(増補版)42B:気になった事柄を集めた年表(1247年〜1268年)

 題:(増補版)42B:気になった事柄を集めた年表(1247年〜1268年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1247年、モンゴル帝国が4度目の高麗への侵攻をした。
1248年12月23日、幕府が、百姓と地頭との訴訟法を制定
 した(吾妻鏡
1249年9月、幕府が、引付衆を設置した。
  引付衆:時頼が設置。評定衆の下にある。裁判の要件
 は、最初に引付会議で評議し成案を得て、評定会議の判
 決に委ねる。裁判の能率化をはかって設置した。
  この引付衆は、評定衆頭人として入り、北条氏一門
 がその頭人となった。引付とは、後の手引となる記録・
 文書のこと。
1250年4月、幕府による庶民への帯刀禁止令、また、政所
 への直訴を禁止した(地頭や地主の推挙を必要とした)。
1250年11月、幕府が、博打(ばくち、金品を賭けて勝負を
 争う事)の禁制の命令を出した。
  双六(すごろく)も、さいころの偶然性に頼るところ
 から、賭博(とばく、金品を賭けて勝負を争う事)とし
 て行われた(禁止)
1250年頃、宋との密貿易が盛んに行われた。幕府、密貿易
 を禁じた。
13世紀半ば、アイスランドが、13世紀半ば以降、ノルウェ
 ー、続いてデンマークの支配を受けて、長い時代を過ごす。
1251年5月15日、北条時宗が生まれた(1251年〜1284年)、
 18歳の時、第8代執権となる。
1252年9月30日、沽酒(こしゅ、酒の売買)の禁、鎌倉期
 には京都では酒屋が大変多い状態だったという。
  幕府が調査すると酒壺が3万7274個あったという。
1253年8月28日、道元が没した(1200年〜1253年)
1254年1月10日、鎌倉、大火。西風烈しく、人家数百戸を
 焼失。
1254年、マルコポーロが生まれた(1254年〜1324年)
  イタリア人の商人であり、旅行家。叔父に商取引を学
 んでおり、叔父と共に、1271年に、陸路で中国に向かい、
 元の上都に到着した。
  フビライに厚遇されて17年間滞在し、各地を旅行した。
  1295年に、海路でベネチアに帰国した。
  帰国後、戦争に志願し捕虜となり、その監獄で旅の話
 をし、それが後に「東方見聞録」となった。
  この書は、コロンブスやフラ・マウロの世界図作成な
 ど、多くの人物やヨーロッパ地理学などへの刺激や影響
 を与えた。
1256年、第6代執権・北条長時(1256年11月22日〜1264
 年8月11日)
1258年1月29日〜1258年2月10日、モンゴル軍が、バクダ
 ットを占領した(バグダードの戦い、バグダッド包囲戦)。
  この当時、イスラム帝国アッバース朝は、世界で最も
 栄華を誇っていた。学問や文化的にも優れていた。
  ヨーロッパのキリスト教諸国は、医学をはじめ、種々
 の学術のことや知識など、多岐に渡り多くを学んでいた
  (この恩あるイスラムの国を、キリスト教国は未開の
 文明国と卑下していた)。
  そのバクダッドが、モンゴル軍によって徹底的に破壊
 され、市内の「知恵の館」や図書館が破壊され、収蔵さ
 れていた何十万冊もの大量の学術書はモンゴル軍によっ
 て燃やされたり、川に捨てられた。
  メソポタミア文明イスラム文明の築いた貴重な遺産
 が消失した。
  また、薬学から天文学などの学術書、歴史的に貴重な
 書も逸してしまった。モスク、宮殿、病院も略奪、破壊
 し尽された。
  市民も皆殺しにされ(市民の死者、20万人〜80万人、
 200万人説もある)、バクダッドは、数年間、無人とな
 った。モンゴル軍は、灌漑運河を徹底的に破壊したため、
 人が住めなくなり、衰退してしまった。
  東西交易の中心地として繁栄を極めていた地が・・。
  世界最大の都市であり、精強な軍隊もいた(5万、全
 滅)。この頃から始まったモンゴル帝国の大規模な西征
 に攻略されてしまった。
  1257年11月にバクダッドを攻囲したモンゴル軍は、史
 上最大規模だったという(12万)。大規模なキリスト教
 徒の派遣団もモンゴル軍にいたという。また、中国人の
 銃の専門家も1000名いたという。
  2月10日に、アッバース朝が降伏すると、モンゴル軍は
  2月13日にバクダッドに流れ込み、
  それから1週間にわたって、虐殺、破壊を行った。
  チグリス川は血で赤くなったという。
  大量の死体から発する腐敗臭が凄まじかったという。
  モンゴル軍は逆らず降伏すれば破壊はしないとした(
 モンゴル軍の戦術)。
1258年、モンゴル軍が、高麗を征服した(第6次侵攻)。
  1253年から1258年にかけて、断続的に破壊・略奪が
 行われた。
  1254年の第一波には、高麗人の20万人が捕虜になり、
 殺されたものは数え切れずと言われた。
  「蒙古軍が経る所の州郡みな灰燼となる」「骸骨野を
 蔽う(おおう、遮ってかくす)」という惨状だった。
  モンゴル宛ての国書で、高宗は「今まで我が国が貴国
 に事大の誠を尽くせなかったのは権臣が政治を奪い貴国
 へ属するのを嫌がったためであり、崔竩が死んだ今、た
 だちに都を戻し、貴国の命を聞きます」と、全面的な従
 属を宣言した。
1259年、モンゴル軍が、南宋に侵入した(第2次)。
  第1次が1235年〜1241年、第2次が1253年〜1259年、
 第3次が1268年〜1279年、
  1276年に南宋は完全に滅びた。
  クビライは、1251年に南宋の侵攻を計画したという。
  クビライにとって南宋攻略は難しかったという。
  今までの、騎兵主体の作戦を止め、歩兵の大兵団とし
 た。
  長期戦の構えでいた。
  また、敵将をなるべく無傷で捕らえ、大いに優遇して、
 味方に引き入れようと努めた。
  寝返ってクビライに忠誠を誓う将も現れた。
  人民の衝撃も大きく、また、クビライは、その将の人
 脈を使って調略(ちょうりゃく、はかりごとをめぐらす
 こと)した。これは効果があった。
  南宋は、急速に基盤を弱めた。
  それを見て、クビライは南宋へ大侵攻を決定し、空前
 の大軍を投入した。
  そして、略奪を禁ずるなど丁重に攻めて行った。
  その効があり敵兵の投降が多かった。
  そして、崖山の戦いで南宋軍は撃滅され、滅びた。
1260年9月3日、モンゴル軍とキリスト教徒諸侯軍の連合軍
 とが、マムルーク朝軍へ仕掛けた戦い(アイン・ジャー
 ルートの戦い)。
  マムルーク朝は、エジプトを中心に、シリア、ヒジャ
 ーズなどのイスラム王朝の国。
  マムルーク朝が勝利した。モンゴル軍の西進は阻止さ
 れた。残るは東進・・日本が、まだ、ある。
  このモンゴル軍には、キリスト教の十字軍が攻めて作
 ったシリア・パレスチナの地にある十字軍国家の諸国軍
 もモンゴル軍に攻略され服属し(ふくぞく、服従して下
 につくこと)、加わっていた。
  モンゴル軍は敗れて、西進は止まった。
1260年頃、金沢文庫が、この頃、創立された(北条実時
1262年11月28日、親鸞が没した(1173年〜1262年)
1263年11月22日、最高権力者・北条時頼が没した(1227
 年〜1263年)
1265年、イギリスに下院の基が出来た。
1266年3月6日、幕府が引付衆を廃止した。
1266年7月4日、北条時宗、将軍宗尊親王を廃した。
1266年7月24日、第7代将軍・惟康親王(1266・7・24〜
 1289・9・14)
1266年11月25日、蒙古(モンゴル国)の使者二人が高麗
 に到着した。
  使者は、高麗に宛てた国書と共に、日本に宛てた国書
 を携(たずさ)え、高麗に日本への道案内を命じた。
  しかし、高麗の裏工作により、使者は日本に至らなか
 った。
  蒙古は、高麗の誠意のなさに激怒し、次の年の再度の
 使者派遣となる。
1267年8月、蒙古(モンゴル国)は、再び、使者を高麗へ
 派遣した。
  高麗王は、仕方なく使者を日本へ派遣した。
  使者は、前回の蒙古の国書と、高麗からの国書を携(
 たずさ)え、次の年(1268年)の正月に九州に到着した。
1267年、大都(だいと、モンゴル語でカンバリク)は、モ
 ンゴル帝国(元朝)のクビライ・カンが、1267年から
 26年を費やして、現在の北京の地に造営した、モンゴル
 人が築いた都市で、現在の北京の前身。
  中国で、国都を新しく作るのは、常に、非漢族政権で
 ある。
  国号を「大元」としたのは、「おおいなるもと」、す
 なわち「天」(てんぐり)のことであった。
  てんぐりは、古来、トルコ=モンゴル系の北方騎馬民
 族が、共通して崇(あが)めて来た神概念である。
  偶像を作らない抽象的超越神である。
  フビライ・ハーンは、「大元」という国号を名乗り、
 その天の下の「地」の中心である帝都に「大都」という
 名を与えた。
  これが、引き継がれて、後に北京となった。
  モンゴルなど北方民族が、中国に理念を与え、君臨し
 ていた。
1267年、後宇多天皇が生まれた(1267年〜1324年 91代)
1268年1月16日、蒙古の使者が、大宰府(だざいふ)に来
 た。
  蒙古と高麗の国書は、大宰府の最高指揮者・武藤資能
 (すけよし)に手渡された。
1268年1月18日、蒙古国牒状が、鎌倉に到着。
  牒状(ちょうじょう):1順番へ回して用件を伝える
 書状。回し文、国から国への書状、国書)。
  蒙古の国書は、表面的には両国の通交関係の樹立の要
 求であったが、その内容は、日本の服属(ふくぞく)を
 求め、来貢(らいこう)せねば武力で討つという脅迫で
 あった。
  幕府は、この重大事件に対し、連日衆議をこらした。
  しかし、この当時は、外交権は形式的にせよ朝廷にあ
 ったので、国書は幕府より朝廷に2月7日に回された。
1268年2月7日、幕府より、蒙古と高麗の国書が、朝廷に
 奏せられた。
  朝廷では、この国書の威嚇的な文辞に無礼を憤り、返
 牒あるべからずと、2月19日に決定した。
1268年2月19日、蒙古の国書に対し、返牒あるべからずと、
 朝廷で決定し、蒙古の使者はむなしく帰った。
  この国書到来の噂(うわさ)は、日本中に広まり、全
 国的に緊張が高まって行った。
  蒙古来襲を覚悟し、朝廷は、直ちに蒙古調伏の祈祷を
 命じ、また、幕府に、西国の御家人に夷狄(いてき)の
 来襲に備えるように命じた。
1268年3月5日、北条時宗が執権となった。
  幕府は、高齢の北条政村に替わって、18歳の時宗を執
 権にした。
  政村は、連署として時宗を助ける事となった。
  第8代執権・北条時宗(1268・3・5〜1284・4・4)
..
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