(増補版)150D1/3:気になった事柄を集めた年表(1717年〜1719年)

題:(増補版)150D1/3:気になった事柄を集めた年表(1717年〜1719年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1718年、柄井川柳(からいせんりゅう)が生まれた(1718年
 〜1790年)
  「排風柳多留」が、1765年に、刊行されている。
  辞世の句は、
  「木枯らしや 跡で芽をふけ 川柳(かわやなぎ)」
1718年、経済政策:幕府御用達を免ず
  三井家が、幕府御用達を免じられた。
1718年、消防・町火消を制度化
  江戸の消防組織は、定(じょう)火消、大名火消、町
 火消があり、町火消の起源は明確ではないが、当初は、
 店(たな)火消と称し、1719年のこの年に、江戸町火消
 「いろは」の47組に組み分けされた。
  これは、荻生徂徠の進言により、大岡越前守が施策と
 して打ち出したのが「江戸の町は江戸の庶民の手で護ら
 せる」という、自衛・自治の考え方に根ざした町火消
 創設で、本格的な町火消制度へと発足させた(1719年4月
 の説あり)。
  因みに、大阪は町火消のみ。京都は奉行所支配下に臨
 機各町から人足を出動させた。
1718年7月、バッサロヴィッツ条約(オスマン帝国は、セル
 ビアなどをオーストリアに割譲した)。
  トルコ・ベネチア戦争と墺土戦争(おうとせんそう)
 の終結による講和条約として締結された。
1718年、オスマン・トルコ(オスマン帝国)アフメット3
 世の時代、比較的戦乱のない1718年〜1730年の13年間を
 チューリップの時代という。
  かつて、オスマン帝国から出て行ったチューリップが、
 改良されて逆輸入され、フランス文化も導入された。
  アフメト3世の時代は、宥和政策(ゆうわせいさく、
 温和な外交政策)がとられ、内政も泰平な唯美主義の時
 代だった。フランス宮廷との交換も頻繁に行われ、趣味
 や風潮・文化が導入された。
  オスマン各層に大きな影響を与え、絢爛たる文化が栄
 えた。
1719年、田沼意次(たぬまおきつぐ、老中)が生まれた(
 1719年〜1788年)
  紀州藩士から旗本になった田沼意行の長男として江戸
 屋敷で生まれた。
  父は、足軽だったが、部屋住み時代の徳川吉宗の側近
 に登用され、吉宗が将軍就任になると、多くの紀州系家
 臣と共に幕臣となった。
  意次は、紀州幕臣の第二世代であり、第9代将軍と
 なる徳川家重の小姓として抜擢され、1735年に、父の跡
 の600石を継いだ。
1719年1月、吉宗から松前矩広が10000石格の大名とされ、
 公式に松前(福山)藩が成立した。
  そして、蝦夷地の交易独占を許された。
  幕府は、この年に、蝦夷地の渡海と通常の条例を定め
 た。
  松前藩は家臣の知行地として、1754年に、国後島のほ
 か択捉島や得撫(うるっぷ)島を含むクナシリ場所が開
 かれ、国後島の泊には交易の拠点、および、藩の出先機
 関として運上屋が置かれていた。
  尚、松前(藩主)は、1715年に、江戸幕府に対し、
 「十州島、唐太、千島列島、勘察加」は松前領と報告し
 ている。
  そして、この地は、後に、近江商人に経営権を与え、
 請け負った商人は、出稼ぎの日本人と現地のアイヌ人と
 で漁業をした。
  鰊・鮭・昆布などの北方の海産物の生産は、大きく拡
 大して行った。
  これ以前からあった熊皮・鷹などの取引を圧する規模
 になった。
  ロシアはまだ来ていなかった。
  安房紀州沖にロシア船が来るのは1739年で、厚岸(
 あっけし)にロシア船が来るのは1778年。
1719年、教育:庶民の聴講を許す
  この年には、林家以外の幕府の儒者に命じて、八代洲
 河岸(今の東京都庁付近)の高倉屋敷で講義させ、庶民
 の聴講を許した。
1719年、司法:金銀貸借訴訟を幕府法廷で受理せず。
  当事者間で解決するよう命ず(相対済令、〜1729年)
  この事を、幕府は数度にわたって出している。
  金公事(かねくじ)とは、江戸幕府の訴訟取扱い上の
 区分で、担保物を伴わない利子付き金銭債権、ならびに、
 これに準ずるものをいい、
  幕府は、和解を強く指導した。
  幕府の考え方は、この種の訴訟は、本来、当事者の実
 意(じつい、言動の裏に隠されている本当の意図・真意・
 本心)により相対で解決すべきものであるとした。
1719年、政策:町並地(まつなみち)の貢租関係も町奉行
 支配下へ組み込まれた。
  貢租納入の連帯責任があった。
  江戸時代の町には、一般の人足役などの公役を負担す
 る町人の町と、鍛冶・大工などの技術労働を国役として
 負担する町人の町、そして、代官領であって後で開けて
 市街地となった地子銀を納める町(町並地)があった。
 その他・寺社領、寺社門前の町など・・、
  この町の中の町並地が、町奉行支配下になった。
1719年、毛利氏の改革(1)
  萩藩第5代藩主・毛利吉元のとき(1719年)、人材育成
 の組織である「藩校・明倫館」を創設し、
  先駆的な学校教育を開始した。
  そして、登場する名君は、7代重就(しげたか)で、
 「御前仕組方(藩主直属の財政会議)」を新設し、
  本格的な財政改革が始められた。
  産物の増産を専門職とする「撫育方(1763年創設)」
 もあった。
  明治1年の時、幕府との対決に使った軍事費(撫育金と
 呼んだの残高は、100万両を越えた(プレジデント平成
 10年7月号)
  因みに、日本銀行金融検研究所貨幣博物館によると、
 元文期の賃金で見ると1両=30万円〜40万円、そば代金で
 見ると1両=12万円〜13万円、米では1両=約4万円に相当
 するという、故に、長州藩の100万両≒1000億円(1両=
 10万円として)となる。
1719年、人事:吉宗が、天文学者の西川如見(にしかわじ
 ょけん)を招いた。
  西川をして洋書を講義をさせた。
  世界の地理、そして、天文・暦学を深く理解した町人
 学者とある。
  また、儒学に通じ、町人・農民に道徳を平易に説いた
 という。
  また、長崎で得た知識をもとに、「増補華夷通称考」
 を書き、中国・西洋・南洋の風土や文化を国別にまとめ
 たという。
  また、この年に、西川如見が、「町人嚢(ちょうにん
 ぶくろ、教訓書)」を出版した。
  これは、町人としての心得を、学問・道徳・職業・処
 世などに分けて箇条書きにしたもの。
  封建的身分制を肯定した上で武士と異なる町人独自の
 生き方・心得が平易な文章で書かれている。
  「人間は根本の所に尊卑あるべき理(ことわり)なし」
 という四民平等を説いている。
  平等を謳った1787年フランス革命より完全に早い時
 に、日本の一町人学者は、その概念を、日本の町の方々
 へ平易にすでに説いていた。
  歴史を探求すれば、日本人の先進性や素晴らしさが、
 あちこちに出て来る。
  平等観念などは、平等院もそうだが、遠い昔から日本
 人には根付いていた、当たり前の観念だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009