(増補版)172D2/3:気になった事柄を集めた年表(1753年〜1756年)

題:(増補版)172D2/3:気になった事柄を集めた年表(1753年〜1756年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1754年2月、山脇東洋(やまわきとうよう、医学者)らが
 京都で屍体を解剖する。
  山脇東洋(1706年〜1762年)は、日本で初めて官許を
 得て人体解剖を行った・・が、(京都の刑場で解剖に立
 ち会い、執刀したのは、牛馬の屠者によった)。
  そして、日本最初の解剖記録「蔵志」を刊行した。
  「蔵志」には、「右肺は壁二つ、左肺は壁一つ。管を
 以て気道を吹けば、則ち両肺は皆怒張し、鮮沢なること
 蝉翼に似たり」・・とある。
  実父は、山脇玄修の門で医学を修め、東洋はその才を
 買われ、1726年に、玄修の養子となっていた。
  また、太宰春台らと交わり、徂徠学の感化を受けた。
  東洋は、それまで中国古典にいう五臓六腑説に疑問を
 もち、動物解剖を試みたが満足できなかった。
  そして、年月が経過するばかりだった。
  徂徠学の感化から実証精神を深めたのだった。
1754年11月、この頃の、南米において・・、
  スペインとポルトガルの連合軍は、インディオの村々
 を攻撃した。
  反撃されて、初めは撤退していた。
  そして、不利になった途端、連合軍は、休戦協定を結
 んだ。
  そして、時を稼いだ。
  そして、自分たちに都合が良くなると、翌年の1755年
 に、3万人の重装備のスペイン・ポルトガル連合軍を結成
 し、また、インディオの方々に襲い掛かった。
  強力な兵器を持たないインディオの方々は、敗走した。
  キリスト教徒の殺戮者の白人たちは、奪った土地を占
 領した。
  そして、広大な占領地が手に入って来ると、この様な
 段階になると、この白人たちは・・、
  スペインとポルトガルの連合状態が崩れて行った。
  そして、占領した土地の問題が元で、いざこざが発生
 した。
  インディオの方々も、それに乗じて、追われた土地に
 戻れた。
  しかし、その戻れた人数は、初めの半数以下だった(
 半分の人々は殺されてしまっていた)。
  初期は、この様な状況だったが、後の時代になると・・、
  その悪行為は、だんだん熾烈(しれつ)で悪どくなっ
 た。
  迫害で、攻撃で、殺戮で、減ってしまった可哀想なイ
 ンディオの方々は、この時は、戻れた。
  そしてまだ、
  この時は、森が深かったため、
  そして、この時は、奴隷狩りからも免れられたが・・、
  これから、次の様な、更なる非人道的な形で、インディ
 オの方々の数は減って行く。
  そして、奴隷狩りに伴う虐殺も起きて来る。
  近年になって、このインディオの方々を題材にした映
 画が作られたが、
  この様な悲劇をまったく伝えなかった。
  ただただ、美しくキリスト教の行為と共につくられた
 映画だった。
  嘘のプロパガンダ映画だった。
  繰られている人がそこに居た。
18世紀、この18世紀という世紀に、インディオグアラニ
 ー族の中で、ブラジル最南部にいたトゥピナンバ族が、
 絶滅させられた。
  他の種族も、急速に追い詰められて行った。
  スペイン人は、攻めて、奴隷にするという非人道的な
 好き勝手な悪行為をした。
  その中で、カディベウ族は、戦闘の中で、スペイン軍
 の乗馬を真っ先にマスターして、スペインと戦った。
  スペイン軍を悩ませた。
  これは、日本に鉄砲が伝えられて、いち早く鉄砲の技
 術をマスターし、
  かつ、国内での生産を難なく行って、
  領土的野心を持つキリスト教宣教師や、南蛮諸国に、
 手出しをさせなかった日本に似ている。
1755年、宝暦の大飢饉:奥羽地方が大飢饉になった。
  この飢饉は、被害が大きいが、実態があまり知られて
 いない。
  冷害による凶作に起因。
  5月中旬から異常な低温に襲われ、8月末まで雨が降り
 続いた。
  例年なら最も暑い頃も、木綿の綿入れを重ね着するほ
 どで、こごえるほどの冷たさだったから、稲は、田植え
 をした時のままで生育せず、
  ようやく穂が出たものの実らずに、枯れた・・と一関
 藩の記録がある。
  この一関藩よりさらに被害のひどい南部藩から、骨と
 皮だけにやせた流民が押し寄せ、
  路上のいたるところに倒れ伏し、
  その惨状を目にした医師(藩医)の清安は、
  「今、医者としての私にできることは何か」と考えて、
 「民間備考録」と「備荒草木図」の二書を著した。
  飢饉に備える民間のための書という意味である。
  また、、飢饉のときに山野で食べられる草木について、
 民間の一般の人が解り易い様に絵で描いている。
1756年、日本の総人口:26,071,000人
1756年1月、初代・沢村宗十郎(さわむらそうじゅうろう、
 歌舞伎役者)が没した(1685年〜1756年)。
  人気抜群であった2世・市川団十郎と並んで「両輪の
 名花」とたたえられた。
1756年、米価騰貴により、米穀の貯積を禁じる。
1756年〜1763年、英仏植民地七年戦争が起きた。
  インド・カナダの海外植民地で、イギリスがフランス
 を破り、イギリスの世界的優位が確立した。
  これから、世界中で、イギリスの悪さが始まる。
  この戦争は、第二次百年戦争ともいわれ、卑劣な、そ
 して、軽蔑すべき戦争ばかりをしている状況だった。
  そして、アメリカでは、先住民であるアメリカ・イン
 ディアンの方々の駆逐による土地の奪取、そして、労働
 力を補おうと黒人の方々の奴隷としての輸入行為が行わ
 れていく。
  18世紀後半の七年戦争(北アメリカにおけるフランス
 のインディアンに対する戦争、フレンチ・インディアン
 戦争)の結果、イギリスが、北アメリカに広大な旧フラ
 ンス領土を獲得する。
  イギリスは、帝国主義的に植民地統治を強化していく。
  フランスの居なくなったイギリスは、好き勝手に領土
 を奪い、また、利益を奪取し、1775年のアメリカ独立戦
 争に至る。
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