(増補版)273E1/3:気になった事柄を集めた年表(1867年11月〜1868年1月)

題:(増補版)273E1/3:気になった事柄を集めた年表(1867年11月〜1868年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1867年11月24日(10月29日)天皇陛下が、勅使・日野資宗
 を孝明天皇御陵に差遣、大政復古を告げしめ給う。
1867年11月、勅して総裁、議定、参与の三職を置く(氷川
 清話)
1867年11月、勝海舟が、英・仏・米の船将を同伴して、我
 が汽船で、燈台の位置検定の為、房州沿海を巡航す(氷
 川清話)
1867年12月8日(11月13日)鹿児島藩主の島津忠義(しまづ
 ただよし)が、藩兵3000名を率いて鹿児島を出発した。
  これは、西郷隆盛大久保利通小松帯刀らの進言を
 容れて上洛したのだった。
  そして、後に、王政復古の大号令に貢献し、議定に任
 ぜられて小御所会議に参席した。
  時代の流れの中心に位置した。
1867年12月10日(11月15日)坂本龍馬が暗殺された。
  坂本龍馬中岡慎太郎が暗殺される(近江屋事件
  竜馬、暗殺、氷川清話では・・、
  慶応三年十一月の「海舟日記」に・・、
  本月15日夜4ッ時頃、京三条通り油屋、土藩・後藤象次
 郎寓宿此頃大坂へ下り居合せず、坂本龍馬を尋ね、武士
 3・4人罷(まか)り越し、案内を請い候所、取次ぎの者、
 名札請取り、二階へ上り云々申聞る折、既に武士、後よ
 り取次の者切り掛け、口より進む者、竜馬に打掛け、そ
 の内、同所へ談話に参り居り候、同藩陸援隊頭吉田某へ
 切掛り、両人共痛手おい、竜馬は同夜息絶え、吉田は暁
 迄死きれぬ趣(注)吉田とは中岡慎太郎のことであろう)
 (氷川清話)
  惜しいかな、竜馬は11月15日、河原町通り近江屋の2階
 で暗殺された(氷川清話)
  中岡慎太郎と会談中、刺客に襲われ殺された。坂本竜
 馬ら暗殺さる(氷川清話)
  坂本竜馬が暗殺された時、一緒にいた中岡慎太郎は重
 体となった。
  竜馬は即死、ないしは、翌日未明に息絶えたが、
  慎太郎は、二日間生き延び、暗殺犯の襲撃の様子につ
 いて詳細に語ったが、
  12月12日に死去した。享年30歳。
1867年12月12日(11月17日)中岡慎太郎絶命。
1867年12月18日(11月23日)薩摩の島津忠義が、兵を率い
 て京都に入った。
  西郷隆盛品川弥二郎も京都に着いた。
1867年12月20日(11月25日)東北の各藩に、樺太の開拓を
 許した。
1867年12月24日(11月29日)幕府が、樺太の漁業を民間に
 奨励した。
  また、旗本大名にして同地希望者へは割与した。
1867年12月25日(11月30日)幕府が、海底電信布設を計画
 した。
1867年3月30日、アメリカが、財政難のロシアからアラスカ
 を720万ドルで購入する条約に調印した。
  1エーカー(4047平方メートル)が2セントという安さ。
  しかし、「巨大な保冷庫を買った」と非難された。
  1896年に、金鉱が発見され、資源の宝庫であることが
 分かった。
  しかし、本当の所有者は、アメリカ・インディアンの
 方々やエスキモーの方々である。
  この本当の所有者を無視した行為だった。
1867年、アメリカが、アリューシャン列島・ミッドウェ
 イ諸島を新領土の植民地として手に入れた。
1867年、カール・マルクス資本論を書いた。
1867年、フランク・ロイド・ライトアメリカの建築家)
 が生まれた(92歳まで生きた)
1867年、ノーベル(スウェーデン)が、ダイナマイトを発
 明した。
1868年(慶応4年)1月1日(12月7日)幕府が、兵庫(神戸)
 港を開港した。
  大坂の互市場(ごしじょう、貿易の行われる場所の意
 味)が国際的に開かれた。
  ロンドン覚書に従って、兵庫が開港される。
  それを祝うため、英・米・仏の艦艇17隻が集結。
  各国公使も大坂に滞在した。
1868年1月1日(12月7日)坂本龍馬中岡慎太郎の仇を狙っ
 て新撰組が襲撃された。
1868年、横浜の人口が3万人。
  そして、すでに、横浜には、イギリス・フランス・プ
 ロシア(ドイツ)の軍隊が居た。
1868年1月2日(12月8日)、土佐藩山内容堂が、ようやく
 入京した。
  王政復古クーデターが勃発するのは、この翌日・1868
 年1月3日だった。
1868年1月2日(12月8日)三条実美ら六卿、及び、毛利敬親
 父子の官位を復し、入京が許された。
1868年1月3日(12月9日)小御所会議
  (王政復古に関する御前会議)
1868年、勝海舟、正月、二月、二度にわたり越前家を介し
 京師参与に意見書を呈す(氷川清話)
  勝海舟、一書を三道の城主に贈る(氷川清話)
1868年1月3日(12月9日)、王政復古クーデター
  討幕派による王政復古クーデターが敢行された。
  王政維新の勅諭(氷川清話)
  王政復古の大号令・・、
  徳川慶喜の将軍職辞職を勅許し、江戸幕府を廃止した。
  禁裏の小御所で、朝議が開かれ、
  明治天皇は、大政奉還に伴う王政復古を宣した。
  西郷は、直ちに、旧幕の親藩・桑名の禁門衛兵を追っ
 て、薩摩の兵を配置につけた。
  銃剣は、内に向け、朝議に無言の圧力をかけた。
  禁裏では、引き続き、王政復古後の初めての会議が開
 かれて居た。
  西郷は、議場の外。
  大久保は、内に居るが、藩士の身分で出席し、宮中で
 は地位が低い。
  玉座近くには島津久光がいる。
  幕府は消滅しても、天皇の下に、総理が徳川慶喜で、
 副総理が島津久光山内容堂あたりが収まると予測され
 た。
  容堂が、前将軍・慶喜を出席させないのは不都合だと
 発言した事から会議はにわかに紛糾した。
  硬骨の岩倉具視が反駁した。
  「慶喜は、速やかに官を辞し、領地を返上して、忠誠
 のあかしを示すべし」。
  大政奉還を演出した容堂は激昂した。
  「勤王の志により政権を返上した徳川殿を、更に、罰
 するとは不埒千万なり」。
  大久保は、岩倉に同調した。
  「辞官納地の命を拒めば追討もやむなし」。
  激越な発言も末席からでは効果が無かった。
  休憩の間に、使者が状況を伝えると、西郷は、事もな
 げに言った。
  「短刀一本あれば片付くことでごわす」。
  岩倉の席は容堂に近い。
  岩倉は、本気で容堂を刺す気でいた。
  議場は殺気に包まれて、討幕派の主張が容認された。
  二条城の幕臣たちに怒りが渦巻いた。
  慶喜は、暴発寸前の幕臣を鎮めて辞官納地を承諾した。
 (プレジデント平成10年7月号)
  王政復古の大号令が発せられ、追い詰められた徳川慶
 喜のいる二条城では主戦論がつのった。
  そして、一旦、大阪に下った。
1868年1月3日(12月9日)新たに総裁、議定、参与を置く
1868年1月4日(12月10日)徳川慶喜に退官納地の勅諭
1868年1月6日(12月12日)徳川慶喜の将軍職の辞職に、幕
 臣が騒然(特に会津、桑名の両藩の兵激繡する)
1868年1月6日、徳川慶喜、二条城を退去。
  翌日、大坂城に到着。
1868年1月8日(12月14日)西郷従道大山巌ら、三条実美
 以下の五卿を迎えるため大宰府に到着した。
18687年1月10日(12月16日)徳川慶喜が、英・米・仏らの
 六国使臣を招き、政体改革の事を告げた。
1868年1月10日、徳川慶喜、英仏米蘭伊普の6カ国公使に、
 外交権は幕府が保持していることを宣言
1868年1月13日(12月19日)三条実美ら、帰京のため大宰府
 を発った。
1868年1月14日(12月20日江戸城二の丸が全焼した。
1868年1月16日(12月22日)、勝海舟へクーデター情報が届
 く・・、
  この時、大阪湾にある開陽丸の船長・榎本釜次郎から
 の密書が届いて、
  京都朝廷におけるクーデター、小御所会議の結果とし
 ての、倒幕密勅の動き、慶喜に辞官納地を命ずる旨の策
 謀がある旨を知らせて来た(氷川清話)
1868年1月17日(12月23日)閣老の小笠原壱岐守が、米国
 書記官・ボルトメンの願により、江戸〜横浜間の鉄道敷
 設免許を与えた。
  (その後明治新政府はこの契約を認めず)
1868年1月17日、勝海舟がスパイではないかと・・、
  この時、勝海舟は、登城して海軍総裁の稲葉兵部大輔
 へ状況の重大な事を進言したが、
  稲葉兵部は、勝に向かって、「そこもとの申したつる
 所は頻る善いが、役人たちがそこもとを嫌って、薩・長
 のスパイではないかと疑っている。
  そこもとを、免職すべきだとさえ云っている。
  暫く時の至を待つがよい」。
  勝海舟は、こうまで疑われては、今更、言うことはな
 いと思った。
  そこで退職を願い出て、「憤言上書」を書いて差し出
 す。
  この書には、海舟の平常の考え方の真髄が露出してい
 る。
  署名も「海舟狂夫」とある(氷川清話)
1868年1月19日(12月25日)薩摩屋敷焼討事件 :戊辰戦争
 への流れを決定的にした事件
  庄内藩を中心とする旧幕府軍による薩摩藩邸、佐土原
 藩邸焼き討ちが起きた。
  江戸の三田にある薩摩藩江戸藩邸が、江戸市中取締
 の庄内藩・新徴組らによって襲撃され、
  砲火により焼失した事件。
  この事件からの一連の流れが、戊辰戦争のきっかけと
 なった。
  この時期、前将軍・徳川慶喜をはじめとする旧幕府の
 幹部は、小御所会議により大坂城に詰めており、
  江戸には、市中取締の藩兵のみが警護にあたっていた。
  京では、朝廷が、幕府に見切りをつけて、
  そして、討幕の密勅が薩摩と長州に下されていた。
  密勅を賜った薩摩は、すぐに行動を開始した。
  薩摩の意を受けて活動を開始したのは相楽総三であり、
 三田の薩摩藩邸を根拠地として、意思を同じくする倒幕、
 尊皇攘夷論者の浪士を全国から多数招き入れた。
  彼らは、薩摩藩士・伊牟田尚平や益満休之助に指導を
 受け、放火や、掠奪・暴行などを繰り返して、幕府を挑
 発した。
  その行動の指針となったお定め書きにあった攻撃対象
 は、
 「幕府を助ける商人と諸藩の浪人。
  志士の活動の妨げになる商人と幕府役人。
  唐物を扱う商人。
  金蔵をもつ富商」・・の四種に及んだ。
  旧幕府も、前橋藩佐倉藩、壬生藩、庄内藩
 「盗賊その他、怪しき風体の者は見掛け次第、必ず召し
 捕り申すべし。
  賊が逆らいて、その手に余れば、討ち果たすも苦しか
 らず」・・と、
  厳重に市中の取締りを命じたが、武装集団に対しては
 十分な取締りとならなかった。
  庄内藩は、旧幕府が上洛のため編成し、その後、警護
 に当たっていた新徴組を借り受け、薩摩藩邸を見張らせ
 ていた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive