(増補版)178D2/3:気になった事柄を集めた年表(1768年〜1770年)

題:(増補版)178D2/3:気になった事柄を集めた年表(1768年〜1770年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1769年2月、農民の徒党・強訴・逃散を禁止する。
  荒廃する農村に対し、取締り強化の方向に行く。
  そして、2月には、遠国の百姓の徒党強訴は、いかなる
 要求でも受理は出来ないとした、そして、処罰するとし
 た。
  そして、この後、徒党強訴・逃散禁止として行く。
1769年10月、青木昆陽(あおきこんよう、儒学者蘭学者
 が没した(1698年〜1769年)
  飢饉のときの救済作物となった、救荒食物のサツマイ
 モの研究と、普及に、功績を残した人が没した。
  「甘藷先生」と呼ばれ、「芋神さま」と呼ばれた。
  研究に成功し、全国に普及したサツマイモは多くの人々
 を救った。
  言葉:
  此芋を蒸して干し、米の如く切って飯となし食う。島
 人皆百余歳の寿を保つ(「蕃藷考(ばんしょこう)」)
1769年10月、賀茂真淵(かものまぶち、国学者歌人)が
 没した(1697年〜1769年)
  この人の著・「万葉考」は、最も精力を傾けた著作で、
  また、この人には、門人に女性も多くいる(男女差別
 は、まったくない世界だった)。
1769年、生活困窮者の救済:義倉(ぎそう)
  倉敷の豪商たちが、麦を拠出して、生活に困窮する人
 たちを救う制度「倉敷義倉(くらしきぎそう)」を作り、
 始めた。
  また、倉敷の商人の人達には、既に、自治の気風が生
 まれていた。
  義倉は、日本で古くから置かれた備荒貯蓄(びこうち
 ょちく)のための倉庫で、
  備荒貯蓄は、凶作・飢饉に供えて、米穀類や金銭を貯
 蔵した。
  古来から、義倉や社倉や常平倉(じょうへいそう)な
 どが設けられて来た日本だった、
  江戸時代は、囲米(かこいまい)・囲籾(かこいもみ)
 も備荒用の性格を持っていた。
  また、義捐(ぎえん)といって、慈善や被災者救済な
 どの主旨で、金銭や品物が差し出されていた。
  幕府や諸藩は、特別課徴や義捐によって備荒貯穀(び
 こうちょこく)を行なっていた。
1769年、フランスがインドから退出する。
  フランスのインド会社が、イギリスとの勢力争いに敗
 れ、また、財政困難から、この年に解散した。
  いよいよイギリスのインドにおける卑劣な横暴な行動
 が始まる。
  日本に向けた「リットン調査団」の様な行動が、この
 イギリスのインドにおける蛮行に対してもあるべきだっ
 たのだが・・、
  アメリカ人の書いた記録がある、それは、インドのイ
 ギリスのあまりの悪どい悪辣さに驚き、アメリカのやり
 口の悪さはイギリスほどでもないという事を言っている。
  どちらもどちらだ・・、
1769年4月13日、イギリス人のクックが、この日に、タヒチ
 に達した。
  南米大陸南端のホーン岬から、太平洋を西進したクッ
 クは、この日に、タヒチに着いた。
  この後、クックは、ニュージーランドに向かい、そし
 て、達し(1769年10月6日、ヨーロッパ人としては2番目)、
  クック海峡を通過し、オーストラリア東岸を発見する。
 (〜1771年、第一航海)
1769年、ジェームス・ワット(スコットランドの数学者・
 エンジニア)による蒸気機関が発明された。
  これは、既に発明されていた蒸気機関の効率の悪さを
 改良したものだった(復水器で蒸気を冷やす事が改良の
 ポイントだった)。
  効率が良くなった。
  クックは、この他に、往復運動から回転運動への変換、
 調速機を利用して動作を安定化したりの改良を加えた。
  これによって、工業や交通機関への応用への道が開け
 た。
  そして、イギリスに、18世紀後半から19世紀前半にか
 け産業革命が起きた。
  そして、他の欧米諸国へ、19世紀から20世紀初頭にか
 けて波及して行った。
1769年、水力紡績機が発明され、実用化された。
  これもイングランドのアークライト、この人は、綿紡
 績の盛んなランカシャー州の貧しい農家に生まれた。
  初め理髪師となったが、紡績機械に興味を持ち、
  水車を利用した水力紡績機械を発明した。
  そして、この年の1769年に、特許取得のための申請を
 した。
  この後、全工程の一貫生産技術を確立し、これによっ
 て大量生産が可能になった。
  これは、産業革命に多大な影響を与えた。
  日本には、豊田佐吉の豊田式自動織機の大発明がある
 (1897年)。
  この特許権使用料を、トヨタ自動車創業の基礎として
 いる。
1769年8月15日、ナポレオン1世フランス第一帝政の皇帝)
 が生まれた(1769年〜1821年)
  本名は、ナポレオン・ボナパルト
コルシカ島のイタリア系地主であるボナパルト家
 出身で、
  パリ兵学校で学び、1785年に、砲兵士官(少尉)とな
 って地方都市に赴任したが、山岳派支持の小冊子を発表
 して逮捕される。
  1795年に、パンデミエールの反乱を鎮圧して再起した。
  総裁政府からイタリア遠征軍司令官に任命されて手腕
 を発揮した。
1770年4月、幕府が、諸国に徒党強訴・逃散禁止の高札を
 立て、訴人には賞金銀百枚を与える旨を布告した。
  農村は荒廃して行っていた。そして、世界的な異常気
 象が起きている時代でもあった。
1770年、諸国が飢饉
  天明の大飢饉という、前代未聞の大飢饉が、1782年か
 ら起き、1788年にかけて、人々を苦しめるが、
  すでに、東北地方では、1770年代から、悪天候や冷害
 により、農作物の収穫が激減しており、
  農村部を中心にひどい疲弊状況に陥(おちい)ってい
 た。
  インドのベンガル地方においての飢饉も、この1770年
 に起きていて、
  何と、この飢饉で、1000万人の方々が亡くなっている。
  また、1770年初頭に、ヨーロッパも大飢饉であったが、
  これを救ったのが、ジャガイモだった。
  この時期に、ヨーロッパで急速に普及して行った。
  この救いのジャガイモをもたらしたのがインカの方々
 だった。
  インカの方々は、スペインのキリスト教徒とキリスト
 教聖職者たちに絶滅させられたが、
  インカの方々は、野生のジャガイモは毒性が強く、食
 べられない状態であったのを、
  有毒の、この野生ジャガイモを、食糧とする工夫を重
 ねて来た。
  そして、更に、インカの方々は、野生ジャガイモに関
 する知識を蓄積して行き、ついに、栽培ジャガイモの育
 成に成功した。
  この農業技術・農耕技術は優秀で、殺戮者のスペイン
 人も驚嘆したという。
  そして、トウモロコシと共に、ジャガイモは、ヨーロ
 ッパへもたらされた。
  しかし、初めは、ヨーロッパは、キリスト教による根
 強い偏見があって、このジャガイモは食べなかった。
  忌み嫌った。
  「聖書に記載されていない植物だ」と、また、「悪魔
 の植物だ」(迷信宗教)・・と。
  しかし、大飢饉になってその有難味(ありがたみ)が
 分かるキリスト教徒たちだった。
  日本へは、18世紀になって入って来た。
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