(増補版)41B:気になった事柄を集めた年表(1232年〜1247年)

 題:(増補版)41B:気になった事柄を集めた年表(1232年〜1247年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1234年8月31日、後堀川天皇崩御した(1212年〜1234
 年、86代)
1235年10月、京都に疱瘡が流行した。
1236年4月8日、京都に大風雷雨あり、大雹(ひょう)が
 降る。
1237年3月、鎌倉、大雨洪水。
1239年、一遍が生まれた(1239年〜1289年)、鎌倉時代
 中期に時宗を開いた。四国の道後温泉本館近くの宝厳寺
 が生誕地。
1239年2月14日、北条泰時(第3代執権)が、佐々木泰綱
 に武蔵国小机などの荒れ地の開発を命じた。
1239年2月22日、後鳥羽上皇隠岐崩御した(1180年〜
 1239年)
1241年、藤原定家(ふじわらのさだいえ、公家・歌人、小
 倉百人一首の撰者)が没した(1162年〜1241年)。
  18歳から74歳までの克明な日記「明月記」(国宝)を
 残した。ドナルド・キーン氏が積極的に評価されている。
  人となりとして、どんなに後鳥羽院が褒められても、
 自詠の歌(左近の桜の述懐の歌)が自分では気に入らな
 いからと、新古今和歌集に入選する事に固く固辞(反対)
 した。
1241年、建築:厳島神社摂社客人神社社殿(広島)
1241年、幕府が武蔵野に水田を開いた。
  多摩川から水を引いた武蔵野開拓の大事業が、この年
 から始まった。
  2年前の佐々木泰綱の開発が成功したので、次の開発の
 段階へ進んだと考えられる。
1241年、ハンザ同盟が成立した。
  外来の商人は排他し、ドイツの北西部に位置する都市
 であるハンブルグリューベックとの間で商業的な同盟
 をしようというもの。
  後に、経済だけでなく、政治分野でも勢力をなし、ま
 た、軍事連合も機能し、バルト海の覇権を握って行こう
 という行動へ進む。
  大連合組織へと行く(バルト海や北海やドイツなどの
 商人たちとその都市の集まりとなる)。
  ヴァイキングやスラブ系の人たちが煙たかった。
  この頃の14世紀の頃、デンマーク王国は巨大化しよう
 と邁進していた。領土拡大もしたいと行動していた。
  1300年代に入るとハンザ同盟の都市を占領したりして
 いる。ハンザ同盟都市との戦いとなる。
  ハンザ同盟ノルウェー王国スウェーデン王国も味
 方する。こんな形で展開していく。
1241年4月、ワールシュタットの戦い。
  モンゴル帝国が、ヨーロッパを遠征する。
  その時のポーランドとドイツの連合軍と激突した戦い
 である。結果は、モンゴル帝国軍の圧勝。
  ワールシュタットは、ドイツ語で「死体の山」を意味
 する。
  モンゴル軍は、5万の戦闘経験豊かなモンゴル兵と、2
 万の徴用兵、そして、中国兵とペルシャ兵だった。
  相手の連合軍は2万5000、少数のテンプル騎士団も加
 わっていた。
  死者数は、モンゴル兵はごく少数で、連合軍は大多数
 とある。
  連合軍が普通に兵を配置したのに対し、
  モンゴル軍は、前列中央に陽動作戦用の訓練を積んだ
 軽装騎兵を配置し、その両側面に、馬の上から弓で矢を
 射る騎射の兵を置き、また、槍で接近戦の出来る兵も置
 いた。
  また、後方には、騎馬攻撃をする重装の騎兵が控えて
 いた。
1242年、四条天皇崩御した(1231年〜1242年)
1242年5月2日、京都が大風雨となり、6月3日には、洪水
 となる。
1242年6月15日、北条泰時が没した(1183年〜1242年)。
  頼朝は、泰時を高邁(こうまい、志などが高く、衆に
 抜きん出ていること)な人柄と褒めている。
1242年9月12日、順徳上皇佐渡崩御する。
1243年、後深草天皇が生まれた(1243年〜1304年、89代)
1244年4月28日、第5代将軍・九条頼嗣(1244年4月28日
 〜1252年2月20日 1256年没)
1245年3月2日、幕府が、殺生を禁じた。
1245年、ローマ法皇が、公会議神聖ローマ皇帝を廃位だ
 と決定し、対立王を選出している。
  また、ポルトガル王を廃位に追い込み、弟を王位に付
 かせている。
  この様な結果、ローマ法王教皇派)と皇帝派とが争
 う事になった。こんなことをあちこちでやっている。
  この様ないざこざから、南イタリアの王が、フランス
 のアンジュー家によって追い出され、教皇の力が南イタ
 リアに及ぶようになった(フランス勢力を取り込んだ)。
  また、この年、モンゴル帝国の来襲の恐怖があったた
 め、ローマ法皇は、偵察の意味と、来襲の防止工作をし
 たい意味もあって、修道士をモンゴル帝国へ送っている。
  そして、モンゴル皇帝の返書を持って帰国している。
  その返書には、モンゴル皇帝は、ローマ法皇に帰順(
 きじゅん、反逆や抵抗を止めて服従すること)をするよ
 うにと書いている。
  帰国後のこの修道士はローマ法王の怒りを買った。
  この修道士の偵察は、モンゴルの戦い方を見たりして
 いる。また、戦いの跡へも行って状況を偵察している。
  モンゴル皇帝にも会って話もしたが、モンゴル皇帝か
 ら従属せよと言われ話は進展しなかった。
  モンゴル皇帝側も紳士的に対応した。
1946年3月23日、第5代執権・北条時頼(1246年3月23日
 〜1256年11月22日 1263年没)
1247年、三浦泰村(みうらやすむら、御家人)などの一族
 が滅んだ(宝治合戦)。
  頼朝以来の御家人で、一緒に戦い、大功をあげる有力
 御家人だった。
  頼朝時代は、頼朝・北条氏に匹敵するほどでもあった
 (相模国河内国に広大な所領を持った)。
  また、北条泰時の娘を娶って、北条氏と姻戚関係をも
 持った。評定衆の一人にまでなった。
  そして、将軍とも親密になり、その権勢は、北条氏を
 しのぐようになった。
  新しく執権になった時頼は、この三浦氏を危険視した。
  時頼は、政権中枢から穏便な引退を望んだ。
  この話を、評定の場で、三浦泰村は、頑なに拒んだ。
  北条時頼の提案も、穏便な北条重時との交代の話だっ
 た。
  ここに、三浦泰村のアンチ派の安達景盛が関わって来
 る。この年に、三浦泰村は挙兵した。
  そして、大敗した。
  北条氏の独裁色が強まった。
  合戦の直前には、和睦の会議も開かれていたという、
  その時、泰村は、緊張のあまり食べていた湯漬けを吐
 き出した事があったという。
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