(増補版)176D2/3*気になった事柄を集めた年表(1765年〜1767年)

題:(増補版)176D2/3*気になった事柄を集めた年表(1765年〜1767年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1765年12月、高利取締令:座頭等の高利貸を禁止した。
  座頭の高利貸しが盛んとなり、そして、その取り立て
 が、横暴を極めたので、幕府は、高利取締令を出した。
  座頭(ざとう、ざがしら)は、中世の商工業・芸能な
 ど諸座の長のことだが、座頭金とは、座頭が、幕府から
 許されて、高利で貸し付けた金のこと。
1765年、長崎において、幕府が、オランダ船舶載の金銀銭
 を、初めて輸入した。
  また、この頃から、幕府は、鉄銭や真鍮銭の鋳造を始
 めた。
1765年、イギリスは、インドのベンガル地域の『徴税権(
 ちょうぜいけん、税金を取り立てる権利)』を、インド
 からもぎ取った。
  イギリスは、他国の民から税金を取るという事までや
 り出した。
1765年、謝罪をしてないイギリス
  また、イギリスは、武力でインドの地を盗って行った。
  卑劣な事に、インド人とインド人を戦わせたり、
  インドの藩王とその藩王の司令官を戦わせたり、
  また、籠絡(ろうらく、だます)して狡(ずる)く立
 ち回った。
  そして、ある階級の人間に過ぎないイギリスのクライ
 ブ中佐は、1765年に、たった1年半でフランスよりも大
 きい地域をイギリスのものとした。
  広大なインドの方々の地を、多くのインドの方々を殺
 しながら、イギリスの領土とした。
  軽蔑すべき侵略行為であった。帝国主義行為であった。
  イギリスは、これまで、この様な侵略行為を、インド
 の方々へ謝罪をして来なかった。
1767年、滝沢馬琴(たきざわばきん、曲亭馬琴、戯作者)
 が生まれた(1767年〜1848年)
  江戸深川の生まれで、
  父は、旗本・松平信成家の用人。
  五男として生まれるが、10歳にして滝沢家を継ぐ、
  主君に仕えたが、14歳で主家を出奔(主君のレベルの
 問題)。
  長兄の下で、師について俳諧を学び、文学趣味を涵養
 した。
  23歳の時、官医の塾に入って医を志すが、むしろ、そ
 の時の、儒学の講説を聞く方を好んだ。
  1790年の24歳の時、戯作で身をたてる事を決意し、山
 東京伝の門に入り、京伝の代作をし、黄表紙(きびょう
 し、江戸中期以降に流行した草双紙・一種の絵本)を執
 筆した。
  しかし、読本の分野において名を成さしめた。
  「椿説弓張月
  晩年、ほとんど失明する中、創作活動を続けた。
  「南総里見八犬伝」を完成させた(28年を要した)。
  筆一本で食べて行ける人だった。
1767年、雷電為右衛門(らいでんためえもん、力士)が生
 まれた(1767年〜1825年)
  信濃国出身、
  1788年に、出雲(いずも)松江藩のお抱え力士となる。
  1790年冬、いきなり関脇つけ出しとして初土俵を踏み、
 優勝する。197㎝、170kg、
  あまりの巨体、怪力の為、張り手、鉄砲(上突っ張り)、
 かんぬきの三手を禁じられた。
  連続優勝7回、44連勝の記録がある。
  1811年の45歳の時に、引退、
  幕内成績:254勝10敗21分、
  勝率9割6分2厘という大相撲史上未曾有の最強力士。
  谷風梶之助、小野川喜三郎と共に寛政大相撲の黄金期
 を築いた。
1767年7月、田沼意次(たぬまおきつぐ)が側用人となる
 (1719年〜1788年)
  御側御用人(1751年に着任)から板倉勝清の後任とし
 て側用人へと出世し、5000石の加増を受けた。
  父は、紀州足軽だった。そして、徳川吉宗に従って
 江戸に入り、幕臣となった。
  意次は、15歳の時、西ノ丸つき小姓として仕えた。
1767年8月、明和事件山県大弐が獄門、竹内式部が八丈
 島流刑)が起きた。
1767年12月、旅行者の病気の処置を定めた。
  幕府は、1733年5月にも、諸国に対し、旅中の病人・
 倒死者の扱いについて通達を発していた。
  旅行が盛行していた世の中にあって、行旅者の保安と
 在所への移送を保証しようとした。
  この3年後に若干の改正もし、農民の他出は農耕に支障
 のない事、穀留期でないこと、年貢を皆済すること、往
 来手形を所持することなどを条件とした。
  正式な手続きを得れば可能だが、それ以外は無断の他
 出だとされた。
  そして、幕府や藩は、倒死、他国者の病死などの処理
 には意を配った。
  死者の身分の確認の方法をはじめ、死骸の処置などに 
 ついて詳細に指示した。
1767年、上杉鷹山(うえすぎようざん)、米沢藩主となり
 殖産興業政策などにより、藩政改革に着手した。
  上杉神社にも祀られ、現在も尊敬され続けている、ま
 た、世界に誇るべき、また、尊敬すべき日本の偉人の一
 人。
  童門冬二著「小説・上杉鷹山」のご一読を。
  鷹山公の言葉:
  「国家は、先祖より子孫へ伝え候国家にして、我(われ)
 私(わたくし)すべき物には是なく候、(「伝国之辞」)
1767年、出版:長久保赤水(ながくぼせきすい、地理学者、
 漢学者)、水戸〜長崎を3ヶ月かけて往復し、「長崎行役
 日記」を著す(1717年〜1801年)
  赤水は、常陸の人で、水戸藩の侍講となった。
  「大日本史」地理史の編纂にも加わっている。
  安南(ベトナム)から帰国した近村の漂流民の身柄の
 引き取りのため、庄屋代理として藩吏と共に、長崎へ、
 1767年に赴き、
  その時の事を、「長崎行役日記」に、1805年に著した。
  また、その後、「安南漂流記」なども著した。
1767年、イギリスのインド虐めのマイソール戦争が起きた。
  18世紀後半は、イギリスが4度にも渡って、インドを虐
 (いじ)める戦争をした(小規模戦争は多数)。
  その虐めの対象になった国は、インドのマイソール藩
 王国だった。
  1767年〜1769年の3年間に亘って、イギリスは、イン
 ドのマラータや、インダス川下流東岸のハイデラバード
 を扇動し、一緒になって、マイソールの一国を攻めた。
  その戦争の仕方も、講和をしたり、戦争したりを繰り
 返す、卑劣なやり方だった。
  イギリスの狙いは、イギリスの領土にしたい、植民地
 にしたいだった。
  そして、イギリスの狙い通り、多くのインドの方々を
 殺しながら、イギリスの領土とした。
  そして、イギリスの南インド支配が決定的となって行
 った。
  イギリスは、これと共に、フランス排除の戦争を始め、
 事態は複雑に進展した。卑劣な行為は続いた。
  我が国土にしたいの植民地化行為も糾弾に値するが、
 インドの方同士を争わせるという卑劣さも最悪な行為だ
 った。
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