(増補版)151D1/3:気になった事柄を集めた年表(1719年〜1720年)

題:(増補版)151D1/3:気になった事柄を集めた年表(1719年〜1720年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1719年〜1723年、第二次ジャワ承継戦争(じゃわしょうけい
 せんそう)が起きた。
  オランダは(オランダ東インド会社)、インドネシア
 を着々と植民地化して行った。
  オランダは、インドネシアのマタラーム王国を自分の
 都合の良い形に、介入して変えて行った。
  第一次ジャワ戦争を経過し、
  1719年に、王国のパクブウォノ1世が死に、長男のア
 マンクラット4世が即位すると、オランダは、オランダ
 の不利な行動をする反対派の叔父や弟を弾圧し、島流し
 にした。
1719年、デフォー著の「ロビンソン・クルーソー」が発表
 された。
1719年、収賄などの不正をした代官を大量処分する。
  田沼意次(たぬまおきつぐ)が、この年に生れている
 が、
  吉宗は、代官の綱紀粛正の為、代官の大量処分を行っ
 た。
  幕府は、後の1722年に、代官の不正が起こりにくい年
 貢の取り方を、検見取法(けんみどりほう、田畑の収穫
 高に応じて貢租量を決める徴税法)を止めて、
  定免法(じょうめんほう、収穫高の平均から一定の年
 貢率を決める)にした。
1720年1月26日、司法政策:刑罰基準
  三奉行に、刑罰基準の検討を命じた(公事方御定書の
 源)。
  江戸城中において、老中の水野忠之から、寺社・町・
 勘定の三奉行に対し、何々の科は死罪、何々の罪は遠島、
 あるいは、追放などという様に、あらかじめ、大体の基
 準を定(さだめ)て書き立て置くようにと申し渡された。
  公事方御定書(くじがたおさだめがき)は、1742年に、
 吉宗の下で作成されて、仮完成したものだが、幕府の基
 本法典となっている。
  上巻・下巻の2巻からなり、上巻は基本法令を、下巻は
 旧来の判例に基づいた刑事法令が収録されている。
1720年12月、出版:大日本史を献上
  水戸藩が、「大日本史」本紀・列伝を幕府に献上した。
  光圀は、1645年に「史記」「伯夷伝」を読んで、伯夷
 や叔斉に感銘を受け、学問に精励し、史書編纂を志した。
  1657年の明暦の大火で、藩邸が焼失して駒込別邸へ移
 り、ここに史局を作り、編纂事業を始めた。
  種々の変遷の後、1715年の光圀忌日には、「大日本史
 と書名決定された書名で、清書本(正徳本)が、光圀廟
 に供えられた。
  1720年には、さらに、校訂を加えた享保本が、幕府に
 献上された。
  この事業は、途中の休止はあったが、継続して行われ
 水戸藩の事業として、光圀死後も二百数十年継続し、明
 治になって完成した。
1720年6月、小倉藩主が、中国・唐の密貿易商人の3人を捕
 らえ、長崎へ護送した。
1720年、芸能:近松門左衛門の作の「心中天の網島(しん
 じゅうてんのあみじま、浄瑠璃)」が大阪・竹本座で初
 演された。
  この年に起きた、紙屋治兵衛と紀伊国屋小春との心中
 事件を脚色したもの。
  商業で栄える大坂を背景にして、妻子ある身で遊女の
 小春に通いつめる治兵衛、
  その小春に、憎しみを越えて、女同士の義理を感じ合
 う治兵衛の妻おさんなど、登場人物の心理や性格が見事
 に描かれ、近松の最高傑作と言わわれている。
1720年、事件:会津御蔵入騒動(あいづおくらいりそうど
 う、百姓一揆)が起きた。
  年貢減免と郷頭(ごうがしら、数ヶ村支配の村役人)
 の廃止を求めた。
  農民の約800人が、竹槍、鋤、鍬、棍棒を持って代官所
 に迫った。
  代官所は、18組の郷頭と、名主236人を呼び出し、談合
 し、願書を出させたが、首謀者が投獄された。
  このことから、江戸訴訟となり、農民代表35人が、翌
 年の1721年に、訴状を提出した。
  幕府は、一部を削除し、農民側は、残りの13ヶ条を再
 び願い出て、さらに50ヶ条の訴状となった。
  しかし、郷頭側は不正はないと反駁し、結局、農民側
 は敗訴に終わった。
  江戸にいた農民は、皆、投獄された。
  そして、この後、在国の者の380人が牢舎となり、名主
 5名は死罪となった。
1720年、吉宗が、禁書令を大幅にゆるめた。
  例えの中にキリスト教に言及する文章が入っていても、
 輸入が認められた。
  また、漢訳の洋書が輸入された(洋書の解禁)、この
 輸入漢書は、洋書に先立って、日本人の中に科学技術に
 関する基礎を築いた。
  外来文化を考える場合、この漢籍の果たした役割を無
 視することは出来ない。
  日本の近代化への貢献は大きかった。
1720年頃、教育:この頃、禁書令が緩和されて、蘭学が起
 こった。
  勝海舟は、長崎に行けば西洋の状況・事情は、苦も無
 くつかめたと言っている。
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