(増補版)223D2/3:気になった事柄を集めた年表(1832年〜1833年)

題:(増補版)223D2/3:気になった事柄を集めた年表(1832年1833年
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1832(天保3)村田清風(むらたせいふう、長州藩士)が、
 長州藩に国政改革草案を上申した。
  長州藩の改革派の基盤を固め(窮迫した藩の財政再建
 に尽力し)、維新への原動力を築いた。
  天保の改革の立案・推進者となって、天保の改革は、
 1、江戸藩校・有備館(ゆうびんかん)の設立
 2、西洋式大操練(そうれん、兵士を実戦で役立つよう
  に訓練すること)の実施
 3、淫祠(いんし、いかがわしいものを神として祭ること)
  の解除
 4、農村の実態調査
 5、藩校・明倫館の改築と整備
 6、藩直営の会所の拡充
 7、藩専売制の強化・・など
  この頃から各藩の天保の改革始まった。
1832年為永春水(ためながしゅんすい、人情本作者)が、
 「春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)」初編。
  〜1833年刊。
  美男子丹次郎とその許嫁(いいなずけ)お長の話。
1832年、イギリスの第一次選挙法改正
  産業ブルジョワジー中産階級)に選挙権が拡大され
 ることになったが、
  依然として、納税額の多いものだけに選挙権が与えら
 れる「制限された選挙制度」であった。
  選挙権資格のない労働者階級の不満があった。
1833年天保4年)6月26日、桂小五郎(かつらこごろう、
 政治家)、後の、木戸孝允(きどこういん、きどたかよ
 し)が、長州萩の呉服町江戸屋横丁で生まれた。
  8歳で90石の主になった。
  学問を明倫館で学び、
  17歳の時、当時、城外で松下村塾を営んでいた藩の軍
 学者・玉木文之進という20歳の青年を知った。(竜馬が
 ゆく・1)
  桂小五郎木戸孝允)(1833年〜1877年)
  吉田松陰兵学門下だった桂小五郎は、医師の子とし
 て生まれ、
  近所に住んでいた長州藩士の末期養子として士籍を得
 た。
  藩校での成績もさほどのものでもなく、
  剣術の腕も特出していない。
  さほど優秀でもないので、父親の遺産を使い、私費で、
 小五郎は江戸に出た。
  しかし、練兵館で精励し、塾頭にまでのしあがった。
  その怜悧(れいり、賢いこと)で、開明的な資質を買
 われて、江戸藩邸での役職に就いた。
  そして更に、藩の中枢に累進し、急進派に属して倒幕
 運動に参加した。
  維新の三傑と言われるほどの人物となった。
  長州藩の抜擢人事で浮かび上がった才能の一人だった。
  桂小五郎:概説
  1867年:倒幕挙兵計画には長州藩の代表として活躍、
  西郷隆盛大久保利通と並んで維新の三傑の一人、
  維新後は、直ちに、参議に就任した。
  思想は、大久保より急進であったため、しばしば大久
 保と衝突した。
  1877年:西南の役中に病死した。
1833年天保4年)7月、江戸の米価高騰。
  全国的に冷夏で、そのために凶作へ、米価高騰や飢饉
 が発生した(天保飢饉)
  冷夏の影響は、郡内(ぐんない、山梨県東半分の古称)
 地方において深刻で、
  国中でも八代郡夏目原村(笛吹市御坂町)の百姓・夏
 目家の日記では、冷夏の影響を・・、
  「五十年以来無覚之凶作」とし、天保騒動で打ちこわ
 しの対象となる山梨郡万力筋熊野堂村の奥右衛門家では
 この頃既に打ちこわしの空気が発生しており、甲府町方
 でも世情不安が伝わり動揺が生じている・・とある。
1833年7月、一朱銀鋳造へ
  天保の大飢饉は、幕府の税制をさらに困窮させた。
  この財政難の解決策として出目(改鋳利益)獲得によ
 り幕府の蓄財を増強するために、
  天保8年(1837年)に、新たに一分銀を制定するなど、
 小判を含め貨幣の品位の低下を伴う貨幣の全面的な吹替
 えが行われた。
1833年8月−関東・奥羽、大風雨。
  江戸市中の米穀払底し、蔵米を払い下げた。
  (天保4年)、天保の飢饉(てんぽうのききん)
  1833年から1837年)にかけての全国的な大飢饉だった。
  江戸時代の三大飢饉の一つ。
  天保の大飢饉のとき、幕府は、上野広小路へ救小屋(
 すくいごや)を設けて貧民を救助した。
  また、幕府は浅草の米庫を開いて籾(もみ、外皮のあ
 る米、米が劣化しないように外皮を付けて貯蔵した)を、
 貧民に分けた。
  そのとき最も古いのは、60年前の籾で、その色が真っ
 赤だったよ。
  それより下がって50年前ぐらいのは、ずいぶんたくさ
 んあったけ。
  赤土一升を水に溶いて、これを布の上に厚く敷いて、
 天日にさらし、乾いてから、なまふの粉などを入れて団
 子を作り、
  また、松の樹の薄皮をはいで、スルメのようにして、
 食物にしたのもこのときだ。
  俺も、この土団子を食ってみたが、ずいぶん食えば食
 われたよ。
  しかし、余りたくさん食うと、黄疸のような顔色にな
 るという事だった。(氷川清話)
1833年安藤広重(あんどうひろしげ、歌川広重、浮世絵
 師)の「東海道53次」が刊行した。
  前年の1832年に、東海道を初めて旅した後に作製した
 といわれている。
  1832年に、広重は、江戸から京都へと、御所に馬を納
 める『御馬献上』の公式派遣団の1人として、東海道の旅
 をした。
  御馬は、将軍から天皇への象徴的な贈り物であり、天
 皇を神として尊重し、毎年贈られていたとある。
  旅の風景は、広重に強い印象を残し、旅の途上でも、
 同じ道を戻った帰途でも、数多くのスケッチを描いた。
  家に帰りつくと、広重は、すぐに『東海道五十三次
 の作製に取り掛かったという。
  そして、第1回目の版を出した。
  53枚の宿場と、出発地と到着地で55枚の刊行となった。
1833年12月、「ドゥーフ・ハルマ」が完成した。
  この著は、「蘭和対訳字書」であり、
  「御用紅毛辞典」とか、「ドーフ・ハルマ」「長崎ハ
 ルマ」と言われている。
  オランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフが、祖国が
 フランスの支配下にあったために、帰国が叶わず、この
 商館長が書いたとされる。
  最初は、私的に作成していたが、
  後に、幕府からの要請を受けて、通詞の協力を得て編
 纂したという。
  幕府は、通詞の語学力の向上を目的としたという。
  別の資料には、1814年(文化11)に、長崎奉行所が、
 蘭館の生活窮乏を救うため、ドーフに、蘭和辞書の編さ
 んを命じ、通詞の協力を得て、事業に着手したとある。
 最大の編さん事業のひとつと言われ、蘭和対訳字書と
 しては空前の大字書と言われている。
1833年オスマン帝国とロシアとが同盟した。
  (ウンキャル=スケレッシ条約)
  ギリシャ独立戦争中は、協力していたエジプトとオス
 マン帝国だったが、
  ギリシャ独立戦争終結した頃になると、エジプトを
 実質的に支配していたムハンマド・アリーと、
  エジプトの宗主国であったオスマン帝国との間で紛争
 (エジプト・オスマン戦争 (1831年-1833年)が発生した
 (1831年)。
  フランスの援助によって、近代的で、よく訓練されて
 いたエジプト軍は、オスマン軍を圧倒し、
  オスマン帝国全域を制圧するかに見えた。
  この事態に際して、オスマン帝国を従属させる政策を
 とっていたロシアは、オスマン帝国に同盟を提案した。
  1833年に、両国間に ウンキャル・スケレッシ条約が結
 ばれ、
  ロシアは、オスマン帝国を外敵から保護する。
  そして、ロシアが交戦中の場合、オスマン帝国は、ダ
 ーダネルス海峡において全軍艦の通航を封鎖する・・こ
 とを約束した。
  このロシアの介入によって、1833年に、オスマン帝国
 とエジプトとの間に一時的な和約がなった。
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