(増補版)242D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1855年8月〜1855年12月)

題:(増補版)242D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1855年8月〜1855年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1855年安政2年)9月1日、勝海舟、帆船、昇平丸に乗り
 10月20日に長崎に着く、
  蘭館を訪ね、入門の式を行う。
  伝習の余暇、和蘭領事及び教頭の密話を聞き、海外の
 事情を詳かに手記して要路に報ずるもの少ない(氷川清
 話)
1855年9月10日《7/29》、幕府が、西役所に、海軍伝習所
 を開設した。
  そして、10月24日に開校し、第1次海軍伝習を開始した。
  伝習生たちは、監督格の永井尚志に率いられ、出島の
 オランダ商館に赴き、入門式を挙行した。
伝習生は、幕臣35人を中心に、佐賀、福岡、鹿児島など
 8藩から送り込まれた129人(127人?)、通訳14人だっ
 た。
 伝習生は、永持享次郎、矢田堀景蔵、勝麟太郎幕臣
  そして、佐野常民佐賀藩士、
  また、榎本武揚、沢太郎左衛門、赤松則良、内田正雄、
 佐々倉桐太郎、塚本明毅、中島三郎助、佐野常民、中牟
 田倉之助、真木長義、田中久重、松村安種、本島藤太夫
 金子才吉など
  他に長崎地役人、水夫として瀬戸内海の塩飽衆も参加
 した。
  授業は、日曜日を除く毎日、朝8時〜12時、午後1時〜
 4時、
  オランダ語の講義を通訳が訳すが、通訳が知らない語
 が出て来るとつかえた。
  初め、生徒には、筆記を許さず、暗記のみで、途方に
 暮れた。
  教授科目として、航海術、運用術、造船、砲術の実技、
 天測の実技、数学、蒸気機関、鉄砲調練などがあった。
  当初、伝習生は、オランダ語に苦労し、アラビア数字
 による計算に戸惑ったが、
  徐々に伝習の成果が上がった。
  オランダ国王より寄贈されたスンビン号(のち観光丸)
 が練習船になった。
  1857年の春になって、海軍伝習が軌道にり、江戸築地
 講武所に軍艦教授所を設けた。
  永井岩之丞は、矢田堀景蔵らと観光丸で江戸に帰った。
  長崎の方は、岡部駿河守が伝習を監督した。
  勝(海舟)ら数名は、残留した。
  1857年の9月21日《08/04》になって、幕府が、オラン
 ダに発注した新建造軍艦・ヤッパン号が、長崎に入港し
 た、後の、咸臨丸。
  カッテンディーケ海軍大尉を隊長とする第2次の教師
 団37人が乗船し、第1次の教官隊と交替した。
  中には、オランダ海軍2等軍医のポンペ・ファン・メ
 ーデルフォールトや、オランダ海軍機関将校のヘンドリ
 ック・ハルデスの姿もあった。
  新たに、伝習生として、松本良順らが入所した、そし
 て、第2次の海軍伝習が始まった。
  陸上や海上での教育のほかに、ポンペにより、西洋医
 学の講義もなされた。
  1859年の2月になって、江戸が、主舞台に変わり、
  遠隔地の長崎では、経費がかかるとのことで閉鎖した。
  教師は、オランダ海軍士官が勤め、各藩から選ばれた
 青年が、航海術、造船術、砲術、調練など、近代海軍の
 基礎知識を学んだ。
  生徒監に、勝鱗太郎、生徒の中に榎本釜次郎がいた。
  蒸気機関の修理や、取替えなどの必要が生じ、長崎奉
 行から幕府に、造船所建設の上申があった。
  1861年3月25日になって、稲佐郷・飽の浦に、長崎製鉄
 所が完成した。
1855年9月13日、陸前で地震
1855年10月、日仏和親条約締結。
1855年10月5日《08/25》、幕府が、オランダ国王より寄贈
 の蒸汽船スンビン号を受領した(今までは借りていた)。
  蘭国政府に対する幕府の答礼品は、王室官吏や、同船
 船将以下、水火夫にいたるまで物を贈った。
  長刀2振、鎧2領、太刀3振、金屏風10双、絹高沙染
 100匹、白銀300枚、真綿200把、銅3万斤、米300俵、そ
 の他
1855年和蘭より汽船を貢す(氷川清話)
1855年10月9日、堀田正睦が、老中に復帰した。
1855年10月22日、オランダ人の長崎・市街遊歩が許可され
 る。
1855年11月7日、遠州灘地震東海地震の最大余震。
1855年11月11日《10/02》安政の大地震
  夜四ツ過(午後10時頃)、関東地方南部で、M6.9の安政
 戸地震が発生した。
  下町地区、隅田川東岸の深川などでは、甚大な被害を
 生じた。
  また、日比谷から西の丸下、大手町といった谷地を埋
 め立てた地域では、被害が大きくなった。
  小石川の水戸藩・藩邸が倒壊した。
  水戸藩主の徳川斉昭の腹心、水戸の両田・戸田忠太夫
 や藤田東湖が死亡した。
 死者約4300人、倒壊家屋約1万戸とされる。
  後に、被害情報を伝える瓦版が発行され、風刺画の鯰
 (ナマズ)絵なども刊行され、被災者の共感を呼んだ。
  江戸に現れた大ナマズに押しつぶされ、逃げ惑う人々、
 逆に、棒や包丁でナマズを懲らしめる人々・・、
  ナマズ絵には地震への恐怖や恨みを表現したものが多
 く、ナマズ地震の元凶と見なして絵の主役に仕立てた。
  これは、江戸っ子の独特のユーモア。
  復旧事業が、一時的な経済効果になった。
  当時、江戸は百万都市だったという、14000余戸の家屋
 が焼失した。、
1855年、この年は、土佐も壊滅したという。
  また、前年より大きな地震があったという(竜馬がゆ
 く・1)
1855年11月29日《10/20》、勝海舟が、海軍伝習所頭役とし
 て長崎へ行った。
  オランダ士官より、航海術の訓練を受けた。
  宿舎は、本蓮寺境内の大乗院。
  4年間にわたり滞在した。
1855年12月10日、千葉周作が没した(1794年〜1855年)(
 61歳)
1855年12月15日、吉田松陰、1年数ヶ月ぶりに野山の獄を出
 された。
1855年12月22日、長州姥倉の運河竣工開通す。
1855年12月23日、日蘭和親条約が調印された。
  日蘭和親条約を、長崎で調印し、正式に国交が開始さ
 れた。
  日蘭和親条約により、オランダ人の市中遊歩が、自由
 になった。
  後に、ロシア人、アメリカ人、イギリス人も同様にな
 った。
1855年12月27日、西郷吉之助、橋本左内と初対面。
1855年、転炉式製鋼法が発明された。
  転炉は、回転の意味ではなく、銑鉄を鋼に転換する炉、
 つまり「転換炉(converter)」から由来している。
  発明者の一人のヘンリー・ベッセマーイングランド
 が使い始めた言葉。
1855年、東講(あずまこう)ができる。「東講商人鑑(あ
 ずまこうあきんどかがみ)」が刊行した。
  江戸の大城屋良助が発起人となり、東日本を中心とし
 た旅行組合として結成された東講。
  そして、この年に刊行した東講商人鑑には、加盟して
 いる定宿や問屋・商店などが記された。
  当時の商業事情を知る資料として最適。
1855年江川太郎左衛門韮山反射炉を築く(氷川清話)
  この韮山反射炉は、2015年に世界遺産登録された。
  耐震補強用に鉄骨のフレームが組まれていて、
  鉄の精錬用に伊豆に造られた。
  山口県の荻反射炉と共に、貴重な遺構となっている。
  列強諸国に対抗できる軍事力強化を目的に、蘭学に秀
 でた知識のあった韮山代官の江川英龍(太郎左衛門)が、
  西洋砲術の導入、製鉄洋式砲の生産、台場の設置、洋
 式船による海軍の創設、洋式の訓練を施した農兵制度の
 導入など、一連の海防政策を幕府に建言した。
  それらの策の内、製鉄砲を鋳造するために必要な溶解
 炉が、幕府直営の、この韮山反射炉だった。
  優秀なる日本人、各地から知恵のある者が湧き出(い
 ずる)状態だった。
1855年、この年、長崎の人口2万7376人。
  キリスト教作家(星野博美氏)が、島原の乱で民が、
 37000人死んだと読売新聞に書いたが、長崎でさえ2万人
 の人口なのだ。
  何故、半島の先の方の島原で、それも死者だけで3万
 7000人と、倍の人数近くの死者が出るのか?
  この事からもキリスト教の良くやるプロパガンダ(嘘
 宣伝)だと分かる。
  キリスト教に偏するNHKも、1万5000人と、まったく
 オーバーな嘘人数を放送した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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または
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