(増補版)192D2/3:気になった事柄を集めた年表(1798年〜1799年)

題:(増補版)192D2/3:気になった事柄を集めた年表(1798年〜1799年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1798年6月、本居宣長(もとおりのりなが、国学者)が、
 「古事記」の注釈書の「古事記伝こじきでん、ふるき
 ことふみのつたえ)」を完成した(3月説あり)。
1798年8月、本多利明(ほんだとしあき、思想家、経世家
 和算家)が、西洋との交易を説いた「西域物語(せいい
 きものがたり)」を著した。
  西域と称する西洋諸国のありさまを述べ、中で、開国
 思想を説いている。
  また、物理学が真の学問だと強調し、天文、地理、渡
 海の学をもっと重視して利用すべきとした。
  また、人口増は天理であり、物価操作の有害を述べ、
 飢饉救済論を詳述し、
  国産開発、渡海貿易、官営貿易の実施、蝦夷地開発、
 北方王国の建設を説いた。
1798年11月、幕府が、銭相場が安値で、物価が高値で、各
 宿が困窮に陥っているため、
  東梅道・佐屋路(さやじ)へ10か年の人馬賃20%増し、
  他街道へ10か年の15%増しを許可した。
  因みに、佐屋路は、東海道脇往還で、
  東海道宮宿(愛知県名古屋市熱田区あたり)と桑名宿
 (三重県桑名市)を結んでいた。
1798年、幕府役人の近藤重蔵(こんどうじゅうぞう、北方
 探検家、1771年〜1829年)が、1798年に、蝦夷地御用を
 命じられ、国後島択捉島などを探検した。
  江戸・駒込に生まれた。
  1795年〜1797年に、長崎奉行の出役として長崎に赴き、
 海外知識を深めた、
  そして、蝦夷地の警護の重要性を知り、それを幕府に
 建言した。
  そして、この年・1798年に、目付の渡辺久蔵らの蝦夷
 地視察に加わった。
  1799年に、蝦夷地御用掛が設けられると、その配下に
 属し、数回にわたって蝦夷地・千島方面を探検した。
  この年、幕府は、東蝦夷地とともに千島を、幕府直轄
 領にしている。
  1802年に、択捉島に「大日本恵土呂府(だいにほんえと
 ろふ)」の標識(国標)を建立した。
  この時の先導が最上徳内(もがみとくない)で、千島
 列島(ウルップ島)も踏査している。
  ロシア人の動向調査もしている。
  また、北蝦夷(サハリン)の探検も重ねている。
  帰途、日高海岸の道が危険なので、私費を投じて、山
 道を開いた、これが蝦夷地の開道の初めとなっている。
  1800年には、高田屋嘉兵衛に、択捉への航路を開かせ
 たり、漁場を開いたり、アイヌの方々に物品や漁具を給
 したり、日本の風俗を勧めたりと、同化策も進め、また、
 移住者を増やして、生産高も増加させたりした。
  蝦夷地の全島の本拠地を石狩に置くべきだと建議した。
  これが、札幌市の端緒となっている。
  博学で、著述も多い。
1798年、ナポレオン:エジプトの遠征と調査
  ナポレオンは、当時の総裁政府の命令で、35000人の軍
 隊を率いて、エジプトに遠征した。
  エジプトを占領し、イギリスと、そのイギリスの宝庫
 と言われていたインドとの連絡を断ち切った。
  また、このナポレオンの調査によって、近世になって、
 再び、古代エジプトの文明が蘇(よみがえ)った。
  これは、ナポレオンの功績だった。
  エジプトに遠征したナポレオンが行なった事は、
  考古学・建築・化学・地理学・生物学・地質学・天文
 学・絵画・文学・機械技術・医学・印刷等々の各分野の
 専門家、学者の167人からなる学術調査団を同行させて
 いた。
1798年、ルイ・ロベール(フランス)が、連続式抄紙機を
 発明し、印刷術の発展とともに製紙工業も大いに発展さ
 せた。
1799年、幕府が、蝦夷地の直営を始めた。
1799年1月15日、幕府が、大名・旗本らの家譜の集大成の
 「寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょけふ)」の
 編纂を開始した。
  幕府が、先祖書の提出を命じ、これを契機にして、
 1812年に完成し、系譜集の1530冊からなり、14年を費や
 した。
  国主・領主をはじめ、御目見(おめみえ)以上の士に
 ついて、1798年までの事跡(出来事)を記した。
  正確、広範で、信頼性が高く、研究資料として価値が
 高い。
  完成当時の献上本は、東京の国立公文書館に保存され
 ている。
  江戸時代の伝写本や活版本も流布している。
1799年1月、諸国の産物を集大成した「日本山海名産図会
 (にほんさんかいめいさんずえ)」が刊行された。
  「日本山海名物図会」再販(1797年)の後を受けて、
 大坂の塩谷長兵衛が板元として、この年に、刊行した。
1799年3月、幕府が、公刊暦以外の類似刊行物(暦)を禁止
 した。
1799年4月、幕府が、火事に対する防火の理由から、
  蕎麦屋の屋台など、煮売り商売の流行に対して、総人
 数を700に、
  また、上野・浅草などを除く地域の人数制限などの規
 制に乗り出した。
1799年5月、幕府が、オランダ風の煙管などの外国品を模造
 した品が流行する事に対し、その製造・売買を禁止した。
1799年、勘定奉行の中川忠英(なかがわただてる、武士、
 儒者)が、「清俗紀聞(しぞくきぶん)」を刊行した。
  清俗紀聞は、長崎の渡来した中国人から清朝乾隆帝
 代の風俗を聞き、絵図で解説した書。
  おもに江南地方の日常生活、年中行事、冠婚葬祭、居
 家、飲食、賓客、祭礼、僧徒、冠礼、生誕などが図説し
 てある。
  当時の中国における風俗習慣を知るうえで貴重な資料
 となっている。
1799年、ナポレオンのクーデター:フランス革命が、ナポ
 レオンのクーデターで終結した。
18世紀〜19世紀初め、この頃は、イギリスの産業革命の時
 代である。
  しかし、美しく讃美ばかりはしていられなかった。
  このイギリスの産業革命の成功の陰には、虐げられる
 方々が、大勢、居た。
  産業革命がうまく行ったのも、インドなど、植民地に
 された国々からの搾取した金があったからこそだった。
  そして、産業革命の成功の恩ある国・インドなどへ、
 特に、インドへは、死命を制する綿産業製品で、インド
 に壊滅的打撃を与えるイギリスだった。
  産業革命で生み出される綿産業製品が、インドの綿産
 業を破壊し、インドの極めて多くの方々が路頭に迷った。
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