(増補版)173D2/3:気になった事柄を集めた年表(1756年〜1759年)

題:(増補版)173D2/3:気になった事柄を集めた年表(1756年〜1759年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1757年、大槻玄沢(おおつきげんたく、蘭方医蘭学者)が
 生まれた(1757年〜1827年
  江戸蘭学の興隆を導いた功労者の一人。
  岩手県の一関藩の出身。
  初め一関藩医の建部清安に学び、清安と杉田玄白との
 間に交友関係が生まれた事から、1778年の22歳の時に、
 江戸に出て、
  玄白や前野良沢について蘭学(オランダ医学とオラン
 ダ語)を学び、長崎に遊学した。
  両師の名の1字をもらって玄沢と称した。
  その長崎には、日本は一筋縄ではいかない、遠い国で
 もありと、去り、濡れ手で粟のインドで楽に儲けようと
 いうイギリスは居なかった。
  インドは、イギリスに虐められる。
1757年、良寛(りょうかん、仏教の僧侶、歌人)が生まれ
 た(1757年〜1831年)、
  越後の人、生涯の托鉢僧であった。
  無一物であながら、震えている乞食に着物を脱いで与
 え、そして、行脚した。
  そして、正直で無邪気な人である良寛は、手毬(てま
 り)とおはじきをつねに持ち、子供とも遊んだ。
  また、歌と詩と書に優れていて、多くの作品を残した。
  人間と自然に対して純真な愛を感じ、その心のままを
 正直に平易に詠み、個性を赤裸々に表現した。
  良寛の書は古典を尊重する正確な結果と評されている。
1757年、杉田玄白が、西洋医学の大切さを説いた。
1757年、周煌(しゅうこう、中国の人)、「琉球国志略(
 りゅうきゅうこくしりゃく)」を著す。
  周煌は、1756年に、琉球王国冊封のため正使の全魁
 (ぜんかい)とともに副使として訪れた。
  230日に及ぶ滞在をして、その見聞と諸書を参考にして、
 16巻におよぶ書物にまとめ、皇帝に復命(ふくめい、命
 令を受けたものが、その経過や結果を報告すること)し
 た。
  この書は、琉球の自然、人文、諸事百般を客観的に記
 述して史料的価値が高い。
1757年6月23日、プラッシーの戦い
  イギリスとインドとの戦い。
  イギリスのロバート・クライブが指揮するイギリス軍
 が、インドのベンガル地域でインド藩王の軍を撃滅した。
  プラッシーの戦いは、イギリスという国が、インドの
 一つの藩を撃滅するという弱い者いじめの戦争だった。
  そして、同時にフランスを駆逐して行った。
  イギリスは、1765年に至り、インドの「ベンガル
 「オリッサ」「ビハール」の三国をイギリスの領土に
 した。
  この地域は、何とフランスより広大な地域だった。
  そして、イギリスのやりたい放題の状態になって行っ
 た。
  イギリスのインド統治は過酷であり、卑劣だった。
  そのため、あらゆるところで、インドの方々の反抗行
 動が沸き起こった。
  イギリスは、その都度、これを強烈な武力で鎮圧した。
  そして、その武力で鎮圧したその地域を、イギリスの
 領土だとした。
  そのようなやり方で、イギリスは、領土を拡大して行
 った。
  弱い者いじめの領土略奪者だった。
  これが、領土拡大のイギリスのやり方で、戦略だった。
 卑劣な行為は繰り返された。
  領土拡大の野心を持つイギリス帝国主義の国家の姿で、
 やる事だった。
  イギリスのインド総督は、色々と変わったが、イギリ
 スという国家は、おいしい汁を吸い続けた。
  悪漢総督となったウォレン・へスティングは、1750年
 に、イギリス東インド会社へ入社しインドへ赴任した。
  そして、イギリスの手先のインド総督となり、1774年
 のロヒラ戦争などを起こして行った。
1757年、中国の清が、
  一度だけ、滅びそうになった事がある。
  それは、中央アジアジュンガルという国から攻めら
 れた時だった。
  ジュンガルが勝利すれば、朝鮮も攻略されただろうし、
  また、日本もまた、
  蒙古襲来の様にもなったと考えられている。
  その時、徳川幕府は、中国大陸の情勢を固唾(かたず)
 をのんで見ていた。
  鎖国状態で、「ぼけっ」としていたなんてとんでもな
 かった。
  鎖国のイメージは、近年になって、作られた間違った
 イメージ。
  ジュンガルは、この年に、清によって滅ぼされた。
1758年、この頃、各藩(熊本・松代藩など)で藩政改革が
 行われた。
  幕府の改革をはじめとして、各藩でも社会の進展状況
 を顧慮(こりょ、ある事をしっかり考えに入れて、心を
 くばること)し、適応体制を整える必要があった。
  幕藩の基本は、その経済的基盤にある貢租の増大を目
 指した。
  自営農民の増大もそうであり(本百姓経営の創出)、
  新田の開発もそうであり、そして、治水などを補強し
 て支援し、体制を維持していた・・しかし、
  経済体制の発展変革の中で、
  生産物地代原則は崩れて行った・・
  商品経済の展開と発展があった・・
  本百姓経営が崩れて行った(農民的商品経済の展開と
 なった)・・一方、
  藩財政における貨幣支出の増大があった・・
  都市商人は資本を蓄積し、経済活動に介在して来た・・
  幕藩層は、その経済的実権を握る層との繋がりが、成
 り立ち上、必要となって行く・・殖産興業や専売制など
 の改革の施策も取られたりして行った。
  経済的・社会的発展に対応して行った。
1758年、宝暦事件(ほうれきじけん)
  竹内式部(たけのうちしきぶ、国学者)を重追放に処
 す事件が起きた。
  竹内式部は、越後国の町医者の家に生まれ、
  16歳頃に、上洛し、徳大寺家に仕え、儒学を学び、後
 に、垂加神道を学んだ。
  京都に塾を開くと、門下に700〜800人が集まり、
  中に堂上(どうじょう、朝廷を形作る人々)や、地下
 (じげ、清涼殿・殿上〈てんじょう〉の間に升殿するこ
 とを許されていない官人の総称)がおり、
  式部の説く講義に大きな影響を受けた。
  式部の講義の内容・主張が、近習(きんじゅ、きんじ
 ゅう、側近くに仕える役)の公卿を通じて、天皇陛下
 進講されると、これを案じた前関白・一条道香(みちか)
 は、公家(くげ)らを処罰した(宝暦事件)。
  そして、式部を、翌年の5月に、追放処分にした。
  次いで、1767年に、明和(めいわ)事件が起きると、
 八丈島に流した(式部は関係ないとされた)。
1758年、松平定信(まつだいらさだのぶ、老中)が生まれ
 た(1758年〜1829年
  第8代将軍・徳川吉宗の孫、
  1783年に、陸奥白河藩福島県)の家督を継ぎ、
  1782年〜1787年天明の飢饉により、領民が困窮して
 いたのを、上方から食料を緊急に輸送させ、これを救っ
 た。
  また、この緊急支出などで崩壊に瀕していた藩財政を
 立て直し、名君と称された。
  また、1787年に、老中首座となり、寛政の改革を断行
 した。
1759年、竹内式部を追放した(宝暦事件の追放)
1759年、出版:山県大弐(やまがただいに、儒学者、思想
 家)が「柳子新論(りゅうししんろん)」を著す(1725
 年〜1767年)
  この著は、柳子という架空人物に託して、朱子学的大
 義名分論の立場から幕府を批判し、勤王思想を主張した。
  宝暦事件を契機にして、幕府の存在そのものへの批判
 を込めていて、この年に成立したとされている。
  この著は、先人が記したとされている。
  大弐の父が、20余年前に、旧宅跡から掘り出した古書
 で、織田時代を摸して書かれたとしている。
  明和(めいわ)事件の原因という。
..
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