キリスト教の話の初め・・アブラハムたち

 題:キリスト教の話の初め・・アブラハムたち
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 wikipediaに、以下の様に書かれていますが、まったく
キリスト教の話に都合のよい話に書いているプロパガンダ
(嘘宣伝)です。
 wikipedia記述内容:「アブラハム (英語 Abraham ) は、
ユダヤ教キリスト教イスラム教を信じるいわゆる聖典
の民の始祖。ノアの洪水後、神による人類救済の出発点と
して選ばれ祝福された最初の預言者。『信仰の父』とも呼
ばれる」と。
 また、
 「ユダヤ教の教義では、全てのユダヤ人の、またイスラ
ム教の教義では、ユダヤ人に加えて全てのアラブ人の系譜
上の祖とされ、神の祝福も律法(戒律)も彼から始まる。
 イスラム教ではイブラーヒームと呼ばれ、ノア(ヌーフ)
モーセ(ムーサー)、イエス(イーサー)、ムハンマド
と共に五大預言者のうちの一人とされる。キリスト教の正
教会においてはアウラアムと称され、聖人に列せられてい
る。族長と呼ばれるヘブル人の先祖たちの一人である」と。
 ・・・wikipediaには、上記の様に書かれているキリスト
教の聖書に書かれる最初の人たちアブラハムは、実は、
 キリスト教とは全く違う人たちだった。
 紀元前1700年の頃、今から約3700年前、アブラハムは、
チグリス・ユーフラテス川下流にある「ウル」を出立し
た人たちだった。
 向かった先はパレスチナのカナンの地だった。
 アブラハムの一団は数100人で裸足であった。
 これで砂漠の地を羊を追いながら進んだ。
 彼らの宗教は『 多神教 』であり、
 また、特に、『 樫の木を崇拝した 』。
 彼等の住まいは天幕であった。
 多くの町を通過した。
 ナプルウスというアラブ人の町に着いた時には、
 彼等は、この石の城壁に守られた町に入らずに天幕を張
った。
 彼ら一行に途中から加わる者もいた。
 また、途中の町に長く留まった町もあった。ハランデと
言った。
 アブラハムの父のテラは、ここで亡くなった。
 彼等はこの様な苦難の後に「カナンの地」に至った。
 出立地のウルに残した親族もいた。
 ウルは肥沃であったが、時々、洪水に見舞われた。(創
世記11章、12章)を参照。
 ただ、この様な事、アブラハムたちがやった事は、アブ
ラハムたちだけが、やったという訳ではなかった。
 この様に、北へ向かう半放牧のセム諸部族は多くあった。
 キリスト教の聖書の記述だけが特別なのではない。
 また、キリスト教とは全く違う宗教・多神教であり
 また、『樫の木を崇拝する宗教』の話なのである。
 また、ユダヤ教徒も違う。
 自然崇拝である。
 ヤハウェ神も影も形もないアブラハムたちであった。
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(追伸)
 カナンの地へ向かって、
 チグリス・ユーフラテス川のウルを出立したアブラハム
は、
 カナンへ向かったという訳ではなく、
 カナンの地へ着くまで、あちこちを彷徨(さまよ)った
のが事実。
 ダマスやシケムなどをたどり、天幕の旅の生活は続いた。
 そして、ネゲヴの荒野に行き、
 それからエジプトに行く。
 ここであやうく妻のサラを奪われそうになったりした。
 そして、ベテルに戻り、ヘブロンへ行く。
 この様にイスラエルの民となったアブラハムは、パレス
チナの地、、メソポタミアの地、エジプトの地などを彷徨(
さまよ)っていた。
 生きる糧を求めたさすらいだった。
 この様に、エジプトの地もよく出入りする地だった。
 また、イスラエルの民は、カナンの地に定着したらその
まま定着し続けたという訳ではなく、
 定着した後も、
 羊と山羊を連れて、
 生きるために方々を彷徨った。
 エジプトの地も、その様な地の一つだった。
 モーゼの話のような劇的な話ではない。
 エジプトは通常の行き先なのだ。
 エジプトの地はちょっとした出入りの地なのであった。
 モーゼの話は作り話なのである。
 モーゼの実在もないとされているのが真実。
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(追伸の追伸)
 イスラエルの民は純粋種ではない。
 混血が、あらゆる機会に行なわれている。
 日本の様な島国で混血がない様な種族と違う。
 (海を渡って大陸から少しは来たが)
 イスラエルの民の地は、あらゆる種族が行き交(か)う、
 また、自分たちもさ迷(まよ)う歴史だった。
 その中で、血が混ざり、イスラエル種族は形成されて来
た。
 キリスト教の聖書には、「娘は異教徒へ嫁にやるな」「
異教徒が増えてしまう」などと説いているが、
 まったく、国際的な感覚の無くのないキリスト教の教義
であるが、事実は、イスラエルの民は混血に次ぐ混血であ
った。
 何でこんな狭量の教義を民へ押し付けているのかと軽蔑
する。
 カナンの地には、ヘテ人(ヒッタイト人)やアモリ人(
西方セム族)などの先住民が居た。
 カナンに渡ったアブラハムたちは、俗に言う「よそ者」
だった。
 アブラハムたちは、この先住の民と混血した。
 キリスト教の教義などそっちのけ。
 地になじむためもあったのだろう。
 例えば、アブラハムの孫(アブラハムの子・ヤコブの子
供のエサウ)は、ヘテ人の女性と結婚した。
 (エゼキエル書、16章)「汝の母はヘテ人、汝の父はア
モリ人なり」など。
 キリスト教の神の言葉は、アブラハムの時代においても
無視されていたと言える。
 因(ちな)みに、エサウの結婚したヘテ人は、インド=
ヨーロッパ系の民。
 アブラハムの家系にインド系の血も混血してる。
 同時に民が持っている宗教性も伝搬している。
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(追伸の追伸の追伸)
 紀元前7000年頃から、中近東の全域および北アフリカ
一帯は砂漠化が始まった。
 パレスチナのカナンを含む「肥沃の三日月と呼ばれる地」
はその砂漠化から残された地となった。
 ここに住む人々は、はじめ「略奪農業」という「土地が
痩(や)せれば他へ移る」という行動であったが、次第に
定着して行った。
 紀元前5000年頃に、エルサレム周辺に人々は住みついた。
 ちなみに、紀元前2100年頃、チグリス・ユーフラテス川
の地に、スメール最後の王朝(ウル第三王朝)がたち、王
朝を樹立したウル・ナンムは、支配地のバビロン(ばべる)
に「バベルの塔」を作らせた。
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  (詳しくは、以下のブログへ)
URL: http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /
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