(増補版)152D1/3:気になった事柄を集めた年表(1720年〜1721年)

題:(増補版)152D1/3:気になった事柄を集めた年表(1720年〜1721年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1720年、消防政策:町屋に防火性の良い塗壁や瓦葺を推奨
 した。
  この頃は、江戸初期のロの字型の町割りは消滅して、
 市街が密集化しているので、特に、防火性に配慮した。
1720年、下田奉行(しもだぶぎょう)の廃止
  1616年に設置されていた伊豆下田の廻船改番所が廃止
 され、浦賀に移し、統轄された。
  下田奉行は、幕府の遠国奉行の一つで、
  伊豆国下田番所の長で、
  下田湊の警護や、船舶の出入り監督、廻船の積荷改め
 などにあたっていた。
  伊豆は小国であったが、江戸を防御するにの自然の立
 地が良く、
  また、交通上の要衝にあった。
  箱根の関を控える三島に代官陣屋が置かれ、
  東海道海上の要所であった。
1720年、広東に公行(こうこう)が結成された(公行の創
 設)。
  中国の清代に、広州で外国貿易に従事した行商の同業
 組合で、通常は広東十三行と称された。
  清朝の貿易は、仲買商(行商)にのみ許された(独占)
  この年に、同業組合を結成して「公行」と称した。
  また、この年には、行商16家が公行を結成てし、取引
 を独占し、価格の協定をはかったのだが、他の行商の反
 対で成功せず、有力な行商6家が、1726年に選ばれて、
 外国船との取引独占権を与えられ、他の一般行商は、こ
 の6家の保証のもとで取引を行った。
1720年、イギリスが、南海泡沫事件(なんかいほうまつじ
 けん)、その結果、恐慌が起こった。
  この年に、株価が暴落し、イギリスの経済界と政界に
 大混乱をもたらした事件。
  戦争ばかりしている好戦国・イギリスは、この時も、
 スペイン継承戦争中であった。
  その為、イギリス政府は国債を乱発した。
  そして、その利子の支払いに苦しんだ。
  そして、大蔵大臣の肝いりで、1711年に、南海会社が
 設立された。
  南海会社は、1720年に、多額のイギリス国債と引換に
 スペイン領アメリカとの貿易独占権を与えられた。その
 ため株価が暴騰した。
  しかし、この年に株価は、大暴落をする。
  そして、これを契機として、イギリスは大恐慌に陥(
 おちい)る。
  1711年に、南海会社を設立した目的は、卑劣な事に、
 スペイン領の中南米との奴隷貿易だった。
  そして同時に、イギリスが利子支払いに苦しむので、
 低利債への転換を目的としていた。
  そして、一時は、奴隷貿易の独占権を獲得したため、
 膨大な利潤を得るだろうと予想した者による株価暴騰だ
 った。
  また、イギリス政府の肝いりで東インド会社やイング
 ランド銀行ともうまくやるだろうと予測されていた。
  イギリス議会も承認もしていたので、安心して株価は
 急騰した。
  空前の株式投機ブームとなって浮かれた。
  しかし、しかし、事業計画が次第に明らかになるにつ
 れ、そのお粗末さが露呈して来る。
  数か月後には、株価は反転して、大暴落となった。
  南海会社株は泡沫となって舞った。
  破産者が続出した。
  またまた、この劇に、汚職が露顕する。
  政界のスキャンダルとなる。ひどい国のイギリスだっ
 た。
  そして、馬鹿なことに、19世紀まで、イギリス政府は、
 株式投資を禁止した。
  この事件の罪作りなところは、外国へまで多くの被害
 を与えたところだった。
1720年、フランスで、ジョン・ローが、財務長官に就任(
 翌年、改革失敗)
  これも、ヨーロッパの不名誉な話。
  ジョン・ローは、1671年のイギリス生まれで、フラン
 スの財政を指導した財政家だった・・が、
  ローは、ロンドンに移住し、1694年に、女性を巡る問
 題で決闘をし、人を殺し、死刑の判決を受けた・・が、
 脱獄し、ヨーロッパ大陸に逃れた。
  アムステルダムで銀行業務を行っていた。
  フランスのルイ15世の治世下、莫大な債務残高に悩む
 国に、それを軽減して、経済発展をしますよという政策
 「経済システム」を売り込んだ。
  そして、取り立てられ、金融財政の責任者となった。
  そして、実行に移した。
  だが、結局は、フランスにバブルを引き起こし、
  やはりこの時も、株価がバブルで暴騰するが、暴落さ
 せるというバブル経済に悶えるフランスを現出、そして、
 後は、ローは、ベネチアで、58歳の時に客死した。
  多くの文献では、絵空事をまくし立てる詐欺師だと書
 かれ、また、トリックスターとされた。
  一部に、評価する者もいるが、しかし、結果は、社会
 を破綻(はたん)させた人物だった。
1720年、イタリアにサルデーニャ王国が成立した。
  トリノを事実上の首都とした。
  この期間、フランスと反フランス大同盟との間を巧み
 にくぐり抜け、フランスからの独立に成功したりして、
 王国の成立に至った。
  スペイン継承戦争の時は、シチリアを獲得したが、後
 に、オーストリアに、そのシチリアをやむなく譲渡した
 りと大変なヨーロッパをくぐり抜けて来た王国だった。
1721年、施策:全国の人口・耕地・戸数を大調査、
  吉宗の時代のこの年から、諸国人数調査が実施される
 こととなる。ほぼ、5年ごとに行った。
  この頃の総耕地面積:297万町歩、総石高:2610万石。
  そして、日本の総人口は、26,065,000人(約2600万人)
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