(増補版)270E1/3:気になった事柄を集めた年表(1867年1月〜1867年6月)

題:(増補版)270E1/3:気になった事柄を集めた年表(1867年1月〜1867年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1867年1月14日(慶応2年12月9日)、和宮親子内親王(かず
 のみや ちかこないしんのう)を静寛院とす。
  1861年5月18日に、皇女・和宮は、内親王宣言を受けて
 「親子(ちかこ)」の名を賜わり、諱(いみな)を親子
 内親王と改められた。
  そして、この時に、将軍・家茂の死去(1866年8月29日)
 により、剃髪(ていはつ)後の称として、静寛院宮(せい
 かんいんのみや)となられた。
  和宮は、孝明天皇の妹君。
1867年1月30日(慶応2年12月25日)、孝明天皇が、崩御
 れた(満35歳没)、在位21年、
  明治天皇の父・孝明天皇崩御された。
  天皇崩御孝明天皇と諡名す(氷川清話)
  諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主
 に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への
 評価に基づく名。
1867年、公武合体論の後退
  孝明天皇崩御されると、公武合体論派は後退した。
1867年1月、第2次長州征伐による小倉藩長州藩の和約が
 ようやく成立した。
1867年2月、パリ万国博覧会に参加。
1867年2月1日、後藤象二郎が、長崎の西濱町にて「土佐商
 会(長崎商会)」の業務を開始した。
  これで、土佐藩の長崎貿易が始まった。
1867年2月3日(慶応2年12月29日)、孝明天皇の大喪発せら
 れる。
1867年2月13日(慶応3年1月9日)、明治天皇御即位。
  睦仁親王(16歳)が、践祚して明治天皇となられた。
  明治天皇践祚(氷川清話)
1866年12月〜 、慶応の改革。
  ロッシュの意見を入れ、老中の総裁制度(職務明文化)
 を採用した。
1867年2月15日(慶応3年1月11日)、徳川昭武らが、パリ万
 博のため出発。
  遣欧特使・徳川昭武(とくがわあきたけ)らが、フラ
 ンスへ出発した。
  徳川民部大輔仏国に使す(氷川清話)
  使節団を率いての、約50日をかけての渡仏。
  使節団の中には、会計係として渋沢栄一随行医とし
 て高松凌雲、通訳に山内堤雲がいた。
  ナポレオン3世に謁見し、パリ万国博覧会を訪問する。
  万博終了後に引き続き、幕府代表としてスイス、オラ
 ンダ、ベルギー、イタリア、イギリスなど欧州各国を歴
 訪する。
  その間に、オランダ王ウィレム3世、ベルギー王レオポ
 ルド2世、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世
 イギリス女王ヴィクトリアに謁見した。
  以後は、パリにて留学生活を送る。
1867年2月27日(慶応3年1月23日)福沢諭吉が、幕府の軍艦
 受取委員に従って渡米した。
  この時に使われた船が、幕府の軍艦「富士山(ふじや
 ま丸(コロラド号の説あり)」だった。
  福沢諭吉は、江戸時代に3度も欧米に渡った稀有な日本
 人だった。
  この時は、幕府の軍艦、兵器、書籍購入のため、小野
 友三郎、福沢諭吉らがアメリカへ出発。
  この渡米において、諭吉の言動が問題となった。
  諭吉は、帰国する船中で、「幕府は潰(つぶ)す以外
 にない」と言い、これが問題となり、帰国後、謹慎を命
 じられ、アメリカで買った本は没収された。
  帰国は、同年7月28日。
  謹慎は、大政奉還によって解除された。
  (謹慎理由として、同行者の小野と揉めたからという
 説もある)。
  (また、中島三郎助の働きかけですぐ謹慎は解けたと
 いう説もある)。
1867年2月、どうだ、もう九ヶ国は手に入ったか?
  慶応三年二月、西郷隆盛が、島津久光の使者として、
 土佐に山内容堂を訪ねた時、容堂はいきなり、
 「どうだ、もう九ヶ国は手に入ったか?」と切り出して、
 西郷を驚かした。
  つまり、島津が、徳川にとって代わる運動の手始めと
 して、九州ぐらいはもうおえたかという意味だった。
  西郷もやり返して、「四国はもうお手に入りましたか
 ?」と言ったという。
  こういう話が、土佐の古老の間に伝わっている(氷川
 清話)
1867年3月、勝海舟、この月より米国海軍伝習の事を執る
 (氷川清話)
1867年3月11日〜12日、徳川慶喜が、大坂城でフランス公使
 のロッシュと会見(旧暦の2月7日、2月20日にも会見)
  公には、旧暦2月6日に、ロッシュが大阪城に登城し、
 徳川慶喜が、ロッシュを大阪城に引見し、幕府改革の意
 見を聴いた・・となっているが・・、
  これは、儀礼抜きの会見で・・、老中の板倉勝静が同
 席し、
  慶喜は、ロッシュに言った、「統治の全権は、天皇
 はなく幕府・慶喜(自分)にある」と、
  また、老中・板倉は言う、「将軍が、長州との戦争を
 継続する事を、まったく放棄し、この撤退は一時的なも
 のではない。そして、将軍家と薩摩藩は良好な関係にあ
 る」・・と、
  ロッシュは、それに答えて、慶喜に、「フランスをモ
 デルとした内閣制など国政改革を・・」と提案した。
  1867年3月26日(2月20日)にも会見し、慶喜は、この
 時、ローズ提督を紹介されている。
1867年3月19日、豊田佐吉(とよださきち)が生まれた。
  日本の偉大な発明家。
  自動織機をはじめとして、生涯で発明・特許84件、外
 国特許13件、実用新案35件に及んだ。
  トヨタ自動車などのトヨタグループの創始者
  豊田佐吉は、遠江国浜名湖の西にある敷知郡山口村
 (現在の静岡県湖西市)で、
  父・伊吉、母・ゑいの長男として生まれた。
  豊田家は、伊吉が百姓のかたわら大工で生計を立てて
 いた。
  佐吉を頭に、3男1女の子供と両親の6人が、豊田家の
 家族だった。
  豊田家は裕福ではなかったが、極貧という事でもなく、
 佐吉は幼い頃、寺子屋へ通った。
  その寺子屋が下等小学校として開設されると、佐吉は
 4年間通学し、卒業した。
  まだ、学校に行けない子供の方が多い時代だった。
  佐吉の弟たちも小学校に通った。
  そして、豊田家では一人の子供も奉公に出なかった。
  当時の山口村の中では、少し余裕のある家庭であった。
  佐吉は、小学校を卒業した後、父について大工の修業
 を始めた。
  だが18歳の頃、「教育も金もない自分は、発明で社会
 に役立とう」と決心した。
  手近な手機織機の改良を始めた。
  心優しい佐吉は、いつも、母の機織り姿を見ていたが、
 この母の働く姿を楽にさせてあげたいという、やさしい
 気持ちが、発明を始める動機の一つでもあった。
  しかし、佐吉の苦労に苦労を重ねた発明も真似をされ、
 何ら利益がもたらされなかった。
  この事からも、日本の特許法である「専売特許条例」
 が生まれて行く。
  (努力する者が、報われる社会でなければならない)。
1867年、この年、日本の貿易額が輸入超過となった。
  それまでは、輸出の方が多かったが、逆転し、輸入超
 過となった。
  これは、1866年に締結された「改税約書」が原因だっ
 た。
  欧米列強の圧力により、輸入関税が20パーセントから
 5%に引き下げられ、産業的に弱小の日本の商品は、欧米
 列強の商品に食われた。
  今のTPPの様なもの・・また、東京や大阪の中小企
 業の倒産が増えることだろう。
  そしてまた、一層、一次産業が衰退するだろう。
  いざという時に、「飢える日本が現出するだろう」。
  今は、幸せの様に見えているが・・?
1867年3月25日、幕府の新造軍艦「開陽丸」、オランダより
 回航して横浜に入港した。
  就役は、1866年8月26日。
  この日、1867年3月25日に、横浜へ帰港した。
  最新鋭の主力艦として、外国勢力に対する抑止力とな
 ることが期待されたが、徳川の軍艦としてわずか1年数ヶ
 月、
  1868年(明治元年)11月15日、蝦夷江差沖において
 暴風雨に遭い、座礁し、沈没した。
  因みに、1975年に、江差町教育委員会によって発掘・
 調査が行われ、大砲やシャフトなどの遺構から古文書な
 ど、3万点以上の遺留品が引き上げられた。
  江差町資料館には、開陽丸が復元されている。
1867年3月26日、榎本釜次郎(武揚)、軍艦・開陽丸で帰朝
 (氷川清話)
1867年3月28日、将軍・徳川慶喜が、英、仏、蘭の代表と大
 坂城で会見し、兵庫の開港実施を約した。
  5月24日、勅許を得て、開港と決定した。
  6月6日、幕府が、12月7日より兵庫を開港と布告した。
1867年3月28日(2月23日)イギリス代理公使ニール、江戸
 湾頭に進航し生麦事件の償金を要求。
1867年、江戸市中、白昼強盗横行す(氷川清話)
  これが、西郷隆盛が手配した輩の仕業と考えられる。
1867年4月3日、幕府が送った「パリ万国博覧会への使節
 が、マルセイユに到着した。
  パリ万国博覧会開催に際し、慶喜実弟・徳川民部昭
 武(あきたけ)が、将軍の名代で遣わされた。
  マルセイユに到着したのは1867年4月3日。
  ところが、現地では、薩摩藩による会場独立出品の動
 きや、反幕キャンペーン工作が繰り広げられていた。
  そこで信頼回復のための使節が出発する事になった(
 出発6月14日、旧暦5月12日)
1867年4月9日(3月5日)徳川慶喜、兵庫開港の勅許奏請。
1867年4月23日(3月19日)朝廷、兵庫開港の奏請を許さず。
1867年4月28日(3月24日)各大名、兵庫開港の可否建議。
1867年4月29日(3月25日)徳川慶喜が、英国公使らと会見
  徳川慶喜が、各国公使を謁見した(〜29日)
  兵庫開港を確約し、各国公使の信頼を得る。
  この時、ハリー・パークス(第2代駐日イギリス大使)
 のみが、慶喜の敬称を「陛下」ではなく「殿下」とした。
  辞書に記す使い分けは・・以下、
 【1】「陛下」は、天皇、皇后、皇太后太皇太后に対
   する敬称。
 【2】「殿下」は、天皇、皇后、皇太后太皇太后以外
   の皇族に対する敬称。
    外国の王国、公国などの皇族についても用いる。
1867年5月15日(4月12日)、倒幕の意思が確定
  鹿児島の島津久光が、京都警備のため(として)兵・
 7000を率いて、この日に、京都に入った。
  久光の4回目の上京だった(3月25日鹿児島発、4月12日
 京都着)
  この時、京で、松平春嶽山内容堂伊達宗城ととも
 に四侯会議を開いた。
  議題は、開港予定の布告期限が迫っていた兵庫開港問
 題や、前年9月の再征の休戦(事実上の幕府の敗北)以来
 保留されたままの長州処分問題をめぐり、
  四侯連携のもとで将軍・慶喜と協議することを確認す
 る事だった。
  完全に、薩摩・越前・土佐・伊予宇和島の各藩に対す
 る幕府という、対抗・対立の図が、ここにあった。
  しかし、5月14、19、21日の二条城における慶喜との会
 談では、長州処分問題の先決を唱える四侯に対して、
  慶喜は、対外関係を理由に、兵庫開港問題の先決を主
 張した。
  同月23、24日の2日間に及んだ朝議の結果は、2問題を
 同時に勅許するというものだったが、
  慶喜の意向が強く反映され、長州処分の具体的内容は
 不明確であった。
  この事態を受けて、慶喜との政治的妥協の可能性を最
 終的に断念した久光だった。
  そして、久光の決断によって、薩摩藩指導部は武力倒
 幕路線を確定する。
1867年5月17日(4月14日)高杉晋作が没した。
  近代日本への里程標に居る一人が没した。
  この高杉といい、竜馬といい(この時点では活躍中だ
 が)、明治の開明の直前の死だった。
  肺結核による死。享年29歳。
  辞世の歌・・、
  「おもしろきこともなき世におもしろく」
  「おもしろきこともなき世をおもしろく」
 の両説ある・・が・・、
  司馬遼太郎は、自著に「を」で記している。
1867年5月18日、フランス新外相ムスティエ、600万ドル借
 款を拒否。ロッシュ反論するが覆せず。
  小栗上野介の苦労も水の泡となった。借款を成約して
 いたが・・、
  日本の現状を知っていたのだろう、都合もあったが・・、
  そして、先方の世情の不安もあったが・・、
  日本には貸せないとなった・・、美しく言えば、フラ
 ンスの外交政策の変更・・となる。
1867年5月21日(4月18日)薩摩藩士・大山綱良(おおやま
 つなよし、大山格之助)が、兵30数名、砲3門を率いて
 大宰府に入り、三条実美以下五卿の動座に反対した。
1867年5月21日(4月18日)幕府が、英仏軍隊の横浜駐留を
 承認した。
1867年5月23日、坂本龍馬が、土佐藩の銃砲弾薬輸送のため
 「いろは丸(160瓲)」で長崎を出帆した。
  これが、海援隊の初航海であった、しかし・・、
1867年5月26日(4月23日)いろは丸事件(日本最初の蒸気
 船衝突事件)
  坂本龍馬の、この「いろは丸」は、讃州箱岬沖で、紀
 州藩の明光丸と衝突し、沈没してしまった。
1867年6月6日、四侯会議(松平慶永島津久光山内豊信
 伊達宗城
1867年6月10日(5月8日)幕府が、松平慶永以下、山内、伊
 達、島津の諸侯に登城を命ずるも応ぜず。
  意識では、完全に離反されている幕府だった。
1867年6月14日(5月12日)火薬製造機が、初めて輸入され
 た。
1867年6月14日(5月12日)幕府が、パリ万国博覧会へ、信
 頼回復のために使節出発と借金の申し込み・・、
  徳川幕府の信頼回復のための使節:駐日公使のレオン・
 ロッシュから、慶喜への進言もあり、
  使節のみならず徳川政権の国際的な信頼を回復させ、
 北海道の開発権を担保に、英・仏両国からの借款を引き
 出す使命を帯びて、親仏派の外国奉行の栗本鋤雲が、急
 遽、渡仏する事となった。
  (完全にロッシュの入れ知恵、下手をすると北海道が
 取られる)。
  鋤雲が、ナポレオン3世へ宛てた親書を持参して、横浜
 を出発したのは1867年6月14日(5月12日)とされるが、
  大阪で兵庫開港、長州処分の外交交渉に携わって後、
 1867年7月10日(6月9日)付、向山隼人正宛書簡ならびに
 辞令を持参しているから、1867年7月14日(6月13日)横
 浜発のフランス郵便ファーズ号の乗ったとすれば、神戸
 出航は14,5日ころとなろう。
  マルセイユ着は1867年9月8日(8月11日)
1867年6月16日(5月14日)山内容堂島津久光松平慶永
 伊達宗城らの雄藩諸侯が、徳川慶喜に対し、王政復古の
 急務と開港の已むなきを論じた。
  山内容堂、王政復古の旨を建白す(氷川清話)
  諸藩連合体制を相手にする・・将軍・慶喜が居た・・、
  徳川慶喜は、早くから、土佐の山内容堂らと一緒にな
 って、「諸藩連合体制」を作ろうと考えていた・・が、
  大政奉還の際、長州側はびっくりする・・が、
  その先見の明が上手くいかないのは・・、西郷隆盛
  また、西郷隆盛の命を受けた益満休之助が、江戸でゲ
 リラ戦を展開した・・その揚げ句・・、
  幕府は、薩摩藩邸に兵を出し、焼いてしまった。
  慶喜は、フランス公使のレオン・ロッシュなどから国
 際情勢をいろいろ聞いていた。
  もし、慶喜が、国際情勢に疎いタイプだったら、徹底
 して戦っていたかもしれない。
  また、幕府には、後進に席を譲る、国を滅ぼす事だけ
 はやるまいとの・・気があった。
  また、薩長にも・・あったと思われる。
  この頃、経済破綻を来した国内では・・百姓一揆が相
 次ぎ・・、
  国外では、アメリカは南北戦争、フランスは普仏戦争
  一番、幕府側の目を開く原点になったのは・・イギリ
 スが起こした・・卑劣な戦争を展開したアヘン戦争の情
 報だった。
1867年6月23日(5月21日)高知藩士板垣退助らが、鹿児
 島藩士小松帯刀らと京都で会見し、倒幕挙兵を盟約し
 た。
1867年6月26日(5月24日)朝議決定し、長州藩処分を寛大
 にし、併せて兵庫開港の勅許下る。
  徳川慶喜が、四侯会議を制し、兵庫開港の勅許を得た。
  会議側の敗北を受け、薩摩藩は、武力倒幕の方針を固
 めた。
1867年6月29日(5月27日)中岡慎太郎板垣退助、谷守部
 (干城)、小松帯刀西郷隆盛ら倒幕同盟を結ぶ 。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive