(増補版)238D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1851年〜1853年)

題:(増補版)238D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1851年〜1853年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1852年(嘉永5年)2月、徳川慶篤(とくがわよしあつ、常
 陸水戸藩主)が、「大日本史紀伝」を朝廷、幕府に献上
 した。
  徳川慶篤徳川斉昭の長男。徳川慶喜の兄。
  1858年に、父と共に日米修好通商条約の無断違勅調印
 に抗議して、江戸城に不時登城(定式登城日以外の登城)
 して、登城停止の処分を受けた。
  1863年に、朝命により横浜鎖港に当たった。
  大日本史紀伝体なのでこの名がある。
  紀伝体(きでんたい)とは、歴史記述の一形式で、本
 紀(ほんぎ、帝王の年代記)、列伝(臣下の伝記)、志
 (社会の現象)、表(年表や系譜など)から成るが、本
 紀と列伝が中心なのでこの名がある。
1852年5月、幕府が、彦根藩に西浦賀一帯の警備を命じた。
  西浦賀一帯が彦根井伊家の所管とし、浦賀奉行所は、
 外国人応接と浦賀港内警備に特化した。
1852年5月、幕府が、武州(武蔵)大森海岸の大砲演習場を
 完成し、旗本・諸藩士にその使用を許した。
1852年6月、オランダ商館長のクルチウスは、幕府に、東イ
 ンド総督の書簡(別段風説書)を渡し、
  明年(1853年)、アメリ使節が来航し、開国を要求
 する事を予告(アメリカの極東における砲艦外交)した。 
  砲艦外交(ほうかんがいこう)は、海軍力を誇示する
 ことで、相手国に心理的圧力をかけ、交渉を有利に進め
 ようとする外交の戦略。結局、その手に乗り、その通り
 になった。
1852年6月24日、ロシア軍艦のメンチコフ号が、下田に来航
 し、漂流民を置いて去った。船長はリンデンベルグ
  紀伊の漂流民だったが、下田代官所は受け入れを拒否
 した。
  漂流民は、伊豆中木村に置き去りにされた。
1852年7月、ジョン万次郎が、12年ぶりに故郷に帰った。
1852年8月、幕府が、溜詰(たまりづめ)諸侯に、アメリ
 使節の来日予定の報を伝達した。
  溜詰は、大名が江戸城に登城した際、黒書院の溜の間
 に席を与えられた。
  親藩や譜代の重臣から選ばれ、老中と共に政務上の大
 事に参画した。 
1852年、五島各地に、疱瘡、コレラ(とんころりん)が蔓
 延した(〜1853年まで)
  長崎に入ったコレラは、たちまち大阪まで広がって行
 った。
1853年(嘉永6年)2月、瀬川如皐(せがわじょこう、歌舞
 伎役者)の「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこ
 ぐし、切られ与三)」が初演された。
  世話物で、木更津の博徒の妾・お富と伊豆屋の若旦那
 与三郎の情話を描いたもの、
1853年3月11日、関東地震嘉永小田原地震
  マグニチュード6.5と推定され、
  小田原城の三の丸の藩校・集成館が倒壊した。
  箱根など341ヶ所で山崩れ、
  江戸城でも大手門の渡櫓内の壁がすべて落ちた。
  東海道は、道路や関所の被災で、1週間が通行不能
  全壊1032戸、半壊2477戸、死者24人、
1853年5月、坂本竜馬(17歳)が、江戸に到着した。
  内桜田鍛冶橋の土佐藩下屋敷に草鞋をぬぐ。
  桶町の北辰一刀流・千葉貞吉道場(千葉周作の弟)に入
 門した。
1853年6月3日、黒船来航(くろふねらいこう)
  アメリ東インド隊司令長官マッシュ・ペリーが、
 遣日国使として、軍艦4隻を率いて相模国浦賀沖に来航
 した。
  当初、久里浜に来航したが、当時、久里浜は砂浜で黒
 船が接岸できなかったことから、幕府は江戸湾浦賀に誘
 導した。
  アメリカ大統領・フィルモアの親書を、幕府応接掛の
 戸田氏栄に手交し、開国をせまった。
1853年6月9日、幕府は、久里浜で、アメリカ大統領フィル
 モアの国書を受領した(6月6日説あり)
1853年6月12日、ペリーは、国書の回答を明年に延期するこ
 とを認め、琉球へ去った。
1853年6月22日、第12代将軍・徳川家慶(とくがわいえよし)
 が、ペリー来航直後に没した(1793年〜1853年)(61歳)
  阿部正弘を用いての海防問題対処の真っ最中での、病
 死であった。
  将軍のこの死もあって、幕府は、黒船対応に慌てた。
1853年7月、大名・旗本に開国是非の意見を聞く。
  これは異例の事態だった。
  前代未聞の事だった。。
  老中の阿部は、大名から旗本、さらには、庶民に至る
 まで、今まで幕政に加わらない人たちにまで、意見を求
 めた。
  これで、完全に幕府の権威は落ちて、且つ、堕ちる事
 となった。
  幕末の混乱への道程・一里塚となった。
  こんな事で意見がまとまるわけがない。
  (老中の阿部はすがった、これからズーット、この「
 すがり」で行く、この老中は・・)。
  これは、別な意味で、幕末の志士、日本を憂える俊英・
 勇士たちの出る機会ともなった、端緒となって行ったと
 言える。
  そして、世は沸騰して行く。
  徳川斉昭が怒ったのが・・正解だったのだ。
  当時の性能の軍艦4隻で、大砲を撃ったとしたって、撃
 ち尽くせば、国にまで取りに帰らなければならないし、
  また、その時の、無防備な状態の時が、多くの武士の
 居る日本のチャンスなのだ、その時に攻めれば、軍艦4隻
 を奪う事さえできたのだ。
  薪・水を、年がら年中、貰わなければ動けない船だっ
 たのだ。
  老中・阿部を筆頭に怖気(おじけ)づき、「たった4
 杯で夜も眠れず」だった。
  この詩の様に、見抜いて、馬鹿にして、詠っていた人
 も居た。
1853年8月6日、幕府が、高島秋帆(56)の禁固を解く。
  国防に知識のある人材を、必要せずとして捕えられて、
 足かけ12年の捕縛だった。
  そして、後に、秋帆は、お香(50・妻)、浅五郎(33・
 息子)、太郎(11・孫)の4人で、江戸に住むようにな
 った。
  秋帆は、海防掛御用取扱いとして、江川太郎左衛門
 下について、品川台場の建設に従事した。
1853年8月22日《07/18》、ロシア使節・海軍中将極東艦隊
 司令長官ワシリエビッチ・プチャーチンが、長崎に来航
 した。
 軍艦4隻を率い開国をせまった。
  (旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊)。
  うち1隻は、日本最初の蒸汽船の来航だった(火船と
 称した)
  長崎入港目的は、アメリカにより通商の利の独占を恐
 れての行動で、
  遣使奉行所では、食糧を供するとともに、幕府の指示
 を求めた。
  来航目的は、千島、樺太の測量と、ロシア皇帝の通商
 を求める国書の手交(しゅこう、直接に相手に渡すこと)
 だった。
  日露修好条約原案は、シーボルトによって書かれたも
 のだった。
  艦隊の長崎停泊中の警備は、筑前、佐嘉、平戸、島原、
 唐津、大村の諸藩の兵1万7226人と、船734隻があたった。
1853年9月、幕府が、大船禁止令を解いた。
  そして、逆に、幕府は、諸藩に大船の建造を促した。
  この時は、幕府もそうだが、日本中の誰もが、度肝を
 抜かれた状態だった。
  見てもいないものを恐れていた。
  薪・水を求めて来る船、補充の利かない船なのに、こ
 んな弱点もある艦隊なのに・・、
  薪が無くなれば、動けなくなるのに畏れるのだった。
  そして、素直に諸藩は大船建造を競った。
  幕府も、浦賀で洋式船の模倣建造を始めた。
  この時、また、優秀な日本人が登場した、中島三郎助
 である。
  彼は、1853年7月に、ペリーが来航した時に、副奉行と
 称して、通詞の堀達之助を連れて、ペリー艦隊の旗艦「
 サスケハナ」に乗船した。
  そして、その後、浦賀奉行・戸田氏栄ら重役に代わっ
 て、香山栄左衛門とともに、アメリカ側使者の応対を務
 めている・・が、
  この時の、アメリカ側の記録では、船体構造・搭載砲
 (ペクサン砲およびダールグレン砲)・蒸気機関を入念
 に調査していた。
  ことから、密偵のようだと、アメリカ側の記録に書か
 れくらいだった。
  ペリーの帰国後、彼は、老中・阿部正弘に提出した意
 見書で、軍艦の建造を具申した。
  そしてまた、蒸気船を含む、艦隊を造るべきだと、艦
 隊編成を、艦隊設置を具申している。
  そして、何と、この計画を1854年に、完成している。
  この日本初の洋式軍艦は「鳳凰丸」と言った。
  彼は、製造掛の中心として活躍し、完成後は、その副
 将に任命された。
  驚くべき優秀な日本人だった。
  鉄砲の伝来の時も、直ぐに、自前で作ってしまう日本。
  そして、世界一の優秀な火器を所有する、揃えた国と
 なっていた。
  信長・秀吉・家康の頃の日本、この時も、そうだった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive