(増補版)180D2/3*気になった事柄を集めた年表(1772年〜1774年)

題:(増補版)180D2/3*気になった事柄を集めた年表(1772年〜1774年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1773年、11代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)が生ま
 れた(1773年〜1841年)(将軍期間:1787年〜1837年)
  三卿の一つである一橋治済(はるさだ)の長男として
 生まれた。
  1781年の8歳の時に、10代将軍の家治の養子に迎えら
 れた。
  田沼意次を廃して松平定信を老中とし、寛政の改革
 行った。
1773年6月、伊勢・尾張地方が風水害になる。
1773年11月、安永騒動:飛騨最大の百姓一揆
  社会は、凶作が続き、厳しい状態にあった。
  飢饉も起きたりしていた。
  また、一方、この騒動の根には、幕府の経済的困窮が
 あった、その状況からの脱却のための増税策があった。
  この飛騨のこの時も、この様な背景から、新しく検地
 を行なうこととなった。
  しかし、これに対する農民の反対が起きた。
  飛騨は、土地柄、「人余って食の足らざる国」と言わ
 れるほど、米の生産が低く、近隣の美濃や越中に食料を
 依存しているくらいだった。
  飛騨の12代目代官の大原彦四郎は約束を破る、
  「元禄に検地した田は調べず、新しく作った田だけ検
 地する」という約束があったのに関わらず、その約束を
 破り、古い田畑まですべてを厳しく検地して、過酷な年
 貢を課したのだった。
  1692年の時の検地も厳しかったが、この時の検地を上
 回る検地だった。
  それまでの3割〜5割も年貢が増える状態だった。
  嘆願書を作って提出するが、取り上げられなかった。
  代官は、村の代表者を呼び、『検地を認め、不服は申
 し立てない事』という誓約と調印を強く求めた。
  ここに、「調印の絶対拒否」と、直訴して6名が死罪と
 なっているが、「その死を無駄にするな」との声があげ
 られ、農民の方々は立ち上がった。
  しかし、一揆は、農民側の完全な敗北に終わった。
  この騒動で、死刑13人、遠島17人、ほか1万人近くに
 刑が加えられた。
1773年、ボストン茶箱(茶会)事件
  この時は、アメリカも、虐(しいた)げられ、おいし
 い汁を吸われる立場にいた。吸う国はいつものイギリス。
  アメリカのボストンで、「茶箱事件」が起きた。
  そして、この動きは、アメリカの独立への道へと進ん
 でいくが・・しかし、そこに、
  翻弄(ほんろう)されるアメリカ・インディアンの方々
 が居られた。
  戦争ばかりしている、好戦国・イギリスは、「7年戦争」
 に勝利したものの重い戦費負担に苦しんでいた。
  その自分で撒(ま)いた戦争の戦費を、自分で賄(ま
 かな)おうとせず植民地のアメリカから得ようとした。
  そこで、アメリカを圧迫し、利益を得ようとした。
  イギリスは、不埒にも、色々な、種々の物品に税金を
 課した。
  また、イギリスは、茶の販売権を独占した。
  それら、自分に都合がよいことをイギリス本国だけで
 決定した。
  課税されるアメリカの意思なんかは全く無視した。
  アメリカは、『習慣的な自治権を得ていた訳だが、そ
 の自治権の侵害だ』と強く反発した。
  インドの方々は従順に、唯唯諾諾(いいだくだく、少
 しも逆らわず言いなりになること)と従ったが、アメリ
 カは反発した。
  「アメリカの代表が居ない所での課税決定は決定事項
 ではない」との論理であった。
  納税の拒否や、イギリス製品の不買運動をし、事態は
 険悪になった。
  その様な経緯の中で、1773年にボストン茶箱事件が起
 きた。
  ボストン港に停泊中のイギリスの東インド会社の船舶
 から茶箱が海に投げ捨てられた。
  イギリス本国は、罰としてボストン港封鎖を決定した。
  この「ボストン港閉鎖条例」の制定の他にも、イギリ
 スは、「懲罰諸法」を制定して、アメリカに報復した。
1774年、日本の総人口:25,990,000人
1774年3月、疫病流行、江戸で死者19万人。
  この年に、「時疫やまず、往来途絶える」との記録が
 あるが、病気の特定はできない。
  そして、この翌年も「春より時疫流行、数万人死亡」
 とある。
  そして、この年は、佐渡では天然痘が流行していた。
  そして、コレラは、まだ、日本に入っていない、1800
 年代の黒船が、この病気を持って来る。
  そしてまた、特に1774年(安永3年)に、「解体新書」
 が刊行されてからは、西洋の合理的な医学が、日本に深
 い根を伸ばしていった。
  しかし、当時のヨーロッパ医療でも、薬の主流は、世
 界中から集められた薬用植物や鉱物であり、
  それらを用いた治療法は、必ずしもすべてが、東洋の
 ものより優れていたとは言えない・・との記述も見た。
  因みに、江戸時代は、現在の抗生物質のような、優れ
 た医薬品があったわけではなく、
  現在と比べて、伝染病が、病気の大きな割合を占めて
 いた。
  特に、結核菌が怖いが、死亡原因の1位を占める『不治』
 と言われた怖い病気であった。
  江戸の人々、人口3000万人の8割が過労と貧困にあっ
 たと言える状況・・、
  この事から、当時の罹病者は、少なくとも100万人を
 下らなかったと推測されている。
1774年8月、「解体新書」が、日本語に翻訳され、出版さ
 れた。
  訳業は、1年10ヶ月かかり、
  オランダ学は、この時、始まったと言っていい。
  ドイツ語の原書が、オランダ語に翻訳され、日本語に
 翻訳されたのだが、わずか40年という速さで、日本の知
 識となった。
  顕微鏡も、天体望遠鏡も、ほぼ、発明と同時期に輸入
 されているという日本だった、先取の精神の旺盛な日本
 だった。昔から日本人の気質だった。
1774年、「ボストン茶箱事件」の翌年の1774年より、ア
 メリカの各植民地から、代表が集まり、会議が持たれた。
  会議では、イギリスから『自治権を守ること』と、
  イギリスへの『武力による抵抗も辞さない』というア
 メリカの態度が、この時、決定された。
1774年、イギリスの植民地・インドでのロヒラ戦争・など
  イギリスの奸策(悪巧み)によって、この年に、イン
 ドがロヒラ戦争を起こされた。
  イギリスのやり方:インド人同士を反目させて漁夫の
 利を得るという狡猾(こうかつ、ずるい)なやり方。
  イギリスは、宗教を利用して、インド教徒と回教徒を
 反目させたり・・また、
  地域の違いを利用して、藩王藩王とを敵対させたり、
  人種の違いを利用して、ジャット人とラージプト人を
 戦わしたり、
  また、仕組んで、そのジャット人とラージプト人に手
 を結ばせてから、マラーター人を攻めさせたり、
 ブンデラ人とロヒラ人を争わしたり・・と、
  あらゆる策で、離間するように仕向け、戦わせて、イ
 ギリスだけが漁夫の利を得て、うまい汁を吸う事に成功
 していた。
  そして、次々と漁夫の利を得る作戦を行なっていった。
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