キリスト教は、変遷に変遷をして行く宗教。

 題:キリスト教は、変遷に変遷をして行く宗教。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教は、変遷に変遷を重ねて行く宗教です。
 そうせざるを得ない宿命を持っています。
 その様な質なのです。
 イスラエルの人々は、昔から「ヤハウェの神」を信仰していた
のではありません。
 「ヤハウェヤハウェ」と言うわりに、色々な神々が『信仰の
変遷』の中に居ました。今は、三位一体神。
 イスラエルの民も、結構、ふらふらと色々な信仰をしていたの
です。当然、今とは違う神々を信仰していました。
 「考える葦」。やはり人間のすることと言ってしまえば言えま
すが、イスラエルの民は、信仰の変遷の中にあった民族です。
 そこには、当然、「信仰の絶対性」は無いとしか言えません。
 しかし、その時どき、その時どきで、信仰の絶対性を信じ、他
の人々(異教徒)を、『その教義から殺戮する』という歴史の繰
り返しがキリスト教には数多くあります。

 たまたま、今の信仰になったのです。
 また、今までの経過から、この後どうなるか?とも、言えてし
まいます。
 キリスト教に、たまたま、なったのです。
 ユダヤ教を信じてた、そして、キリスト教に変遷し流れて来た。
 ユダヤ教に破門されたある派は、原始キリスト教にならざるを
得なかったのです。
 自ら望んでなったのではなかったのです。
 ユダヤ教のままでいたかったのです。
 信仰の絶対性はこの時点でも『なかった』のです。
 あらゆる場面で、時とともに、その事情で、都合で、流れて来
たのです。
 また1例を言いますと、彼等が遠く「ウル」に住んでいた時も、
 チグリス・ユーフラテスの豊かな地に居た時も、彼等は、やは
り、「その地の神」を敬(うやま)い、信じ、生活とともに、そ
この信仰がありました。

 そして、カナンの地を目指した時、苦難の後にカナンの地に来
て、彼らには以前の神は捨てていて、以前の神は、すでに無くな
っていました。
 カナンの地にては、彼等は「カナンの地にあった神」を敬いま
した。
 そして、そこの新しい神を信仰して、生活しました。
 カナンの地の神は多神教でした。彼らは、神の数は何ら、何も
関係なく、多神教を信仰しました。。
 今、キリスト教は「一神教一神教」と言いますが、一神教
はありませんでした。今は、無理に3つを1つにしていますが・・
・。でも、実質、多神教ですが・・・。
 そして、その時、カナンのその神々の1つの神が、存在した考
え・天地創造の至高の神でした。
 この民族の信仰は、まったくこれと言った絶対性はないもの、
 流れと変遷の中で信仰を持ち、そして神を作り、信仰をつくっ
て来ました。

 そしてまた、バビロンの地にても、バビロンの宗教を受けとり
ました。行く先々で・・・。
 そしてまたまた、彼等・イスラエルの民は、「アブラハムの神」
「イサクの神」「ヤコブの神」と個人個人に神が分かれるという
状態にもなりました。
 イスラエルの宗教とはこの様なもの、どんどん変わるものなの
です。
 キリスト教も変わりました。イエスの信じた神と違う神を信仰
しています。
 この様な宗教の状態であるにもかかわらず、「絶対性」を主張
し、
 それ故の「正統性』を主張し、
 「人の命を奪う正義まである」と主張し、
 多くの人々を「正義を振りかざして」殺戮してきたキリスト教
の歴史。その教義を大変革して行かなくてはいけません。
 その教義が存在するため、知らず知らず洗脳され、人類の不幸
が発生しています。不幸にも近年にもその事例がありました。