(増補版)255D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1862年5月〜1862年9月)

題:*(増補版)255D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1862年5月〜1862年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1862年6月6日、 ロンドン覚書調印
  兵庫・新潟・江戸・大坂の開港・開市を5年延期する
 ことが認められた。
  1862年10月2日には、パリ覚書を締結した。
  幕府は、1858年に、開国を迫る欧米列強と相次いで
 修好通商条約を結んだが(安政五カ国条約)・・、
  その中で、幕府は、江戸・大阪(両都)の開市、新潟・
 兵庫(両港)の開港を約束していた。
  しかし、国内の経済問題や、政治問題によって、期限
 内の履行が難しくなり、これら開市・開港の延期を各国
 に求めた。
  文久遣欧使節団は、最初、フランスに赴き、仏外相と
 交渉するが、不調に終わった。
  その後、イギリスへ渡り、イギリス外相・ラッセルと
 の交渉の末、1862年6月6日に、ロンドン覚書を締結し、
 開市・開港の延期を定めた。
  そして、この後、イギリスの働きかけもあって、他国
 との交渉も進み、1862年10月2日に、パリ覚書を締結し、
 延期は一定の解決を見た。
  日本は、開市・開港の延期を認められたものの、代償と
 して、関税の不平等化を始めとする条項を認めさせられた。
  19世紀から20世紀初頭にかけて、イギリスやアメリ
 などの帝国主義列強は、
  アジア諸国に対して、条約港の割譲や、在留外国人の
 治外法権を承認させるなど、
  また、領土の割譲や租借など、不平等な内容の条約を
 押し付けた。
  その中には、片務的最恵国待遇もあった。
  憲法及び法典(民法、商法、刑法など)を定めている
 先進国側が、
  それらの定められていない、あるいは整備の進んでい
 ないアジアの国々において、自国に有利な条約を締結し
 た。
  不平等条約は、具体的には
  (1)「関税自主権を行使させない」ことや、
  関税自主権を行使させないことを、俗にいえば、日本
 で、ある外国の商品を売ると、日本は、その商品を安く作
 れないから、日本人はその国の商品をどんどん買う。
  その場合、その外国は売れて儲かるから、どんどん輸
 出する、当然、日本の生産者は売れなくなって破産する。
  その様な場合、日本は、その様な外国商品に関税をか
 けて、日本の商品も売れる様な値段にバランスをとる。
  しかし、関税自主権の行使させないという事は、その
 様に、関税を掛ける行為を行わせないということ。
  (2)「治外法権領事裁判権)などを認めさせる」
 などだった。
  治外法権というのを、俗に言えば、日本にいる外国人
 が、日本で悪いことをしても、日本の法律に服さないと
 いうこと、勿論、日本の裁判にもかからないということ。
  日本で殺人をしても、さっさと帰国してしまうという
 こと。
  そして、今・現在でも、日本にある米軍基地に関して
 言えば・・、
  在日米軍の構成員、及び、軍属が、基地内部で起こし
 た犯罪、および「公務中に基地の外で起こした犯罪」に
 対しては、『日本の法律が適用されない』という治外法
 権が存在する。
  客観的にはそうでなくても、アメリカ軍当局が、「公
 務中である」と主張した場合、日本は受け容れざるを得
 ない。
  あるいは、犯罪を起こしても、米軍施設敷地内に逃げ
 込めば、米軍施設内では、アメリカの憲兵隊、及び、軍
 犯罪捜査局が第一管轄権を持ち、日本の警察が、関与す
 ることは出来ない。
  そして、この話を戻して続けると・・、
  歴史的には、イギリスと清国が、アヘン戦争後の1842
 年に、南京条約を結んだが、これが「不平等条約」の典
 型的な、また、見本的な最初となった。
  やはり、イギリスがやったのが最初の不平等条約で、
 領土の割譲から、治外法権、片務的な最恵国待遇や、関
 税自主権を奪ったり、この後、次々を附属協定を結ばせ
 て行った。
  日本も、欧米の様な近代法など諸原則が存在しておら
 ず、また、関税という概念が十分でなかったため不平等
 条約を結ばされた。
  治外法権も認めさせられており、明治期の初期に、早
 くから条約改正の外交の『問題』として取り上げられる。
  欧米列強は、朝鮮とも、多くの不平等条約を結んでい
 るが、1910年に結んだ日韓併合によって、この多くの朝
 鮮の不平等条約の「大部分が無効」となった。
  日本は、明治期になって、鹿鳴館など、欧米化の姿を
 見せながら、この不平等条約の改正に向かって涙ぐまし
 い努力をして行く。
  今・現在でも、利を求めた、自分の利益だけを求めた、
 そして、自分だけ都合の良い理屈によって、さも公正な
 ような条約を求めて来る動きが存在する。
1862年6月26日、第二次東禅寺事件
  再び、イギリス国公使館で事件が起きた。
  東禅寺の外国人(イギリス人)警備の松本藩の藩士
 伊藤軍兵衛は、
  多大な費用の出費を要求し、強くしいる公使館に対し、
  (東洋人蔑視、有色人種蔑視の意識である)
  この自藩が多くの出費を強いられていることと、
  および、外国人のために、日本人同士が殺し合う事態
 が耐えられなく・憂い、
  公使を殺害して、自藩の警備の任を解こうと考えた。
  この日の夜、代理公使のジョン・ニールの寝室に侵入
 したが、警備のイギリス兵2人に発見され、この二人と戦
 闘になり、
  伊藤は、この二人を倒したが、自分も負傷し、番小屋
 に逃れて、翌30日に自刃した。
  イギリスは、幕府に賠償金を要求した(幕府も警備し、
 自ら・イギリスも警備し、賠償問題にはならない訳なの
 だが・・イギリスは要求した)
  幕府は、警備責任者を処罰し、イギリスとの間に賠償
 金の支払い交渉を行ったが、まとまらず、
  紛糾するうちに、生麦事件が発生したために、
  幕府は、翌1863年4月、生麦事件の賠償金とともに、
 10万ポンドを支払うこととなり、話がまとまり、事件は解
 決した。
  幕府は、不本意であるが、しっかり責任を果たした。
  しかし、イギリスは、時の国の政府の幕府から金を貰
 って事は終わったはずなのに、薩摩藩からも金を取る。
  この事のいざこざで、薩英戦争が起きる。
  日本をまったく馬鹿にしている行為だった。
  金を貰って解決している問題に、いちゃもんを付けて、
 自分の優越している武力を行使するという行為だった。
  この様な事が起きない様にと、幕府は、穏便にと、金
 を払って、話を付けていたのだが・・、
  生麦事件にしたって、日本の法や、慣習を知らなくて、
 守らないところに、問題が、原因があるのだが・・、優
 越意識で、好き勝手放題を言った。
1862年7月3日、島津久光が江戸に到着し、幕閣との交渉を、
 開始した。
  公武合体運動推進のため、兵を率いて上京す(4月14日
 鹿児島発、5月14日京都着) ...
  出府に先立って6月9日、通称を和泉から三郎へと改め、
  その上で、6月18日に、勅使・大原重徳に随従して京都
 を出発、7月3日に、江戸へ到着した。
1862年7月、勝海舟、二の丸留守居格、軍艦頭取布衣世禄
 采地と蔵米と合わせて百俵に加増、勤中五百俵高(氷川
 清話)
  順調に出世する勝海舟
1862年7月6日、シーボルトの子連れの来日
  シーボルトが、オランダ貿易会社長崎支店顧問として、
 子のアレキサンダとともに再来日した。
1862年7月、グラバーさん、牛が食べたかったのか? 
  グラバーらの発起によって、戸町村字古川海岸に、外
 国人の食用のための解牛場(屠牛場)を開設した。
  許した幕府は優しかった・・、敷地:戸町村古河海岸
 の500坪(約1650平方米)の土地を借り受けて実施した。
  今、クジラが食べられない日本、
  このクジラだって食べたいよ。文化だよ、食文化・・
 これを奪うのだから・・?? オーストラリアの何とか
 が、卑劣な事をしている。伝統のクジラ漁などに嫌がら
 せをしている。
1862年7月、コレラが流行し、養生所で施薬した。みんなの
 ために・・、
1862年8月1日、一橋刑部卿、将軍補佐(氷川清話)
  慶喜登場! 一橋刑部卿は、徳川慶喜のこと。
  三事策に基づき、一橋慶喜が、将軍後見職になった。
1862年8月4日、松平春嶽、政事総裁となる(氷川清話)
  松平春嶽が、新設の政事総裁職に就任し、
  慶喜と共に、京都守護職の設置、陸奥会津藩主・松平
 容保守護職就任、将軍・徳川家茂の上洛など公武合体
 策を推進する(文久の改革)。
  春嶽は、熊本藩出身の横井小楠を、政治顧問に迎え、
 藩政改革や幕政改革にあたって彼の意見を重視した。
1862年閏8月、文久の幕政改革
1862年閏8月、京都守護職を置いた。
  松平肥後守京都守護職となる(氷川清話)
1862年閏8月、露公使、柳営(りゅうえい、将軍)に引見す
 (氷川清話)
1862年閏8月、戸田大和守、山陵奉行となる(氷川清話)
  山稜は、職名の1つで、天皇・皇后などの墓や御陵の
 こと。
1862年閏8月、勝海舟軍艦奉行並命ぜられ勤中千俵高(氷
 川清話)
1862年閏8月、参勤交代をゆるめ、妻子の帰国を許す。
1862年9月11日、幕府最初の海外留学生らが、長崎からオラ
 ンダに向かった。勉学に勤(いそ)しむ日本、それを、
 させる指導者。
  内田正雄、榎本武揚、赤松則良ら11人(海軍)、津田
 真道、西周(法学)、伊東玄伯、林研海(医学)
  1863年4月18日に、到着した。
1862年9月14日、生麦事件
  東海道の沿道・生麦村(現在の横浜市鶴見区)で発生。
  島津久光薩摩藩の行列(供の人数700余人)に午後
 2時頃、英国人のW・マーシャルら4人が、この大名行列
 横切り、当時の『最大の非礼』であったため、斬られた。
  一人が死亡し、二人が傷を負い、一人は無傷で逃げた。
  閏8月、島津久光従士、生麦において英人を斬る(氷川
 清話)
  1863年5月、イギリス公使代理のジョン・ニールは、幕
 府から賠償金10万ポンドを受け取る。
  1863年8月6日、薩摩からも取ろうと、ジョン・ニール 
 は、薩摩藩との直接交渉のため、7隻の艦隊とともに、
 横浜を出港(威圧をしたいのだ、もっと金が欲しいのだ)。
  1863年8月11日、イギリス艦隊は、鹿児島湾に到着し、
 鹿児島城下の南約7粁の谷山郷沖に投錨した。
  1863年8月12日、イギリス艦隊が前進、鹿児島城下前之
 浜約1粁沖に投錨。
  艦隊を訪れた薩摩藩の使者に、イギリス側は、国書を
 提出(イギリスという国を挙げての脅し行為だ)。
  生麦事件犯人の逮捕と処罰、遺族への賠償金2万5千
 ポンドを要求
  薩摩藩側は、回答を留保、翌日に鹿児島城内で会談を
 行う事を提案する。
  1863年8月13日、イギリス側は、城内での会談を拒否、
 早急な回答を求める・・この後に、交渉が決裂し(これ
 が正しい、もう話は決着している、正義は薩摩にあり)
  1863年8月15日、イギリス艦隊7隻が、鹿児島湾で薩摩
 藩と戦う(薩英戦争)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive