(増補版)240D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1853年〜1854年)

題:(増補版)240D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1853年〜1854年
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1853年(嘉永6年)、クリミア戦争(〜1856年)
  この戦いの報が入って、急ぎ、ロシアに帰って行った
 プチャーチンだった。
  このクリミア戦争の報を受けたからだった。
1853年、獣肉店がある世相
  ペリーが来たこの頃、
  『薬食い』と称したイノシシ鍋があった。
  また、豚肉もモモンジャ(獣肉店)で売られる様にな
 っていた。
  琉球から伝わって来て、イノシシ、鹿のほかに豚肉も
 扱われ始めていた。
  新しいもの好きの一橋慶喜も好きだった様だ。
1853年、この頃の、日本の有志たちの考え、そして、これ
 からの有志たちの考え、
  諸藩の青年たちも、ペリー来航のこの機に、政治青年
 と化した。
  藩邸内では、若い藩士たちの議論が沸騰した。
  知のある者、情報のある者は、単に武器の差以上の差・
 違いを知っていた(一例:オランダの法律概論での知識
 や、ジョン万次郎は土佐藩でも事情聴取を受けていた)
  制度の違いにも驚いた。
  また、その様な武力以外の差の違いに気づく日本の青
 年たちだった。
  その様な差の中に、戦いの結末を悟る者もいた。
  開国を説き、軍備を整え、海軍力を整えてからの説の
 者もいた。
  見通していた。
  諸外国と対等に早くなることが第一だと、
  そして、「今の幕府では危ない」という考えも存在し
 た。
  その様な志士たちが、各藩の有志たちが交わった。
  その中で、有志の青年たちは、日本の方向を探り、活
 動して行った。
  制度が、「危機の根本原因にある」と知る者もいた。
  だから、旧体制を崩す事という者もいた。
  勿論、佐幕(尊攘・倒幕に反対し、幕府を支持した)
 の者も居た。
  尊王攘夷、佐幕開国など意見に湧いた。
  吉田松陰は、「諸侯や公卿を当てにしていても駄目だ。
 下級の民衆が決起するしかない。その為に藩が潰れても
 やむを得ない」・・の意見だった。
  久坂玄瑞(くさかげんずい、長州藩士、松蔭と双璧と
 言われた人)も、松蔭の「藩意識を捨て、日本国そのも
 のの危機に立ち向かおう」とする意見に到達した。
  竜馬も、この意見に大いに影響された。
  武闘に走る者も出ていた。
  斬る・斬られるの話である。
  そして、俊英な志士たちは、京・大坂に集まった。
  自分の考えを実行しようと脱藩して、京・大坂へ向か
 った。
  勝海舟も、幕末の動きを左右する思想の士であった。
  海舟は、アメリカに行って、アメリカを知っていた。
  海舟は、幕臣であったが、日本という国家百年を考え
 る士だった。
  海舟の先見の明(せんけんのめい、事が起こる前にそ
 れを見抜く見識)は、海軍重視にもあった。
  大砲を船に積んで、敵国の沿岸に近づけて、攻撃でき
 るシステムを重視していた。
  海舟は、幕府に「戦艦、百数十隻からなる大々連合艦
 隊」を構想し、幕閣に提案していた。
  そして、海舟は、諸藩から優秀な有志を入所させた海
 軍操練所も、幕府に提案し設置し、その構想を実行に移
 した。
  そして、幕府だけでなく、全国の藩からも金を集めて
 実現を目指した。
  勝海舟に感銘した竜馬も、目的達成のための金もうけ
 のため、亀山社中を創り、仲間を募り、活動を開始した
 (今の三菱系につながって行く)
  そして、全国の優秀な知識人たちをブレーン(頭脳)
 とし、繋がりを持ち、見識を広めて行った。
  ここが竜馬の優れたところ、長所だった。
  日本に、この様な人材たちが湧き出し、そして、
  この様に、日本を良くしたいという夢の橋を渡って、
  明治という世になって行く日本だった。
  違う夢の下で、藩と藩も戦った時を経て、新しい時代
 へと向かっても行った・・が、
  しかし、そこには、「共に目指す目標・夢は同じでは
 ないか」・・が存在した。
  そして、そこに、素晴らしい人たちは、維新後の世を、
 すでにおぼろげながらでもすでに描いていた。
  維新後は、ほとんど、躊躇なく、国づくりが進められ
 て行った日本だった。
  「五箇条の御誓文」の下敷きは、すでにできていた。
1854年嘉永7年、安政元年)1月3日《12/05》プチャーチ
 ンが、ロシア艦隊4隻を率いて2度目の長崎へ来航。
  通商条約、国境問題の交渉を求めた。
1854年1月6日《12/08》勘定奉行の川路左衛門尉が、露使応
 接掛として江戸より長崎に来た。
1854年1月7日《12/09》大目付格西丸留主居の筒井肥前守、
 儒者の古賀謹一郎が、露使応接掛として江戸より長崎に
 来た。
1854年1月7日、この日までに、6回にわたり国境、通商問
 題などの交渉が行なわれた。
  後に、パルライダ号上の最終会談で、日本が他国と通
 商条約を結んだ際、ロシアも同一条件を与える旨が保証
 された。
1854年1月8日《12/10》目付の荒尾土佐守が、露使応接掛と
 して江戸より長崎に来た。
1854年1月12日《12/14》江戸より長崎に来た幕府要人が、
 奉行大沢豊後守、水野筑後守とともに、西役所で、露使
 節と会見した。
 ロシア側は、プチャーチン使節付副官兼蘭語通訳官
 の海軍少佐ポシェット、旗艦パルラダ号艦長の海軍大佐
 ウニコフスキー、秘書官ゴンチャロフの4人で、
 筒井、川路は、「殊更に高き高麗べりの二畳台」に座
 り高さを合わせ、大通詞の西吉平衛と森山栄之助が同席。
 三汁七菜と酒の昼食ののち、正式な挨拶が交わされた。
1854年1月15日《12/17》プチャーチンが、旗艦パルライダ
 号に、筒井、川路、古賀らの日本人使節団を招き、船内
 を見学させた。
  士官室のテーブル上に敷かれた円周軌道を走る蒸気機
 関車の模型を、川路聖謨や森山栄之助らが日本で初めて
 見た。
1854年1月16日、ペリーが、江戸湾に再来航した(1月14日説
 あり)
  昨年やって来たアメリカのペリー提督が、この日、再
 び艦隊を率いて再来し、先に幕府に呈上した通商開港に
 関する国書の返答を、厳しく要求し始めたため、
  諸藩の沿岸警備隊は、再び、臨戦状態に入った。
  幕府が、下田、箱館(函館)の両港を開くことに決定
 し、ペリーに回答したのは2月末になってからであった
 (竜馬がゆく・1)
1854年1月16日《12/18》幕府要人が、西役所で、露使節
 会見し、国書に対する回答書を交付した。
  使節らに、幕府からの贈り物を贈呈した。
1854年1月18日《12/20》、西役所で国境、通商問題につい
 て協議を開始した。
  以後、しばしば会談した。
1854年1月20日《12/22》露使節が、国王の献上品を西役所
 に持参した。筒井らが受け取った。
1854年1月、坂本竜馬が、鍛冶橋の藩邸から、築地の藩邸に
 移された、詰めきりとなる。竜馬、二十歳。
1854年2月5日《嘉永07・01/08》ロシア艦隊が、長崎を出港
 した。
  樺太国境と和親通商交渉、妥協せず。
1854年2月、閣老、阿部伊勢守正弘辞表。(氷川清話)
1854年3月3日、日米和親条約調印。
  再来日して、3月3日に、「日米和親条約」を締結。
  結果、伊豆国下田湊が即刻開港される。
  下田・箱館の2港を開く(神奈川条約)
  そして、なお、相州沖にいるペリー。
  すでに、3月3日、横浜の会見所仮り館で、幕府に対し、
 2港開港を約束させる旨を約束させたが、どういう訳か、
 なお去らず、艦砲を陸上に向けたまま、無言の威圧を加
 えた。
  諸藩の陣地は、緊張し切っていた。
  国詰の藩士たちも江戸に下って来た。
  相州、特に、三浦半島は、江戸の喉首(のどくび)に
 あたる要地であり、
  幕府は、譜代大名筆頭の彦根井伊家に警備を命じてい
 た。
  そして、このたび、陣地替えが行われ、井伊を羽田・
 大森の沿岸に移し、
  長州藩をして相州を守らしめることになった。
  長州藩は、外様ながらも、幕府の信頼の厚さに、藩を
 あげて感激し、
  家老・益田越中を、陣地指揮の先手総奉行に任じ、藩
 士の中でも、特に、腕の立つもの1000人を選んで配置し、
  さらに、120人を厳選して、三浦半島南端の宮田村とい
 う漁村の本営に駐屯させた。
1854年3月、長州の吉田松陰は、この3月、下田港から漕ぎ
 出して
  小舟を、米艦の舷側につけ、国禁の海外渡航を企てて
 米艦のほうから断られ(幕府との外交上のトラブルを恐
 れて)そのため江戸傳馬町の獄に入れられた。
  松蔭は、その後、囚人として、国元の長州の獄に送ら
 れ、
  やがて、生家・杉家で自宅軟禁の身となり、
  安政5年の3年目となった。
  そして、その翌年(安政6年、1859年)に、江戸で刑死
 した。
  この間に、松下村塾で子弟を教えた。(参考:竜馬が
 ゆく・2)
1854年3月、坂本竜馬が、築地藩邸から品川藩邸に移され
 台場の警備を命ぜられた。
1854年4月、砲台を品川に築く(氷川清話)
1854年4月、軍制改正を令す(氷川清話)
1854年4月、鉄砲四季打ち稽古を許す(氷川清話)
1854年4月、日本船印、白地に日の丸と定む(氷川清話)
1854年4月、吉田虎次郎、佐久間象山、国禁を犯したとい
 うことで、各在所に於いて蟄居を中付けられる(氷川清
 話)
1854年4月、禁裏炎上(氷川清話)
1854年4月20日《03/23》プチャーチンが、ロシア艦隊3隻
 を率いて3度目の長崎に入港。
1854年4月26日《03/29》クリミア戦争勃発で、上海まで後
 退するが、執拗に長崎、樺太、函館に来航した。
1854年4月30日、日米和親条約締結を不満として、前水戸藩
 主の徳川斉昭が、海防参与を辞任した。
1854年5月25日、幕府が、日米和親条約付録協定を調印(下
 田条約)
1854年5月25日、幕府が、海防と、禁裏造営のため、江戸町
 民に献金を命じた(献金が29万6000両にのぼった)。
1854年6月1日、ペリーの黒船が香港へ去った。
  幕府批判と攘夷論で騒がしくなった。
  御政道が口に出る世になった(それまで、とやかく言
 えなかった)
1854年7月9日、幕府、日章旗をもって日本国総船印と制定
 した。
  薩摩藩主・島津斉彬の意見で、日本総船印として「白
 地日ノ丸幟」が定められた。
  日本総船印とは、白地に朱で日の丸を描いた船の幟(
 のぼり)で、縦長で御用などの文字も書き込まれた。
  外国船と区別するために定められ、日の丸が国旗とさ
 れる前提となった。
1854年閏7月15日、イギリスの東インド艦隊の司令長官スタ
 ーリングが、軍艦4隻を率いて長崎に入港した。
  4隻のうち、3隻が蒸気船で、露艦隊探索のため諸港
 の出入りを要求した。
1854年8月10日、イギリス艦乗組員に昼間、ねずみ島の上陸
 を許した。長崎近くのねずみ島、
1854年8月23日、日英和親条約を長崎で調印した。
  長崎と箱館の2港を開港した。
1854年8月29日、イギリスの東インド艦隊の司令長官スター
 リングが退去した。
1854年8月、オランダ東洋艦隊所属の軍艦スームビング号が
 長崎に来航し、
  艦長・ファビュス中佐は、幕府の求めに応じて、3か月
 間の海軍技術の指導を、旗本子弟に教えた。
  そして、オランダ政府は、このスームビング号を、国
 王・ウィルヘム3世の名において、日本政府に寄贈すると
 した。
  観光丸と呼ばれた、
  長さ29間(53M)、幅5間(9M)、砲6門、150馬力(氷
 川清話)
1854年9月2日、幕府が、オランダに下田と箱館を開港する。
  (氷川清話)には、下田、凾館、長崎を互市場とする
 仮条約を結ぶとある。
1854年10月、米船、下田、凾館に寄港する事を許す(氷川
 清話)
1854年10月、一朱銀を鋳る(氷川清話)
1854年10月、プチャーチンが再来した。
1854年10月、竜馬が、安政1回目の地震(寅の大変)直後に、
 江戸を発し帰国の途に着いた。
1854年11月27日、嘉永7年から安政1年に改元された(氷川
 清話)
1854年12月18日、勝海舟、次男四郎誕生(氷川清話)
1854年12月21日、幕府が、日露和親条約を、下田の長楽寺
 で調印した。
  下田・箱館・長崎を開港した。
  択捉とウルップ両島間を、日本とロシアの国境とした。
  そして、樺太は、日本とロシアの雑居地とした。
1854年12月23日、安政東海地震(巨大地震)(11月4日説 
 あり)早暁、大地震が東海、畿内を襲った。
  津波でディアナ号が遭難した。
  この年に、日露和親条約締結交渉のため、エフィム・
 プチャーチンの乗艦として、箱館・大坂を経て、下田を
 訪れた際、安政東海地震による津波で大破した、そして、
  宮島村(現、富士市)沖で沈没した。
  プチャーチンは、乗員の帰国のため、アレクサンドル・
 モジャイスキーらの指導で、日本の造船工により帆船「
 ヘダ号」を建造した。
  日本の造船工に、洋式造船技術が伝わるきっかけとな
 った。
1854年12月24日、安政南海地震(巨大地震)。
1854年12月26日、豊予海峡地震
1854年、幕府、東海道各駅の人馬賃銭を5割値上げ。
1854年井伊直弼が、この年の和親条約締結に尽力し、こ
 の年、京都守護を命じられた。
1854年、横浜の半農半漁の地は、約100戸の地だった。
  島原の乱を、キリスト教の作家(星野博美氏)が、読売
 新聞に、3万7000人の民が犠牲になったと根拠のない事
 を書いた。
  因みに、キリスト教に偏するNHKも、ふかして人数
 を放送したが、その人数は1万5000人だった。
  何で、キリスト教作家は、こんなにふかしたのか?
  島原の乱は、百姓一揆として起きた。
  横浜が100戸で、せいぜい500人くらいの人口。
  横浜より辺鄙(へんぴ)な島原で、かつ、200年以上前
 に、何で、37000人の数字が出るのか、NHKもおかしい。
  百姓一揆を起こしたとしても数100人の規模。
  そんな人数を、キリスト教は良くプロパガンダ(嘘宣
 伝)するが、人数のふやかし過ぎだ。
  すぐおかしいと分かる、判明する。
  周りから人が集まったとしたって、戦死をした人は数
 千人程度だ。
  このキリスト教作家も、NHKも嘘の言い過ぎである。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive