(増補版)53B:気になった事柄を集めた年表(1378年〜1416年)

 題:(増補版)53B:気になった事柄を集めた年表(1378年〜1416年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1392年、南北朝が一つになった。
  南朝は、亀山天皇後宇多天皇、そして、後醍醐天皇
 へと、吉野へ移られても続いて行く、
  そして、後村上天皇長慶天皇と続くことになる。
  だが、新田義貞楠木正成北畠親房(きたばたけち
 かふさ、北畠顕家の父)などの有力な武将を失って、衰
 えて行った。
  一方、北朝は、足利氏の援助のもと勢力を強め、5代の
 天皇が継いでいく。
  そして、足利義満が、1392年に、北朝の勢力を背景に
 して、南朝後亀山天皇に吉野から京都に戻ることを勧
 めた。
  そして、京都に戻った後亀山天皇は、北朝の後小松天
 皇に天皇の位を譲った。
  ここに、60年余り続いた南北朝が1つにまとまった。
1392年、三島外記入道が、主人・細川頼之管領)に殉死
 した。この事以来、平時に病死した主君に対して殉死す
 る風習が始まった。
  世人が「前代未聞の振舞」と驚嘆した(明月記)。
1392年、李氏朝鮮が建国され、高麗が滅びた。
  李成桂が、1392年に創建し、1910年まで続いた王朝。
  首都はソウル。法典を整備し、科挙を実施して、官僚
 支配の基礎を整えた。
  朱子学を正統の学問とし、儒教中心の独自文化が興隆
 した。
  民と君臣関係を結び、室町時代の日本とは対等な外交
 を展開した。
1399年11月、応永の乱が起きた。
  大内義弘が挙兵し、敗死した。
  室町幕府に対する大守護・大内氏の叛乱。
  周防の豪族・大内義弘は、父・弘世以来の戦功によっ
 て周防・長門・石見・富前・和泉・紀伊6国の大守護隣、
  南北朝合体の交渉の功に加えて、朝鮮・明貿易による
 富強を致し、当時の守護中最大の勢力となり、自然、将
 軍・義満の忌むところとなった。
  よって義弘は、関東管領その他の諸豪族と結んで幕府
 に抗せんとし、ついに1399年、境に叛し、幕府軍と戦っ
 て敗死した。
  この乱は、明徳の乱と共に将軍義満の大守護強圧策の
 結果であって、これによって室町幕府の全盛が招来され
 た。
1400年、この頃、世阿弥風姿花伝花伝書)」。
1400年頃、工芸:15世紀。春日山蒔絵硯箱蓋表(東京根津
 美術館)。
1400年、中国の製紙法は15世紀にイギリスに伝わり、ヨ
 ーロッパ中に広まった。
15世紀、イギリスで、この頃、ゴルフ狂が増え、武芸修業
 がおろそかになるという事で、『ゴルフ禁止令』が出さ
 れた。
1400年、マレーシア:15世紀初めにイスラム系のマラッ
 カ王国が成立し、香料貿易で脚光を浴びた。
1400年、神聖ローマ帝国:表記の国名は15世紀から用い
 られた。
  ローマ教皇との『叙任権争議』に敗れて帝権は次第に
 衰弱し、大空位時代、金印勅書発布、30年戦争により領
 邦分裂の状態になった。
  また、15世紀のハンガリーの侵入、16〜17世紀のオ
 スマン・トルコによるウィーン包囲など、東方からの圧
 力が強かった。
1401年、足利義満が明と勘合貿易を始めた。
1402年7月、アンカラアンゴラ)の戦いが起きた。
  ティムール朝モンゴル帝国の継承政権の一つ)の征
 服戦争。
  トルコのアンカラ近郊において戦われた。
  戦力:ティムール朝・20万(ティムール軍には象軍も
 あったという)、オスマン帝国・12万。
  結果:ティムールの勝利、ティムールがオスマン・ト
 ルコを破った。
  モンゴル帝国の支配が弱まった中央アジアでは、ティ
 ムール朝が、1370年に、大国家を建設していた。
  この戦いで負けたオスマン帝国が、一時壊滅的な状況
 となり、滅亡の寸前まで行った。
  皇帝が捕虜になって、翌年(1403年)病死し、帝位は
 空位のままになった。
  その後、再建され、1453年には東ローマ帝国を滅ぼし
 た。
  一方、ティムールは、この戦いの余勢をかって、明の
 永楽帝朝貢の要求に対して、逆に、遠征を決意した。
  しかし、ティムールの皇帝は、1405年に遠征中、病死
 した。
  ティムールは、その後1世紀ほど存続したが、1500年
 に征服され、1507年に滅亡した。
1404年、勘合符を使って明と盛んに貿易をした。
1405年、金春禅竹が生まれた(1405年〜1468年頃)、
  猿楽の金春座を禅竹は確立し、現在まで続いている。
  禅竹は、能楽の大成者・世阿弥の女婿で、世阿弥や義
 兄の十郎元雅から芸道を授けられた。
1408年、足利義満(あしかがよしみつ、第3代将軍)が没
 した(1358年〜1408年)、室場地幕府の体制を確立し
 た。
  将軍職を子の義持に、1394年に、ゆずり、太政大臣
 なるが、翌年の1395年には出家し、その後は、京都に
 金閣を建て、北山文化を開花させた。
1410年7月15日、タンネンベルグの戦いが起きた。
  ドイツ騎士団キリスト教系、バルト海を異教徒から
 防衛する、ローマ法王から武力によるキリスト教化を正
 当化する教勅を受けている)と、
  ポーランド王国リトアニア大公国の連合軍の戦い。
  連合軍が勝利した。
  戦力:ドイツ27000、連合軍39000、
  損害:ドイツ8400(捕虜14000)、連合軍5000、
  領土紛争に関わった戦争。
  ドイツ騎士団は敗け、帰国できたのは27000のうち
 5000以下。
  ドイツ騎士団は、この44年後の1454年に、壊滅的敗
 北をし、その後、世俗化した。
1412年、ジャンヌ・ダルクが生まれた。
  キリスト教に関わった女性。
  負け戦を勝ち戦に導いた(100年戦争)とか、
  神の啓示があったとか・・キリスト教は色々と美化す
 るが、
  実際は、可哀想な女性、
  それも、魔女にされ、
  酷い仕打ちをキリスト教から受けて、焚刑とされた。
  キリスト教の聖職者の司教が、異端の疑いを掛け、キ
 リスト教会の異端審問所で「有罪の判決」を出されてし
 まう。
  そして、19歳の若さで、公衆の面前で焼かれる。
  勝手なもので、その後、ローマ法王は、ジャンヌは無
 実だったとした。
  そして、殉教だと言った。「キリスト教が殺した殉教
 もあり」という姿。
  そして、聖人だとした。
  魔女旋風を噴き荒らしたキリスト教の大罪である。
  何人の女性の方々が殺されたというのか。
  ヨーロッパの空は、魔女にされた女性を焼く煙でけぶ
 ったという、曇り空のごとく。
  また、人々が頼っていた助産婦(知識があって医師の
 代わりにもなっていた女性方)を、夜、薬草を煎じる姿
 から魔女だとし、殺した。
  ヨーロッパの薬草学が絶えるほどだった。
  今・現代、この西洋薬草学があれば、どれほど人類に
 貢献しているか、計り知れない知識があったと考えられ
 る(東洋の薬草学と同様に)。
  これも、卑劣な宗教=キリスト教の大罪。
  キリスト教には、この他にも数限りなく色々な大きな
 罪がある宗教、ユダヤの方々など、南米の方々・・特に、
 ユダヤの方々を追い回して、長い年月、殺し続けた話は
 許せません。
  ジャンヌが、魔女とされるところは省くが、まったく
 卑劣なキリスト教である。
1415年、ポルトガルが、アフリカ大陸の北端のセウタ(町)
 を攻略した。
  これが、これから大西洋を渡って、植民地攻略をする
 ポルトガルの端緒の攻略戦だった。
  ポルトガルは、スペインもそうだが、東方はイスラム
 の世界が広がっており、これを打ち破って領土拡張をす
 る力はなかった。
  また、ユーラシア大陸には、勢力絶大な遊牧民族が居
 た。
  イスラム教徒は、ユーラシアの民族を包容した。
  ポルトガルとしては、西の海上へ向かう他はなかった。
  こうして、ポルトガルエンリケ航海王子が、セウタ
 を手に入れた。
  そして、この様な行為をさせたのがキリスト教ローマ
 法王のキリスト教の教義・考え方だった。
  キリスト教に『異教徒は殺せ』の教義があるが、
  ローマ法王の指示は、『異教徒・他民族の征服」の指
 示、そして、『異教徒・他民族を占有する」事を正当化
 した。
  法王(教皇)は、「教皇大勅書」で指示した。
  それによって、『異教徒の征伐(殺戮)』が正当化し
 た。
  そして、教皇は、独占を認め、「原住民の奴隷化」を
 も許した。
  キリスト教聖書にある通りである。
  まったく卑劣な事を指示したものである。
  ポルトガルは、スペインより、約1世紀、早かった。
1416年、ポルトガルが、西アフリカを席巻し、奴隷貿易
 する。
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 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009