(増補版)165D1/3:気になった事柄を集めた年表(1736年〜1738年)

題:(増補版)165D1/3:気になった事柄を集めた年表(1736年〜1738年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1737年、人事:松平乗邑(まつだいらのりむら)が、勝手
 掛老中に就任した。
  農財政の最高責任者である(詳細は既述)。
1737年8月、オスマン・トルコが、オーストリアと戦う(
 〜1739年にベオグラード条約が結ばれた)。
  オスマン帝国は、パッサロヴィッツの和約(1718年)
 でオーストリアに割譲されたセルビア地方を回復し、失
 地回復した。
1738年、林子平(はやししへい、経世家)が生まれた
 (1738年〜1793年)
  幕臣の子として生まれ、陸奥(むつ)仙台藩士となる。
  藩に富国策の大切さを説き、提出した。
  1767年に、江戸に遊学し、大槻玄沢らの蘭学者と交わ
 り、
  また、1778年に、長崎遊学し、オランダ商館長アーレ
 ント・フェイトと交わり、海外事情の収集に努めた。
  その詳しい海外事情から、著作「三国通覧図説」を、
 1785年に書き、
  その著に、ロシアへの防備策、および、その為の蝦夷
 地開発の必要性などを説いた。
  その他・著書に、「海国兵談」がある(1786年)。
  この著では、江戸湾の防備が、特に大切と説いた。
  ただ、これらの著は、幕府の痛いところに触れたため、
 板木は没収され(1792年)、蟄居(ちっきょ、自宅謹慎)
 となった。
  その時の句:「親も無し 妻無し子無し 板木無し、
 金も無ければ死にたくも無し」
  この子平の蟄居の時に、ロシアのラクスマン根室
 来航した。
  そして、幕府に通商を求めた。
1738年4月、経済:幕府が、長崎への廻銅が減少したため、
 大坂に銅座を再置して、
  諸国の産銅を管理させた(銅の統制機関とした)。
  翌年の1739年に、銅輸出の制限をした。
1738年10月、生野銀山元文一揆(いくのぎんざんげんぶん
 いっき)(12月説あり)
  但馬(たじま)国(兵庫県)の生野銀山の鉱夫が、扶
 持米増加などを要求して、町役人の赤井治左衛門宅を打
 毀し、
  代官所へ強訴(ごうそ、強硬な態度で相手に訴える行
 動)した。
  参加人員は700〜800人。
  一揆の直接の原因は、銅仲買いでもある赤井の安値買
 上げ計画にあるが、
  遠因(えんいん、遠い原因)には、幕府の政策がある。
  この年の4月の、幕府の長崎への廻銅確保のための、大
 阪の銅座設置は、
  全国の銅の廻送を命じたので、銅値段が急激に下落し
 た、そのためだった。
  この一揆は、銀や米の救済のための支給を行なうこと
 を約束をし、鎮まった。
  また、周辺の幕領農民も一揆を起こした。
  これは、生野銀山の鉱夫たちの一揆の成功に刺激され、
 12月に起きた。
  村々からの1万人が、年貢減免などを求めて強訴する
 という行動を起こした。
1738年、産業:絹織物生産技術を導入
  桐生が、京都西陣の高級絹織物生産技術を導入した。
  養蚕地帯を背景として発展した。
  職工(西陣の織物師・弥兵衛と吉兵衛)を招き、雇い
 入れ、また、西陣の技術である「高機(たかはた)」を
 導入し、
  本格的な大量生産による高級絹織物の生産が始めた。
  生産量は、それまでの何倍にも膨れ上がり、
  技術面も向上し、
  流通面も西陣の機構から脱し、独自の市場を開拓した。
  また、流行も先取りする新しい織物(桐生織)を作っ
 た。
  市(いち)も賑わい、莫大な利益向上となり潤った。
1738年、産業:新たな機業地発達
  丹後・近江などにも新たな機業地発達し、西陣の地位
 が低下した。
  丹後は、丹後縮緬(ちりめん)として有名であるが、
 18世紀前半に、西陣から技法を導入した。
  そして、盛んにちりめん生産がなされた。
  (1説では、丹後地方では、1719年と1722年に、西陣
 の縮緬製織の技術を習得した者たちが、丹後縮緬を作り
 始めたとある。
  そして、この技術が、1752年に、近江長浜へ伝えられ
 長浜縮緬の生産が開始された・・とある)。
  ちりめんは、株仲間を組織する京問屋へ飛脚によって
 送られ、染色・加工のうえ委託販売された。
  18世紀に入ると、西陣技術は各地へ伝えられ、地方の
 機業が発展した。
1738年、産業・経済圏の形成、(関東を中心とした市場圏
 の形成)
  関東各地に、手工業地が現れ、江戸地廻り経済圏(え
 どじまわりけいざいけん)の形成が始まった。
  江戸に入荷する商品は、京都・大坂方面からの下り荷
 と、江戸に近い近国から送られてくる地廻り荷に2大別
 でき、
  江戸地廻り経済圏は、この地廻り荷のもの。
  幕府は、初め、比較的高い技術を持つ京・大阪圏の生
 産品に対する市場政策を取り、
  また、依存する度合いが強かった・・が、
  江戸の中期になると、大阪と結合して、江戸の市場を
 統制することが試みられて来た。
  江戸中期になると、関東やその周辺地域の、江戸を市
 場とし、目あてとする生産も高まった。
  幕府も、商品生産を奨(すす)め、江戸市場への流入
 を図る政策をとった。
  江戸後期になると、ますます、江戸地廻り経済圏は発
 展して行く。
1738年、伊勢(三重県万古焼(ばんこやき)が始まる。
  三重郡朝日村小向(おぶけ)に開窯して、
  オランダ風の赤絵付けを施した陶器を焼いたことに始
 まった。
  元文年間(げんぶん、1736年〜1741年)に開窯との記
 述もある。
1738年、出版:林子平(1738年〜1793年)は、「海国兵談」
 「三国通覧図説」を著して、外国の脅威を説いた。
1738年、ダニエル・ベルヌーイ(スイス)が、ベルヌーイ
 の定理を発見した。
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