(増補版)157D1/3:気になった事柄を集めた年表(1723年〜1725年)

題:(増補版)157D1/3:気になった事柄を集めた年表(1723年〜1725年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1724年6月、令:大名および全幕臣に倹約令を発した。
  吉宗は、理知的に改革に向き合った。
  封建体制を強めて、幕府だけが良くなるなどという改
 革ではなかった。
  ヨーロッパによくある、自分たちだけという視点では
 なかった。
  世の変化、社会の方向を直視し、その流れに即して、
 その変化に合わせて、幕府財政を切り替えよう、建て直
 そうという努力だった。
  時代の流れの先取的な所もあった。
  それ故、吉宗は「幕府、中興の祖」と言われ、名君と
 言われ、
  そして、死後、間もない頃から神格化された。
  そして、この頃から、吉宗の改革の中心的施策が行わ
 れて行く。
  老中・水野忠之が、幕政の中心となって活動した。
  この時期、幕政の中心であった代官制度で、代官が、
 口米や口永だけで、経常費を賄えることのできる代官所
 は日本中から居なくなっていた。
  (注)口米:くちまい、米納の本租である年貢米のほ
   かに加徴された税米。
  (注)口永:くちえい、金納の貢租に付加された税。
  真面目につとめれば勤めるほど、借金の代官だった。
  吉宗は、1716年から、口米支給仕法を廃止した。
  それに代えて、地域に応じて代官所の必要経費を算定
 し、それを、幕府から支給する方式に切り替えた。
  罰せられる代官は、悪いことをしたくて処罰される様
 な事をしていたのではなかった。
  この後、処罰される代官は、ほとんどと言って居なく
 なった。
  必要なものは与える、しかし、中心になるのは支出を
 とにかく抑制するという方策だった。
  新田開発もしたが・・、
  そして、吉宗は、当時のヨーロッパと比べても、立派
 な福祉大国の手厚い政治もした。
  社会資本整備もよくした。
  民を思う心がその基本にあった。
1724年11月、近松門左衛門が没した(1725年説あり)。
 (1653年〜1725年)、72歳。
  江戸元禄期の人形浄瑠璃・歌舞伎の作者、巨星!落つ。
  辞世の歌:「残れとは 思ふも愚か 埋み火の 消ぬまあ
 だなる 朽木書きして」・・
  大意:埋火が消えずに残るわずかな暇に、書いたたわ
 いない作品が、あとあとまで残れと思うだけでも、愚か
 なことだなぁ・・
1724年、経済施策:諸物価引き下げを命じた
  米価下落のため、諸物価引き下げを命じる。
 (諸色元値引き下げる)
  かつて、1706年に、大豆の値段が下がったのに、豆腐
 の値段が非常な高値のままで下がらない、江戸町奉行は、
 豆腐屋全員を呼び出して、理由を問いただした。
  結局、カルテルをしている事が判明した。
  (注)カルテル:同一業種の各企業が、独占的利益を
   得ることを目的に、競争を避けて価格の維持・引き
   上げ、生産の制限、販路の制定などの協定を結ぶ連
   合形態。今、日本では独占禁止法で禁止されている
   悪の行為。
1724年、組合結成を命ず(1721年8月説あり)
  江戸の生活必需品22品目(96種との説あり)の問屋に
 組合結成を命ずる。
  幕府が、江戸問屋仲間の組織を本格化させた。
  扇屋、菓子屋、雛人形屋など、幕府から考えて嗜好品
 と思われる商品の組合の結成を命じて作らせ、その商品
 を作って販売しない様にした。倹約の為・・、
1724年、江戸日本橋で塗家・土蔵を命じる(防火性向上)。
1724年、懐徳堂(かいとくどう、学校)が開設した。
  (1726年に、幕府官許の学問所となった)
  大阪の豪商たちが、三宅石庵を学生として懐徳堂書院
 を設立した。
  庶民教育の漢学塾で、朱子学陽明学が講じられた。
  吉宗が援助し、大阪尼崎町に建てた半官半民の学校。
  ここに、中井甃庵(なかいしゅうあん)・竹山履軒・
 並河誠所・五井蘭洲等、緒方洪庵らが集った。
1724年、社会資本整備:印旛沼(いんばぬま)の干拓
  洪水期に冠水の害が頻発した。
  幕府は、この年の1724年と1758年と1843年の3度、干拓
 を計画した。工事は難航した。
  沼の西端平戸村から検見川村までの延長約17キロの掘
 割を掘り、沼の水を江戸湾に落とそうとする工事が3回行
 われた。
1724年、ファーレンハイト(ドイツ)が、華氏目盛りを始
 めた。
1725年、新井白石が没した(1657年〜1725年)(68歳)
  白石が、幼少の家継の将軍の権威を向上しようと改め
 た朝鮮通信使の応接や武家諸法度は、吉宗によって翻さ
 れた・・が、
  (吉宗の「援立の臣」達は、白石が怖い先生で、白石
 をその政策と共に排斥したかった)
  しかし、将軍家宣は、白石の献身的努力を感じて、白
 石との関係を「一体分身(一体の神仏が、衆生救済のた
 め様々な姿をかりて現れること、また、その神仏)」と
 支持を表明していた。
  白石の正徳政治は、仁政(じんせい、恵み深い、思い
 やりのある政治)を基本理念としていた。
  一方、賄賂請託(わいろせいたく、賄賂で特別の計ら
 いを頼むこと)の腐敗政治の一掃に努力し、民の政治不
 信の解消に努力したりしていた・・また、
  公平な裁判が行われるように意を配り、百姓ほか多く
 の庶民を冤罪(えんざい、罪がないのに罰せられること)
 から救っていたり・・と、
  これらは、正徳の治と称せられ、吉宗の政治にも継承
 され・・(吉宗は、原則的に白石の政策を承継した)、
  白石の業績は多方面にわたって、歴史的意義は大きい。
  また、学問的業績も、先駆的な偉大な業績を遺した。
  歴史的に偉大な存在の人だった。
1725年3月、大判改鋳を命じた。
  吉宗は、白石のデフレ政策を継承した。
  白石は、改鋳を20年もかけてゆっくり実施する事を命
 じた・・が、
  吉宗は、白石の路線を継承するが、その実施において、
 改鋳を急激に行って行く。
  その辺が、吉宗には、それが幕府財政にどのような影
 響を与えるかの理解が至らなかった。
1725年、社会資本整備:飯沼新田工事を着工した。
  農民の悲願に応える形で行われた。
  まず、新しい川を開削し、飯沼の水を利根川に流した。
  そして、さらに飯沼の水を落とすために南北に流れる
 川を開削するという、大変、手の込んだ工事だった。
  次に、飯沼に流れ込んでいる川の水を東西に分けた。
  そして、新田に流れ込むようにもした。
  この様に、何本の川を作り、水路をつくる工事だった。
  吉宗に呼ばれて、紀州から来た井沢弥惣兵衛為永の指
 導で行なわれた。
1725年、古今図書集成(ここんとしょしゅうせい)が成っ
 た。
  中国、清代の類書(今の百科事典に近いもの)。
  1万巻で、中国最大の類書。
  初め、1698年に、康煕帝の命によって陳夢雷が編纂し、
 27年の時を経て、この年に完成した。
  翌々年の1727年に、銅版印刷法で64部を刷った。
1725年2月、ベーリングの第一次カムチャッカ探検
 (〜1730年)
  ピョートルは、1682年に皇帝に即位し、1696年には、
 ロシア初の艦隊を組織して、トルコのアゾフで勝利した
 りした。
  そして、1700年からは、バルト海の覇権を巡って、ス
 ウェーデンとの間で、北方大戦争を始めたり、
  そして、1722年に、22年間におよんだ戦争に勝利する
 と、1720年からは、ドイツ人学者が率いるシベリア調査
 隊を派遣した。
  続いて、カムチャッカ探検隊を組織し、操船技術の長
 けたベーリングを隊長に任命した。
  このピョートルの命を受けたベーリングは、1725年2月
 に、50名を率いて、サンクトペテルブルグを出立した。
  そして、この年の8月に、この探検を命じたピョートル
 1世が没した・・が、ベーリングは、シベリア横断を続け、
 19ヶ月をかけて、1726年9月に、オホーツクに到着した。
  そして、その地で、船舶を作って、北極海への入り口
 のデジネフ岬に到達した。
  しかし、海の向こうにあると思われる東方の陸地(ア
 ラスカ)の調査まで至らず、
  1730年に、不十分な結果を携えてサンクトペテルブル
 グへ帰還した。
  その後、第2次探検隊の派遣が行われる(1732年〜
 1743年)。
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