(増補版)253D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1861年〜1861年)

題:(増補版)253D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1861年1861年
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1861年12月8日、毛利慶親が、書を幕府に呈し公武合体を促
 し国威宣揚の基礎を樹てんと建白す
1861年12月19日、幕府の咸臨丸が、小笠原島の統轄のため
 同島父島着(日本領土たるを明らかにす)
  幕府に、何が大事かを見る者が居た、また、
  それをさせた幕府が存在した。
 (注)統轄:とうかつ、一つにまとめて権限をもって支
 配すること。また、その支配の及ぶ範囲。
1861年12月22日、文久遣欧使節・・いよいよ、不平等条約
 への日本の反抗が始まる。
  (訂正):これは旧暦であったので、新暦1861年1月
 21日に変更します。
  反抗行動の開始は早かった、条約締結直後の江戸幕府
 時代に始めていた。ここにも日本の俊英が居た。
  (第1回遣欧使節、開市開港延期交渉使節)(1862年1
 月21日説あり)
  開港問題談判のため、遣欧使節:竹内保徳、松平康直
 等が英艦にて江戸湾を発航す
  この第1回遣欧使節は、江戸幕府が、オランダ、フラン
 ス、イギリス、プロイセンポルトガルとの修好通商条
 約(1858年)で交わされた両港(新潟、兵庫)および両
 都(江戸、大坂)の開港開市延期交渉と、
  ロシアとの樺太国境画定交渉のため、1862年に、ヨー
 ロッパに派遣した最初の使節団である。
  正使は、竹内保徳(下野守)、副使は松平康直(石見
 守、後の松平康英)、目付は京極高朗(能登守)であっ
 た。
1861年12月30日、幕府が、毛利慶親に公武周施を依嘱す
  日本の行く末の模索。幕府は積極的だった。
1861年、軽罪者を蝦夷地に移す(氷川清話)
1861年、将軍、米国公使を柳営に引見す(氷川清話)
1861年、横浜の生糸と、長崎の茶が主要な輸出品となる。
1861年、世界を知ろうとする竜馬
  竜馬は、暇さえあれば河田小龍の屋敷に遊びに行った
 (竜馬がゆく・2)
  坂本竜馬(26歳)は、帰郷後、武市瑞山らの尊攘派
 加わった。
  この間、画家・河田小龍らから海外事情について知る
 ところがあった。
  坂本龍馬の生き方を決定し、大いに目を開かせた人物
 は、国元の河田小龍だった。
  竜馬は真っ先にこの人物に会った。
  小龍は、米国船に拾われ、米国に長期滞在して帰国し
 た中浜万次郎の事情聴取にあたり、藩内一の外国通とし
 て知られていた。
  竜馬は、小龍から聞いた外国事情はすべてが新鮮な価
 値観にあふれ頭が割れんばかりの情報であった。
  科学文明の発達ぶり、自由、独立の精神、入札(いり
 ふだ)で選ぶ議会制度などなど。
  その様な国を相手に本当に攘夷ができるのか?
  小龍は、「攘夷などできる訳がない」ときっぱりと言
 った。
  開国はやむを得ないが、一刻も早く軍備、特に海軍力
 を整えなければ、いずれ西欧列強に植民地化される危険
 がある・・と告げた。
  現実に黒船を見て、小龍に西欧科学、政治システムの
 優秀さを聞いた竜馬は、危機感をつのらせた。
  「でも、どうすれば」良いのか?
  「商売だ。そして、資金を作り外国船を一隻買って交
 易し、金もうけをしながら船を増やし、商い量を増やし、
 そして、航海術術も身につけ、そして、一日も早く諸外
 国と対等に渡り合えるようになる」。
  小龍が説くのは、幕閣や藩の重役などにはない、極め
 て現実的な方策であった。
  小龍は、人材に関しても、「藩や上士をあてにしては
 駄目だ。
  広く一般から有志を募る「それが民主主義」と、竜馬
 を啓発した。
  そして、竜馬は、何をやればよいのかの端緒を知る、
  そして、何を目ざせばよいのかの端緒を知る、
  しかし、よく考えれば、民主主義は、竜馬らの町の主
 (あるじ)たちの連盟が、その考えに行き着いて居り、
 その形態をすでに持っていたこと、そして、やっていた
 こと、そして、竜馬の体にその感覚が、すでに、存在す
 る事を知る。
1861年坂本龍馬が、久坂玄瑞に会う。
  久坂玄瑞(くさかげんずい、吉田松陰の妹婿)
  吉田松蔭に学び、松蔭に愛されて、その妹と結婚。
  松下村塾の逸材。貧録の藩医の家に生まれた。
  その頃、坂本龍馬は、親友・武市半平太に頼まれ長州
 藩尊攘派のリーダー久坂玄瑞を訪ねた。
  玄瑞は、師である松蔭の主張する「諸公や公卿をあて
 にしていても駄目。下級の民衆が決起するしかない。
  その為に藩が潰れてもやむを得ない」という意見を告
 げた。
  当時、国と言えば藩であった。
  玄瑞は、試行錯誤の末、ようやく、藩意識を捨て、日
 本国そのものの危機に立ち向かおうとする師・松蔭の思
 想に到達した。
  竜馬も、玄瑞の決意に賛同し、帰国して半平太に説い
 たが、半平太はかたくなに一藩勤王に執着し、運動の障
 害になっている参政の吉田東洋を斬るという。
  竜馬は絶望し、半平太と決別して脱盟し、やがて脱藩
 を敢行した。
1861年内村鑑三(うちむらかんぞう)が生まれた(1861
 年〜1930年)
  プロテスタントキリスト教思想家で、無教会主義を
 となえる立場を取った。
  アメリカ・メソヂスト監督教会の宣教師M.C.ハリスよ
 り受洗した。
  メソヂスト監督教会は、アメリカ独立戦争によって、
 イングランド国教会との関係が断たれたため、アメリ
 独自の組織ができた。
  イングランド国教会に忠実であれという立場の信徒と
 の軋轢(あつれき、仲が悪くなること)の中に設立され
 た。
  また、ローマ・カトリック教会バチカン)との関係
 も不必要として断絶した。
1861年、ロシアが、農奴解放令を発した。
  ロシア皇帝・アレクサンドル2世によって発せられた。
  農業において資本主義的発展を欲するならば、農奴
 を取っていたなら、それが達成できないと、農奴解放令
 発した。農奴農民は解放された。
1861年3月、イタリア王国の成立
  国民の大多数は農民、それも、その大多数は貧困な農
 民層だった。
  この層社会の人達は、反体制的にならざるを得なかっ
 た。
  そして、イタリアという地域は、種々な経過をたどる
 が、ゴート族やランゴバルド族の国家だった。
  その国家は、集権的な行為を露骨に行った。
  また、社会的矛盾もあり、19世紀中期以降、オースト
 リアの支配に対するイタリア解放戦争がはじまり、1861
 年に、国王ビットリオ・エマヌエレ2世の下で統一に成功
 した。
1860年代、搾取されるアジア各国
  欧米列強のキリスト教国家は、アジア各国の搾取に邁
 進していた。
  日本の志士、叡智たちは、維新の前夜の日本の叡智た
 ちは、その様な世界を知っていた。
  そして、共同の理念を持っていた・・その日本に・・
  幕府には、フランスが、
  また、薩長にはイギリスが、
  資金や援軍の提供の申し入れがあった。
  しかし、両者は固く辞退した。
  両者とも、何と、その事態の悪さを見抜いていた。
  日本の叡智は、その両者の叡智は、その問題を知って
 いた。
  敵味方は、心をひとつにしていた。
  また、キリスト教欧米文明の唱えた「民主主義」も、
 「自由主義」も、「民族自決」も、「門戸開放」も、
  そのすべてが、半分しかの真実性を示さず、
  半分は、しょせん嘘だった。
  アジアの『民族自決』は、特に、まったくと言ってい
 いほど認められていなかった。
  民主主義や自由主義だって、アジアのどの国にも、ア
 ジアの国には導入すらされず、
  アメリカ・ヨーロッパのキリスト教文明国家の手で行
 なわれた事と言えば、「搾取」だった。
  富の強奪だった。
  門戸開放も、門を開けて、富を取れるだけ取るという
 意味だった。
  これを、アメリカは主張した。
1861年アメリカは、清の市場(中国)からの無限の富み
 に目がくらんでいた。
  清(中国)へ向かうの利益収奪の船が年々増大した。
  この年、アメリカは、554万トンの商船を保有していた。
  これは、イギリスの保有トン数590万トンに追い付いて
 いた。
  この米英以外の、全世界諸国の保有が580万トンだから、
 アメリカは、世界商船総トン数の3分の1を所有する商船
 国だった。
  この中国への往来は、当然、中国人労働者が、にわか
 に多数となってアメリカに流入した。
  この後に、この中国人労働者が、アメリカで虐げられ
 る。
  そして、その嵐が、次に、日本人に対して意味もなく
 向けられて行くことになる。
1861年〜1865年、アメリカの南北戦争(〜1865年に終結
  南北戦争が勃発したあめりかは・・、
  勃発の原因は、リンカーン奴隷解放と言われている
 が、間違い。
  実際は、経済戦争であった。
  当時の南部諸州は、綿花、コーヒー、煙草などの農産
 物の輸出国として成功していた。
  これに対して、北部諸州は、工業化の道を歩もうとし
 ていた。
  アメリカは、英国をはじめとして、既に産業革命を成
 し遂げていたヨーロッパ諸国に『遙かに』後れを取って
 いた。
  南部は、貿易黒字であった、しかし、北部は・・?
  南部は、より貿易を拡大するための自由貿易主義を求
 めていた。
  対する北部は、競争力の弱い工業を育てるために、『
 保護主義』を主張した(今のTPPと逆だ)。
  もし米国が、北部人が言う保護主義をとれば、ヨーロ
 ッパ諸国も、当然、報復のために米国農産物に高い関税
 を課すことが予測された。
  南部人の南部諸州としては、保護主義は致命的な損失
 を意味した。絶対、避けたかった。利益のとりっこの戦
 争だった。。
  つまり、経済と貿易を巡って、南部人と北部人の・・、
  南北の深刻な政策上の対立が起きた。
  これが真の戦争原因であった。背に腹はかえられなか
 った。。
  経済的利害がからまなければ、黒人奴隷解放の理念だ
 けで、戦争が起きる訳がない。
  戦争は起きなかった・・絶対に・・避けたいのが当然
  ここは、本当に、プロパガンダされている。
1861年3月4日、アメリカ合衆国の第16代大統領にエイブラ
 ハム・リンカーンが就任する(〜1865年4月15日)
  リンカーンは、「奴隷解放の大統領」と言われている
 が、これは作られた話である。
  「奴隷解放の父」などと言われているが、リンカーン
 にとって奴隷解放が第一の政策の様に言われるのは・・
 間違い・・プロパガンダ(嘘宣伝)である。
  リンカーンが・・奴隷解放に関して、どんなことを言
 っていたかの一例が下記である、
  リンカーンの黒人奴隷の解放に関する発言:
「私は、白人種と黒人種の社会的政治的平等を如何なる
 形でも、もたらすことに賛成はしていないし、これまで
 もそうではなかった。
  私は、黒人を有権者にすることも陪審員にすることに
 も、賛成していないし、
  彼等が(黒人の方々が)役職者になる資格を与えるこ
 ととか、白人と結婚するとかいうことにも賛成しておら
 ず、これまでもそうだった。
  さらには、白人種と黒人種の間には身体的な違いがあ
 り、
  2つの人種が、社会的政治的平等という条件で共に暮ら
 すことを永久に禁じることになる・・と考えている。
  彼等が、そのような生活をできない限り、
  彼等は、上等と下等の地位があるべき状態に留まり、
  他の人と同様に、私は上等の地位が白人種に割り当て
 られていることに賛成する・・」。
  何と、リンカーンは「奴隷解放に賛成していない」と
 言っている。
  そして、「過去からそう思っていた」とまで言ってい
 る。
  そして、「黒人に政治に参加する事にも賛成しない」
 と言っているし、
  「司法への参加〈陪審員になる事〉にも賛成しない」
 と、
  黒人の方々の政治と司法などの三権に黒人の方々の人
 権を認めていないと言っている。
  そして、奴隷という「人権剥奪行為」についても、
  奴隷解放に賛成していないという人だった。
  何故、こんな人が、「奴隷解放の父」なのだろうか?
  完全に、作られた名声なのだ。
  真実は、奴隷解放をしたのは、黒人の方々が、自ら行
 ったのだった。
  公民権回復も黒人のキング牧師が活躍し、暗殺されて
 しまったが、黒人のこの方の功績なのである。
  リンカーンは、人道主義的な行動をとる人ではなかっ
 た。
  子供の時に、目の前でリンカーンのおじいさんが殺さ
 れたので、一生、リンカーンはインディアンの方々に恨
 みを持っていた。
  大統領になる前の弁護士時代は、法律を駆使して、イ
 ンディアンの方々の土地を取り上げていた。
  インディアンの方々の土地の権利の抹消処理を多数行
 っていた。
  リンカーンは、弁護士時代から大統領時代にかけて、
インディアンの土地取り上げに奔走している。
  ことに、西部方面への、インディアン領土への、鉄道
 拡張に関して、インディアンの土地権利の抹消処理を、
 多数、手がけた。
  リンカーンが、「無効(neutralized)」としたインデ
 ィアン部族の土地に対する書類は、現在でも、数多く残
 されている。
  また、常に、徹底排除の姿勢を崩さず、彼らの大量虐
 殺の指揮を取り続けた。
 民族浄化とも言われるロング・ウォーク・オブ・ナバ
 ホや、
  ダコタ戦争を始めとする多くのインディアン戦争は、
 リンカーン政権下で行われた。
  リンカーンは、執念を掛けて、インディアン民族に対
 して、終始、徹底排除の方針を採り続け、大量虐殺を指
 揮している。
  当時の保留地は、外に出ることを許されない完全強制
 収容所だった。
  また、
  リンカーンは、ミネソタのダコタ族との連邦条約を一
 方的に破棄して、
  ミネソタ州にある彼らの保留地を強制没収し、
  彼らをノースダコタ等の他のスー族の保留地に強制連
 行した。
  ミネソタに、それでも残っていたダコタ族に対しては、
州を挙げての「皆殺し政策」が行われ、
 女性や子供を問わず賞金首とし、徹底絶滅が図られた。
  リンカーンは、
 この虐殺方針に対しても、責任者として、全く異議を
 唱えなかった。
  1863年、この夏、
  リンカーンは、ジェームズ・カールトン准将に、南西
 部のナバホ族インディアンの討伐を命じた。
  ナバホ族は、ダコタ族同様に、抵抗していた。
  カールトンは、ナバホ族の土地に金鉱があると睨んで
 おり、以下のように声明を行ったが、今回もダコタ暴動
 の際と同様、司令者であるリンカーンはこれを是認した。
  1864年リンカーンは、
  ナバホ族8500人の、300マイル(483キロメートル)離れ
 た東にあるアパッチ族強制収容所「ボスク・レドンド
 への徒歩連行を命じた(ロング・ウォーク・オブ・ナバ
 ホ)。
  この強制連行の途上で、数百人の死者が出たが、
  そのほとんどが子供や老人だった。
  「ボスク・レドンド」で、ナバホ族の方々は、強制労
 働を課され、
  女性は、米軍兵士から強姦され、
  また、乳幼児のほとんどが生まれて間もなく過酷な環
 境下で死んだ。
  結局、リンカーンの死後の1868年に、和平条約が調印
 されるまでに、2000人以上のナバホ族が死んだ。
  など、多数のリンカーンの先住民・インディアンいじ
 めの事例が多々ある。
  そしてまた、リンカーンは、
  白人と黒人が平等であるとは思っていなかった。
 リンカーンは、はっきり
  「奴隷制奴隷制廃止論のどちらにも反対する」と発
 言もしている。「奴隷解放の父」ではない。
  また、
  「奴隷制度は不正と悪政にねざすことを信じるが、し
 かし、
  奴隷廃止論の公布は、その害悪を減ずるよりはむしろ
 増大させるものと信ずる」と、奴隷解放の反対理由を言
 っている。「奴隷解放の父」ではない。
  そして、リンカーンの発言:
  「これまで私は、黒人が投票権をもったり、陪審員
 なったりすることに賛成したことは一度もない。
  彼らが、代議士になったり白人と結婚できるようにす
 ることも反対だ。
  皆さんと同じように、白人の優位性を疑ったことはな
 い」。「奴隷解放の父」ではない。
.
  更に、リンカーンの発言:
  「奴隷制度が布かれている州におけるこの制度に、直
 接にも間接にも干渉する意図はない。
  私はそうする法律上の権限がないと思うし、またそう
 したいという意思もない」。
  また、リンカーンには、
  俗な言い方をすれば「連邦を救いたいのだ、黒人の奴
 隷解放は二の次なのだ。
  黒人奴隷解放が、どの様な結果になろうが連邦が救え
 れば私はそのことをする」がある。
.
  黒人歴史家のレローヌ・ベネットは、1968年に、
  リンカーンを白人至上主義者と呼んだ。この時、広く
 注目を集めた。
  批評家は、リンカーンが、民族的な中傷を用い、黒人
 を冷笑するジョークを話し、社会的平等に反対すると主
 張し、解放奴隷を別の国に送ることを提案したことに苦
 情を言っている。
  リンカーンの擁護派は、
  彼が大半の政治家ほど悪くはなく、
  政治的に可能な限り奴隷制廃止論の側で巧みに進展さ
 せた「道徳的先見家」だったと弁護している。
  また、日本の放送大学の講義もまったく嘘を話してい
 る。
  2015・9・23、午後1時45分〜午後2時30分、講座名:
 「現代の国際政治、第2回、アメリカの世界戦略(1)
 スーパー・パワーへの道」、講師:高橋和夫氏の放送大
 学の講座はまったくおかしい。
  アメリカ北部とイギリスを庇(かば)って、「奴隷制
 度に反対した」と嘘を講義する放送大学
  アメリカ北部とイギリスは、奴隷制度に反対したと嘘
 を言う放送大学となっている。
  本当に公平な話はしない放送大学
  間違いと誤解を与える講義となっている放送大学の講
 座だ。
  イギリスは、最初から最後まで奴隷貿易をした国だ。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive