独立
   国)が入植。
  1830年に、アメリカ人ら25名が入植。
  1853年、ペリー寄港。
  1853年、ペリーが父島に寄港して、現地のアメリカ人
   から貯炭所用地を買収。
  1862年外国奉行が測量。
   開国後、幕府は、1862年外国奉行が測量し、日本
   人開拓民を送り込んだ。
  1876年、日本による領有を関係国に通知した。
  明治になって、1876年、日本による領有をあらためて
 英米等に通知した。
  小笠原に入植したアメリカ人の子孫は、日本に帰化
 ている。
1862年5月、オランダが、混血児をオランダ人と認めず。
  老中、安藤対馬守から長崎奉行所
  1)混血児は年令の長幼にかかわらず、すべて父の外
 国籍とし日本人の人別に加えぬ積もりであることを外国
 領事へ談判せよ
  2)混血児出産の場合はその度に届出、居留外国人の
 人別増減を1年一度づつ各国領事から報告させること
  そして、後に、長崎奉行が、領事と交渉したが、オラ
 ンダ領事は、遊女との間の混血児を、オランダ人として
 承認することを拒絶した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive