キリスト教・・ニ題。

 題: キリスト教・・ニ題。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
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 イエスが神になる前・生前、彼は「天の父」を信奉していた。
 つまり、彼の信仰する宗教は、「天にまします『天の父』」
一神教であった。
 生前、イエスは、ユダヤ教を信奉していた、「ユダヤ教だ」と
認識する下(もと)に居た。
 母・マリアも、供犠の鳩を持って、ユダヤ教エルサレム
殿のお参りをしている。
 イエスの家族すべてが、「信仰している宗教はユダヤ教だ」
と認識していたことが分かる。
 イエスの死後、彼らの拠点をユダヤ教エルサレム神殿にし
てもいる。  
 そして、イエスの直弟子達も「我々はユダヤ教だ」と認識し
ていた。
 イエスの家族らと共に・一緒に、ユダヤ教エルサレム神殿
を拠点にしていた。
 そして、明らかに、死にあたって、イエスは、当然、「自分
ユダヤ教徒だという認識のもとに、死途に就いた」。
 故に死の時、イエスは、ユダヤ教徒だと認識し、ユダヤ教徒
としての認識の下(もと)に死途(死にゆく道)に就(つ)い
た。
 そして、死後、数百年という長い年月が経過した後、「彼は、
キリスト教の神とされた」。
 キリスト教公会議という「人の集まる会議」で、すったも
んだの挙句、何度かの会議の後に、やっとイエスは、キリスト
教の神とされた。この会議で、『異端だ』と決め付けられ、無
残にも放逐された者(派)もいた。
 この、人が集まり、人が決めたことは、
 「イエスを神とし、イエスが信奉していた神と違う神を神と
したこと」・・であった。
 こんな宗教に、キリスト教の年月の中で、何千万という方々
が「殺され、死途に就いた事を思うと、なんと愚かなことか」と
思う。
 死ななければならなかった方々の「無念さ」に心が痛む・・。
 愚かな教義ゆえに、
 「簡単に、自分たち以外の民を、殺戮する」。
 「その愚かな教義を削除せよ」。
 「心底からその認識から脱却せよ」。
 「毛ほどの気配も払拭せよ、払拭して行け」。
 そして次の話、
 法政大学教授・高尾利数氏の言葉:
 「キリスト教という宗教が、真の『内容的普遍性』を持つ宗
教だとは思えない。
 キリスト教は、典型的で強大な『信じ込みの宗教』である」。
 (以上の言葉から思うことは)・・・
 キリスト教は、自然・自然と、理が通っているから、頭の中
に整理されて、人生に役立つ素材が蓄積されて行くという宗教
・メカニズム・機構ではない・・と、氏は言われている。
 キリスト教という宗教は、
 『信じ込み』を必要する宗教だと言われている。
 その信じ込み作用も「強大」に、「強力」にしなければなら
ない宗教だと言われている。
 そこに、心のストレスが働くことは必然である。
 無理が心に掛かり、心の負担を強いている。
 キリスト教徒に「心に関する可哀想な方々」が出ているが、
この様な面に原因がある。
 また、教義の前提である「性悪説的に物事を考える」という
問題もある。
 科学的にも、性悪説的な思考・論理展開は、病気になるとい
うことが立証されている。