(増補版)49B:気になった事柄を集めた年表(1333年〜1335年)

 題:(増補版)49B:気になった事柄を集めた年表(1333年〜1335年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1333年4月29日、足利高氏(後の尊氏)が、丹波国篠村八
 幡宮(京都府亀岡市)で、反幕府の兵をあげた。
  後醍醐天皇は、隠岐を脱出されて、伯耆国鳥取県
 吉市)船上山に籠城されていた。
  高氏は、この時、病中だったが、再び、鎌倉幕府の命
 を受け、名越高家とともに司令官として上洛した。
  この時、高氏は、妻子を同行させようとしたが、幕府
 は、人質として二人を鎌倉に残留させた。
  緒戦で、同行した司令官の名越高家が戦死した。
  高氏は、この事もあり、また、後醍醐天皇からの話が
 あったため、天皇方へと味方する事を決意した。
1333年5月7日、足利高氏が、京都を制圧・・
  後醍醐天皇へ味方する事を決意した高氏は、諸国へ軍
 勢催促状を発した。
  そして、これに応じた武将らを糾合して入洛し、この
 日・5月7日に、六波羅探題を滅亡させ、京都を制圧した。
 (そして後に、尊氏は、建武の中興第一の功臣となり、
 参議になった)。
  尚、この頃、赤松則村(あかまつのりむら、播磨国
 今の兵庫県姫路市の地頭、1277年〜1350年)が、
  後醍醐天皇の皇子・護良親王の令旨も受け、佐用荘苔
 縄城(兵庫県佐用町)で挙兵していたが、
  また、元弘の変(1331年の後醍醐天皇の幕府討伐計画)
 に際しても、本領播磨国佐用庄を中心に、反幕府軍とし
 て活躍したが・・、
  建武の中興の成立に寄与しているが・・、
  新政府に理解されず(地方だったからか?)優遇され
 ず、足利尊氏の叛と共に北軍に投じた。
  尊氏の九州への敗走するにあたっては、播磨を守って
 新田義貞らの南軍の西下を阻止し、尊氏から播磨守護に
 補任され、赤松氏繁栄の基を築いている。
  尚、この鎌倉時代末期のこの頃、「曽我物語」が成立
 している。
1333年5月中旬、新田義貞が挙兵した。
  幕府の御家人だった義貞は、京都の警護(大番役)を
 命じられ、上洛していたが、
  河内国楠木正成の挙兵が起こり、幕府に従って「楠
 木正成討伐」に向かい、幕府側の武将だったが、
  正成の城である千早城の戦いにも幕府側として参加し
 ているが・・、
  しかし、1333年3月に、義貞は、病気を理由に無断で
 新田荘に帰ってしまった。そして、この日に、挙兵した。
  挙兵した日は、「5月5日説」や「5月8日説」がある。
1333年5月22日、鎌倉幕府が滅んだ。
  北条高時が没した(1303年〜1333年)。
  関東・上野国御家人新田義貞軍が挙兵し、幕府軍
 を連破して鎌倉へ進撃する。
  新田郡が鎌倉へ侵攻すると、北条一族や家臣らと共に
 北条高時(31歳)は自刃し、鎌倉幕府が滅んだ。
1333年6月、後醍醐天皇によって「建武の新政建武の中
 興)」が開始された。
1333年6月〜10月、記録書・雑訴決断所・窪所・武者所
 置いた。
1333年6月5日、高氏が、鎮守府将軍に任命され、名を尊氏
 に改めた。
  この時、護良親王は、足利尊氏らの足利氏の勢力を警
 戒し、奈良の信貴山(しぎさん)に拠り、尊氏を牽制す
 る動きに出た。
1333年6月15日、旧領回復令が発布された。
  御成敗式目で認められていた土地所有権が無効とされ、
 新たな土地所有権は、申請が必要とした・・が、
  申請者が都に殺到した。
  7月に、諸国平均安堵令が発せられ、この騒ぎの対象者
 は、北条一族のみとし、知行の安堵を諸国の国司に任せ
 た。
1333年6月23日、尊氏と護良親王の関係については、
  後醍醐天皇は、この日に、事態打開策として、護良親
 王を征夷大将軍に任命している。
1333年12月、尊氏の弟の足利直義が、後醍醐天皇の皇子・
 成良親王を奉じて、鎌倉へ派遣され、鎌倉将軍府が建っ
 た。
1334年1月、年号を「建武」と定められた。
  そして、この月に、新税が計画され、土地調査が行わ
 れた。また、新紙幣や貨幣の発行も計画された。
1334年3月、貨幣の「乾坤通宝」の発行詔書が出された。
 しかし、この通貨の存在は確認されていない。
  尚、この頃から、新令による問題点が出始める、所領
 問題、訴訟は恩賞の問題・・など。
  記録書などを新設し調整に努めたが、権限の衝突など
 の混乱が収まらず、新政の諸問題が露呈した。
1334年5月、本家(荘園制の土地の名義上の最上位の所有
 者)や、
  領家(荘園制においての荘園開発した開発領主から寄
 進を受けた荘園領主)が廃止された。
  また、徳政令が発布された(債権債務の無効を意図し
 た事になってしまった)。
  また、雑訴決断所の訴訟手続法が定められた。
1334年8月、この頃の新政下の混乱した世相を風刺する二
 条河原落書(にじょうがわらのらくしょ)が現れた。
  「コノゴロ都ニハヤル物、夜討(ヤトウ)、強盗、ニ
 セ倫旨(リンジ)、召人(メシウド)、早馬、虚騒動(
 ソラソウドウ)・・」という書き出しで始まる。
  世相・人情・風俗・下剋上の世界・成り上がり者・軽
 薄な流行ファッション・退廃と混乱の世相を描き出した
 庶民の痛烈な落書。日本落首史上の傑作という。
1335年7月、北条時行の乱が起きた。(中先代の乱)。
  鎌倉幕府の第14代執権・北条高時の遺児である北条時
 行の乱が起きた。
  鎌倉幕府再興のための挙兵だった。
  御内人(みうちびと、執権北条氏の家督に仕えた武士)
 の諏訪頼重らに擁立され、時行が鎌倉へ侵攻した。
  先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、一
 時的に鎌倉を支配したことから、「中先代の乱」と呼ば
 れている。
  鎌倉支配は、20日余りしか続かなかった。
  鎌倉幕府の滅亡の後、「建武の新政」が打ち立てられ
 たが、
  そして、鎌倉には、後醍醐天皇の皇子の成良親王を長
 として、尊氏の弟の足利直義が執権として、これを補佐
 する形の「鎌倉将軍府」が置かれていた・・が、
  しかし、この政権は、武家の支持を得られていなかっ
 た。
  北条氏の残党などが各地で蜂起を繰り返す状態だった。
  1335年6月には、京都で政権転覆を企てた陰謀が発覚
 したりして、不穏の世情だった。
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