(増補版)44B:気になった事柄を集めた年表(1280年〜1281年)

 題:(増補版)44B:気になった事柄を集めた年表(1280年〜1281年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1281年6月16日〜8月29日、蒙古の二度目の来襲があった。
 (弘安の役)74日間(前回の15日間の5倍近い戦闘期間)
  モンゴル帝国と高麗王国の連合軍、4400隻の艦隊は、
 元寇以前では世界史上最大規模の艦船数だった。
  前回の文永の役では、暴風雨を受けて敗退し、高麗の
 疲弊は酷く、その様子を、日本征討に加わった兵士たち
 は、戦闘による負傷と、帰還中の暴風雨により多くの負
 傷者・溺死者を出すなどしたために、今では田畑を耕作
 する者はわずかに老人と子供のみである・・と記録され
 ている。
  また、「民の疲弊はこの時よりはなはだしい時はなか
 った」との記録もある。
  そして、再び、日本征討軍を挙げるならば、高麗は、
 戦艦・兵糧の支給には耐えられない・・と、クビライに
 訴えている。
  しかし、またもや大軍団を編成して、再度、元と高麗
 の連合軍はやって来た。
  そして、今回の弘安の役で、また、暴風雨の神風が吹
 いた。それが、日本勝利の結果だと教科書には書かれて
 いるが、
  元側の資料の「高麗史」によれば、74日間の戦闘にお
 いて、日本軍が強く、(元側が)苦戦を強いられたこと
 が書かれている。
  そして、強い日本軍との戦いをどうするかの軍議にお
 いて撤退が決定したという。
  そして、その日本からの撤退の途上で、暴風雨に遭遇
 したという。
  暴風雨は、勝敗とは、直接の関係はないとなっている。
  また、気象学的に、過去の記録には、この6月から8月
 の戦闘が行われた時期の台風の記録がないため、台風以
 外の気象現象ではないかという見解もある。
  元軍が、日本軍との戦いに苦戦して撤退した様子は、
 元側の資料にあり、
  また、日本側の資料にも、同様の記載で確認ができる。
  元軍と戦って撤退させたという記述や、合戦し賊船一
 艘をを取ったとか、蒙古軍を追い返したとかの報告の飛
 脚による中央政権へ対しての軍事的報告や、
  「五壇法日記』や「関東評定衆伝」などにも記されて
 いる。
  日本軍の強さが分かり、またしても、暴風に会って、
 損害が甚大であったということで、第3回目の来寇は無
 かったのだと言える。
  74日間にわたる戦闘において、7月30日夜半に、台風
 が襲来したという記録への記述もある。
  元軍は、大損害を被り、約4000隻の軍船の内、残存艦
 船は200隻であったという。
  また、台風を逃れ、損害は軽微だった戦艦群もあった
 という記述もある。
  また、元史には、軍船が沈没し、壊れた船体の破片に
 掴まりながらも、岸に辿り着いた。
  江南軍の1000余人の兵を率いた管軍総管の船も壊れ、
 三昼夜漂流した末に合流している。また、将校の中には
 実際の溺死する者もいた。
  大元朝に人質に出されてい高麗国王の子息は、台風を
 受けて溺死している・・などの記述もある。
  また、停泊態勢をとっていた船もあったようだ、その
 艦隊は風浪対策をしていたのだろう。その差があったの
 だろう。
  元軍が、撤退を決議した軍議(総司令官や都元帥らの
 軍議)の記録に、
  張禧「士卒の溺死する者は半ばに及んでいる。死を免
 れた者は、皆壮士ばかりです。もはや、士卒たちは帰還
 できるという心境にはないでしょう。それに乗じて、食
 糧は敵から奪いながら、もって進んで戦いましょう」。
 范文虎「帰朝した際に罪に問われた時は、私がこれに当
 たる。公(張禧)は私と共に罪に問われることはあるま
 い」・・などと、議論した末、結局、撤退することにな
 ったという。
  頑丈な船より兵卒を無理やり降ろして乗り込んだり、
 鷹島の西の浦より10万余の兵卒を見捨てて逃亡したとの
 記録もある。
  また、軍馬70頭を軍船から降ろして捨てて帰還したと
 かとか・・と。
  日本軍の士気も上がっていたようで、元軍の軍船に攻
 撃を仕掛け、追い掛け、乗り移って元兵の首を挙げ・・
 などの記述も見られる。
  日本軍は奮戦している。
  「千人塚」という元軍の死者を弔うために建てられた
 塚がある。
  また、「逃げの浦石塁」というのもある、ここから上
 陸した元軍が逃げて行ったという。
  また、置き去りにされた元軍の殲滅戦も日本軍は行っ
 ている。
  そして、逃亡して隠れていた元軍の兵士が、木を伐採
 して船を建造して逃げたともいう。
  置き去りにされた元軍の捜索もやっている。
  また、残された元の軍船を焼き払ったりもしている。
  福田兼重の父子らの日本軍による鷹島総攻撃によって
 10万余の元軍は壊滅し、日本軍は20000〜30000人の元
 の兵士を捕虜にした・・という記録もある。
  この掃討戦の激しさを物語る地名も多く残っていると
 いう・・首除(くびのき)、血崎、死浦、地獄谷、供養
 の元・・など。
  高麗王の密偵が残した文に、
 「(鷹島掃討戦で死んだ)怨念の骸骨は山ほど高く、夜
 を徹して天に向かって死んだ魂が泣く」・・と漢詩で詠
 んでいる。
  日本軍総司令官:鎮西(異国征伐)大将軍・北条実政
  諸将・鎮西西方奉行、鎮西東方奉行、西方奉行一門、
 関東御使・軍奉行、肥後守護、薩摩守護、筑後御家人
 豊後御家人、肥後御家人、薩摩御家人、伊予御家人、六
 波羅派遣軍など、60000余騎、
  元軍:140000〜156989人、
  元戦艦:4400隻、
  損害:日本・不明、元軍(不帰還者)・84000〜
 141290人、
  元軍捕虜:20000〜30000人、
..
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