(増補版)160*D1/3:気になった事柄を集めた年表(1728年〜1930年)

題:(増補版)160*D1/3:気になった事柄を集めた年表(1728年〜1930年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1728年、関東一円が飢饉に見舞われた。
  三河などの中部地域は大日照りで雨乞いが行われた。
1728年3月、朝鮮で、戊申(李麟佐)の乱が湖西(忠清道
 で起きた。
  全国的な規模の反乱だった。
  反乱組織は広く結成され、準備されていた。
  各地の反乱指導部は、連携をとり大きな組織を作るのに
 成功した。
  中心に居たのが李麟佐だった。
  景宗が毒殺された事への復讐戦でもあった。
  兵力は7万に膨れ上がった。
  王権交代を掲げての反乱であったが、結局、失敗に終
 わった。
1728年、ジェームズ・クック(イギリス、探検家)が、生
 まれた(1728年〜1779年)
1729年、平賀源内(ひらがげんない、本草学者、地質学者、
 蘭学者、医者、殖産事業家、偽作者、浄瑠璃作者、俳人
 蘭画家、発明家)が生まれた(1729年〜1779年)
  「平賀源内のエレキテル」という言葉が有名。
  1776年に、長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生
 機)を修理して復元したという天才である。
1729年、石田梅岩(いしだばいがん、思想家、倫理学者)
 が、京都で心学の講義を始める。
  松下幸之助は、この人の心学の教えを引き継いだと言
 われている。
  梅岩は、既に、この時代に、企業の社会的責任を説いて
 おり、現在、脚光を浴びている。
  その思想は、企業の営利活動を否定せず、倫理という
 よりむしろ「ビジネスの持続的発展」の観点から、本業
 の中で社会的責任を果たして行くという事を説いている。
  欧米にない、梅岩の視点、特徴が見直されている。
1729年8月、農業:ナタネ栽培を奨励
  幕府が、関八州(関東地方)の諸代官に命じて、農民
 のナタネ栽培を奨励した。
  幕府は、飢饉対策のサツマイモもそうだが、朝鮮人
 などの薬草栽培も奨励し、
  菜種油は、食用以外に灯火などにも使い道の広い作物
 だった。
  幕府は、この他にも、桜や桃の植林も奨励した。
1729年3月、陸奥の信夫(しのぶ、福島県陸奥のしのぶ地
 方)と伊達の両郡の幕府領の農民が、夫食米(ふじきまい
 )などを要求して一揆した。
  夫食とは、農民の食糧一般をさす。
  夫食は、米以外の雑穀が中心で、芋やこんにゃくを主
 食とした地方もある。
  幕府や諸藩は、凶作に供えて貯穀を奨励し、
  凶作や飢饉の時には、救済のために貸付(夫食貸)も
 行った。
  しかし、貸付けや返済を巡って、農民の闘争原因にな
 る事が多かった。
1729年4月、源氏坊改行事件
  大岡政談で有名な「天一坊事件」の首謀者・天一坊の
 モデルもなった、修験者・源氏坊改行が鈴ヶ森刑場で処
 刑された(天一坊事件のモデル)
1729年、天一坊事件
  天一坊改行(てんいちぼうかいぎょう、山伏)が、
 「吉宗の落胤」と主張して処刑された。
  1728年に南品川宿で、「近々、大名に取り立てになる」
 と称して浪人を集めたりした。
  不審に思った関東郡代が引き立てて取り調べ、翌1729
 年に、捕らえられ死罪となった。
1729年、出版:太宰春台の「経済録」
  荻生徂徠の門人・太宰春台の「経済録」なる。
  経済録は10巻からなる。
  経済すなわち経世済民という広義の政治・経済・社会・
 制度・法令などについて論じている。
  経済総論をはじめとして、地理、天文、食貨、礼楽、
 官職など、経済のみではなく広く政治論も含んだ経済書
 となっていて、広く読まれた。
  「天下国家ヲ治ルヲ経済ト云。
      世ヲ経シテ民ヲ済(すく)フト云義也」
1729年、朝鮮の英祖が、蕩平策(とうへいさく)をとり、
 党争融和を図る。
  朝鮮王朝(李朝)第21代の王・英祖が党争をなくすた
 め、党派間の政治勢力の均衡をはかった政策をとった。
  即位当初から、臣下間の党争がひどく、その調停に心
 をくだいていた。
  老論派と少論派に分裂していた。
  1721年に、少論派が権力を握った。一時期だった。
  その後は、老論派が長く支配していた。
1730年3月、本居宣長(もとおりのりなが、国学者、文献
 学者、医師)が、松坂に生まれた(1730年〜1801年)
1730年4月、初代・松本幸四郎(まつもとこうしろう、歌舞
 伎役者)が没した。
1730年4月、経済:上米の制(あげまいのせい)を廃止し、
 参勤交代制を復旧する。
  幕府は、財政破綻(はたん)するほどだったが、一生懸
 命、社会資本整備はやっていた。
  1例では、初期は「川通奉行」、後には「四川奉行」が
 任命され、四川は、関東地方の幕府直轄領を貫流している
 江戸川、鬼怒川、小貝川、下利根川の4つの河川の土木
 工事をしている。
  吉宗は、紀州藩から、技術を持った者を、何人も引き
 抜いて工事を進捗した。
  紀州は、地形から険しい河川が多かったので、有能な
 技術を持った者が多く育っていた。
  そして、この様な工事金が必要な時に、幕府は、上米
 の制を廃止した。
  何故、廃止したのかは、幕府の体制維持があったと考
 えられる。
  幕府としては、藩から、米が得られるというところだ
 ったが・・。
  文献に、「御恥辱を顧みられず仰せ出され候」とあり、
 幕府には、御金蔵の金も底をついてやったことという気
 持ちの重さがあった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009