(増補版)179D2/3:気になった事柄を集めた年表(1770年〜1772年)

題:(増補版)179D2/3:気になった事柄を集めた年表(1770年〜1772年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1770年、イギリス人のクックが、この年に、オーストラリ
 アに到達した。
  クックは書く・・、
  「彼ら(アボリジニーの先住民の方々)は、不平等に
 よって犯されることのない静寂の中に暮らしている。
  彼らと一体化した大地と大海は、生活に必要なあらゆ
 る事物を満たしている。
  彼らは、豪華な屋敷も家財もない・・が、しかし、
  彼らは素晴らしい大地で生活している」・・と、クッ
 クは表現した。
  この様に表現されていた「先にオーストラリアに来て、
 オーストラリアに生活していたアボリジニーの方々」の
 「アボリジニー・ランド」は、
  後から来た者たち(イギリス人)に奪われていく・・、
  そして、この後に、この後から来たイギリス人たちは、
 先に、既に住んでいた、生活していたアボリジニーの方々
 を、
  まるで動物の狩りをするかのごとく、殺して行く。
  そして、本当に卑劣な事だが、
  毒をもっても、殺して行く。
  この行為は、いくら軽蔑しても、したりないくらいの
 極悪行為だ。
  まったく非人道的な、卑劣な行為をするキリスト教
 のイギリス人たちだった。
  そして、先住民のアボリジニーの方々の土地を奪って
 行った
  占有し、イギリス人のオーストラリアとして行った
  (占領行為であり、侵略行為である。謝罪はまだして
 いない)。
  いま現代、一見、平等社会に見えるオーストラリア社
 会は、まったくアボリジニーの方々の、この件に関して
 ホッカムリをしている『不平等な社会』である。
  法的な権利を先住の方々に与え、本件を平等に解決す
 る必要が、現に今も、存在している。
  この件は、アメリカ合衆国についても言える。
  アメリカ・インディアンの方々も、全く一方的に土地
 を奪われ、生活の基盤を失った方々である。
  白人のアメリカ人から、一方的な契約によって、土地
 の所有権を奪われた。
  命を奪われながら、自分たちの領土を失って行った。
  そして、アメリカ・インディアンの方々は、宗教的・
 経済的基盤を失った。
  不合理な、強奪の様に収奪した土地の所有権は、返還
 すべきである。謝罪はまだしていない。
1770年、ベートーベン(ドイツの作曲家)が生まれた。
  ボンの宮廷楽長を祖父に持ち、
  ボンの宮廷楽団歌手の子として生まれた(1770年〜
 1827年
  10歳の頃から、ネーフェ(ドイツのオペラ作曲家)の
 教えを受け、
  師は、ベートーベンを第二のモーツァルトになるであ
 ろうと、彼の才能を認め、絶賛した。
1771年3月4日、医学:杉田玄白の腑分け
  江戸の小塚原の刑場で、50歳ほどの女性の刑死人の解
 剖が行われた。
  町奉行の役人の知らせで、杉田玄白は、小躍りして小
 塚原に行き、現実の人体の内景と、右にある本の解剖図
 を見比べていくうちに、
  本が、実際と寸分違わないことを知った。
  この時、杉田玄白と共に、前野良沢が解剖を見た。
1771年、風俗:おかげ参り盛行
  伊勢へのおかげ参りの盛行のこの時に、「お蔭参り」
 の言葉が生まれた。
  民衆の伊勢参りは、全時代を通じて流行していたが、
 特に、盛行の年は、1650年・1705年・1771年・1830年
 各年が代表的。
  歌川広重が「伊勢参宮・宮川の渡し」の絵を描いてい
 るが、
  そして、その絵には、大勢の人たちが、楽しそうに、
 身なりも良く、にぎやかな中に描かれているが、
  豊かな、そして、品よく、穏やかな江戸時代が偲ばれ
 る。
1772年、風俗:大和路を巡る
  本居宣長(もとおりのりなが、国学者、医師)が、大
 和路を巡る(「菅笠日記」)
  ことし明和の九年といふとし。
  いかなるよき年にかあるらむ。よき人のよく見て。
  よしといひおきける。吉野の花見にと思ひたつ。
  【萬葉一に よき人のよしとよく見てよしといひし吉
 野よく見よよき人よく見つ】
  そもそもこの山分衣のあらましは。
  廿年ばかりにも成りぬるを。
  春ごとにさはりのみして。いたづらに心のうちにふり
 にしを。
  さのみやはと。あながちに思ひおこして。出たつにな
 ん有ける。
  さるは何ばかり久しかるべき旅にもあらねば。
  そのいそぎとて。
  ことにするわざもなけれど。心はいそがはし。
  明日たゝんとての日は。まだつとめてより。
  麻きざみそゝくりなど。いとまもなし。
  その袋にかきつけける哥。
1772年、出版:解体新書、
  杉田玄白前野良沢らが、「解体新書」を著した。
  解体新書の訳述は、1771年3月、小塚原で杉田玄白
 1733年〜1817年)らが、分け、つまり屍体解剖を見たこ
 とを契機とする。
  この時に、同行した人をみると、杉田玄白と中川順庵
 (1739年〜1786年)は、ともに若洲小浜の酒井家の医者
 であるが、
  前野良沢(1723年〜1803年)は、豊前中津の奥平家の
 医者である。
1772年1月、田沼意次の賄賂政治
  田沼意次が老中となった(1772年)
  天明年間(1781年〜1789年)は、意次の全盛期で、「
 田沼の時代」と称された。
  フィクサー(陰で調停・処理して報酬を得る人)的な
 役割を演じた。
  役人の賄賂が横行した。
  専売制・会所制を設け、専売商人より冥加金を徴収し
 た。
  また、諸種の運上をうながした。
  銅・海産物を輸出し、金銀の輸入を行なった。
  天明の飢饉が起こるなど、意次への批判が高まり、
  子の意知が城中で刺されて死亡すると、急速に力を失
 った。
  代わって登場したのが松平定信
1772年2月29日、江戸大火:明和の大火・目黒行人坂大火
 (めぐろぎょうにんざかのたいか)
  明暦の大火に次ぐ江戸三大火の一つ。
  目黒行人坂より出火、西南の強風にあおられ、麻布・
 芝・京橋・日本橋・神田・本郷・下谷・浅草などに延焼
 し、千住まで達する。
  翌日の30日の夕刻に、ようやく鎮火した。
  そしてまた、29日夕刻、本郷丸山町より出火、駒込
 谷中・根岸を焼くという火災もあった。
  延焼地域は24キロメートルに達した。
  幅4キロメートルで江戸の約3分の1の面積におよんだ。
  延焼距離は、江戸時代から今日までの最長となってい
 る。
  死者数14700人、行方不明者4060人、
1772年、この年は、全国が風水害になった。
  史料1:安永元年8月20日(1772年) 暴風雨 四国・近
 畿・東海の諸国大風雨、洪水 讃岐災異年表に家屋崩壊
 19,000余戸、破船大小142隻、死者46人、牛馬47頭、紀伊
 にも被害があったと予想される。
  資料2:千葉県浦安市の水害の歴史に、安永元年(
 1772年)6月 津波・洪水・風雨
  資料3:大坂の歴史に、明和8(1772)年は、正月に大干
 魃、5月は大坂に疫病が流行、7月には京・大坂および近
 国に大風雨があり淀川の大洪水。
  資料4:田沼時代の災害・1772年に、同年夏から秋、
 九州、江戸、東海、近畿、瀬戸内海などの各地が大風雨
 にみまわれ大きな被害。現代でいう台風による被害。
  資料5:1772(明和9・安永1)年2月20日、京師で
 地震。(続史愚抄79)5月3日 京師で地震。(続史愚
 抄79)、7月肥前・肥後・筑後で大風雨。長崎で清の3
 船破損。(泰平年表)(十三朝記聞 6)(続史愚抄79)、
 8月初旬、関東から東海地方で大風雨。三河特に甚大。
 永代橋流出。(続史愚抄79)(徳川十五代史14)(談海
 続編 9)(泰平年表)(十三朝記聞 5)(続日本王代一
 覧 9)(浚明院殿御実記26)、8月下旬  瀬戸内から
 近畿にかけて大風雨。祇園悪王子社倒壊。(続日本王代
 一覧 9)(十三朝記聞 5)(続史愚抄79)、11月16
 日 風水害と江戸大火などの天災人災は「明和九年」だ
 という俗説が広まり、また幕府も改元を実施。この年、
 徳之島で翌年にかけて疫病流行。この年、霧島山噴火。
 被害多数。(日本災異誌)・・その他・略
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