(増補版)43B:気になった事柄を集めた年表(1268年〜1280年)

 題:(増補版)43B:気になった事柄を集めた年表(1268年〜1280年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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  蒙古(モンゴル帝国)の要求は、服属しろ(ふくぞく、
 服従して下につけ)、挨拶に来い、貢物を持って来いだ
 った。
  世界中を荒らしまわっているモンゴル帝国の猛威の情
 報は、当然、鎌倉幕府の耳にも入っていただろう。
  隣国の高麗だって、何度も侵攻を受けているし・・、
  今・現代でも、グローバルスタンダードは正義なのだ、
 TPPは正義なのだ、その結果の日本の市場が欲しいと主
 張され、特に、農業市場が貰えれば美味しいよと言われ
 ている。これだけしつこくアメリカは、日本に言うのだ
 から、アメリカにとって、余程、美味しいのだろう。
  自民党が、公約してまでして守りますと言っているが
 ・・?
  元寇・・朝廷と鎌倉幕府を先頭に、日本中は大揺れだ
 った・・、こんな窮地の時に、急に、執権になった18歳
 の若者執権・北条時宗の心はどうだったのか?
.
1268年7月17日、朝廷が、異国が降伏しますようにと祈願
 する。日本はこの一点で纏まっていた。
1269年3月7日、蒙古の使い・黒的らの国使と、案内役の
 高麗の国使らが、対馬に来て、返牒する様にと要求した。
  対馬島民が拒んで、押し問答をしたため、対馬島民が
 蒙古に捕まり、蒙古に連れ去られてしまった。
1269年4月26日、頭を痛めている朝廷、この日、後嵯峨法
 皇が、御所で評定を開いた、そして、蒙古への返牒につ
 いて議した。
1269年7月下旬、蒙古の使者が、7月下旬になって、先の
 対馬島民の二人を連れ、高麗に来た。
  そして、高麗では、二人の使者に日本人の島民二人を
 伴わせ、蒙古からの国書に、高麗の国書を添えて、日本
 に向かわせた。
1269年9月17日、蒙古の使者と高麗の使者が、対馬に着き、
 ついで九州の大宰府に到着、日本に対し返答を迫った。
  朝廷では、今度は返事を送ろうという事になり、菅原
 長成が、その草案を作った。しかし、幕府は先方の牒状
 は無礼であるとの理由から、使者たちを追い返した。
  朝廷からの返書の草案は握り潰した。
  蒙古から来た奉書の例(意訳)最初に送られて来たも
 のなので無礼な感じはない:
  天の慈しみを受ける大蒙古国皇帝は、書を日本国王
 奉ず。
  朕(フビライ・カン)が思うに、いにしえより小国の
 君主は、国境が相接していれば、通信して親睦に努める
 ものである。
  まして我が祖宗(チンギズ・カン)は、明らかな天命
 を受け、天下を領有し、遠方の異国にして我が威を畏れ、
 徳に懐く者はその数を知らぬ程である。・・中略・・
  高麗の君臣は、感謝し敬い来朝した。
  義は君臣なりと言うが、その喜びは父子の様である。
  この事は王(日本国王)の君臣も知っている事だろう。
  高麗は、朕の東藩である。
  日本は、高麗にごく近い。
  また、開国以来、時には中国と通交している。
  だが、朕の代に至って、いまだ一度も誼(よし)みを
 通じようという使者がない。
  思うに、王国(日本)は、この事をいまだよく知らな
 いのではないか。
  ゆえに、特使を遣わして国書を持参させ、朕の志を布
 告させる。
  願わくは、これ以降、通交を通して誼みを結び、もっ
 て互いの親睦を深めたい。
  聖人(皇帝)は四海(天下)をもって、家となすもの
 である。
  互いに誼みを通じないというのは一家の理と言えるだ
 ろうか。
  兵を用いることは誰が好もうか。
  王は、其の点を考慮されよ。
  不宣(ふせん、手紙の終わりに添える語)。
1269年9月17日、この同じ日、高麗の使者の金有成と高柔
 らが、対馬に来て、先の対馬島民の二名を返し、国書・
 蒙古中書省牒を送った。
  蒙古中書省牒は、蒙古国の中書省から日本国王に宛て
 た牒書形式の文書という意味。
1270年1月、朝廷が、蒙古への返牒を鎌倉へ下した。
  幕府は、これを押さえ、送らなかった。
1270年1月11日、蒙古船が対馬に来る。
1270年、第7回十字軍。
1271年、蒙古の使いが国書を呈した(ていする、差し出す)。
  幕府はこれを朝廷に進上した(しんじょう、目上の人
 に送る書状の敬意を表す語)。
  天皇は、勅使を伊勢に派遣し、異国の降伏を祈願した。
1271年5月、この頃より全国的に旱魃(かんばつ)が続く。
  幕府は民心の動揺を抑(おさ)え、その救済と幕政の
 維持を計った。
1971年9月2日、幕府が、高麗からの牒状を朝廷へ奏した。
1271年9月12日、蒙古の使者・趙長粥が筑前国に来航した
 (来襲の予行演習か?)
1271年10月23日、後嵯峨法皇が、公家をして、蒙古の牒
 状を議した。
1271年12月16日、朝廷が、勅使を伊勢に遣わして異国の
 降伏を祈願した。
1271年、イタリアのマルコポーロ中央アジア支那
 インドに旅行した。後の東方見聞録で、日本が一躍脚光
 を浴びるようになった。
1271年、蒙古のフビライ・ハンが、首都を大都(北京)に
 おき、国号を元と改めた。
1272年2月11日、北条時輔(ときすけ)の乱。第5代執権・
 北条時頼の長男。謀反の疑いで襲撃を受けた。
  蒙古襲来の近い時に団結を強めたいとして行われた気
 配がある。北条氏惣領家系に集中したい、させたい。
1272年5月、高麗の使いが、元の牒状を携えて来る。
1273年3月、元の使い・趙長粥が大宰府に来て、京に入る
 を得ずして去る(もう、日本の決心を悟ったのだろう。
 戦うという気配を感じて去ったのだろう)。
1273年5月27日、北条政村が没する。
  青年執権・時宗を支えていた前執権の政村が没する。
  いよいよ蒙古の来襲が迫る。
1273年、一遍が時宗を開いた。
1274年2月14日、幕府が、日蓮の赦免をする。
1274年、日蓮上人が佐渡の流刑を終え、信徒の招きで、
 身延山に入山した。
1274年11月11日〜26日、蒙古が来襲した。文永の役
  蒙古軍が対馬壱岐を侵し、ついで、肥前筑前に上
 陸した。15日間。
  一夜、大風雨が起こり、蒙古船は沈没した。
  元および高麗の連合軍の戦力:
  兵力:元・27000〜約40000人、日本・数千?
  損害:元(不帰還者)13500人、日本・数百人?
  船の数:元・約900隻、日本・約300隻、
  武器・元・火薬兵器、
  鎮西奉行少弐景資(しょうにかげすけ)の指揮で御
 家人は奮戦する。
  暴風もあって元・高麗軍は敗退した。
  異国警固番役:幕府が元の来襲防衛のため、御家人
 課した沿岸警備の軍役のこと。文永の役後に制度化され
 た。
  九州の御家人は、博多・今津・筥崎(はこざき)など
 受持ち場所を3ヶ月交代で警備した。
  この制度は、幕府が滅びるまで続けられ、御家人にと
 って重い負担となった。
  また、中国・四国の御家人には、長門・播磨を警固さ
 せた。
  蒙古軍は、実際は、ほとんどが沈没し、不帰還(全滅)
 だったのだろう。
1275年、夢窓疎石が生まれた(1275年〜1351年)
1275年9月7日、幕府が、蒙古の使者・杜世忠(とせいちゅ
 う)らを、鎌倉の竜の口で斬った。
  朝廷は、幕府の公事を減じ民力を休養して兵備を厳に
 す。
  九州の御家人異国警固番役を課し、博多に石塁を構
 築した。
1275年11月、幕府が、元寇によって、北条実政を鎮西に
 遣わした。
1276年10月23日、北条実時が没した。
1278年12月23日、北条時宗が、宋に書を送り、硯徳の僧
 を招聘する。
1279年7月29日、幕府が、元の使いを博多で斬った。
  蒙古のフビライは、使者の周福(しゅうふく)と欒忠
 (らんちゅう)を日本に遣わしたが、幕府は、この両名
 を斬首した。
1279年、元朝(蒙古)が、南宋を滅ぼして、中国を統一し
 た。
  元朝は、中国の政治制度を採用したものの、モンゴル
 至上主義をとり、ラマ教崇拝、モンゴル語を公用とし、
 漢民族を低い位置に置いた。政治的には不安定であった。
1280年6月5日、幕府が、北条兼時を長門国守護に任命した。
1280年12月8日、幕府が、鎮西守護御家人らを戒め、同
 心協力して外寇に備えさせる。
1280年、インドネシア:13世紀末、マジャパ人朝が興り、
 16世紀まで続く。この頃からイスラム化が進んだ。
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