(増補版)52B:気になった事柄を集めた年表(1358年〜1378年)

 題:(増補版)52B:気になった事柄を集めた年表(1358年〜1378年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1363年、世阿弥が生まれた(1363年〜1443年)
1368年、足利義満が第三代将軍となった。
  足利氏の全盛時代となる。
1368年、元朝滅亡。南京で明が建国された。
  この年、トゴン・テムルは、首都の大都を放棄して、
 北のモンゴル高原へと退去した。
  モンゴル人が、中国を支配した元朝の滅亡だった。
  元朝は、モンゴル人の政権だったが、つまり、中国は
 モンゴルの植民地だった。
  つまり、この事件は、モンゴルが植民地の一つを失っ
 ただけのことだった。
  モンゴル帝国は、中国の版図の何倍もの支配領域を持
 っていた。故に、この事は、モンゴル政権が、モンゴル
 高原に撤退しただけのことだった。
  中国は、いつの時代も、流民の暴走や宗教反乱で王朝
 が倒れ、そして、交代した。
  元を滅亡させた明の初代皇帝は、朱元璋(しゅげんし
 ょう、明の創始者で初代皇帝、廟号は太祖、また、洪武
 帝とよばれる、紅巾軍に参加した)、
  白蓮教徒が1351年に、各地で反乱を起こした(紅巾の
 乱)、そして、この皇帝も参加している、そして、頭角
 を現して行く、この頃に、皇帝になる野望を抱いたと言
 われている。
  参加したその軍の長が死ぬ(1355年)と、その軍を受
 け継いだ、そして、他の長の居なくなった(戦死)した
 軍を吸収し、大勢力になって行く。
  大勢力になると、各地の有力武士が集まって来た。
  紅巾軍のある一派は、大漢国を打ち立てたりした。
  反乱軍同士の覇権争いもあったりしたが、60万の大水
 軍を率いる一派も居た、朱元璋はその一派を救援したり
 した(1363年7月)、そして、大漢国を滅ぼした。
  朱元璋は、1364年に呉王を名乗った、同じく、呉王を
 名乗る一派と激突した。
  准南、江南を、1367年に統一した。
  1368年1月に即位し、元号を洪武とし、国号を大明と
 した。南京を都とし、後に、北京に都を移した。
  皇帝権力の強い中央集権制をとり、朱子学を官学とし
 た。
  また、土地と税金の台帳作成により、人民を把握して
 行った。
1368年、陽明学:明代の儒学者王陽明が作った学派。
  王陽明は、形式化した朱子学に反対し、人間の心の働
 きの中に理があるとし(心即理)、人間本来の心の働き
 ・判断力を発揮するときは理は極められ(致良知)、知
 識と行動は一致しなければならないとする実践的思想を
 説いた。
  だが、この考え方は主流にならなかった。
  日本では中江藤樹によって普及し、心学・王学と呼ば
 れた。
14世紀後半、高麗:14世紀後半に中国で明が興ると、国内
 では親明派と親元派の対立が起き、新明派の李成桂が実
 権を握って新しい朝鮮王朝を建てた。
1369年、チムール帝国が成立した。
1370年、明軍が、モンゴルを討伐して南京に凱旋した。
1371年、合戦の使者の衣類の取得権で争いがあった。
1377年、教皇グレゴリウス11世がローマへ帰還する。
1378年、三条公忠(さんじょうきんただ、公卿)、知識人
 で歌人。師と仰ぐものが多かったという、猿楽を乞食の
 所行とし、世阿弥を寵愛する足利義満を非難した。
14世紀、この頃、キリスト教の宗教絵画を多く手がけたジ
 ョットはじめ、シモーネ・マルティーニらの、14世紀の
 西洋画科の巨匠たちは、中国はじめ東洋の絵画に大きく
 影響を受けた。
  中世の長い期間、イスラム教徒の学問は、世界最高水
 準にあった。
  ルネッサンスなどと言って、ヨーロッパで、中世末に、
 古代ギリシャ精神の復活があったとされて居るが作られ
 た話である。
  ヨーロッパが、アラビア語を介しながら、少しずつ習
 得したものであって、アラビア語訳のアリストテレスが、
 ヨーロッパ中世哲学の支柱をなした。
  ルネッサンスで言われる「古代の復活」が、具体的に、
 ヨーロッパの現実となることはなく、所詮、ヨーロッパ
 人の願望に過ぎなかった。
  せいぜい、大学のある都市の宮廷クラスや、知識人ク
 ラスだけであって、一般化はなされなかった。
  民衆レベルの意識を変えるまでの影響はない。
  本来、進んでいるイスラム文化や学問を、ヨーロッパ
 が語る訳が無い。
  ヨーロッパ人は、自己の歴史に刻まれたイスラムの痕
 跡を、逆に、「我が物だ」として語るのが当然。
  また同時に、モンゴルや中国などが、ヨーロッパへ及
 ぼした東方の影響も、ヨーロッパは隠し、見ないように
 し、語ろうとしなかった。
  日本人も、その様なヨーロッパ人の見方に影響され、
 同様の認識の中に居て、同じ行為をしている。
  例えば、日本の中村教授のiPS細胞のノーベル賞の発明
 も、後々には同様に、ヨーロッパの発明だとなされる様
 なもの。
  ルネッサンス画家・ジョットは、空間構成や人物像に
 おいて、特に、古代ギリシャではなく、モンゴル帝国
 拡大によって知らされた中国絵画に影響されている。
  また、このジョットはじめ、シモーネ・マルティー
 らの、14世紀の西洋画家の巨匠たちも、影響を受けてい
 る。
  その絵画の目は細く、つり上がり、東洋人の顔となっ
 ている。彫りの深い西洋人ではなく、平たく、黄色人種
 の影響を受けた血を表現し、語っている。
  まさしく、この事などを正直に語ったのが、I・V・ブ
 ツィナである。その著書「中国・イタリアとルネッサン
 ス初期」である。
  中国の宋と元の絵画からの影響を具体的に述べている。
  当然の様に、アメリカやヨーロッパは黙殺した。
  その影響度が、過大であるにもかかわらずである。
  モンゴルの影響は過大であった。
  画期的スケールでなされていた。
  しかし、語られることはほとんど無い。
  ヨーロッパの近代化の華のように語られるルネッサン
 スは、ギリシャではなく、『東方の刺激』によって花開
 いたのである。
  そして、有色人種の無視・蔑視である。こんな事は、
 年がら年中やっている。
  これらは、モンゴルの統治方針の構想からなされた伝
 番であって、ただ単に、伝わったというものではなく、
 それ以上のものだった。
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